後編その4
十七 「真実の裏の裏」
十月上旬の頃だった。季節は秋の気配を深め、舗道の石畳には枯れ葉や落ち葉が目立つようになった。ホームズは先月初め、ここではその名を明らかにしがたい、 さる高名にして高貴な依頼人からの仕事を引き受け、暴漢に襲われて大怪我を負った。しかし、彼の活躍で、恋に盲目となった令嬢の心はようやく覚めて、事件は無事解決をし、自らは名を決して明かさなかった依頼人も、その御心を安んじなさることができたのであった。数々の女性を毒牙にかけたオーストリアの殺人者こと美男のグルーナー男爵も、昔だました女に硫酸を浴びせられ、見るも無惨な顔に変貌してしまった。ホームズの言うごとく、自らの罪の代償として恐ろしい報いを受けたのであった。
この頃になると、ホームズの怪我は包帯も取れて見た目ほどひどくはなく、暴漢にステッキで手ひどく打たれた頭や顔の傷跡もかなり癒えて、ほとんど常人と変わらなくなっていた。
先月解決して部外秘となった軍事協約書紛失事件によって、先週、日本公使館から公使館員が2名訪ねてきて、ホームズは日本政府より8千ポンドという破格の謝礼の小切手と外務大臣小村寿太郎男爵からの懇篤なる感謝状を頂くことになった。本来ならば、公使館にて林公使から直々に渡されるべきところ、這般の事情からそれが出来かねたことを丁寧に詫びる公使の書状、及び福島少将からの深甚な感謝のメッセージも添えられていた。
ホームズは、すでに昨年の 「プライアリイ・スクール」事件の解決報酬で、前閣僚のホールダネス侯爵から6千ポンドの大金を得ており、今年になってからしばしば引退の意思を表明していた。今回の日本政府からの謝礼金と「高名な依頼人」事件による報酬及び怪我の慰労金などによって、退隠後の生活には全く不安がなくなったため、彼は来年当たり、いよいよ田舎に退く計画を真剣に練り始めた。
この日の午後、私は再開した医院兼自宅で診察を終え、ベイカー街に来ていた。ホームズが地図やら風景写真やらを見て、引退計画を練っているので、
「ホームズ、どの辺に引っ込むつもりかね?」
「うーん。いまのところはサセックスの海岸地帯を考えているよ。サセックスダウンズあたりに、こじんまりしたコテージでも構えて、農園で蜜蜂でも飼ってのんびりと過ごすのもよい。」
私は冷やかして、
「まるでジェントリー(豪紳)の生活だね。」
「そこまではいかないよ。彼らと違って、なによりも領地も小作人もいない。」
「ハドソンさんはどうする?」
「一緒に来てもらいたいが、都会生活に慣れた人に田舎暮らしは気の毒だ。当分ベイカー街にも、このまま部屋を借りておくつもりだ。ロンドンに来たときに滞在するのも悪くない。」
「僕もときどき覗きに行くよ。」
「毎日でも来てもらいたいところだが、もうじき結婚する身じゃ無理だろう。」
そのとき、1階の玄関のほうで来客らしく、ノッカーと戸の開く音が聞こえ、なにやら話し声がした。まもなく、ハドソンさんが現れ、お客様です、日本の方ですよ、といって名刺を渡した。名刺は宇都宮少佐だった。部屋に現れた少佐は、私服姿だった。彼は帽子をとって丁寧に挨拶をした後、まず八月以来久しく無沙汰をしたことをわび、ホームズに怪我のことを尋ねた。
「ほぼ直りましたが、怪我のことをご存知でしたか?」
「ええ、もちろん、新聞でも大きく報道されていましたから。生死にかかわる傷と聞いて、林公使や福島閣下も随分心配されておりました。先日の感謝状贈呈のときにも、ぜひお伺いしたかったのですが、軍関係者は同行を避けるようにとの政府の指示で、やむを得ず控えておりました。本日も非公式の私的訪問で失礼をさせていただいております。ところで、新聞では瀕死の重傷とありましたが、、先日お伺いした書記官の話で予想以上にお元気そうだったと聞いて意外に思っておりました。」
ホームズは笑って、
「いや、あれは犯人を油断させるための芝居でした。襲撃を受けてから四・五日後にはもう歩いておりましたよ。」
「それはよかった。これで、福島閣下によい報告ができます。」
「ところで、その後、事件の決着はどうなりましたか?」
「はい、ホームズ氏の真相解明後、閣下と私はすぐパリに行き、明石と会いました。明石の説明は、まさしくホームズ氏の推理の通りでした。ロンドンに戻った我々は、林公使をまじえて協議し、何度も本国と連絡を取った上、詳しくは申せませんが、次のような結論に達したのです。我が陸軍はロシアとの単独決戦を覚悟し、英軍の直接支援は一切求めずにあくまでも自力で戦い抜くということ、そして、我が陸軍が貴国に期待するのは十分な後方支援に限られる、ということです。従って、七月に締結した軍事協約は一度破棄され、八月半ばから、あらたな軍事協約のための再交渉が行われました。」
私は、気になって
「フクシマ将軍は更迭されると聞きましたが、交渉は別な人物がされたのですか?」
「いいえ、実は林公使より本国に詳細な請訓を行い、更迭は撤回されて交渉は閣下が行いました。但し、厳秘ということでしたから、閣下はインド視察を兼ねて帰国の途に就いて、インド到着後発病入院したという偽装を行って、実は英国に極秘に滞在して秘密交渉に当たられました。以降、何度も本国の訓令をあおぎながら、ようやく先月半ばに新しい協約締結に至ったわけです。ホームズ氏とワトソン博士への謝礼が遅くなったのも、かかる次第のためで、真に申し訳ありません。」
私も、4千ポンドという多額の謝礼をもらっていたので、
「いいえ、私にも過分の謝礼を頂き、恐縮しております。ところでシバ中佐はどうなりましたか?」
「この事件に関しては、我が国は、国益上一切を軍事機密とすると定められました。このため、明石や柴中佐に対しても、非公式の譴責は行われましたが、今のところ免官とか軍籍剥奪などの公式処分はされていません。これは、とりわけ福島閣下がすべての非は自分にあるとして、両中佐を処分される場合は、自分自身をまず処断していただきたいと強く主張されたためでもあります。」
「フクシマ将軍は身をもって部下をかばったわけですね。」
「いやむしろ、英国の真意を見抜けず、あのような欠陥のある協約を結んだ結果、両中佐の行為を招いたわけで、非は交渉担当官の自分にあると真剣に思い込んでおられるようです。」
ホームズは、
「それをいうなら、陸戦での英軍の支援保障という非現実的な要求を強く求めた日本の陸軍上層部や政府首脳にも責任はあると思うよ。フクシマ将軍は彼らの強い意向に基づいて交渉に臨んだに違いない。手足を縛られたフクシマ将軍は、なんとしてもあのような協約を結ばざる得ず、英国側もその強硬な態度に困って、その場しのぎの、出来もしない約束を与えたのだ。」
宇都宮少佐は、
「確かにこの協約は、純軍事的見地に立ったものより、我が国の政治的配慮が優先されたものと言えるかもしれません。我が国の中枢部には、対ロシア戦を恐れて、ロシアへ譲歩して融和を望む勢力もあり、協約はそうした勢力への対抗策として考えられたと思います。」
私は、私情を交えず、極めて冷静で中庸を得た宇都宮少佐の考えが知りたくなって、
「アカシ中佐やシバ中佐の行為について、少佐はどう評価されますか?」
「ここだけのはなしですが、彼らの行為は、やはり国策の誤りを正し、ある意味で我が国を破局から救ってくれたのかもしれません。ロシアを恐れるあまり他国に過度に依存し、一片の軍事協約書によって安全の保障を得たと勘違いするのは、極めて危険なことだと思います。」
「危険ということですが、少佐は、どのような危険があったとお考えですか?」
「今我が国では、ありとあらゆる新聞が口を極めて政府の弱腰をののしり、輿論は対ロシア強硬論一色です。言論人の多くはややもすれば、感情に任せて戦火に訴えることも辞さないと極論しますが、彼らは戦争というものがどんなに恐ろしいことか知りません。もしあの協約書が、我が国において何らかの形で明かるみにされたら、おそらく朝野とも熱狂して、すでに戦争に勝利したような気分になり、開戦を望む声は抑えがたくなるでしょう。」
「そうすると、あの協約書が戦争の口火を切るということですか?」
「あり得ることだと思います。我が国の指導者層や軍人たちの多くは、必ずしも世界の情勢や我が国の置かれた立場を十分理解しているとは申せません。独りよがりや自己過信に陥り、世間の好戦的な風潮に迎合したり、功名心に逸ったりして、国全体がロシアの挑発に乗ってしまわないとも限りません。」
そして。宇都宮少佐は表情を改めて、
「しかし、いったん戦いとなればもう止めるすべはありません。そして、戦局不利の情勢となった場合、あてにした英軍は現れず、戦力に余裕のない日本は滅亡の淵に追い込まれかねないともかぎりません。明石や柴中佐は、国際政治の過酷さを知らず、一片の軍事協約に期待をかけている政府首脳や軍上層部を見て、大きな危機感を持ったのだと思います。」
私は、観念的な平和主義者より、理性的な軍事専門家の方が戦争の恐ろしさをよく分かっていて、極力戦争は避けたがるものだ、という誰かの言葉を思い出した。
ホームズはさらに尋ねた。
「タマイ大佐はどうなりました?」
「海軍のことを私から言うのも何ですが、柴中佐と違って大佐の場合は、動機が収賄等の涜職行為に基づくため、本来でしたら軍法会議にかけられて法の裁きを受けるはずですが、先ほど述べた理由で、玉井大佐も公式処分は行われておりません。但し、駐在武官は解職され、即日帰国命令が出されました。帰国後はまもなく、病気を理由に退役されたと聞いています。」
私は、少し呆れて、
「聞いたところ、英国にいる日本海軍関係者の乱脈ぶりはかなりのもののようですが、今回のタマイ大佐にしても、処分が少し軽すぎるのではないでしょうか?」
宇都宮大佐は、よく分かっています、という感じでうなずいて、
「陸軍の者として海軍についてあれこれ言うのは控えなければなりませんが、今、我が国は非常事態に近く、政府においては、国民を動揺させ、国家を震撼させかねない事態を避けようとする配慮があったと思います。もちろん、このまま不問に付されてよいわけではなく、時期が来れば、いずれこの問題は明らかにされる時が来ると思います。」
「彼らが取り込んだコミッションはどうなったのですか?」
「過去の分は知りませんが、玉井大佐が関わった分は国庫に回収されました。しかし、その前に20万ポンド余りを明石が強迫して、スイス銀行の口座から自分の口座に振り替えさせたようです。表に出せない金なので、明石はこれをロシア工作に当てると言っていました。こちらの武官室のほうにも、いくらか機密費として回してもらいました。失礼ですけど、お二人の謝礼も実はこちらから用立てたものです。」
「そうだったのですか。」
「決して汚い金でないので、ご安心しください。本来なら、国庫に戻されるべき金なのですから。」
こう言って、宇都宮少佐は笑った。
ホームズは、
「話は変わりますが、シバ中佐とアカシ中佐はどうしておられますか?」
「柴中佐は、本来は帰国後栄転して参謀本部付か、米国駐在武官になるはずのところ、
今回の事件で現職に留められました。もっともこれはご自身の希望でもあり、第一線の
部隊勤務を強く望まれています。明石中佐は、予定通り八月十五日付でサンクト・ペテ
ルスブルグの公使館付駐在武官としてロシアへ赴任しております。本来でしたら、今回
の事件の首謀者として、本国召還の上閑職に回されるところ、諜報活動において余人に
代えがたいということで現職に留まりました。いよいよ本格的なロシア工作に乗り出す
ことと思われます。パリで明石に会ったとき、彼はホームズ氏の推理に驚嘆しておりま
した。わずか10日ほどの間で自分の計画をすべて見抜いたのは、さすがにシャーロク・
ホームズだなと申しておりました。」
「いや、今から思うと、アカシ中佐は、最初から意図的に、この事件の情報や自分の計
画をそれとなくリークさせていたと思いますよ。」
私は、ホームズの意外な言葉に驚いた。宇都宮中佐も目を見張って
「明石が情報を漏らしていたとは、どういうことでしょうか?」
「アカシ中佐は、英国陸軍省諜報局のシドニー・ライリーとパリで知り合いました。最
初は、ロシア情勢等の情報交換だったようですが、やがて彼らは様々な工作において、
協力関係を持つようになったと思われます。中佐は六月と七月の2回ロンドンでライリ
ーと会っていますが、おそらく彼は、日英軍事協約阻止についての協力を求め、ライリ
ーも何らかの代償とともに承知したと思います。タマイ大佐を協力させるための脅迫材
料はライリーが提供したはずです。協約書紛失と我々の捜査の情報をドイツ側に流した
のはアカシ中佐だったのでしょう。これは、諜報局のライリーを防諜作戦に加えるため
です。このあと私に近づいたライリーは、日本海軍の贈賄やアカシ中佐の情報をそれと
なく私にほのめかして、捜査の手がかりを与えようとしました。」
私は、我慢できなくなって、宇都宮中佐がいることも忘れて、
「しかし、ライリーは英国陸軍の諜報局の将校だろう。どうして彼がそんなことをする
のかな?」
「諜報の世界というのは複雑だ。敵を欺くためには味方を欺くことも平気でする。ライ
リーは 英国に帰化したが、考え方はコスモポリタン(無国籍)で、狭い愛国心などに
とらわれない。だからこそ優秀な諜報員となれたとも言える。それに彼は、もともと反
政府活動で祖国を追われたユダヤ系ロシア人だ。彼はロシアの強権的な専制政治に嫌悪
感を抱いている。おそらく彼の発想では、ロシアの力づくの侵略主義に対抗するために
は、明石の工作を支援すべきで、その方が英国の国益となると思ったのだろう。」
「そうすると、ライリーは、アカシの指示でわざと我々に手がかりを与えて、シバ中佐
の犯行であることを明らかにさせようとしたということかい?」
「そういうことになる。但し、彼が知っていたのは、アカシが計画を立てて、タマイ大
佐を協力させたことだけで、犯行が誰の手でどのように行われたかまでは知らなかったのだろう。」
「しかし、なぜそんな手の込んだことをする必要があるのかな?」
「それは、この事件が日本の自作自演でないことを英国側に示して日本への不信感を抱
かせないためさ。もう一つは、日本の政治や軍事の指導者に、この軍事協約の持つ問題
性を認識させるためだったと思う。鞄から陸軍協約書のみを盗み出して、他の書類を残
したのも、それとなく陸軍協約については絶対反対の意思を示そうとしたものだろう。
つまり、アカシやシバ中佐のような国際派の軍人たちが、こんな非常手段を取らざるを得ないほど、この協約には問題が多いということを訴えたかったのだろう。」
私は、ドーバーでの柴中佐との別れを思い出した。
「そう言えば、コロネル・シバも、八月七日、ドーバーで最後に会った時、すでに我々が来るのを予期していたような口ぶりだった。あの時は、単にホームズの推理能力を評価した言い方と思ったが、たぶんシバは、我々の捜査が、自分にたどり着くのを待っていたのではないかな。」
「そうかも知れない。シバ中佐は、犯行後、しばらくフランスにも滞在していたから、パリにいるアカシから、我々が捜査に乗り出したことも聞いていたはずだ。アカシは、シバ中佐に、ホームズに真相を解明させるように手配している、と伝えたに違いない。八月一日、公使館で会った時、シバは、我々に日本陸軍の抱える困難と開戦が時期尚早ということを詳しく語ったが、あの時、彼は、自分の犯行の動機をそれとなく示唆していたのかもしれない。」
ここで、しばらく黙って聞いていた宇都宮少佐が尋ねて、
「今までのお話ですと、明石は自らこの事件を計画して、同時にライリー氏の協力を得
て、自分がこの事件の首謀者で、玉井大佐や柴中佐が実行したことが分かるように工作
したということでしょうか?」
「そういうことになります。英仏が日本の頭越しに取引していることは、アカシ中佐や
シバ中佐のような日本陸軍の一部の者はちゃんと気付いていて、自国政府の意向に背い
てでも軍事協約を阻止しようとした、そういう構図を描きたかったわけです。実際これ
によって日本は国策を変えて協約を破棄し、英仏密約で脛に傷持つ英国は、これについ
て何も言えないという結末となったわけですから、彼らの計画は成功したといえるでし
ょう。」
「ということは、なにもかにも最初から仕組まれていたわけですか?」
「いや、そうでもないでしょう。私とワトソンが捜査を依頼されたことは、アカシ中佐やシバ中佐には想定外だったと思いますよ。おそらく、はじめは違うシナリオを考えていたと思いますが、七月の末から我々が乗り出してきたので、急遽、やり方を変えたと思います。ドイツ側に情報を流したのもこの時だったと思います。我々に尾行が付いたのもこの頃でしたから。ライリーもこれは知っていたはずです。」
「先ほども、明石がドイツ側に情報を流したのは、ライリー氏を防諜作戦に加えるため
といわれましたが、それは間違いないことでしょうか?」
「ドイツ諜報機関はブルース・パーティントン設計書事件のような失敗の事例もありますが、我々の気づかないうちに、英国から多くの機密情報を入手しているようです。今回の日英軍事協定については、彼らがぜひとも知りたがる情報で、アカシ中佐は、ドイツ側に我々が捜査に関与している事実を知らせれば、ドイツは必ず動くと考えたと思われます。そうなったら、当然、英国側のカウンター・インテリジェンス(防諜対策)を引き起こし、諜報局のライリーの出番となって、ライリーと我々の接点が出来ると見込んだのだと思われます。」
私は、尾行のことを思い出した。
「そういえば、我々の尾行などドイツ側が明らかに動き出したのも、依頼を受けて2日後の、ホームズが独りで調査をした七月二九日だったな。翌三十日は僕も一緒だったが、日本公使館まで尾行された。」
「二七日に外務省で依頼を受けたときは、ランズダウン外相も、ニコルソン中将も、事件発生から2週間近くたっても、ロシアやフランス、ドイツに何の動きもないことを気にしていた。ところが、我々が依頼を受けた直後から、突然ドイツが目立った動きをし始めたのは、やはり情報が漏洩したと考えるのが自然だ。」
「ロシアの工作員が僕の家に侵入したのも、そのせいかな。」
「結果的にはそうだろうね。但し、アカシもライリーも、ドイツがロシア側に情報を流すかもしれないとは思っていても、まさか、ロシア側が白昼ワトソンの家を襲うとは、予想もしなかったに違いない。ライリーは本当に君に申し訳なかったみたいで、この後警護が極めて厳重になったよ。」
「あの時は、無事に済んだとはいえ、ワトソン博士にとんだ危険な目に遭わせて、真に申し訳ございません。福島閣下も明石もこの件では、くれぐれもお二人によく詫びてほしいと申しておりました。」
そして、これまでのホームズの話に、自分としてはただただ驚愕するばかりだが、すべてはもう終わったことなので、一切水に流して今後とも我が国とのご厚誼をお願いしたい、と言った。その上で、彼は、最後に次のようなことを言い出した。
「実は、一つお願いしたいことがあります。これも本日お伺いした理由なのです。」
「なんでしょうか?」
「はい、明石から推薦を受けた人物をぜひ紹介していただきたい、というお願いです。
これは福島閣下からのお願いでもありますが、先ほどから話の出ているシドニー・ライ
リー氏に我が国として協力をお願いしたいことがあるのです。」
「それは諜報関係の仕事ですか?」
「はい、福島閣下はまもなく帰国されますが、帰国後は本来の参謀本部第二部長の仕事
に復帰されます。第二部には情報収集や秘密工作を行うセクションがあり、これが重要
な任務となっております。ご承知と思いますが、ロシアは、 満州還付条約に基づいて
各国に約束した第1次撤兵期限が、今月八日でした。実際に撤兵を始めたときは、世界
中が驚き、我が国でもこれで戦争の危機が遠のいたとばかり喜ぶ声もあったのですが、
真実撤兵が行われたかどうか疑わしいという見方も多いようです。この後も半年ごとに
第2次、第3次の撤兵が予定されていますが、しかし、実際のところ本気で撤兵をする
気でいるのか、これを確かめようにも、ロシアは日本人に対して、極めて厳しい警戒を
していますので、工作員の潜入も容易ではありません。参謀本部としても現地で探索に
当たる人材、できればロシア語が堪能な白人男性を求めており、明石の推薦もあって、
シドニー・ライリー氏にたどりついたわけです。」
「事情は分かりましたが、なぜ、陸軍諜報局のニコルソン中将に直接お願いしないのす?
「お願いしても、おそらくご協力していただけないと思ったからです。ニコルソン中将
は、今回の再交渉でも我々に対して、それほど協力的ではなかったようです。ですから、
先にライリー本人と交渉して同意していただき、我が国から公式に要望すれば、ニコル
ソン中将も嫌とはいえないと思います。」
「分かりました。一応、本人の同意が得られるならば、紹介させていただきましょう。」
こう言うと、宇都宮少佐は安心したように、何度も礼を言って帰っていった。
少佐が帰った後、私は言った。
「ホームズ、さっきの話で少し腑に落ちない点があるのだが。」
「なんだい?」
「ライリーの果たした役割だよ。彼はロシアやドイツに対する防諜対策を通じて、我々に関わった。だから、彼が我々とコンタクトを取り始めたのは、マイクロフトの依頼で、諜報局やヤード(ロンドン警視庁)のスペシャル・ブランチが動き出した七月二九日以降だ。彼がアカシの指示で、タマイらの日本海軍の汚職やアカシのフランス高官の買収を漏らして、それとなく君に捜査の手がかりを与えるのが役割だとしたら、七月二九日以前の彼は、どんな役割を果たしていたのだろう?」
「その辺は、僕も考えたよ。六月と七月に、アカシはライリーとロンドンで会っている。
六月は、おそらく軍事協約阻止計画の協力依頼とタマイの脅迫材料の入手だろう。最後
にあったのはトラファルガーホテルの七月六日だが、そのときすでにアカシは、シバ中
佐の協力も得て、タマイを強要して仲間にも加えていたはずだ。しかし、犯行計画やシ
バ中佐の役割はライリーには伝えていなかった、というか、伝えられなかったと思う。
シバ中佐の話では、鞄すり替えの方法は、タマイの提案で八日に急遽決まったからだ。
おそらく、当初の書類窃取の計画は、方法も時期も違っていたと思う。」
「それじゃ、七月六日にアカシはライリーと何の相談をしたのだろう? タマイの件は
解決していたし、鞄の件は、その後決まった話だ。」
「おそらく、協約書を盗み出した後の、善後策だと思う。英国はすでに協約書の調印前
に、フランスと密議をこらして、日露開戦後の英仏密約を交わしていた。だから、アカ
シは、もし協約書を盗み出した後でも、再び日英陸軍で同じような協約が締結されるな
らば、第三国あたりで、英仏密約をすっぱ抜くつもりだったと思う。」
「第三国とはどこだい、アメリカあたりか?」
「いや、アメリカは、英国の友好国だから難しいかもしれない。カナダやオーストリア
などの英国の自治領やフランスの影響の強いヨーロッパ諸国も無理だ。おそらく、南米
あたりだと思う。ライリーは南米で現地の英国情報部に採用されるまで、フリーランス
のエージェントだったらしい。現地には詳しいし、新聞記者にも知り合いがいるはずだ。
アカシはたぶんその当たりの相談を持ちかけたのではないかな?」
「なるほど、あり得るな。ところで、もう一つ疑問があるのだ。」
「それは、パリにいるアヵシは、どうやって我々が依頼を受けたことを知ったか? と
いうことだろう?」
「そうそう、それだ。あのとき、シバ中佐はフランスだったし、そうなると、タマイが
考えられるが、彼は、二八日のサヴォイホテルでの聞き取りの時、ポーツマスに出張中
だった。ホームズが二九日にホテルに調査に行った時、すでにドイツの尾行が付いてい
たと言うし、そうなると、アカシがドイツ側にリークしたのはニ八日まででないとおか
しい。」
「その通りさ。アカシは我々が依頼を受けた二七日、あるいはもっと早く、我々のこと
を知っていたのさ。」
「しかし、それはどこから知ったのだい?」
「考えて見たまえ。」
私は、頭が混乱しそうだった。諜報の世界には、真実のどこまで裏の裏があるのか、いったい誰を信じてよいのか分からなかった。
「まさか! しかし、なんのために?」
「そう、フクシマ将軍だよ。」
「……。」
私は、声が出なかった。真面目で律儀そうな福島将軍が、虚偽や偽装で自分の本心を隠して我々を欺いていたとは信じられなかった。
「フクシマは、自分からおくびにも出さなかったが、早くから書類の盗難をアカシの仕業と気が付いていたと思うよ。ただ、彼はシバ中佐が実行犯だったことは、僕が真相を解明するまで気付かず、意外だったようだ。しかし、黒幕はアカシとにらんでいて、密かに連絡を取っていたのさ。」
「しかし、なぜそれを黙っていたのだろう?」
「おそらく、フクシマは、アカシが、今回の軍事協約と英仏密約の内容を、第三国あたりで公表するのをきっかけに、日英の軍事協商をもう一度やり直そうと決意したのだと思うよ。そのためには、事件は解決不能な難事件として棚上げして、英国側と再交渉を進めようとしたのだと思う。ただ、本国政府がそれを受け入れない場合は、真剣に自決も考えていたのではないかな。ランズダウン外相の薦めで我々に依頼したのは、解決に取り組んでいるポーズだったと思う。たぶん彼は我々に依頼する話が出た段階で、アカシには念のためにそのことを知らせたが、アカシは逆にライリーと我々を使って真相を明らかにさせて、英国側を揺さぶろうとしたのは、さっき言った通りだ。」
「それは、フクシマ将軍一人の考えだったのかな?」
「いや、おそらく、さっきここにいたウツノミヤ少佐も関わっているにちがいないよ。アカシへの連絡は彼が取ったはずだ。ただし、彼も漠然とアカシがやったこととは知っていても、タマイやシバ中佐の犯行の関与など、詳しいことは知らなかったようだ。」
私は、この事件は、いったいどういう事件なのだろうと考えた。犯行はアカシ中佐を含めた三名で日本側の一部の者に過ぎないが、被害を受けたはずの日本側は犯人を知っていて、その事実を隠蔽している。これは協約の相手の英国を欺くための、日本側の共同謀議ということだろうか。英国側も協約を初めから履行する意思もなく、それに反するような密約を他国と交わしている。まさしく虚々実々の駆け引きで、信義も何もあったものではない。
ホームズは、疲れ切ったように立ち上がると、ヴァイオリンを取った。
「人間心理の裏の裏を読まないと、真実は見えてこないよ。国と国との間も同じだ。神経をすり減らす作業だが、これが犯罪捜査の鉄則さ。」
久しぶりに、ストラジヴァリウスの音色が流れ始めた。哀愁を帯びた旋律が心に染み入った。トレモロの響き、バッテリーの調べ、ひからびた心の慰藉のために、彼は弾き続けた。
エピローグ
「ライリーは、何と言っていた?」
「彼は、協力してもよいと言っていたよ。」
「ふーん、しかし、諜報局の方は、あまり乗り気ではなかろう。彼らは日本に煮え湯を
飲まされたと思っている。」
「アカシにしてやられたからかい?」
「それもある。だがそれだけでなく、これは初めから仕組まれていて、諜報局はまんま
と一杯食わされたと、ニコルソン中将は激怒しているらしい。」
「確かに、ニコルソンは僕らをシロウト扱いしたくせに、最後まで真相を見抜けず、体
面を失ったからね。」
ホームズは、おかしそうに笑った。
宇都宮少佐の依頼を受けてから2日後、ホームズと私はライリーをベイカー街に呼んで、日本側からの諜報活動の勧誘を持ちかけた。アカシの名を挙げると、ライリーは大いに関心を示し、乗り気だった。その後、我々はマイクロフトを訪ねた。いつものディオゲネス・クラブの来客室で、この話を聞いたマイクロフトは、ひどく複雑な表情をした。
「いや、これはニコルソンだけではない。ラムズダウン外相やブロード・リック陸軍大臣もそれに近い気持ちだろう。」
私は、アカシやシバ中佐の行為が、それほど英国側の怒りを買ったのかと思って、
「今回の日本陸軍内の不祥事に対してですか?」
「いや、それよりも、その後の再交渉だ。再交渉の場で彼らは、今回の自軍内の事件について英国側に謝罪するとともに、そこでの情報漏洩は一切無かったと確信すると言った、そういっておいて、彼らは最初の協約書をすべて破棄したいと言ってきた。理由は、協約に定めた英軍の直接支援が期待できないこと、また、信頼すべき筋からの情報として、英軍派遣を行わないという英仏密約があることを挙げた。」
「ずいぶんはっきり言ったものだね。英国側は反論できなかったろう?」
ホームズが、皮肉っぽく言った。
「一応、否定したが、彼らはその点はあまり追求せず、とにかく英陸軍の力は借りるこ
となく、ロシアとは単独決戦すると覚悟を決めたらしい。新しい協約はこれを前提に作
り直したいといって、今度は違う条件を付けてきたよ。」
私は、気になって、
「どんな条件ですか?」
「それがまた驚くべき内容だ。日本は、開戦後の戦費は、4割近くを外債で調達する必
要があるらしい。彼らは、今後、海外で戦費調達のため発行する日本政府公債に対して、
英国政府の債務保証を求めてきたのだ。もともと資源に乏しく、慢性的貿易赤字に苦し
む日本に金の貸し手は少ない。今回、日本の勝利の見込みがほとんどない戦争のために
外債募集をしても、引き受け手はめったに現れないだろう。」
経済に疎い私は、よく意味が理解できなかったが、
「それで、どうなりました。」
「あり得ない話だ。英国政府は外国政府債の債務保証など一度もしたことがないし、イ
ングランド銀行も外国政府債の発行を引き受けることはない。第一そんなことをすれば、
議会で大問題となるだろう。」
「じゃあ、拒否したわけですね?」
「いや、そうも行かなかったのだ。第1回目の会議の後、第2回目は陸軍関係者以外に、ラムズダウン外相やハヤシ公使など外務省関係も加わった拡大会議が行われた。その席で英国側は拒否の回答をしたが、あのハヤシという男は、実にしたたかなタフ・ネゴシエーター(手強い交渉相手)だよ。ロシアは、フランスの巨額のロシア政府債買い取りによって、軍備拡張の資金としてきた、これは現在も続いており、事実上フランス政府の債務保証を受けているに等しい。なぜ英国は、同盟国の日本にこれを行わないのか、というわけだ。」
「そうすると、日本側の主張をうけいれたのですか?」
「いや、第2回目で決着がつかず、第3回目の会議となったが、日本陸軍のフクシマ将
軍が、これも驚くべき発言をした。彼は、腹が減ってはいくさはできぬの格言を持ち出
して、外債募集の見込みが立たない場合は、日本はロシアと協調せざるを得ない、とい
うのだ。しかも、最近、ドイツが日露の協調を取り持ってもよい、と申し入れてきたと
いうのだ。」
私は驚いて、
「つまり、日英同盟を見直す、という意味ですか?」
「そこまではっきりとは言っていないが、ほのめかしたのだと思う。日本陸軍には、自分のような親英派ばかりでなく、親独派も多いとか言って英国側を牽制したよ。フクシマという男も、真面目そうでなかなか食えない相手だ。」
ホームズが皮肉そうに、
「いかにもカイゼルがやりそうなことだ。英仏の協商に対抗するため、今度はロシアと
日本の手を組ませて、英国に当たらせようというわけだ。」
私は結果が知りたくて、
「それで、最終的にどうなったのですか?」
「うむ、結局やむを得ない次第で、第4回目の軍事協商会議において、債務保証はあり得ないが、日本の要望を一部認めることとなったのだ。但し、起債はすべて民間の市場
で行うこと、募集困難な時のみ英国政府は決して表には出ないが民間業者を使って引き
受けをすること、などだ。当然、公債発行は、戦費調達の戦時公債のみに限られる。こ
れは、新しい協約書には記されていないが、付属文書として両国で秘密覚書を交わした
のだ。」
ホームズはまとめるように、
「結局、日本は空手形を出した英国を出し抜いて、英国に戦費の一部を負担させることができたわけだ。」
マイクロフトは苦笑して、
「そういうことになるな。今回に関しては、我々の小さな友人であるジャップのほうが
一枚上手だったよ。南ア戦争による巨額の財政赤字を抱えたバルフォア首相も、今頃頭
を悩ましていることだろう。」
私は、今後日英が友好関係を保てるのか気になって、マイクロフトに訊いた。
「今後、日英関係はどうなるでしょうか?」
「前と特に変わりはなかろう。今回の事件で、同盟が破綻するようなことは起こらない
よ。」
「しかし、信頼関係は相当傷ついたのではないでしょうか?」
「信頼関係などというものは、通常、国家間ではあり得ないのだ。一片の条約や同盟に
よって友好や信頼関係などが築かれるものではない。条約も同盟も信頼を深めるためで
なく、その時の必要性から生まれた相互利益のための打算的取引に過ぎない。日英同盟
が、現状において両国にメリットがある限り、今回のような事件があっても、その大綱
は変わることなく続くよ。」
「そうすると、メリットがなくなると同盟も解消される訳ですか?」
「当然そういうことになる。周囲の環境が変わり、同盟の意味が無くなればそうなる。
日英同盟も例外ではない。自国の国益にかなわないならば、同盟によって自らの行動が
制約される理由はない。」
ホームズは、淡々と
「国家間の友好というものは、そういう割り切り方が必要なのかも知れないね。従って
全面的に相手を信頼仕切るのは間違いだということさ。」
マイクロフトは、ゆっくりと安楽椅子に身を沈めて、言った。
「今回、我々は日本を信用してだまされたというより、日本を少々見くびり過ぎて、相
手の真意を見抜けなかったと思う。日本を甘く見て、たかをくくっていたところ、向こ
うは、こちらの本心をちゃんと知っていて、みごとどんでん返しをくらわせたわけだ。
しかし、私は、こういう日本を逆に評価したい気持ちだ。生き馬の目を抜く国際社会に
おいて、これくらいの抜け目のなさは必要だ。日本は立派に独り立ちしてやっていける
国だということを、今回の事件は証明したと思う。その意味で、日本は我が大英帝国の
同盟国として、足を引っ張るお荷物ではなく、それなりに役に立つ国とも言える。」
私は、マイクロフトの日本を見直したという言い方に、少し複雑な思いを感じた。最後に、ホームズは、最後に
「兄さん、ライリーの件はどうする?」
「本人がよいというなら、日本政府から正式申し入れがあった場合、断るのは難しいだ
ろう。ニコルソンがへそを曲げて邪魔をしないよう、陸軍大臣に内密に伝えておくよ。」
こうして、我々は、ディオゲネス・クラブを辞去し、呼んでもらった馬車に乗った。先
月からすでにスペシャル・ブランチの護衛は無くなっていた。
私はぽつりと聞いた。
「日本とロシアは本当に戦争になるのかな?」
「分からないな。外交の世界では、何が起こるか分からないよ。昨日の敵は今日の友さ。
急に手を組むこともあり得るのだから。」
「いずれにしても、君は日本だけでなく、結果的に英国にも貢献したと思うよ。アカシ
の策謀を明らかにしたことで、日本側はより慎重になったし、思慮深くもなった。英国
側も背信行為を反省して、日本に対する態度を改めることになったと思う。」
ホームズは頷きながら、
「確かに、少しは本当の対等な関係に近づいて、両国の同盟は深化したかもしれないな。」
「この後、ライリーの件で、まだ日本との縁が続くかもしれないね。」
ホームズは、窓を外を眺めながらほほえんで、
「そうだね、また面白い依頼があるかもしれない、楽しみだ。」
私は驚いて彼の顔を見た。この先、ホームズは本当に退隠生活などする気があるのか、疑わしくなった。
シャーロック・ホームズ「知られざる事件簿」
『消えた軍事協約書』 あとがき(作品解説)
シャーロック・ホームズには、マーク・トウェーンやO・ヘンリーをはじめ世界中の作家によって、さまざまなパロディーやパスティシュがおびただしい数書かれていますが、日本との関わりを正面切って取り上げた作品は、山田風太郎、加納一郎などの少数の作品を除いて、あまり目にしないように思われます。
多くのホームズ愛好家やシャーロッキアンの方々をさし置いて、真に大それたこととは思いますが、私は推理小説のスタイルを借りて、二十世紀初頭日本とシャーロック・ホームズとの出会いというテーマで、ホームズのパスティシュ物を書いてみたいと考えました。
時代は日露戦争の始まる二年前、一九○二年の七月末から十月上旬に設定しました。ホームズ正典では六月の「三人ガリデブ」から、九月の「高名な依頼人」の辺りに位置するようにしました。(なお、ワトソンの再婚相手を、メアリー・メイパリー夫人としているため、「スリー・ゲイブルズ」事件は一九○二年の春としています)
物語は、一九○二年の日英同盟直後のロンドンを舞台として、歴史的事実を踏まえた中に多くの虚構を交えたストーリーが展開されます。六月、エドワード七世国王戴冠式参列の小松宮使節団に柴五郎中佐が随行したこと、七月七日と八日ウィンチェスター館で福島安正少将が日英軍事協商会議に陸軍代表として参加したこと、明石元次郎中佐がパリの日本公使館で駐在武官のかたわら諜報活動を行っていたこと、竹内十次郎海軍大主計が在ロンドン造兵造船監督事務所で会計官を務めていたこと、また、後の大疑獄事件となったシーメンス・ビッカース事件の収賄は、すでにこの当時から行われていたことなどは、すべて歴史的な事実です。
こうした事実を背景に、日英同盟には、実は日露開戦時、英軍の満州派遣を定めた秘密軍事協約があったというフィクションを用いて、この協約書を日本側の方が紛失させてしまうという事件にしました。
やや月並みかもしれませんが、密室の中で施錠された鞄から書類だけが消えていた、という不可解な状況で事件は起こり、これをホームズが推理していくスタイルです。
捜査の過程で、ホームズは日本の軍人たちに接しますが、彼らはおおむね、知性的で視野も広く、国際感覚を身につけ、なによりも謙虚です。私は、日露戦争前に海外に赴任していた日本軍人たちは、たぶんこうした人たちだったのではないか、と勝手に想像してみました。列強諸国との格差や立ち後れた日本の現状を充分認識し、日本が国際社会の中で受け入れられるためにはどうすればよいのか、常に意識していたと思うのです。
柴五郎中佐を始め、宇都宮少佐、福島少将に接したホームズとワトソンは、彼らの真摯さと誠実さに次第に好意を持ち始めます。しかし、国家機密に通じたマイクロフトによって、英国は初めから協約を履行する気はなく、日露開戦後の日本の敗北を予想して、戦後の列強諸国による極東の支配権と勢力均衡のため、英仏で密約を交わしていることを知ります。二人は英国の背信行為を知って、日本へ深い同情はしますが、イギリス人としては自国を裏切ることは出来ず、やりきれない思いも感じます。
やがて、捜査の結果、犯行計画は軍事協約阻止を狙ったパリにいる明石中佐、協力者は軍艦建造のコミッションを取っていた海軍士官玉井大佐、協約書を盗み出した実行犯は、ホームズも敬意を払っていた意外な人物と分かります。
ホームズとワトソンは、ドーバーに急行し、海峡渡船の桟橋でその人物に会いますが、彼はすでホームズの追跡を予期していて、軍事協約は日本の滅亡につながる、という犯行の動機を明らかにします。そして、幼いとき生まれ育った国、会津の滅亡を体験した自分は、二度と自分の国が滅びるのを目にしたくないという、燃えるような思いを静かに語ります。
この後、日英両国ともこの事件を闇に葬りますが、日本は協約の廃棄とロシアとの単独決戦を覚悟する代わり、戦時公債発行に英国の債務保証を要求します。これも全くのフィクションですが、要求が受け入れなければ、日本はロシアと協商せざるを得ないという福島少将の強迫に、ついに英国が折れるというところで事件の第一幕は終わります。
ついで、小説の最後では、第二幕としてこの事件の真実には裏の裏があることが、ホームズの口から語られます。明石は自ら犯行を企みながら、実はそれをホームズに解明させることで、事件の真相を白日の下にさらしたかった、なにもかもが明石の計算づくの企みで、これによって母国日本の目を覚まさせることが目的だった、というオチで第一篇は終わります。
一九○四年から一九○五年に亘る日露戦争の勝利によって、日本は近代国家として輝かしい飛躍を遂げるのですが、「禍福はあざなえる縄の如し」ということわざ
通り、この勝利は逆に日本に四十年後の敗亡の途をたどる運命をもたらします。
この物語は、日本が「坂の上の雲」をめざしていた時代の日本人の清新な雰囲気を、ホームズとワトソンの目を通して描きました。しかし、日露戦争後の日本は、自らの過信と傲りによって、次第に世界の同情と共感を失っていき、時代は「凩の時代」へと変わっていきます。
私は、小説の第二編で、ポーツマス条約締結の前後を時代背景にして、ホームズとワトソンの目を通して、彼らが敏感にこうした日本の変化に気付くという内容を描きたいと思います。




