後編その3
十五 「ドーバーの別れ」
ドーバー駅には、5分遅れで着いた。ホームズと私はプラットホームを走って、海峡渡船の桟橋に急いだ。私は2ヶ月前銃弾のかすった腿の傷跡を気にしながら、オステンド行きの桟橋にたどり着くと、すでに船は出航前で、大勢の船客がぞろぞろとタラップを上っていくところだった。船員が乗船券を確認している改札の前で、私は、息を切らせながら船を見上げて、
「もう乗船したかな?」
「あと20分足らずで出航だ。すでに乗り込んだのかもしれない。」
ホームズは懐中時計を見ながら言った。あちこち見回していると、一等甲板の手すりにもたれて、山高帽の二人の男が桟橋を見下ろしているのが見えた。東洋人らしかった。一人は小柄だが姿勢がよく、引き締まった体つきで、もう一人は図体の大きな巨漢だった。向こうも我々を見つけたらしく、すぐにタラップを降り来て、船員に声をかけて改札を出てきた。柴中佐と西郷少尉だった。
「もうお会いできないかと思っておりました。いつおいでになるかと、待っておりましたが、またお会いできて幸いです。」
先に声をかけたのは、柴中佐だった。ホームズが話しかけようとすると、彼はうなずきながら、
「そうです。陸軍協約書は私が盗み出したのです。いつお分かりになりました?」
ホームズは、
「最終的な証拠を掴んだのは今朝です。ここに来る前、ウツノミヤ少佐の電話によって、七月八日午後、あなたが密かにアカシ中佐とタマイ大佐にお会いになったことを知って確認できました。」
「そうですか、意外でした。ホームズ氏とあろう方が、なぜもっと早くお気付きなさらなかったのでしょう?」
「たぶん、タマイ大佐とは違って、最後まで中佐の犯行の動機がつかめなかったからだと思います。」
「そうでしたか。」
「ところで、中佐にお伺いしますが、あなたは、鞄すり替えのため、七月十日朝、ホテルを出発したあとすぐに戻り、ホテル内のどこかに身を潜めておられたのですね。客が出発した後すぐにメイドが掃除にくるのは、見慣れていたはずですから、あなたは、メイドが部屋の掃除を終える時刻を見はからって、もう一度部屋に戻り、内側から鍵をかけ、中で待機していたのでしょうか?」
「いや、確かに私は出発するふりをしてホテルにまた戻りましたが、ここはホームズ氏の推理とは違って、すぐに自分の部屋にもどって中から鍵をしたのです。まもなく、メイドが掃除に来る音がしたので、クローゼットの中に身を潜めました。私は、宿泊客の荷物があるときは、メイドは戸棚やクローゼットをむやみに開けないことを知っていたのです。メイドが去ってしばらくして、福島閣下たちが部屋を出て行く音がしました。私は、窓のカーテンを細めに開けて、閣下の一行が玄関の前で馬車に乗って出発するのを確認しました。しかし、気付かれたと思いますが、あせり過ぎてカーテンを元に戻すことを忘れてしまいました。そのあとの行動は、とっくにホームズ氏は推理されていると思います。飾り戸棚の鍵については、以前ボーイに聞いて、全室同じ鍵であることを知っておりました。すり替えた鞄を持って大急ぎでホテルから出た後、待たせていたホテルのポーターにトランクを運ばせて、ヴィクトリア駅まで馬車を走らせました。陸軍単独協約書のみを取り出して身につけ、残りの書類はすべて鞄ごと、駅で待っていた玉井大佐に渡して、そのまま、ドーバー行きの列車に乗ったのです。」
「部屋の鍵はどうしました?」
「前に申し上げた通り、駅でホテルに帰るポーターに、フロントに返して置くように頼みました。」
ホームズは、引き続き質問した。
「協約書のほうは、どうされましたか?」
「パリで、明石元二郎中佐に渡しました。その後は知りません。」
シバ中佐は続けて、
「私は、以前から明石中佐とは懇意でした。今回の事件は明石から協力を要請され、実行したものです。六月、明石が密かにロンドンに来て私と会い、近々日英の陸軍が結ぶ秘密軍事協約は、彼の説明によると、国の存亡にかかわる危険性があるので なんとしても阻止せねばならないとのことでした。その理由はここでは詳しくは述べませんが、たとえ現政府、陸軍首脳部の意向に背いてでも、これを行わねばならないという覚悟でした。明石は海軍の玉井大佐を巻き込んで、ひそかに書類を窃取することを計画したのです。七月五日、明石は、再びロンドンに来て、私は玉井大佐とともに書類の入手方法について相談しました。玉井大佐の提案で、鞄をすり替えることを決めたのは八日でした。すり替え用の鞄は玉井大佐が用意し、鍵のほうは九日の会議の時に、やはり大佐が福島閣下のものとすり替えたのです。」
ホームズは質問を続けた。
「わざわざ、共通協約書を残すように工作したのはなぜですか?」
「明石は、必要なのは陸軍単独協約書のみなので、陸海軍共通協約書は手を付けないでおくことを求めました。これについては、むしろ日本にとって必要という考えからだったと思います。玉井大佐も、これが失われたことで英海軍との協約が失効となると、今後の海軍の作戦上も困るということでした。」
「タマイ大佐は、なぜこのような企てに協力したのか、中佐はご存知ですね。」
「知っています。玉井大佐は、明石に脅迫されたのです。今、海軍は多くの艦船を英国で建造しており、巨額の建艦費が使われています。その一部が英国に滞在中の海軍士官によって不正に流用されたり、着服されたりしているのです。このほか、ビッカース社などの造船会社からも多額のリベートが環流しており、海軍の上層部や在英の海軍士官たちのポケットに入っているのです。明石はそういう不正行為の証拠をつかんでおりました。」
私は、時計を見た。出航まであまり時間がなかった。柴中佐は、少し歩きませんか、と言って桟橋の端のほうに歩き出した。我々も後をついていった。正面にドーバーの白亜の崖、ホワイトクリフが見えた。崖の上にドーバーキャッスルの古城が眺められた。その下には、イングリシュ・チャネル(英蘭海峡)の要害、ドーバーの軍港が黒々とうずくまっていた。夏の空はどこまで青く、カモメの白さが目にまぶしかった。
コロネル・シバは海を見ながら、
「私は会津という小侯国に生まれました。10歳のとき王政復古が行われ、心ならずも賊軍の立場に追い込まれた会津は悲惨な目に遭いました。そのとき私は、国が滅びるということがどういうことか、よく分かったのです。家も街もすべて焼かれ、婦女子は凌辱され、殺戮と破壊が横行し、あらゆるものが奪い尽くされる。官軍の大将は桐野という男で、ここにいる西郷少尉と同じ薩摩の人間でした。しかし、その薩摩も10年後、自ら反乱を起こして滅び、桐野も死にました。私と同じように西郷も、幼いとき多くの知り合いを亡くしました。」
西郷少尉は、涙ぐみながら言った。
「むごいこってごわす。」
「2年前、清国の動乱の時、私は、子供のとき見た光景が再現されたように思いました。殺戮、破壊、暴行、略奪、ロシアばかりが非難されますが、他の国々もひどかった。失礼ながら貴国も決して褒められたものではなく、紫禁城での略奪ぶりはすさまじかった。」
私は、ふと従兄弟のアーサーから聞いた話を思い出した。三ヶ月の間、破壊と殺戮の狂気が、八カ国の軍隊が侵入したこの不幸な都市の上で荒れ狂ったという。まず義和団が町を襲って無辜の人々を虐殺し、次にロシアがシベリア兵、タタール兵、コサック兵などのアジア的野蛮から抜けきっていない連中を送り込んできた。日本からは、勇敢だが精密な戦闘機械のように仮借なく人を殺す、小柄な兵士がやって来た。インドからは我が大英帝国を代表して残酷なシークの騎兵隊がやってきた。フランスは素質の悪いアルジェリアの植民地兵、アメリカはならず者に近い傭兵を投入した。そして、最後にやって来たイタリア、ドイツ、オーストリア軍が中国人の残虐さに復讐しようとする憤激にかられて暴れ回ったあとは、無傷なものは何ひとつ残っていなかった。この恐るべき破壊と殺戮の後、将校から兵卒に至るまで、皇城の財物を奪い合うように略奪して回り、宮廷の庭にある獅子像の金箔まではがしたらしい。部隊内では略奪品の競りが行われ、帰国後一財産作った者が何人もいたという。
私が戦争の悲惨さと人間の罪業の深さにおののいて居たとき、柴中佐はさらに言った。
「いや、これは我が国も同じです。北京では割合おとなしかったが、他の地域ではそうでもなかった。官庫に保管してあった馬蹄銀を大量に着服した高級将校もいました。」
私は、尋ねた
「中佐は、協約が開戦を早めることを危惧されたのですか?」
「それもあります。いずれ戦争は避けられない事態でしょうが、今は早すぎます。いやそれより、我が国の敗戦を予期しながら、それによっておのれの利益を図ろうとする国がたくさんあることです。世間知らずで田舎者の日本が、思い上がり、調子に乗せられて、国を滅ぼすようなことはしたくありません。」
西郷が、時計を見て言った。
「閣下、もう時間がなくなっちょります。」
ホームズが、
「最後にお伺いします。事件の全貌や中佐の真意は、他の方々はご存知ですか?」
「いや、ほとんど知らないでしょう。ここにいる西郷にも、本日話したばかりです。勝手ながら、ホームズ氏にお願いなのですが、できれば、福島閣下を始め、皆に説明していただければ、大変うれしく思います。」
出発を知らせる、汽笛が鳴り始めた。
柴中佐は、
「もう少し、お話がしたかったのに残念です。わざわざ来ていただいて、本当にありがとうございました。こうしてお話できて思い残すことはありません。それではお別れです。」
こう言い終わると、帽子を脱いで、丁寧にお辞儀をした後、足早に改札に去っていった。西郷も、こちらを振り返って、ぴょこんと頭をさげて、あわてて後を追った。
十六 「全容の解明」
「私は、この事件についてはじめから内部からの犯行を疑っておりました。我が国の警察や諜報局も一応この仮説を検討しながらもついに立証できず、警察はホテル外での盗難あるいは紛失、諜報局は外国の高度な訓練を受けた秘密諜報員の仕業と、両方とも的はずれの結論のまま、捜査はデッドロックとなってしまったのです。諜報機関の犯行ならば、なぜ鞄の中に陸海軍共通協約書を残したのかが説明できません。なるほどこの書類は陸軍協約書と違って、主に兵站や艦船修繕、協同信号法や電信交通等で、実際の作戦計画に関わるものではありません。だが、他国にとっては日英両軍の協力状況や動向を知る上で貴重な情報だったはずです。これに全く手を付けず、そのままにしておくのはいかにも不自然です。さらに、捜査の初期のドイツやロシアの諜報機関による尾行や家屋侵入は情報収集が目的で、これはむしろ協約書紛失には彼らが関わっていないことを示すものです。したがって私は、今回の書類の窃取は情報の入手が目的ではなく、陸軍の軍事協約そのものを妨害することにあったのではないかと思い至ったのです。日英協約の妨害の犯行動機を持つ者は、もちろん他国の場合も十分考えられますが、私は日本内部の反対派の可能性を考えました。そして、軍事協約に強く反対したアカシ中佐という人物の存在を知り、ますます内部犯行の疑いを強めたのです。また、今回の事件では犯人は容易に密室に侵入し、いとも簡単に書類のありかを見つけ出し、ほとんど何の痕跡も残さず、部屋を立ち去りました。これも、内部の事情をよく知る者の犯行としか思われません。」
八月八日の午前、ライゴン・プレースにある日本公使館の2階の公使私室の中で、ホームズは説明をしていた。エベリーストリート沿いにある窓から、真夏のバッキンガムパレス・ガーデンの濃い緑が見えた。昨日、ホームズと私はドーバーから帰った後、宇都宮少佐の訪問を受けた。彼は、明日、公使館にて緊急の会合をひらくので、そこでぜひとも事情の説明をお願いしたいと強く要請した。そこで本日、公使館差し回しの馬車に乗って、我々は会合に招かれたのであった。
部屋の中の大机には、中央に林公使、その右に福島少将が席を占めていた。私とホームズは彼らに相対するように席についていた。宇都宮少佐と財部海軍少佐が、机の横の左右に分かれて腰を下ろしていた。他の公使館員は入室を禁じられていた。二人の少佐はともに沈痛な表情をしていた。
ホームズは説明を続けた。
「内部犯行ですから、犯行は当然、フクシマ少将周辺にいる関係者によって行われたはずです。私は、関係者の洗い出しとアリバイ、犯行の動機を検討しました。協約書自体を作成したウツノミヤ少佐は、犯人の対象から真っ先に除外されました。ついでアンドウ中佐は犯行時外国に滞在していたこと、またシバ中佐も一応アリバイがあることから、対象から除きました。後、クスノキ式部官とサイゴウ少尉は、常にホテルに居て、3010号室にも自由に立ち入ることが出来るという点で、もっとも犯人として疑われる存在と言えるのですが、彼らには、犯行の動機がないという点で除外しました。」
林公使は、不審そうにホームズを見て、
「君は最初、柴中佐が自ら犯人だと名乗ったといったが、彼にはアリバイがあるというのは、いったいどういうことですか?」
「この時点では、彼のアリバイ工作を見抜けなかったためです。」
福島将軍が、公使、とりあえずホームズ氏の話を、最後まで聞いてみましょうとなだめた。
ホームズは、感謝して、
「さて、わたしは犯人の検討とともに書類鞄に注目しました、傷一つない新品で、固有の特徴がなく、同種の鞄と区別がつかないことに気がついたのです。これでは、すり替えられても分からない。そこで、早速、スマイソンの店を調査した結果、ウツノミヤ少佐が購入されたわずか6日後の七月八日、ある日本人が同じ鞄を購入したのを知りました。更にこの鞄には隠し番号が付されていて、1個1個、個別に特定できることも分かったのです。その時点では、購入者の日本人が何者であるか確認できませんでしたが、後、タカラベ少佐のご協力でそれが分かりました。海軍の主計科士官でした。そして、協約書の入った鞄がその士官の鞄とすり替えられていたことも、鞄に付いているメーカーの隠し番号から判明しました。」
林公使は唖然としていた。財部少佐は驚いた表情をしていた。
「但し、主計科士官は鞄を購入するように指示されただけで、今回の事件には直接関与はしていないと思われます。指示した人物はタマイ大佐で、彼は、今回の犯行に計画段階から加わっていました。タマイ大佐が事件にかかわった動機は、建艦費に関する巨額の不正行為を隠蔽するためでした。」
林公使は、財部少佐を見て、厳しく問い詰めるように言った。
「財部君、これは事実か? ここに玉井大佐がいないのは、そのためなのか?」
財部少佐は、真っ青な顔をして、
「玉井武官が今回の事件にどう関わったかは、承知しておりません。ただ一部不正行為については、疑惑は濃厚と思われます。」
彼は、冷や汗を浮かべて答えた。
ホームズは
「タマイ大佐は、隠し番号の存在に気がつかないという致命的なミスを犯しましたが、鞄の入手などで重要な役割を果たしました。しかし、彼も脅迫され、指示を受けて動いただけの従犯でした。主犯は、犯行を計画したパリにいるアカシ中佐、そして、実行犯として協力したシバ中佐です。」
福島将軍は、ここでホームズに向かって、
「ホームズさん、それついては、昨日ここにいる宇都宮武官から聞きました。しかし、二人をよく知る私には、いまだに信じられません。ただ、明石については、軍事協約に強く異議を唱えていたことは、承知しており、破天荒な性格の彼ならやりかねないという気もします。しかし、柴中佐については、その真摯・誠実な人柄や卓越した功績など、一人の人間として、階級を超えて私も深く敬意を払っている次第です。本当に彼は実行犯なのでしょうか?」
「もっともな疑問だと思います。実は私も将軍と同じ思いから、最後の最後までシバ中佐の犯行に確信を持てなかった次第です。昨日、彼は、ドーバーの埠頭で、自分が犯人であること、事件の全貌を皆様に伝えることを、私に託されました。時間がいただけるならば、その詳細についてご説明しましょう。」
ホームズがこう言うと、一同はぜひ聞かせてほしいと願い、彼は話し始めた。
「先ほど述べたとおり、私は、シバ中佐のアリバイを疑いませんでした。3009号室でメイドの掃除後にカーテンを開けた形跡を発見したときも、これが中佐の行為とは思いもよりませんでした。なぜならば、彼には犯行の動機が見いだせなかったからです。3009の部屋の鍵が丸2日間フロントに置き放しになっていたこと、3010との境の鍵が部屋に放置されていたことなどから、侵入は間違いなく3009から行われたと確信しました。鞄のすり替えに気付いたあとは、犯行はタマイ大佐が行い、パリのアカシ中佐が事件の黒幕と判断していたのです。しかし、これには、いくつか説明の出来ない問題や符合しない事実があり、私を悩ませました。そして、推論の結果、次第にシバ中佐に対する疑惑を抱くようになりました。」
「いまから考えると、シバ中佐の行動については、不可解な証言がありました。一つは公使館の書記生の目撃証言です。彼はフクシマ将軍の出発の後、シバ中佐らしい人物がホテルを出て行くのを見たと言いました。ただし、この目撃は本人も半信半疑なので、この時点では私も判断しかねました。もう一つは、3009の鍵がポーターの手によってフロントに返されたことでした。ホテル側によると使節団が使っている部屋の鍵の管理は日本側に任せていて、外出やチェックアウトも、いちいちフロントを通さなくてもよいことにしていたそうです。ですから、当日の朝、シバ中佐が出て行くときも、フロントはとくにチェックもしなかったわけです。もっとも、実際は各室ともサイゴウ少尉に渡さずに、勝手にフロントに置いて行くことが多かったらしく、これは少尉も申しておりました。したがって、当日の10時もかなり過ぎてから、シバ中佐が返し忘れた鍵を預かったと言って、ポーターが3009の鍵を届けに来たときも、フロントは気にしなかった訳です。私は、この情報を一昨日、ホテルの聞き取りで初めて知りましたが、フロントではポーターが忙しくて届けるのが遅くなったためだろうという説明に、強くアリバイ工作の匂いを感じました。しかし、この日はポーターからの聞き取りができず、そのままになっていました。」
「シバ中佐への疑惑が確信に変わったのは、昨日の朝のウツノミヤ少佐の電話で、シバ中佐がアカシ中佐と接触していることを知った時でした。すでに私は、シバ中佐が実行犯ならば、すべての問題の説明がつき、事実が符合することに気付いていました。そして、昨日の証言を得て、推論が正しかったことを確信したのです。」
「犯行は次のように行われました。七月十日、フクシマ将軍が英陸軍首脳の表敬訪問出発される前、シバ中佐は朝九時過ぎに、前夜のうちにサイゴウ少尉らの見送りを断り、ブリュセルに向かって一人でホテルを出発しました。サイゴウ少尉によると、それでも一応お見送りしようと、同じ時刻に部屋の前まで行ったところ、すでに出発された後で鍵がかかっていたそうです。また、中佐が出発する姿をメイドが見ていて、その後、部屋の掃除に入りましたが、もちろん部屋は無人でした。しかし、実は、中佐はすぐにホテルにもどり、再び自分の部屋に入って、内側から鍵をかけて姿を潜めていたのです。」
「中佐は、メイドが掃除に来るとクローゼットに身を隠しました。彼は客の荷物がある間は、メイドは決してクローゼットなどを開けないことを知っていたそうです。やがて、メイドが出て行き、午前10時になってウツノミヤ少佐が迎えに来られて、フクシマ将軍が表敬に出発されました。中佐は、物音で分かったと思いますが、確実に出発したかどうか確かめるために、カーテンを少しばかり開けて窓から覗いたのです。窓からはホテルの玄関が見下ろせ、将軍が馬車に乗って行かれるのを確認しました。」
「彼はすぐに境の扉を開け、3010号室に入り、タマイ大佐から聞いて知っていた鞄の在りかの寝室に直行し、自分の部屋用の鍵で飾り戸棚を開けたのです。こうして彼は鞄をすり替え、直ちにもとの部屋にもどって、3010との境の扉の鍵は書き物机に直し、飾り戸棚の鍵は元からあったベッドのサイドテーブルに戻して、急いで部屋を出ました。その間、時間はおそらく2分もかからなかったでしょう。」
「しかし、彼はその時一つミスを犯しました。急いだためカーテンをきちんと閉めるのを忘れてしまったのです。あとは目立たないように階段を下りて玄関を出ると、待たせていたポーターに荷物を運ばせ、辻馬車を拾って駅に向かったのです。ちょうど公使館のニッタ書記生がエレベーターの前にいて、中佐を目撃したのはこのときでした。駅では、当日ポーツマスに出張するタマイ大佐がすでに待っていて、中佐は陸軍協約書だけを取り出して、残りは鞄ごとタマイ大佐に渡したのです。」
一同は、固唾を呑んでホームズの話を聞いていた。財部少佐が思いついたように、
「しかし、鍵はどうやってすり替えたのでしょうか? 鍵は福島閣下がお持ちと聞いています。」
「鍵はタマイ大佐がすり替えたはずです。これは本人に確かめればよいことですが、九日の翻訳の打ち合わせは、玉井大佐の申し入れで、しかもホテルで行うことを希望しなかったでしょうか? ウツノミヤ少佐、いかがですか?」
宇都宮少佐は、
「確かに、八日夜、武官室に戻ると、明日、陸海軍で協約書の訳語統一の打ち合わせをしたいと急に玉井大佐が申し入れてきました。明後日からポーツマスの訪問艦隊のほうへ出張しなければならないから、という理由でした。閣下も十日と十一日はすでに予定が入っていたので、翌九日朝に行うことに急遽決まりました。また、公使館ではなくホテルで行うことも希望され、早朝から閣下に公使館まで越しいただくのは畏れ多いので、海軍のほうからお伺いするとのことでした。財部少佐、そうでしたね?」
「は、はい、八日の夜、明日、翻訳打ち合わせをするから至急下訳をするように、玉井大佐から命ぜられたことは覚えています。」と財部少佐は、少し狼狽しながら答えた。
ホームズは、
「タマイ大佐は、九日、翻訳打ち合わせが終り、フクシマ将軍が書類を鞄に直して鍵をしたあと、鍵をすり替える機会を狙いました。そして、おそらく将軍が寝室の飾り戸棚に鞄を収納している間に、鍵をすりかえたのではないかと考えられます。この時、ウツノミヤ少佐や、タカラベ少佐、サイゴウ少尉も大佐の近くにいなかったはずです。いかがですか?」
福島将軍は、自分が鞄を直すとき宇都宮少佐が一緒に来て手伝ったこと、おそらく鍵はテーブルの上に出したままだったことを伝えた。財部少佐は、自分はそのとき書き物机で訳語を一覧表にまとめていて、中央のテーブルを離れていたと思うと言った。宇都宮少佐は、西郷少尉は湯茶の茶碗や軽食の皿など片付けていて、ずっとテーブルにはいなかったと言った。
ホームズは続いて
「タマイ大佐は、鍵を巧みにすり替えたあと、鞄の保管場所が寝室の飾り戸棚であることを確認したのち、公使館に戻り、事前に海軍用の共通協約書を入れて施錠しておいた鞄とフクシマ将軍の鍵をシバ少佐に渡し、鞄の保管場所を教えたのです。」
皆、茫然として、ホームズの推理を聞き入っていた。しばらくして、福島少将がホームズに、
「協約書は、今間違いなく明石が持っているのですね。だったら、とにかく明石と話をする必要がある。明日、戴冠式が終わったあと、パリに急行しなければ。」
「シバ中佐は、昨日、確かにアカシ中佐に渡したと言われました。」
とホームズは答えた。
この後、日本人たちは自分たちだけで日本語で話し始めた。しばらくしてから、福島将軍が立ち上がって、失礼を詫びながら、
「ホームズ氏、ワトソン博士、あなた方のお陰でこの事件の真相が明らかとなり、感謝に堪えません。日本帝国政府、及び帝国陸軍に成り変わりまして厚くお礼を申し上げたいと思います。今回の事件は御覧の通り、我が国の陸海軍内部での不祥事であり、関係者も日本人のみのようで、真に恥ずかしいかぎりです。つきましては、今後は、ホームズ氏や貴国の司直の手を煩わすまでもなく、我々自身の手で取り調べ、それ相当の処置をいたす所存です。これまでの捜査の多大のご苦労に深く謝意を表したいと思います。」
こう言って、深々とお辞儀をした。
林公使も、我々の労をねぎらい、深く感謝するとともに、後ほど我々には相応のお礼をしたいこと、また、ラムズダウン外相始め、英国政府、英国陸軍の関係者に対しては、後日、改めて日本政府からの事情説明とお詫び、これまでの捜査協力への感謝などをするつもりであることを述べた。
こうして、我々は、関係者全員と握手を交わし、公使館を退去した、宇都宮少佐と財部少佐が公使館の玄関まで見送りにきた。宇都宮少佐は、自分は明日、福島閣下とパリに行くことになりました。少し落ち着きましたら、事後報告を兼ねてお伺いしたいと思いますと、言った。財部少佐は、海軍に関していろいろ不愉快な思いをさせて申し訳ありません。今後は、日本海軍についても、ごひいきいただくようお願いいたします、と述べた。
車寄せには用意された馬車が待っていた。走り出すと、いつの間にか、スペシャル・ブランチの馬車が後に続いていた。私は、
「まだ、終わった気がしないね。このあと日英関係はどうなるのだろう?」
「気になるね、アカシとフクシマ将軍はどんな話をするのかな?」
「ところで、シバは、もうベルリンに着いたかな? 彼は帰国後どうなるのだろう。日本は彼を罰するかな?」
「昨日夜、ブッリュセルに着いて一泊して、今日はまだベルリンに向かっている途中だろう。どんな処分が彼を待っているのか見当もつかないが、彼は従容と受け入れるだろう。また、会って話がしたいものだね。」
このあと、少し疲れを覚えた我々は沈黙した。明日の戴冠式を前にして、街はいたるところ、装飾や美しい花でいっぱいだった。馬車は、軽快に走り続けた。




