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後編その2

十二 「書類鞄の購入者」


 八月五日、今日は往診もないので、私はテーブルの前に腰掛けて、いつもの手帳を取り出し、事件の記録類を整理していた。ホームズは、いつもの安楽椅子に腰を沈め、例のペルシャスリッパに入れたタバコを何度も詰め変えてはブライヤー・パイプをくゆらせ、タバコの煙をゆっくりとはき出していた。心ここにあらずといった様子で、ぼんやり考え込んでいた。何を聞いても、うつろな返事しかしなかった。こんなときはほっとくに限る。

 昨日、ホームズは夜になって帰宅したが、口数も少なく考えに沈んでいる様子だった。どこへ行って来たのかと聞くと、電報を打ち終わったあと、ディオゲネス・クラブに寄った、と言って、それ以上詳しい話はしなかった。

私は、書類の盗難がドイツでもロシアでもないとしたら、だれの仕業なのか見当も付かなかった。おまけに、日本海軍の不正事件やアカシという謎の人物がこれとどう結びつくのか、全く理解できなかった。あれこれ考えながら、今日の午後に、メアリーを訪ねなければ、と思った。

私は、振り返って、

「ホームズ、ウツノミヤ少佐とは、どこで会うつもりだ?」

「ここに来てもらおうと思う。公使館では人目があり過ぎて、内密の話はできない。」

「彼は、承知するかな?」

「たぶん、来ると思う。アカシ中佐の件で内密に少佐とのみ話したい、と電報を打ったからね。」

そのとき、一階の玄関でノッカーとドアの開く音、なにやら話し声がした。やがて給仕

の少年が電報と郵便物を持ってきた。電報は、ウツノミヤ少佐からだった、明日、早朝七時に伺うとあった。

「朝七時とはずいぶん、早いな。」

「人目を避けるため、公使館の開庁前に会いたいのだろう。」

手紙のほうは速達書留で、ロンドン ベイカー街221B シャーロック・ホームズ様と宛先が記され、差出人の名前はT・プロパティ(財の意味)となっていたが、住所はなかった。聞いたことのない名前だった。ホームズが開封してみると、几帳面な文字で綴った手書きの書面と写真が入っていた。

「誰かと思ったら、プロパティとはタカラベの変名か。早速調べてくれたよ。」と書面と写真をじっくり見て、

「ジュウジロウ・タケウチとかいう主計士官らしい。」と手紙を渡してくれた。書面はタケウチの略歴書だった。


ジュウジロウ・タケウチ  海軍大主計 三四歳

   現住所 ロンドン メイフェア チャールズストリート35 チェスターフィールド メイフ

ェアホテル


メイジ 二 年(1869)十一月二八日  出生

メイジ二四年(1891) 七月二二日  帝国日本海軍主計学校卒業、海軍少主計候補に任ぜら

る。

メイジ三一年(1898) 五月十九日  在ロンドン造船造兵監督事務所会計官として英国出張を

命ぜられ、現在に至る。


主にビッカース・サンズ・マキシム社建造、六六艦隊最終艦、戦艦ミカサ(船体八十八万ポンド、兵装三十二万ポンド)の会計処理に携わる。ミカサは、1898年起工、1902年三月一日、サザンプトンにて日本海軍に引渡後、三月十三日プリマス出航、五月十八日横須賀到着。ビッカース社、シーメンス社等への支払いは、同年、三月最終金支払いをもって完済。


写真には、無帽、金モール付きの二列ボタンの紺の正式軍装で勲章をぶら下げたタケウチが写っていた。髪を短く刈り詰めた若い男で口髭を生やしていた。写真は日本で写したらしく、写真館らしい名前とHIROSHIMA、OTEMACHIと飾り文字で記してあった。

「この写真はけっこう若そうだね。これなんって読むのだろう。ハイロシマ(広島)、オッテマチ(大手町)か。」

「地名か、会社名だろう。昇進か勲章授与のときに写したのかな。いずれにしても写真が手に入ったのはありがたい。」

「写真は、なるべく早く返してほしいと書いてあるよ。」

ホームズは写真を私の手から引ったくると、あわただしく外出の用意をし始めた。

「どこへ行くのだ?」

ホームズは、今までとはうって変わったように、いきいきとして、

「ボンドストリートだ。君も来てくれ。」

私は、あっけにとられて、何か買い物でもするのかというと、後で説明するよと、シルクハットをかぶり、ステッキを小脇に抱えて部屋を出て行った。私もあわてて、身支度して後を追った。例の護衛付きの馬車の中で、ホームズは、

「スマイソンの店に行く。」

「スマイソンというと、あの文具専門店かい。」

「そうさ、前に一度調べに行ったことがあるのだ。」

私は、軍事協約書が入れてあったという鞄を思い出した。

「例の書類が入った鞄を調べにいくのかい。」

「鞄というより、それを購入した人物さ。行けば分かるよ。」

私は、訳が分からなかったが、成り行きに任すことにした。ホームズは、前の席に座っている護衛の男に話しかけて、最近、尾行が付いている形跡はあるかな、と尋ねた。彼は、たぶんないでしょう。ベイカー街には、監視が常時四人も付いているので、尾行がいればすぐ分かるはずだ、と言った。


ピカデリー通りからオックスフォードストリートに貫いているボンドストリートは、狭い短い街だ。車道は少し大きい馬車が、ようやくすれ違うことの出来るくらいで、歩道も二人並んで歩くともう一杯になる。両側には、最高級品を扱うロンドン一流の老舗が肩を並べて集まっている。車道にはひっきりなしにおびただしい馬車が繰り込み、歩道には着飾ったレディたちがお付きの者を従え、ショーウィンドウの前で群れをなして歩いていた。御者たちが声をからしてののしり合う中、ようやく車は置き場所を見つけて、我々は馬車を降りた。1ブロックほど歩くとスマイソンの店だった。スマイソン・オブ・ボンドストリートと書いた看板の横に王室御用達の店と記してある。

中に入り、ホームズは名刺を店員に渡して、支配人を呼んでもらった。豪華な陳列棚やガラスケースには、純金のペン先で軸胴が金無垢や純銀でできた高級万年筆、高級ノート、手帳、紙類、小物、革製品、高価そうな鞄類がおびただしく並べてある。支配人はすぐに現れたので、ホームズは、

「先日、お邪魔した件で、もう一度お聞きしたいことがあって、お伺いしました。」

「えー、先月、確か書類鞄についてお尋ねでしたね。本日は、どのような事でしょうか?」

「七月八日、ホワイトハウスコックスのブリーフケースを購入した人物の写真を確認してほしいのです。」

支配人は、しばらくお待ちくださいと言って、分厚い販売台帳を持って来させ、日付と商品名を調べた。

「おっしゃる通り、七月八日、ホワイトハウスコックスの鞄を販売させていただいております。これについては、前回お調べでしたね。顧客名は、日本の方となっています。が、お名前は記入されていませんね。販売係はエルシー・ブラウンとなっております。ちょっと、誰かエルシーを呼んで来てくれないかな。」

まもなく若い女店員がやってきた。事情を説明して、ホームズが竹内の写真を見せると、

「ええ、この方です。写真のほうがずっとお若く、当日は私服をお召しで写真とは違いますが、間違いなくこの方でした。領収書もいらないとおっしゃったので、お名前はお聞きできませんでしたが、日本の方らしいということはすぐ分かりした。」

私は、なぜ日本人と分かったのか、と尋ねると、

「この方は、ボンドストリートの他の店でも、かなり高価なものを気前よく購入されるそうで、噂を聞いて知っておりました。なんでも、日本の方とかいうことです。」

我々は、礼を言って店を出た。私は、帰りの馬車で、

「これは、どういうことだい?」

「先月、僕があの店を調査した時、ウツノミヤ少佐が鞄を購入した6日後に、全く同じ鞄を日本人らしい男が購入したのを知った。店の話だと、あの鞄はブリーフケースとしては最高級品で20ポンド以上はする。そうそう売れるものではないそうだ。僕はそれに引っかかるものを感じたのさ。僕は、鞄を購入した日本人を調べたかったが方法がなかった。今、ロンドンにはこういうものを購入できる日本人は、公用で派遣された官吏か軍人、商用で来ている人間くらいだろう。」

「その中から、どうして、タケウチを絞り込んだのだい?」

「前回調べたときの女店員の話によると、彼は一人で来て、メーカー名と品名、形状、色だけ言って他の商品は見向きもせず、その場ですぐに購入して立ち去ったという。しかし、よほどのお金持ちならともかく、そんな高価なものを、ろくに品定めもせず購入するだろうか。巷のうわさでは、今、日本の海軍士官の金の使いぶりは有名らしい。タマイ大佐もその一人だ。僕は、その日本人は、私服を着た海軍士官と見込んだのさ。女店員の話ではまだ若い男というし、人相・容体を聞くとタマイではなさそうだ。そこで、巨額の金を扱う主計科の士官に目を付けたのだ。」

「ふーん、その見込みが的中したわけだ、しかし、ミカサを担当した士官となぜ分かったのかな?」

「ミカサは英国で建造した軍艦の最後だ。残りは小型の駆逐艦が少々だ。大口のキックバックはミカサで最後となったはずだ。だから、今一番金回りがよいのは、それに直接かかわった士官のはずと思ったのだ。」

「なるほどなあ。ところで、タケウチが鞄を購入したことと今回の捜査は関係があるのかい?」

「それはまだなんとも言えないが、彼が自分のためでなく誰かに頼まれて購入したならば、おそらく今回の事件の重要な手がかりとなると思う。」

「タケウチはかなり金遣いが荒そうだから、20ポンドの鞄くらい平気で買うかもしれないよ。誰かに頼まれたとしても、誰にだい?」

「やはり、金に不自由していない人間。」

私は、はっと気づいた。

「タマイ大佐か!」

ホームズはうなずいた。

「タマイ大佐は、ロンドンでの日本海軍の最先任者で、とくに建艦関係を取り仕切っている。タケウチは4年前に英国に来て、ミカサの起工から引渡しまで、すべての支払いの事務処理を行っている。当然、バック・マージンにもかかわったはずだ。したがって、タマイとの関係は深い。彼はタマイの指示を受けて動かされていた可能性がある。」

「しかし、それにしてもタマイはなんのためにタケウチに鞄を買わせたのだろう?」

「それは、明日の朝、分かるよ。」

「それをウツノミヤ少佐から聞き出すつもりかね?」

「いや、彼が持参する鞄を見ればさ。」

私は、ますます分からなくなったが、ともかく、明日を待つことにした。


 ベイカー街に戻った後、私は、ハロウ・ウィールドのメアリーの邸宅を訪ねた。彼女はすっかり元気になっていて、私が来たことを心から喜んでくれた。私は、ホームズと取り組んでいる今の事件が解決すれば、また、医院を再開するつもりだ、といった。心苦しかったが、今回の侵入事件についての真相は黙っていた。賢明な彼女は、警察の公式発表を信じているようには見えなかったが、それ以上は聞かなかった。少し寂しそうな様子を見て、私はつらかった。

「ワトソン、ホームズさんのお手伝いをするのはよいけれど、危険なことは、本当にもうやめてくださいな。拳銃で撃たれるのは、六月の事件でこりごりしたはずよ。」

「分かっているよ。十分注意している。」

「あなたまで、失うようなことになったら、私もう耐えられないわ。」

彼女は、顔を背けて嗚咽をこらえた。今年三月の 「スリー・ゲイブルズ(三破風館)」事件の依頼者として知り合った彼女は、気品ある美しさを備え、洗練された教養豊かな女性だった。3ヶ月ほどの交際で私は彼女を伴侶として、再び落ち着いた家庭生活を営む決意を固めた。早く夫を亡くした上、欧州有数の富豪である奔放な女の気まぐれで最愛の一人息子を失った彼女の心の傷は、陳謝の証しとして渡された五千ポンドの小切手一枚でいやされるものではなった。私は、悪擦れした美貌の持ち主イザドラ・クラインの驕慢な振る舞いに対する、ホームズの過度な手ぬるさには納得がいかず、メアリー・メイパリーへ深い同情を寄せたのであった。ホームズも、自分の処置にいささか後ろめたさもあったのか、メアリーには随分気を遣っていた。

 メアリーは、ホームズが勧めたファーストクラスの気ままな世界一周の旅の夢をあっさりと捨てて、私との結婚を選んでくれたのであった。資産家の彼女には召使いが何人もいるが、それでも一人でいるのは寂しいと、早く私と一緒に暮らしたがっていた。

 帰りに、様子を見がてら、留守にしているクイーン・アン街にある自宅兼医院に寄った。もう、立入禁止のロープは外され、割れたガラス戸も修理が済んでいた。玄関横の患者の待合室に警官が一人詰めていた。昨日くらいまでは、野次馬がまだ家の前をウロウロしていたが、もうあまり見かけなくなった、という。今のところ、とくに異状も見られないので、警官の常駐は今日までで、明日からは随時巡回をするそうだ。私は、請求書のガラスの修理代を彼に託し、あとはよろしくお願いしますと頼んで、ベイカー街に戻った。



十三 「明石中佐の工作」


 八月六日、早朝七時、宇都宮少佐は時間通り現れた。私服を着て大きな紙袋を脇に抱えていた。挨拶が済むと、彼はご依頼のあった鞄を持ってきましたが、これをどうなさるのですか、と聞いた。ホームズは、それは後ほど説明いたします、と席を勧めた。少佐は早速、

「明石の件とありましたが、どのような事でしょうか?」

「その前に少しお尋ねさせてください。少佐は、アカシ中佐とは懇意の間柄ですか?」

「はい、階級は彼のほうが上ですが、彼とは士官学校、陸軍大学以来の旧友です。」

「アカシ中佐は、最近ロンドンに来られたのはいつでしょうか?」

「六月に参りました。」

「この時は、公務として来られましたか?」

「ご承知だとは思いますが、明石は駐在武官であると同時に、特殊任務も命ぜられております。この時は、ある任務のため、身分を隠して内密にロンドンに参りました。」

「このときは、もちろん少佐はお会いなされましたね?」

「はい、林公使、それからちょうどロンドンに到着されたばかりの福島閣下とも会われています。」

「それ以外には、どなたにお会いなりましたか?」

「使節団の陸軍関係者の佐官クラスの方々、柴中佐、安藤中佐などにも会われました。」

「海軍の方はどうですか? たとえば、タマイ大佐などとは。」

宇都宮少佐は不審そうな顔して、

「いいえ、非公式の訪問ですから、海軍関係者とは誰とも会っていないと思います。」

「差し支えなければ、アカシ中佐のその時の任務を教えていただけませんか?」

「ええ、これについては詳しいお話しは出来かねますが、一つは彼の転任、彼は近々、ロシアのサンクト・ペテルスブルグの公使館付武官に異動予定です。これに伴って、大陸諸国の諜報業務の引き継ぎの相談です。」

「もう一つはなんですか?」

「これについては、お答えしかねます。」

「それでは、私から申し上げますので、少佐は何もおっしゃらず、違う場合のみ首を振り、否定してください。」

こう言って、ホームズは、相手の返事も待たずに語り出した。

「アカシ中佐は、今回の日英軍事協商会議について、フクシマ将軍にひそかに自分の意見を述べに来た。」

宇都宮少佐は驚いた様子だったが、黙っていた。

「中佐は、日英陸軍の協約に反対していた。」

少佐はますます驚いた様子だったが、やはり黙っていた。

「中佐は、英陸軍は始めから協約を履行する気がないことを明言した。」

少佐は、唖然とした表情でホームズを見ていた。

「中佐は、この情報はフランス政府筋から入手したことを伝えた。」

少佐は、完全に茫然自失していた。

「中佐は、開戦の結果、日本が敗北した場合のシナリオは、すでに英仏が密約している

ことを伝えた。」

「日本敗北の際は英仏が介入して、満州、朝鮮、北海道をロシアの勢力圏に置くのを認め、その代わりにインド・アフガン方面からロシアは手を引くこと、また台湾はフランスが取り、日本本土は英国の保護下に置くことが決まっていると述べた。」

「中佐の意見に対し、ハヤシ公使、フクシマ少将は全く耳を貸そうとしなかった。」

この時、宇都宮少佐は激しく首を振って、口を開いた。

「ホームズさんのご慧眼には恐れ入りました。ここまでご存知でしたら、いまさら隠すまでもありません。なにもかもお話いたしましょう。」

こう言って、彼は、ポケットからハンケチを取り出すと汗を拭いた。

「ホームズさんのおっしゃる通り、事実は大体その通りです。但し、福島閣下は耳を貸さなかったのではなく、立場上、明石の主張を受け入れることができなかったのです。軍事協商会議はすでに五月十四日、横須賀で予備会談が行われ、大きな方向性は、日英の陸海軍首脳部でほぼ合意済みでした。このたびのロンドンでの会議は、この既定の方針に従って、実務者による細部の調整と最終調印のためのものです。したがって、いまさら明石の主張のように、一から見直しは出来かねたわけです。」

「少佐は、どのようにお考えですか?」

「私も彼の主張には妥当な点もあると思います。ただ、彼のいうフランス情報が、どの程度まで信憑性があるのか分かりません。我々を攪乱するための偽情報かもしれません。私は、今回、英国側のオルタム中佐とともに協約書の草案を作成した責任者です。確証がない限り、彼には同調できませんでした。」

「ところで、この件で、アカシ中佐を支持される方はおられたのですか?」

「駐在武官室では誰もいません。小松宮使節団として来られた柴中佐や安藤中佐は、協約の結果、開戦が早まること懸念されておられて、アカシの意見に一部同調されていたと思います。いずれにせよ、今回の盗難事件で機密が漏れたものと見なして、日本側としては協約をいったん白紙に戻して、英国に再交渉をお願いせざるを得なくなりました。これは英国側にも同じ意見があると聞いています。」

「それは、決定事項ですか?」

「はい、先日の八月一日の会議で決まりました。本国にも請訓中でおそらく許可されるでしょう。確かあの日は、お二人で柴中佐を尋ねてお出ででしたね?」

私は、あの日の柴中佐を思い出した。柴中佐は日本の砲火力の劣勢を語り、英軍の支援が期待できないことをほのめかせていた。ホームズは、

「ところで、アカシ中佐は、七月にもロンドンに来られていますよね?」

宇都宮少佐は、意外な表情をして、

「いえ、初めて聞きました。それはいつのことですか?」

「七月六日、中佐はロンドンで英国側の諜報担当者と情報交換をしています。その後、誰かと会う約束をしていたようです。」

「明石が私に知らせずにロンドンに来ることはあり得ません。その誰かとは、どんな人物でしょうか?」

「はっきり分かりませんが、おそらく、日本人だと思われます。」

「日本人ですと! それは本当でしょうか?」

「おそらくですが、海軍関係者です。」

宇都宮少佐の顔色が変わるのが分かった。

「まさか! しかし、何のために?」

「そのまさかの通り、彼はタマイ大佐に会ったはずです。目的はある工作の協力依頼というか、強要というべきでしょうか。」

「明石がある工作を強要した?… ある工作とはなんでしょうか?」

ここでホームズは、鞄を拝見しますと言った。宇都宮少佐は、唖然としながら、それでも包みを開いて、例の鞄を取り出した。ホームズは鞄を受け取ると、

「実は鞄には、ホワイハウスコックス社によって一つ一つ隠し番号が付けられているのです。これは製造年月、工場名、シリアル番号、作った職人名などが、あとで特定できるよう、鞄の目立たないところにつけられています。私は、スマイソンの店で販売台帳から、七月二日に宇都宮少佐の購入した鞄と七月七日に別の日本人が購入した鞄の番号を控えてきました。」

こういって、彼は懐から手書きメモを取り出した。そして、鞄の左右のバンドを外し、鞄の蓋を開けて大きく広げた、ここに番号が刻印されていると言って、内側のポケットを覗き込んだ。そして、少佐に番号を読み上げるよう鞄を渡し、私に記録するよう頼んだ。少佐は数字とローマ字記号を読み上げた。私は便箋に大きく記入した。その後、今度は少佐に便箋を渡し、私が隠し番号を読み上げて、確認してもらった。終わった後、ホームズがこれと見比べてくださいと、2つの隠し番号が記されたメモを宇都宮少佐に渡した。鞄の隠し番号は七月七日に販売された鞄のものと一致した。

宇都宮少佐は、便箋とメモを手にしたまま、茫然とした表情でいた。

「鞄はすり替えられていた、ということでしょうか? しかし、いったい、いつの間に。」

「それはまだ解明できていません。しかし、この鞄を購入した人物は特定できています。」

「それは、誰です?」

ホームズは、私に促した。私は手帳を読み上げて、

「ジュウジロウ・タケウチ、海軍大主計、造船造兵監督事務所で主計官を務めている。彼は、七月八日午後七時過ぎに、ボンドストリート スマイソンの店でこの鞄を購入した。」

宇都宮少佐は茫然としていたが、ふと、

「しかし、鞄にはもう一通の書類は残されていました。すり替えたとしたら、その書類も無くなっていたのではないでしょうか?」

「もう一通の書類は、陸海軍共通の協約書でしたね。確か同じものが、陸海軍別々に作られたと聞いていますが、この2通は、区別がつくようになっていましたか?」

「そう言えば、特に区別はなかったと思います。英国陸軍省の書記官のほうでタイプ浄書してくれましたが、渡された書類は皆同じカーボンコピーしたものでした。英陸軍のニコルソン中将、英海軍のカスタンス少将、及び福島閣下と伊集院少将が、四人連名で、各国二通、合計四通ともサインされましたが、いずれも全く同じものでした。」

宇都宮少佐は、はっとして、声を荒げながら、

「そうか、鞄に残った書類は、海軍のものだったのか! そうするとこれは、玉井大佐の仕業か?」

「まだ、そうと決まったわけではありません。タマイ大佐は犯行に関与したのは間違いありませんが、実行犯かどうかは分かりません。」

宇都宮少佐はショックからまだ冷め切らないようすだったが、ふと気付いたように時計を見ながら、そろそろお暇しなければなりません、出勤時刻が近づきましたので、この後、私は何をしたら良いでしょうか、と尋ねた。ホームズは、

 「少佐にお願いしたいのは、この件につきましては、当分あなた自身の胸の内に収めて、ハヤシ公使はもちろんフクシマ将軍にも極秘にしていただきたいのです。私のほうでも全貌が明らかになるまで、英国政府、英軍関係者にも厳秘にしておくつもりです。」

「しかし、福島閣下は事件の被害者ですし、林公使はともかく、閣下にだけはお伝えすることはできないでしょうか?」

「それは困ります。この情報によってフクシマ将軍の態度や言動にわずかでも変化が起これば、容疑者の疑惑を招くおそれがあり、今後の捜査に重大な支障となります。決して誰にも口外なさらぬようお願いします。」

「分かりました。その代わり、閣下にお伝えするのが可能となった時には、速やかに連絡をお願いします。」

「承知しました。必ず連絡致します。なお、少佐にもう一つお願いがあります。」

「なんでしょう?」

「この後ひそかに、七月六日以降にアカシ中佐と会った人物を早急に洗い出してほしいのです。海軍関係者だけでなく、陸軍や公使館関係者にも存在するかもしれません。おそらく、それらの人物が、アカシ中佐の指示で鞄のすり替えにかかわっていると思います。」

「分かりました。早速調査します。しかし、なぜ明石が海軍を使ってこんなことを?」

「陸軍協約書の入手が、彼にとっては味方を欺いても急を要する事態と見たからでしょう。海軍を使ったのは、彼らの弱みを握っていて、無理にでも協力させることが可能と見込んだからでしょう。」

「ともかく、早急にご依頼の件を調べてみます。公使館には私の動かしている諜者もいるので、すぐに調べさせます。連絡方法はどうしましょうか?」

「明日、午前中から我々はディオゲネス・クラブにおりますので、分かり次第、電話をくれますか?」

 「了解しました。調べた結果を直ちに連絡します。福島閣下は、軍事協商会議の陸軍代表を更迭され、今月九日の戴冠式後は直ちに帰国するよう命令が出ています。閣下は覚悟を決めておられるかもしれません。真相究明は急を要します。ホームズ様、よろしくお願いいたします。」

こう言って、少佐は帰っていった。


窓から足早に立ち去る少佐の姿を見ながら、私は、

 「覚悟って、まさか、フクシマ将軍は本当に所決するつもりじゃないだろうね?」

 「分からない。ともかくいそがなければ、戴冠式まであと3日だ。」

 「鞄すり替えは、やはりタマイの仕業かな?」

「そう思いたいところだが、まだ、事実に符合しない点や説明のつかない問題があるのだ。」

「たとえば?」

「僕は、3010への侵入は隣の3009から行われたと思っている。ところで犯行が行われたのは、フクシマ将軍が表敬に出かけられた十日の日中、あるいはポーツマスを訪問した十一日朝から十二日夕にかけての不在中だと思う。しかし、タマイは十日の朝からポーツマスに出張してイジュウイン提督と会合を行い、十二日、フクシマ将軍と一緒にロンドンに帰っている。つまり、ほぼ完全なアリバイがある。」

「ふーん、そうすると誰か別人、たとえばタケウチを使ったのかな?」

「可能性はある。しかし、考えにくい。タケウチは、ホテル内のことや室内の様子など、何も知らないはずだ。侵入盗のプロでもないし、3009の鍵をフロントから盗み出して、また元に戻しておくのは難しいだろう。」

「なるほど。」

「タマイがもしすり替えるとしたら、七月九日にホテルで翻訳の打ち合わせを行った時だ。しかし、それにも問題がある。あの時、陸軍側からフクシマ将軍、ウツノミャ少佐、海軍はタマイとタカラベ少佐が同席した。」

「あと一人、サイゴウがいるよ。もっとも彼は雑用係だったようだが。」

「そう、ともかく部屋に他に四人もいて、タマイは鞄をどうやって持ち込んだのだろう? 鞄は堅牢で、結構な大きさがあるし、タマイがそれを持っていたら、誰の目にも付くはずだ。まして、全く同じ鞄だから、それだけで注目されるだろう。」

「何か大きな袋などに入れて、隠して持ち込んだのかな?」

「いや、そのほうが余計目立つよ。第一、重要な会議の席にそんなものを持ち込むこと自体が不自然だ。何が入っているのか、と不審に思われるだろう。」

「うーん…」

「それと、もう一つ重要な問題として、鞄の鍵の問題がある。鞄をすり替えたとしても、鍵はどうやってすり替えたのだろう? 鍵はフクシマ将軍が持っていたはずだ。まさか鍵を交換してもらうわけにいくまい。」

「確かに、不思議だ。さっきウツノミヤ少佐が持ってきた鞄の隠し番号は、本当にタケウチの購入したものだね?」

「それは、間違いないはずだ、台帳にきちんと記入されていたよ。」

「そうすると、鞄も鍵も、全くの別人がすり替えたのかな?」

「そうだとしても、いつ、どうやって誰がすり替えたのか? 鍵については小さなものだから、九日の翻訳打ち合わせの時にタマイがすり替えしたかもしれない。しかし、鞄については見当がつかない。外部で行うことは全く不可能だったはずだ。」

私は手帳の記録を見ながら、

「前にウツノミヤ少佐の話では、七月八日の会議終了後、調印の終わった書類をあの鞄に入れて、彼が肌身離さず持って、フクシマ将軍ともに宿舎のホテルに帰還、部屋で将軍に渡したとある。将軍の話では、その日以降、鞄は部屋から一度も持ち出していない、とある。これでは、外でのすり替えは無理だろう。」

「やはり内部での犯行しかない。」

ホームズは、安楽椅子に座り直し、頭を抱えて、考え込んだ。

 そのとき、ハドソンさんが現れ、朝食の支度ができたことを伝えに来た。給仕がテーブルの用意を整え、ハドソンさんとメイドが料理を運んできた。今朝はボリュームのあるフル・ブレックファーストで、ボリッジ(オートミール)、ベーコンエッグズ、ベークトビーンズ、チェダーチーズ、トースト、ジェリー、果物、などが並べられた。席について朝の紅茶を飲みながら、

「今日は、往診に行かなければならないんだ。医院にも行ってカルテの記入もしないとけない。それと、メアリーから晩餐に招待されている。彼女の関わっている慈善団体のメンバーが集まるらしい。」

ホームズはトーストにバターを塗りながら、

 「ぼくは、もう一度サヴォイホテルに行ってくる。一人で充分だ。」

 「悪いね。」

 「いいや、明日は大変かもしれない。朝からディオゲネス・クラブに行かなければならないが、君は来られるかな?」

 「もちろん、行くよ。アカシとタマイの企みが知りたい。」

 朝食後、私は聴診器と診察鞄を持って往診に出かけた。昼食時にもどった時は、ホームズは出かけてまだ帰っていなかった。先に食事を取って医院に寄り、そのままハロウ・ウィールドに向かった。べイカー街にもどったのは、夜遅かった。疲れたらしくホームズはすでに休んでいた。


十四 「英国の背信」

 八月七日、朝九時過ぎ、我々は、ペルメル街のディオゲネス・クラブに向かって馬車を走らせた。護衛の男は、今日は馬車の外の御者台に出て、業者の横に座っていた。ホームズは、昨日行ったサヴォイホテルについて、もう日本人たちは全員ホテルを引き払ったあとで誰もいなかった、と言った。それ以外はあまり語らなかった。私は、昨日から気になっていたことを尋ねた。

 「君が昨日、ウツノミヤ少佐を驚かせた、あのアカシの言葉だけど、どこからあんな情

報を知ったのだい?」

 「マイクロフトとライリーが言ったことを総合して、僕なりにまとめたのさ。」

 「マイクロフトが言ったって! それで彼は何を言ったのだい?」

「四日の午後、僕は、ディオゲネス・クラブの兄の所に行った。捜査の報告と一日に行われた英国側の会議の様子が知りたかったからだ。マイクロフトが言ったこととは、その時に聞いた話さ。」

「どんな話をしたのだ?」

ホームズは、少し暗い表情をして窓の外を眺めながら、

「僕は兄に、今回の事件は、日本側の内部犯行の可能性がある、と言ったのだ。」

「彼は、驚いたろう?

「いや、全く驚かなかったね。いや逆に、やはりそうか、という感じだった。」

「すでに、アカシやタマイの陰謀を予期していたのかな?」

「いや、そうではない。マイクロフトは、この事件は、始めから日本が意図的に仕組ん

だのではないかと疑っていた。」

 「どういうことだ?」

 「つまり、日本側は英国側の真意を見抜いていて、軍事協約書紛失をでっち上げて英国

側を揺さぶり、日本側に有利な地歩を確保しようと企んでいる、ということだ。」

「そんなわけがない。」

「うん、僕が海軍の汚職が絡んだ一部の者の犯行の疑いと説明すると、初めて意外そう

な顔をしたよ。そして、しきりに犯行の動機を知りたがった。」

「ふーん、ところで、さっき言った英国の真意とは、何だい?」

「それは、極めて信義に反することだが、我が英国は、日本を対等な国家と認めていな

い、ということさ。だから、同盟と言っても名ばかりで、日本側を都合良く利用する手

段にすぎない。今回の軍事協約についても、前から言っているように、とくに陸軍は始

めから守る気などない。英政府もその辺はよく分かっていて、日本側を適当にあやして、

安心させるために空手形を出したのさ。非情なようだが、英国としては、日本が勝てば

それでよし、負けたら負けたで、それでもよいと思っている。」

「それじゃ、だましたのと同じだ。不誠実極まる。」

「国際社会ではだまされる方が悪いのさ。国益のためには嘘も方便なのだ。」

「開戦になったら、日本はどうなる?」

「マイクロフトによると、これは軍事の専門家の意見だそうだが、日本の勝利の確率は10%以下、敗北が90%以上、よほど運がよくてなんとか引き分けにもちこめる、という見通しだ。陸戦はほぼ間違いなく敗北、海上では、英国の後押しで互角だが、長引けば大西洋のロシア艦隊の回航で、一挙に不利になるそうだ。」

私は、暗然とした気持ちになった。

「英国としては、ロシア軍の日本全土占領はないと見ているが、北海道と対馬はロシアに占領されると見ている。そこで、日本の敗北が必至になったとき、ロシアに講和をさせるためフランスと組んで干渉するらしい。講和といっても、日本が負けを認めて領土を渡し、賠償金を払うわけだから、条件付き降伏と同じさ。」

「フランスはロシアと軍事同盟を結んでいるが、英国と組めるのかな?」

「これも、マイクロフトの話だが、実は英国とフランスは、水面下で協商を結ぶ交渉が行われているらしい。フランスはロシアに多大の借款を与え、巨額のロシア政府債券購入によって、後に引けなくなってロシアを応援しているだけだ。ドイツへの対抗上、ロシアにはもっと内政をしっかりやってほしいし、軍備もヨーロッパに重点を置いてもらいたいのが本音だ。だから、英国と組んでロシアを講和させるのは賛成するだろう。ただし、ただではない。フランスは代償として台湾と琉球諸島を欲しがっている。」

「なんと、フランス人らしい。ちゃっかりして抜け目ないね。」

「英国としては、台湾はともかく、琉球諸島はこちらの勢力圏に置くつもりらしい。」

「それで、日本はどうなるのかな?」

「英国の保護下に置かれて、昔のようなアジアの貧しい小国になるだろうね。払いきれないくらいの賠償金や外債を抱えて。」

「払えない場合はどうなる?」

「権益を売るしかないだろう。関税収入は当然だし、鉄道敷設権、電信電話敷設権、ヨコハマとかコウベとかいう要地の租借権、鉱山開発権、アメリカ資本が喜んで買いたたきにくるよ。」

「まるで、植民地だ。英国はそこまで分かっていて、どうして日本に本当のことを言わない!」

「英国はそこまでお人好しじゃないよ。日本が自立して伸びようとした結果、ロシアと対立してこうした危機が生まれたのだ。この危機をどう乗り超えるかは、日本人自身が決めることさ。」

私は、救いようのない気持ちになった。あの怜悧で礼儀正しい日本人たちの命運を祈らざるを得なかった。

「それと、ライリーは何を言ったのだい?」

「ライリーの話によると、アカシはフランス政府筋から情報を得ているらしい。政府内に大金をつかませたら情報を売るやつが居るそうで、たぶんアカシは、そこから日露開戦時の英仏の密約を知ったのだろう。アカシが六月にロンドンに来たのは、この情報をフクシマ将軍らに知らせて、軍事協約を阻止しようとしたわけだ。」

「そして。主張が受け入れられなかったので、そこで、七月にもう一度来てタマイを脅し、協約書を盗む手配をしたのだな。」

ホームズは、おそらく、と言ってうなずいた。


いつの間にか、馬車はディオゲネス・クラブの前に来ていた。昨日は、マイクロフトは自宅 ―とっても筋向かいの高級フラットなのだが― ではなくクラブに泊まっているらしい。いつもの来客室に通されたが、朝早いせいか客は一人もいなかった。たたでさえ静かな来客室は、静まりかえって本当に物音一つしなかった。まもなく、ウェーターが現れたので、シェリー酒のフィノを頼んだ。よく冷えた辛口ワインをすすりながら、宇都宮少佐の連絡を待つことにした。

「マイクロフトはまだ現れないのかな?」

「夜会帰りだから、まだ寝ているよ。部屋はこの建物の二階だが、イレブンシズ(午前十一時に取る朝軽食)にならないと降りて来ないだろう。」

「さっき言っていた、一日の英国側の会議は、どんな内容だったのだい?」

「マイクロフトの話だと、まだ非公式だが、今回の陸軍の協約はどうやら見直しするらしい。英国としては日本側の失態なので、新たな代替措置はとらないそうだ。ただし、日本がロシア側につかないような対応も考えているらしい。」

「となると、今回の事件は、英国にとって都合がよかったことになるのかな?」

「なんとも、言えないね。」

そこへ、ボーイが現れて、電話が掛かっておりますと、知らせてきた。早速だ、とホームズは電話室に行った。時計を見るとまだ10時前だった。私は、タイムズ紙を取り上げて、記事に目を走らせた。明後日に迫った戴冠式関係の記事が多かった。しばらくしてホームズが帰ってきた。彼は、ひどく興奮した様子だった。どうした、と尋ねると、彼は、いきなり、急いでドーバーに行かなければならない。いまからなら間に合う、急ごう、と言った。詳しい話はあとで、というので、私はやむを得ず、あわててホームズの後を追って馬車に飛び乗った。

チャリング・クロス駅に急ぐように命じて、ホームズは、護衛のスペシャル・ブランチの男に、機密の話をするので、悪いが御者台に移動してほしいと頼んだ。男は、承知して、車外に出て御者の横に座った。ホームズは話し始めた。

 「ウツノミヤ少佐の話では、タマイは七月八日の午前、公使館に電話があってから、まもなく外出したそうだ。どこに行くかは告げなかったが、彼らしい東洋人の白服の海軍士官の男が、近くのトラファルガーホテルに入っていくのを、客待ちをしていた辻馬車の御者に目撃されている。この御者は、公使館のイギリス人の雇員と知り合いで、よく公使館の送迎を頼まれるそうだ。ウツノミヤ少佐はこの雇員を諜者に使っていて、この男が運良く御者から聞き出せたらしい。」 

「そのホテルにはアカシもいたのかい?」

「そう思う。実は六日、ライリーもこのホテルでアカシと会っているのだ。」

「そうか、じゃあほぼ間違いないな。」

「それから、ほぼ同じ時間、御者はもう私服を着たもう一人の日本人がホテルの中に入って行くのを見ている。彼はその男の顔と名前をよく知っていたそうだ。」

「誰だい?」

「コロネル・シバだ。」

私は、驚きのあまり声を失った。

「それは、本当か!」

「間違いない。御者は、義和団事件でのシバ中佐の活躍を聞いていて、どんな男か興味があったそうだ。公使館員の送迎の時に彼を見かけて、よく覚えていたらしい。」

「彼が関わっていたなんて、信じられないよ。」

「いや、これですべて説明がついたよ。事件の真相がすべて解明できた。やはり彼でしか行えないという推論が正しかったのだ。昨日のサヴォイホテルでの聞き取りと先ほど電話で聞いた証言が最後の決め手となったよ。」

「僕には、まだよく分からないよ。彼はどんな関わりをしたのだろう?」

「彼こそ実行犯さ。タマイはその手伝いをしたに過ぎない。タケウチはさらにその手先を務めただけだ。もう少し調べたら、彼のアリバイ工作が分かったのに。」

私は、呆然としてホームズの顔を見つめていた。

「詳しいことは、シバ中佐から直接聞こう。」

「シバ中佐はどこにいるのだ?」

「今朝9時過ぎに、ブリュッセルに向かって出発したそうだ。小松宮一行とベルリンで合流して、ロシアを訪問してから、シベリア鉄道経由で帰国するらしい。」

「それでドーバーに行くわけか。追いつけるかな?」

「さっきディオねゲス・クラブで調べてきたが、チャネルボート(海峡渡船)の出航時刻は12時35分だ。シバ中佐はその船に乗るはずだ。チャリング・クロス駅で11時ちょうどの急行に乗れば、1時間ほどでドーバーに着くから、なんとか追いつけると思う。」

時計を見ると10時30分だった。ホームズは窓から顔を出して、急いでくれ、11時の列車に乗らなければならないのだ、とどなった。



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