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第20話 最終話 眠りの中で

 アイシャがシャハリヤールの妃と決まってから、ひと月が経った。


 その間に、継母ラビーナと、王弟側近イスマイールには、処刑が下された。陰謀の主犯としての、当然の処断だった。ジェイドは爵位を剥奪され、北方の流刑地に送られた。ジャーミー家は屋敷を没収され、家として取り潰された。

 ハサーン家は、爵位を縮小して残された。父は隠居し、屋敷を出て、領地の片隅にある小さな別邸で静かに暮らすことになった。家督は、減じられた形で引き継がれることになっていた。

 ラシードは、ハサーン家の屋敷を出る支度を進めていると、父からの手紙にあった。家を出て、新しい身分で生きる道を選んだ、と。


 アイシャは、これらの報告をハサーン家に戻ることなく、王宮の内で聞くこととなった。シャハリヤールが、アイシャを手放そうとしなかったからだ。


 ※※※


 しばらくして、ラシードが別れの挨拶にやってきた。

 王宮の客間で、アイシャはラシードと向かい合った。ひと月ぶりに見るラシードは、痩せていたが、精悍な顔つきだった。


「姉さん、久しぶりだね。元気そうだ」

「ええ。ラシードは元気にしているの? ずいぶん痩せたみたいだけれど」


「ああ。大丈夫だよ。心配しないで。少し鍛えているだけだから」

「そう」


 ラシードは、頬を指で掻いた。子どもの頃からラシードのことを見ていたアイシャには分かった。言いにくいことを言う時の仕草だった。


「あのね、姉さん。僕は旅に出ることにしたんだ」

「ええ。お父様から、聞いたわ」

「これから、北の方に行く。商隊に紛れて、しばらくは別の名前で生きるつもりだ。商人として、一人で立つ道を、見つけたい」


 アイシャは頷いた。


「寂しくなるわ。でも、あなたなら、立派にやれると思う」

「ありがとう」


 短い沈黙があった。

 ラシードは、卓の上の自分の手を見ていた。

 しばらくして、顔を上げた。


「姉さん、今さらこんなこと言うのは卑怯かもしれないけど。僕は、姉さんを一人の女性として愛してるんだ」


 さらりと言われるには、衝撃が大きすぎた。アイシャは、何も言えなかった。

 ラシードは、続けた。


「姉さんは血のつながった家族だ。好きになっちゃいけない。そう自分に言い聞かせて、何度も気持ちを抑え込んできた。でも、僕がハサーン家の血を引いていないと知って、哀しかったけど、心のどこかで嬉しく思う自分がいた。もう我慢しなくていいんだってわかったから」


「そんな……」


 まさか、可愛がっていた義弟が、自分を女性として見ていたなんて。アイシャには晴天の霹靂だった。けれど、驚いた一方で、彼女はこれまでのラシードの言動を思い出していた。熱を帯びたような瞳。私を強く抱きしめた腕。確かにあれらは、弟の仕草というには熱すぎた。


「ごめんね、急にこんなこと。でも言わずにいられなかったんだ」

「私……私は、」

「いいんだ。答えが欲しいわけじゃないから」

「でも……」


 ラシードは、アイシャの手を取った。


「姉さん。僕と一緒に逃げない? このまま王陛下の妃になれば、自由に生きることは叶わない。僕なら、姉さんを自由にしてあげられる」


 ラシードの言葉は軽く、冗談めいていた。だが、瞳は真剣だった。


 ラシードは本気なんだわ。本気で私をここから逃そうとしてくれている。その気持ちは、ありがたく受け取っておきたい。でも──。


「私、一緒にはいけないわ」


 アイシャは、静かに答えた。

 ラシードの目が、わずかに揺れた。


「私は、王陛下をお慕い申し上げているの。それが困難な道だとしても、あの方のお傍にいたい」


 ラシードは、ゆっくりと頷いた。


「そう言うと思ったよ」


 短い言葉だった。彼は、それ以上、何も問わなかった。代わりに、卓越しに手を伸ばした。アイシャの手の甲に、一度だけ、軽く指を触れた。


「姉さん、幸せになってね」

「ありがとう、ラシード。あなたも、必ず」


 ラシードは、立ち上がった。

 扉のところで、振り返った。


「でも、もし陛下から逃げたくなったら。いつでも僕を頼ってね」


 アイシャは、微笑んだ。そして言った。


「そうするわ」


 そんな日が来ないと知りながら。


 ラシードは、もう一度頷いて、扉を抜けた。

 扉が閉じる音が、客間に小さく響いた。


 アイシャは、しばらく、椅子に座ったままだった。


 私はいま、家族を一人失ったんだわ、と思った。でも寂しさの中に、どこか温かさがあった。ラシードとはまたどこかで会える。そんな予感がした。


 ※※※


 翌日、アイシャはシャハリヤールの私室に呼ばれた。部屋につくなり、彼が口を開いた。


「アイシャ、お前に紹介したい者がいる」


 そう言うと、私室の扉が開いた。


 ゆるく巻かれた銀の髪に、紅い瞳。

 長身で細身の美しい女性。

 だがその人は、いつもの経理部の制服ではなく、豪奢な絹の衣を纏っていた。


「マルジャナ先輩!?」


 マルジャナは、アイシャを見てふっと笑った。


「アイシャちゃん。久しぶり。元気そうでなによりね」

「どうしてここに? まさか、私を手伝った罪で、先輩も処分を!?」


 アイシャは慌てた。マルジャナはただの文官だ。王の私室に呼ばれること自体が、ありえないことだと警告を鳴らしていた。


「心配しないで、アイシャちゃん。私ね、アイシャちゃんに言わなきゃいけないことがあるの」


 そう言うとマルジャナは、自分の指から、一つの指輪を外した。


 古い金の指輪だった。細工は素朴で、けれど石は青く、深く澄んでいた。

 指輪が外された瞬間、マルジャナの姿が、ふっと変わった。


 銀の髪が、金の髪に。

 紅い瞳が、金の瞳に。

 肌の色が、わずかに濃くなり、褐色に近づいた。


 髪と瞳と肌の色が変わるだけで、別人のように見えた。そう、まるで、シャハリヤール王陛下のような──。


「初めまして。アイシャヌール=ハサーン殿。私は、王弟のジャミール=クレディウスと申します」


 マルジャナよりも幾分低い声で、その美しい人は告げた。


「この指輪は、王家に伝わる宝の一つで、姿の色を変える道具です。私は、この道具で姿を変えて、文官として働き、王宮の動きを外から見守ってきました」


 アイシャは、しばらく、声が出なかった。

 半年間の、すべての謎が、一気に解けた。


 マルジャナの紅い瞳。宮廷の流れに詳しかったこと。王陛下に詳しかったこと。王宮に伝手があると言っていたこと。


 すべてはマルジャナ先輩が、王弟殿下だったからなのね。


 気づいて、アイシャは慌てて頭を下げた。


「じゃ、ジャミール王弟殿下。これまでのご無礼、まことに申し訳ございません──」

「やめてください。アイシャ。あなたにそんなふうに距離を取られると、哀しくなる。だから言いたくなかったんだ。なのに、兄上がどうしても正体を明かせと言うから」


 ジャミールはじろりと兄を睨んだ。シャハリヤールは、ふん、と鼻をならす。


「まさか、兄上がこうも嫉妬深い人だとはね」


 ジャミールは呆れた顔をした。


「マルジャナ先輩、いえジャミール殿下」

「マルジャナで、いいよ。アイシャ」

「マルジャナ先輩。今まで私を、見守ってくださっていたんですね」

「……アイシャ」


 ジャミールは、アイシャに歩み寄った。


「あなたは、本当に勇敢な人だ。半年間、一人であの紙を抱えて、家の中で動いて、誘拐までされて、それでも、兄上を救った。私は、心から、あなたを尊敬しているよ」


 ジャミールは、両腕を広げた。


「本当に。あなたは、兄上にはもったいないくらいだ」


 ジャミールは、アイシャを抱きしめた。マルジャナだった彼女が、王弟ジャミールの姿で、アイシャを抱きしめる。アイシャは、半年間の友情と、新しく知った真実が、抱擁の中で混ざり合うのを感じた。


 でも、変わらない。どちらも私の大事なマルジャナ先輩だわ。


 その時。


 シャハリヤールの手が、アイシャの肩に置かれた。

 強く、けれど、急に。


 弟から、アイシャを引き剥がすようにして、シャハリヤールは彼女を自分の側に引き寄せた。アイシャの腰に腕を回し、自分の胸に抱き込んだ。


 ジャミールは、抱きしめていた腕を、宙に浮かせたまま、止まった。

 つかの間、二人の男の視線が交差した。


 ジャミールは、ふっと笑った。


「兄上。やきもちも、ほどほどになさってください」


 シャハリヤールは、何も答えなかった。ただ、アイシャを自分の胸に、しっかりと抱き込んだまま、ジャミールを見ていた。


「分かりました、分かりましたよ。兄上のお妃様には、必要以上に近づきませんよ」


 ジャミールは、両腕を下ろした。そしてまた、指輪を指にはめた。ゆらり、とジャミールの姿が揺れたあと、目の前に立っていたのは、また、いつものマルジャナだった。


「これからも、経理部のマルジャナとして、あなたの先輩でいさせてくれますか」

「先輩」

「兄上にも、お願いしてある。私のことは、これからも王弟ジャミールとしてではなく、経理部のマルジャナとして、扱ってほしいと。私には、こちらの姿の方が、性に合っているからね」


 そして、ほんの少し目を伏せた。


「イスマイールにも、しっかりとそれを伝えれば良かった」


 次に顔を上げたときには、ジャミールは寂しげな笑みを浮かべていた。 


「じゃあアイシャちゃん、明日からも、経理部で」


 アイシャは、マルジャナの心の内を少しだけ除いた気がして、胸が痛んだが、こくりと頷いた。


 ※※※


 それから半年が経った。


 この国では、男が女のもとに通い、子ができてから正式な婚姻関係が結ばれる。子ができない場合は、そのまま別れるのが良いとされていた。貴族の婚姻は、家の血を繋ぐためという意識が強いからだ。そして、それは王族とて例外ではなかった。


 シャハリヤールは、アイシャを王宮の一室に住まわせ、そこに毎夜通っていた。判を押したように夜ごと通うシャハリヤールの姿は、王宮で噂になった。


「あの女嫌いの王が、まさか」

「一体、どれほどの美姫なのか」

「先だって処分されたハサーン家の御令嬢と聞いたが」

「功が認められて召し上げられたとか」


 しかし、噂がどれほど高まろうとも、女の姿を見たという者は現れなかった。そして、いつからか、「本当は、そんな女など存在しないのではないか」と囁かれるようになった。女嫌いの王が縁談を避けるため、流した噂だと。


 ※※※


 そんな噂が王宮に広まっていることなど露知らず、

 経理部の机に向かって、アイシャは数字の照合を続けていた。


 秋の納品記録、冬の支出予測、年末の決算予備の整理。年末が近づくと、経理部の仕事は一気に増える。今日もまた、夕方の鐘が鳴ってから、しばらく経っていた。


 アイシャは、妃として王宮で暮らし始めた直後、職場に復帰していた。幸い、というべきか、王宮は暗殺未遂事件の影響で大規模な人事異動を何度か繰り返し、経理部にアイシャの顔を知っている者は残っていなかった。ある一人を除いては。


「アイシャちゃん、今日も遅くなっちゃってごめんなさい」


 マルジャナがいつものように、アイシャに話しかけた。


「こちらこそすみません。先輩。年末の予測の数字が、合わなくて」

「いいのよ。私も付き合うわ。急いで終わらせなきゃね」


 ようやく数字が揃ったのは、夜が更けてからだった。アイシャは羽根ペンを置き、深く息を吐いた。


「先輩、ありがとうございました」

「お礼はいいから、アイシャちゃん。早く、お部屋に戻って。こわ~いオバケがお待ちかねなんだから」

「もう。先輩ったら」


 アイシャはマルジャナの黄色い声を聞きながら、足早に経理部を出た。


 なんだかんだで、今日も遅くなってしまったわ。ここ数日、年末の決算締め切りが近づいているせいで、ほとんど定時に帰れていない。とりあえず、夕食は後回しにして、部屋に急ぐしかない。どうか、どうか、間に合いますように。


 アイシャが祈りながら自室の扉を開けると──

 彼女の願いもむなしく、寝台の縁に王が座っていた。


 寝台の傍の卓には、いつもの航海記が、栞を挟んだまま置かれていた。


「私を待たせるとは、良い度胸だな。我が妃よ」


 声には、軽い咎めの調子があった。けれど、目には、笑みがあった。アイシャは、頭を下げた。


「申し訳ございません。仕事が長引きまして」

「良い。お前が今の仕事を気に入っていることは、知っている」

「あの……」

「来い、アイシャ」


 シャハリヤールに導かれるようにしてアイシャは、寝台へと入る。たちまち彼の腕の中にくるまれて、逃げ出せなくなった。


「シャ、シャハリヤール様、今日はどこから読まれますか」

「今日は、お前を読みたい」


 そう言うと、アイシャの唇に、唇を重ねた。柔らかな感触がして、それから激しくなった。頭がぼっとして何も考えられなくなる前に、アイシャはシャハリヤールの胸を押し返した。


「お待ちください、王陛下」


 アイシャの言葉に、シャハリヤールは眉をひそめた。


「シャハリヤールと呼べと言ったはずだが」

「シャハリヤール様」

「シャハリヤールと」


 黄金の瞳に責められて、アイシャはついに観念した。


「シャハリヤール、今日はどこから読みますか」

「始めから」

「今日もまた、始めから読んで良いのですか?」

「ああ。終わってしまうのが惜しい」


 そう言うと、シャハリヤールはアイシャをぎゅっと抱きしめた。その顔は少し拗ねているように見えた。


 可愛い人。この方のこんな可愛さを知っているのは私だけなんだわ。そう思うと、アイシャは今すぐ彼を抱きしめたくなった。だが、はしたない、と思い返して、本を読むことに集中した。


 アイシャは、本の最初のページを開いた。

 航海記の、十二の島の最初の章。一番目の島の話。


 私と王陛下を出会わせてくれた物語。


 アイシャは、声を整えて、読み始めた。


「一つ目の島は、地図のどこにも記されていなかった──」


 話が進むにつれて、シャハリヤールの顔が緩んでいった。

 やがてそれは眠る前の、満足げな表情へと変わる。


 アイシャは、声を続けた。


「この島の住人は、夜にすべてをかけていた。夜を過ごすために、昼がある。そして、夜が来た」


 呼吸が、静かに、深くなっていった。


 アイシャは、本から目を上げた。シャハリヤールは、目を閉じ、深く眠っていた。


 良かった。今日もお眠りになられたわ。


 彼女の愛しい夫は半年前と同じ、穏やかな寝顔をしていた。けれど、その時よりも頬には肉がつき、目の下の隈は薄れていた。それが、アイシャのおかげかは分からない。だが、少なくとも愛しい夫が眠れるのは、この読み聞かせと関係があるのではないかと思えた。


 やがてアイシャは、ゆっくりと本を閉じた。栞を、新しいページに挟んだ。そしてシャハリヤールの額にかかった金の髪を、そっと脇に流した。


 アイシャは、しばらく愛おしげに寝顔を見ていたが、やがて何かを呟いた。


 けれどその言葉は、風に消えて、誰の耳にも聞こえなかった。





 =終わり=



ふと思いついた物語でしたが、最後まで書けて良かったです。

お読みいただきありがとうございました。


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小躍りして喜びます。

次の執筆のエネルギーとさせていただきます。

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