第19話 狙われた獲物
部屋の中が、静まり返った。
今、王陛下はなんとおっしゃったのかしら。なんだか、とんでもないことを言われた気がするけれど。空耳よね。
アイシャは、シャハリヤールの顔を見た。彼の黄金の双眸は、ただまっすぐに、アイシャだけを見ていた。
「私の妃に、なってくれ」
「とんでもないことでございます」
アイシャは、小さく叫んだ。膝が震えていた。
「私のような者が、妃など、あり得ません。お傍に立つ資格など、ありません」
「私が、お前を妃と望む。それで、十分だ」
「ですが」
「アイシャ」
シャハリヤールは、椅子から立ち上がった。卓を回り、アイシャの傍に歩み寄った。そして、アイシャの前で、静かに膝をついた。
アイシャは、その姿を見て、固まった。
この国の王が、誰かの前で膝をつく。あってはならない光景だった。
「王陛下、お立ちください」
シャハリヤールは、アイシャの手を取った。
大きな手のひらが、アイシャの細い指を、静かに包んだ。
「アイシャヌール=ハサーン。私の妃になってくれ」
王陛下の声が、低く響いた。
「お前がいなくなった半年の間、政務の合間、眠れぬ間、私はお前のことを考え続けた。お前の声、お前の指、お前の唇。そして、舞踏会の庭園で、月明かりの中、立っていたお前の姿。あの瞬間に、私は確信した。お前が私の半身だと」
「私は……」
シャハリヤールの手が、アイシャの手を、もう一度強く握った。
「私の中の、欠けていたものが、お前と出会ったときに、初めて埋まった。お前と過ごした夜、お前の声で眠った夜。あの夜々が、私の人生の中で、初めて私が私自身でいられた夜だった」
アイシャは、声が出なかった。
「お前を愛している」
「王陛下、もう、おやめください」
「お前が頷くまで、やめる気はない。アイシャ、どうか私の妻になってくれ」
「王陛下」
アイシャは、もう泣きそうだった。目の前で愛を囁いている男は、あまりにも必死で、あまりにも可愛らしく、思わずほだされて、頷いてしまいそうだった。けれど、彼はこの国の王だ。妻になるということは、この国の王妃になるということだ。そんな恐れ多い決断は、今のアイシャにはできそうになかった。
「アイシャ、頷いてくれ」
声が、もう一度、低く響いた。
「アイシャ」
懇願するような響きだった。
「頼む。頷いてくれ」
アイシャは、シャハリヤールの顔を見つめた。整った顔には、この半年の苦労が色濃く出ていた。王陛下は、ずいぶんとお痩せになられた。眠れていないのだから、当然だわ。体調も良くないはず。
視界の端で、ジャファルが固唾を呑んで見守っているのが見えた。
ジャファル様……。ジャファル様は、王陛下は私がいなくなってから眠れなくなったとおっしゃっていた。もし、私が妃となって寝所に侍れば、少しは寝られるようになるかしら。臣下として今私がすべきことは、王陛下のために妃となり、この身を捧げることかもしれないわ。
アイシャは、自身がシャハリヤールを深く愛しているという事実を見ないようにして、臣下の義務としてこの申し出を受けるべきだ、と自分を納得させた。そして、ゆっくりと、頷いた。
「お申し出をお受けいたします」
その言葉を聞いた瞬間、シャハリヤールの黄金の瞳がぎらりと光った。それはまるで、獲物を捕らえた鷹のようだった。




