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後編その1

前編までのあらすじ


日英同盟が結ばれた一九〇二年の夏、ホームズとワトソンはランズダウン英外相と林董ただす日本公使から、紛失した日英秘密軍事協約書の捜索を依頼される。協約書には、日露が開戦した時の英軍の満州派遣と日英の協同作戦計画が記され、これが明るみになると日露だけでなく、英仏を巻き込んだ国際問題となるおそれがあった。協約書は極秘の内にホテルの福島少将の部屋に置かれていたが、無人の密室で施錠した書類鞄の中から書類だけが姿を消してしまうという不可解な事件だった。捜査を始めた翌日から、ホームズたちは早速ドイツ諜報員の尾行を受けるが、彼らが協約書紛失に関わったかは不明だった。また、ホームズの兄マイクロフトから、英国側は始めから軍の派遣などする意志がなく、協約は日本を安心させるための空約束であることを聞き、日本にいたく同情する。やがてホームズは、密室への侵入が、事件当時フランス出張中だった隣の柴中佐の部屋から行われたことに気付き、ロンドンに戻った柴中佐に面会する。彼は二年前の義和団事件で世界的に有名となった人物で、その誠実、謙虚な人柄にホームズたちは好感を抱く。柴中佐は砲兵将校としての立場から、日本の火砲が貧弱で戦備も遅れており、今はロシアと戦える状態ではないことを率直に語る。また、英国との協約を感謝しながら、実は英軍の支援など信じていないことをほのめかす。(以下、後編に続く)


九 「白昼の侵入者」


 八月二日、午前中の診察が済んで通いの看護婦も帰ったあと、私は一人で診察室でカルテを整理していた。この日は午後の診察もなく、私が一日家にいると聞いて、メアリーは朝から医院の手伝いに来てくれていた。昼食は何かおいしいものにしましょうといって、自分が連れてきたメイドも加えて、メイド二人とともに買い物に出かけていた。ふと窓の外を見ると、隣の家に庭師が入って生け垣や芝生の手入れをしているらしかった。隣は貸家の看板が出ていたが、誰か借り手が決まったのかな、と思っていると、メアリーたちが戻ってきたらしく物音がした。私はカルテの記入をやめて、一服しようしたが葉巻がなかった。そこへメアリーが入ってきて、

「あなた、昼食はサンディーロースト(ロースト・ビーフ)とヨークシャープディングにしましたわ、 デザートは何がよろしい。」

「そうだね、ストロベリーのトライフル(カスタード、生クリーム、スポンジケーキ、フルーツを層状に重ねた菓子)が食べたいね、材料はあるかな?」

「そう言うと思って、スポンジケーキと苺も買ってきたわ。」

「それはありがたいね。」

私がポケットの中を探っているのを見て、

「何を探しているの?」

「いや、葉巻がない。書斎かな。」

「持ってきてあげましょう。」

「ありがとう。たぶん机の上だ。」

再びカルテに向かっていると、突然、メアリーの悲鳴が聞こえ、同時にガラスの割れる音がした。私は驚いて、書斎に飛んで行った。部屋の中でメアリーが床の上に半身を起こして倒れていた。庭に出るガラス戸を指さして、

「カーテンの陰に男が隠れていたの! 私を突き飛ばして、ガラスを壊してあの戸から逃げたわ。拳銃も持っていたのよ。」

彼女はわななきながら言った。見るとガラスが割れて一面に破片が散らばっていた。

「けがはなかったかい?」

「大丈夫。」

 私は、あわててやってきたメイドたちにメアリーを任せて、書棚の隠し場所から急いで拳銃を取り出し、ワトソン気を付けて、という彼女の声を聞きながら庭に出た。突然、通りのほうで、手を挙げろ、動くな! という声が聞こえた。その直後、銃声が1発聞こえ、同時に2発目、少し置いて3発目がとどろいた。私は驚いて、拳銃を構えながら腰をかがめて通りに出た。家の前の敷石に拳銃を握ったまま、男が一人突っ伏して倒れていた。見ると昨日の御者だった。そばに駆け寄ると、

「二人います。一人は撃ち倒しました。」と苦しそうにあえぎながら言った。

向こうを見ると、隣家の前に庭師の格好をした男が仰向けになって倒れていた。生け垣の間から、弾倉のついた大型拳銃を持ったもう一人の庭師が現れ、中腰になって男のそばに走り寄ろうとしていた。私は夢中になって両手で銃を構えて、

「動くな! 銃を捨てろ、撃つぞ!」と叫んだ。

男は走りながら振り向きざまに、いきなり私に向かって拳銃を発射した。弾はそれて、頭上をかすめるのが分かった。私は、片膝を突いて男の右手を狙い、発射時の強い反動を両手に感じながら立て続けに2発撃った。1発右腕に命中したらしく、男は拳銃を落として、腕を抑えながら逃げ出した。突然通りの向こうから、2頭立て馬車が疾走してきて急停車した。中から男が飛び出し、庭師を助けて馬車に乗り込んだ。御者は巧みに馬を操って馬車を回し、再び猛烈なスピードで走り去った。

 私は、呆然として見送っていたが、倒れた御者のうめき声を聞いて、すぐ我に返った。あわてて拳銃を尻ポケットに収めて傷を調べると、右胸の上を撃たれていた。大急ぎで彼の上着を使って止血をしていると、メイドや近所の人たちが集まってきた。私は、メイドにすぐ診察鞄と三角巾、包帯をありったけ持ってくるように命じた。近所の人たちに至急、警察に連絡するように頼み、怪我人がいるので、応援の医師も呼んでほしい、とも言った。

 御者の応急手当が済むと、急いで倒れた庭師の所に駆けつけた。四・五人が集まってこわごわ庭師をのぞき込んでいたが、私が行くとすぐに身を引いた。血の海の中に倒れている庭師は、すでに意識が無かった。胸の真ん中を打ち抜かれ、脈はかすかで虫の息だった。私は手早く止血を行うと、回りに手伝わせて心肺蘇生を試みたが、ほとんど手の施しようがなかった。しばらく人工呼吸を行ったが、やがて脈が止まってしまった。血に染まった大型拳銃が体のそばに転がっていた。 


 外は野次馬でたいへんな人だかりだった。警官が何人も外に立って通りを封鎖していた。負傷者はすでに病院に運ばれていた。スコットランドヤードの鑑識官が書斎や庭、隣の家を調べていた。私服刑事が何人か、私を質問攻めにしていた。そこへ、ホームズがライリーとともに現れ、ライリーがスペシャル・ブランチの身分証明書を見せると、彼らは引き下がった。

「ワトソン、無事だったか。恐ろしく危険な目に遭わしてしまったな。マイクロフトから電報が来て、ライリー中尉と飛んできたのだ。血だらけだが怪我をしたのか?」

私は、血にまみれたシャツやズボンを見ながら、

「いや、これは怪我人を手当したときに付いたのだ。僕の血じゃない。」

「そうか、良かった。 メイパリー夫人はどうしている?」

「けがはなかったが、ひどいショックを受けている。銃撃戦があったので、すっかり動転して泣いてばかりいたよ。今は、少し落ち着いている。」

「彼女まで巻き込むとは、本当にすまない。」

ライリーが

「警護が出来なくて申し訳ありません。まさか、ワトソン博士を襲うとは予想もしませんでした。」

「撃たれた御者は、命に別状はないかい?」

「はい、幸いワトソン博士がすぐに手当をしていただいたおかげで、部下は命が助かりました。彼は、充分な警護ができず申し訳ないと申しておりました。」

「右鎖骨下の胸部貫通銃創で気胸を起こしかけていたが、左胸でなくてよかったよ。庭師のほうは、やはり助からなかったかい?」

「はい、病院にかつぎ込んだときには、すでに絶命していました。」

「彼らは何者だろう?」

「今のところは不明で、現在、調査中です。拳銃を2丁回収しましたが、2丁ともドイツ製の新品のモーゼルC96でした。かなり威力のある10連発の大型自動拳銃で、これに打ちまくられたら危ない ところでした。多くは軍用に使われる拳銃ですから、軍関係者の可能性もあります。」

「となると、やはりドイツの連中かな?」

「何ともいえません。モーゼルは各国で使用されていて、割と入手しやすい拳銃です。」

「そういえば、マウザー(モーゼルの英語読み)は、インドでも英陸軍の将校がよく使っていたな。」

ホームズは、

「やつらの狙いは何だったのだ?」

「私の手帳を狙ったらしい。昨日、帰ったあと、手帳に書き込みをして書斎の机の上に置いていたのだが、死んだ庭師のポケットに入っていた。」

「奪われなくて良かった。」

「彼らは隣の家で庭師のふりをしてこちらの隙をうかがっていたのさ。メアリーとメイドが出かけ、看護婦も帰って僕1人になったとき、警察によるとやつらの一人が台所の窓から侵入したらしい。もう一人は見張り役らしい。メアリーに見つかったとき、やつはすでに手帳を見つけてポケットに入れていたようだ。僕が診察室で書き物をしているので、安心して物色しているところへ、メアリーが意外に早く帰ってきて、僕の葉巻を取りに現れたわけだ。やつはカーテンの陰に隠れていたが、発見されてああいうことになったのさ。銃声が何発も聞こえたが、外に出たとき、すでに2人とも倒れていたよ。」

ライリーが、

「私の部下が辻馬車で待機していると、突然、女性の悲鳴が聞こえ、ガラスの割れる音がしたそうです。急いで家の前に行くと、例の庭師が庭から飛び出してきました。そのとき、すでに拳銃を手にしていたようです。」

「メアリーによると、拳銃でガラスをたたき割ったらしい。」

「部下が銃で威嚇して呼び止めると。いきなり撃ってきて、部下も撃ち返し、それが命中しました。ところが、もう一人仲間が隠れていて、これが部下を撃ち倒したわけです。その後は、ワトソン博士の活躍で彼らを追い払うことができました。」

「まぐれ当たりだよ。僕も無我夢中だった。ウェブリー(英軍制式拳銃)を撃ったのはアフガン以来だからね。やつは、僕が警告すると、小走りに走りながら振り向きざまに狙いもせずに撃ってきたのだ。僕は両手で拳銃を構えて狙いをつけていたので、すかさずに撃ち返すことができてよかったよ。運良く右腕に当たって、やつは拳銃を落としてしまって、逃げるしかなかったのさ。」

「沈着冷静に対処されたのが、よかったのだと思います。」

ホームズは、

「部屋の壁を射的に練習する僕なんかと違って、実戦仕込みの君はなかなかの拳銃の名射手だよ。今回は その腕前が役に立った。ところで、これからどうする?」

「診療所のほうは当分休診せざるを得ないだろう。メアリーは、彼女が連れてきたメイドと一緒に自宅に送り届けるから心配ない。」

「君は、ベイカー街に来たまえ。」

ライリーが、それがよいでしょう。ベイカー街なら警備もしやすい、と言った。

私は、メアリーのことが気になって、

「メアリーのところは、大丈夫かな?」

「メイパリー夫人の御自宅はどちらですか?」とライリーが訊いた。

「ハロウ・ウィールドだ。ウィールド駅から歩いてすぐのとこだ。」

「本日、御自宅に戻られるときに、とりあえず部下の者に送らせます。」

「僕も送って行くが、一緒に居てやることができないので、できたら2・3日は、メアリーの警護をお願いできないかな。彼女はとても怖がっている。」

「分かりました。すぐに手配します。」

こういうと、ライリーは出て行った。ホームズは、

「まだ、連中の正体は分からないが、かなり組織的な動きをしているようだ。ただ、銃をむやみに発砲するところからして、公的な諜報機関の仕事というより、まるで犯罪組織みたいなやり方だね。」

「確かに乱暴な手口だが、馬車で怪我をした仲間を救出した時のやり方は、極めて鮮やかな行動で、あっという間の出来事だったよ。かなり冷静で秩序だった行動で、粗暴で無分別な無頼漢連中のできることじゃないような気がする。」

「なるほど、そう言われると、そうかもしれない。いずれにしても、スペシャル・ブランチの調査でじきに分かるだろう。」

そこへライリーが戻ってきて、

「今、部下に命じて、応援要請の電報を打たせてきました。まもなく、二名来ますのでメイパリー夫人の警護に行かせます。」

「ありがとう。」

「それと、ワトソン博士の医院ですが、とりあえず本日は、地元警察の方で終日警備に当たるそうです。」

私は、いろいろ気を遣わせてありがとうと感謝した。

手を洗い、着替えをして、ホームズと二人でメアリーの様子を見に行き、警護の者が来たら一緒に送って行くことを伝えた。彼女は、もう大丈夫、心配しないで、とは言ったがこの言葉を聞いて少し安心したようだった。

 居間でホームズとくつろいでいると、やがて応援の人員が来たので、私はメアリーを抱きかかえるようにして、メイドとともに馬車に乗り込んだ。スペシャル・ブランチの二人は別の馬車で後ろから付いてきた。ホームズとライリーが見送ってくれて、警護は万全を期していますので、安心してください、くれぐれもお気を付けて、とメアリーを慰めてくれた。

 あの破風窓が3つあるメアリーの邸宅(スリー・ゲイブルズ、三破風館)にもどると、メアリーはほっとしたようで、いくぶん元気を取り戻した。私は自宅に戻る必要があったが、屋敷にはメイドが何人かと年寄りの馬丁が一人いるだけだった。彼女は心細いようで、しきりに私を引き留めたがったが、私は警護が二人もいるから心配ないよ、また明日来ると励まし、スペシャル・ブランチに後を任せて帰宅した。



十 「建艦コミッション」


 翌八月三日の午前中、私は、必要なものをトランクに詰め、しばらくの間休診しますの掲示をして、ベイカー街に移った。家のほうは、昨夜から警備に当たっている警官に任せ、先月雇ったばかりのメイドは、今月分の給料を前渡しして、医院再開までしばらく休んでいるように伝えておいた。ハドソン夫人は、昨日の私の災難に大いに同情し、メアリーのことも随分心配してくれた。私がベイカー街に戻ったことも大いに喜んで、今晩はお祝いにご馳走しましょうと言ってくれた。

ホームズは、

「今日は、午後2時に客が来る。君も立ち会ってくれたまえ。」

「だれだい?」

「君も一度会った人物さ。」

そう言っているところに、お客様ですよとハドソンさんの声がして、案内もなしに、ライリーが入って来た。

「警備の状況を確かめるついでに立ち寄りました。今回の事件で我々の護衛は、敵にも知られてしまって、いまさら隠す必要もないので、こうして直接参りました。」

 ホームズは、警備の状況を聞いた。現在、家の周辺で24時間、3チームが交代して監視し、外出時は待機させた例の馬車を使うことになるそうだ。私が不在中の自宅は、地元警察のほうで当分警備に当たるらしい。報復の恐れもあるので厳重に警戒するという。

私は、侵入者の正体が知りたくて、

「昨日の連中は、やはりドイツだったかい?」

「いいえ、今回は、ロシアでした。」

「ロシア人だったのか!」

「遺留物の検証と死亡した男の調査では、ロシアの犯行が濃厚ということでした。わざわざドイツ製の新品のモーゼル拳銃を使ったのも、身元を隠すための偽装工作のようです。死んだ男は、近所ではブルガリア人という触れこみですが、ブルガリア公使館に問い合わせても、当然ですが、そんな男は知らないという返事でした。ブルガリアのパスポートも偽造、レオシュ・イジークという名前も偽名でしょう。このパスポートでロシアから英国に入国したのは2年前で、しばしばロシア大使館に出入りしていたところから、やはりロシアの秘密工作員のようです。」

ホームズは、

「民家に白昼堂々侵入したり、いきなり発砲したり、やり口はずいぶん乱暴だが、ロシアの諜報機関は いつもこんなことをするのかい?」

「ロシア国内では珍しくないですが、英国に来てここまでの工作をやるのは、めったにないことです。よほど差し迫った事情があるのかもしれません。」

「ドイツに続いてロシアが、嗅ぎ回っている。彼らの目的は何だろう?」

「いろいろな想定ができますが、はっきりしたことは分かりません。諜報局内部では、彼らは協約書そのものの内容をまだ知らないのではないか、という見方があります。協約締結の事実はつかんでいてもその内容までは把握できず、さらに紛失の噂を聞きつけて、おおいに関心をそそられているというわけです。」

「なるほど、あり得ることだが、それにしても、ここまで性急な工作をするのはなぜだろう?」

ライリーは、今後の調査でおいおい明らかになるでしょう。明日また来ますと言って、あわただしく立ち去った。

 ライリーが帰った後、ホームズは、安楽椅子でパイプをくゆらせながら、

「実は、僕は昨日の午前中、君が災難に遭うまえに、ビッカース社に行ってきたのだ。」

「ビッカースといえば、あのマキシム機関銃で有名な会社だね」

「今は、軍艦建造もやっているし、こちらのほうが中心だね。英国造船界はここ数年、日本海軍向けの建艦ラッシュで、主力の戦艦6隻はすべて英国製だ。今年三月完成したばかりのミカサはその最終艦で、ビッカース社の建造だ。最高、最新の性能を誇り、日本艦隊の旗艦となるらしい。」

「ふーん、そうかい。それで何を調べに行ったのだい?」

「こうした造船会社が建造を受注した場合、建造費の数パーセントをコミッションとして発注者にキックバックするのが慣例らしい。ビッカース社の話によると、これは一種の商習慣みたいなもので、どこでもやっているそうだ。」

「それは、最終的に誰のポケットに入るのかね?」

「それは、ビッカース社の関知するところではないらしい。ただ、引渡書と領収書の金額は、発注時の金額のままらしいから、公式には明らかにされない金だ、一種のリベートだね。」

「私人の間の取引なら自分のものにするのもかまわないが、それが国費で支払われている場合は、リベート分は国にもどすべきだろう。」

「それなら、始めから値引きをして受注するよ。あとからキックバックするのは、受注した見返りに発注側の誰かへの謝礼をするためだ。」

「それなら賄賂と同じじゃないか!」

「ここ数年来、日本海軍が使った建造費は莫大な金額だそうだ。各造船会社は受注にしのぎをけずったらしいが、支払ったコミッションも相当な額らしい。」

「それが、誰の手に渡ったのだい?」

「その辺については、どこの造船会社も明らかにしないだろう。ただ、ビッカース社の話では、直接現金や小切手の受け渡しは絶対しないそうだ。必ずどこかの銀行口座に振り込むらしい。そこから誰の手に渡ったかは関知しないし、領収書もないので、その金は、経理上他の名目にするか、使途不明金で処理されているそうだ。」

「よく、そこまで聞き出せたね。」

「うん、例のライリー中尉の依頼による極秘調査と言ったら、渋々応じたよ。」

「で、受け取っていた汚職軍人は、特定できたのかね?」

「僕は、チャリング・クロス(ロンドンの中心地)のキャピタル・アンド・カンティズ銀行の副頭取に 親しい人物がいる。ビッカース社の近くだったので帰りに話を聞いてきた。彼の話だと、銀行間では日本の建艦費のコミッションの話は結構知られていて、受け取りはいくつもの口座を転々しているらしい。いわゆるマーネ・ロンダリングさ。」

「その口座を開設しているのは誰だい?」

「いくつもの名前があるが、皆架空名義らしい。ただ、造船会社が最初に入金する口座については、もちろん偽名を使っているが、ある人物が名義人だろうと言われている。この口座に入金されたコミッションは、即日、違う口座に振り替えられて、その後、いくつかの口座を転々として、最終的にはスイス銀行に送られているらしい。」

「ある人物とは誰だい?」

「日本公使館の駐在武官らしい。」

私は、一瞬思い出した。

「ひっとして、あの威張り散らしたタマイ大佐か!」

「そうなるね。タマイ大佐は、ウツノミヤ少佐の話によると、ロンドン滞在が長く、軍艦建造に関する対外折衝を一手にやっていたようだ。発注はすべて彼を通していたはずだ。当然、コミッションを手にする機会は十分考えられる。」

「さっき言っていた客とは、まさかタマイ大佐じゃないだろうね?」

ホームズは、呼びたいところだが、絶対来ないだろう、と笑った。私は、今回の事件と汚職軍人とは関係があるのかいと聞いたが、それをこれから調べるのさと答えただけだった。

 そうこうしていると、ハドソンさんから昼食の声がかかったので、テーブルに移った。久しぶりのハドソン夫人の手料理のソーセージ&マッシュはうまかった。

 2時になると1階で音がして、事前に知らされていたらしく、お客様ですと、給仕がすぐに客を案内して現れた。見ると、白の海軍服を着た日本人で、財部ですと名乗って、帽子を脱いで挨拶をした。前に公使館で会った海軍士官だった。

ホームズは、挨拶を返して、

「わざわざご足労かけ、ありがとうございました。」

「いいえ、こちらのほうへ出かけるのは、私の方からお願いしたことなので、かまいません。こちらはワトソン様でしたね?」

我々は、握手をして、席に着いた。財部少佐は、

「さて、昨日電話を頂いた、お尋ねの件とはどのようなことなのでしょうか?」

「実は、陸軍協約書の件で、ロシアとドイツに動きがありました。電話の後で起こったことですが、昨日はワトソン博士の自宅に賊が侵入し、警護の者と撃ち合いになって、賊一名が死亡し、警護の者も負傷しました。ロシアの犯行と思われますが、まだ確認は取れていません。」

財部少佐は、驚いて、

「そんなことがあったのですか! ワトソン博士はここにいらっしゃいますが、ご無事でなによりでした。で、彼らの侵入の目的は何だったのですか?」

私は、手にした黒革手帳を持ち上げて、

「おそらく、こちらの調査した情報を狙ったものと思われます。この手帳を危うく彼らに奪われそうになりました。」

ホームズは、

「ロシアの力ずくの強引さには十分注意が必要ですが、警戒すべきなのは、むしろドイツかもしれません。彼らは巧妙に我々を尾行したり、日本公使館への内偵を試みたりしています。」

「その話は聞いておりますが、彼らの動きと海軍とはどういう関係がありますか?」

「我が国の諜報局の話によると、ドイツは日本の海軍士官の方に接近を図っているようです。実際、すでに接触も行っているようです。」

財部少佐は顔色を変えた。

「それは事実ですか? いつ、だれがですか?」

「具体的なことまでは聞いていません。ただ、とくに建艦関係で来られている海軍士官の方と私的交際を通じて接触しようとしているようです。」

財部少佐は表情を引き締めて

「分かりました。一部の士官に遊興にうつつを抜かし、警戒心を失った者がいるようです。艦政本部に厳重注意を要請しましょう。」

「少佐のほうから注意はできないのですか?」

財部少佐は少し困った顔をして、

「2年前から、在ロンドン帝国造船造兵監督事務所は、艦政本部新設に伴い、海軍省軍務局の所管を離れました。したがって、私が直接、口をだすことはできません。私は、あくまで今回の軍事協商会議、海軍代表、伊集院少将の補佐官として参ったものです。」

「しかし、今から日本に連絡を取って、注意していただくのは時間がかかり過ぎると思います。どなたか、たとえば海軍の駐在武官にお願いできないのですか? 駐在武官は、在留する軍人を監督する権限や責任があると思うのですが?」

財部少佐はますます困った顔をした。

「ええと、話してはみますが、本人さえ気を付けておれば、酒や女など多少遊興してもドイツ側に利用されたりすることはないと思います。」

「実は、一部にとてつもない豪遊をされている士官の方がおられるそうです。一晩に百ポンド近くも散財されるそうで、諜報局は、その金の出所に関心を持っています。」

財部少佐の顔は真っ青になった。

「買収されたというのですか?」

「もちろん、それも考えられます。しかし、大部分は軍艦受注のコミッションだろうと、判断しているようです。」

財部少佐は完全に狼狽して、

「そ、それは証拠があるのでしょうか? もしそうでなければ、帝国海軍への中傷と言わざるを得ません!」

ホームズは落ち着いて、

「少佐、日英は同盟国です。ドイツなどは両国を離間させ、分断する隙を狙っているのです。彼らはすこしでも脆弱ところがあれば、そこを突いてきます。日本の海軍士官の収賄行為は彼らの格好の標的です。これによって彼らは脅迫や取引を持ちかけ、情報の収集やエージェント(協力者)確保の工作をする可能性があります。我々はこれを防止しなければなりません。」

財部少佐は沈黙していた。

「現在、貴国の軍艦を建造している英国の造船会社は数社ありますが、受注額に対して数パーセントのコミッションを支払うのは、公然の秘密というのか、業界の常識とされているようです。もちろん、会社は、公式にはそうしたものの存在は決して認めないでしょう。しかし、いくら隠蔽しようとしても、金銭の授受の事実そのものは、常に何らかの証拠を残します。すでにドイツはこのあたりの証拠をいくつか握っているかもしれません。」

財部少佐はすぐに反応して、

「なぜ、そう言えるのですか?」

「軍艦については、船体は英国で建造しても、艤装においての通信装置や発電機等の電気系統は、ドイツのシーメンス製が多く、こちらのほうのコミッションも相当のものと言われています。自国内のことですから、ドイツの諜報機関は、このシーメンス関係の証拠を入手している可能性があります。」

財部少佐は蒼白の顔を向けたまま、瞬きもせずホームズを見つめて、

「分かりました。ご懸念の点は海軍としても十分注意したいと思います。ところで、その件と今回の陸軍の協約書紛失事件とはどのような関係があるのでしょうか。」

「直接関係があるかどうかは、まだ分かりません。ただ、我々としてはあらゆる可能性を検討する必要があるのです。書類の紛失にドイツなりロシアなり、外国の諜報機関がかかわっているとしたら、それを特定するためにも、彼らがどのように情報を入手し、秘密工作を行ったかを解明する必要があります。そのためにも、情報の入手先や工作の際の協力者をあぶり出す必要があるのです。」

「海軍が、秘密漏洩や工作に手を貸したというのですか?」

「そうは申し上げていません。英国側、日本側を問わずあらゆる可能性を考えたいのです。」

「私に何をせよとおっしゃるのですか?」

「少佐は、軍事協商会議のため英国に来られて、建艦には直接かかわっておられません。したがって、コミッション問題については中立の立場ですし、むしろそうした不正に対しては批判的でいらっしゃるかもしれません。そこで、お願いしたいのは、この問題についての日本側の情報を教えてほしいのです。いうまでもなく、この情報はあくまで現在行っている、私個人の捜査のみに利用するもので、今後、政府・民間のいずれにも提供する気はありません。」

財部少佐は、しばらく沈黙したのち、一度、よく考えさせてくださいと言って、のちほど連絡することを約束して席を立った。

客人が帰ったあと、私は、

「なぜ、タマイの疑惑について聞かなかったのだい?」

「まだ確証があるわけでないからね。しかし、今日のタカラベの反応を見ると、コミッション問題については、彼はよく分かっていると思うね。彼は、証拠を気にしていたし、これが世間に拡散されるのを恐れているようだ。」

「日本海軍の体面がまる潰れになるからな。それにしても、あのプライドの強いタカラベは協力するかな?」

「協力するとしたら、何か取引を持ちかけてくるかもしれない。」

「たとえば?」

「そうだね、今回の汚職疑惑をタマイ一党の追及でとどめて、そこから先は不問に付するとか。」

「そんなに、この件は根が深いのかい?」

「昨日のビッカース社の話では、8年前の清国との戦争の前に、日本が大がかりな軍艦 建造に乗り出した当時からすでに行われていたらしい。これは、日本に限らず、南米諸国とか清国、トルコなど大概の国で、キックバックは当然のように行われているようだ。とくにここ数年来、日本は戦艦、装甲巡 洋艦等の建艦ラッシュで英国だけでコミッションの総額は軽く数十万ポンドを超えるらしい。」

「とてつもない額じゃないか! そんな巨額の金をタマイ一人で取り込めるはずがない。」

「おそらく、海軍の上層部もかかわっているに違いないだろうね。」

「なるほど、それで、タカラベは顔色を変えたんだな。」

私は、国家を食いものにして私腹を肥やすハゲタカ連中は、どこの国でもいるものだと嫌悪感を抱いた。

「やはり、日本もまだチャイナやインドと同様、遅れた東洋の古臭い体質を残しているね。日本海軍もこんな腐敗の温床を抱えたままで、この先大丈夫なのかな? そういえば、日清戦争の海戦で清国が敗れたのも、西太后が自分の贅沢のため海軍費を流用したのが原因らしいよ。」

「賄賂や袖の下は、専制政治に慣れた東洋人の積弊でそう簡単になくならないよ。ただ、日本と他の東洋の国との違いは、そうした古い弊風を持ちながらも、強い吸収力と自己革新の能力を持っている点だと思う。近代的な海軍の建設は、十九世紀以来、西欧以外のいろいろな国でも取り組んだが、日本ほど成功した例はないよ。彼らは、他の国が外国から買った軍艦を高価な玩具のように扱って満足しているのに対して、本格的にそれを使いこなすレベルまでに到達している。」

「確かに。規模はともかく近代海軍としてレベルは、他のヨーロッパ諸国に引けをとらないね。」

このあと、話題は再び財部少佐が協力するかどうかにもどったが、これについてホームズはあまり語らなかった。

 午後3時近くになって、私はメアリーを見舞うためにハロウ・ウィールドに向かった。彼女は昨日のョックから立ち直っていたが、まだ完全に元気を取り戻してはいなかった。警護の者に聞くと、とくに周囲に異常は見られないが、もう1日様子を見るとのことだった。この日はメアリーと晩餐を共にして、夜遅くベイカー街に戻った。



十一 「ライリー情報」


 八月四日、朝食後、私は掛かり付け医をしている患者の元へ往診に出かけた。ホームズは、ライリーが来るかもしれないので、今日はここで待機しているよ、と言った。外に出ると例の護衛付きの辻馬車がすぐに近寄ってきた。今度は1頭立てのフォーホイラー(4輪箱馬車)だった。乗り込んで行き先を告げると、中にはもう一人護衛の男が居て、メトロポリタン・ポリス(警視庁)のものです、と名乗った。患者の家を4軒回って見ると、皆、一昨日の事件を知っていて、あれこれ事情を聞きたがった。私は、警察の公式発表となった、ライリーの言った作り話をせざるを得なかった。

 ええ、ロンドン中の高級住宅街を荒らし回っていた外国の武装窃盗団でしてね、隣が空き屋だったものですから、私の家を狙ったようです。私の婚約者に発見されて逃げ出したところに、たまたま警戒していた私服刑事に見つかって、撃ち合いになったんです。死んだ男はブルガリア人らしいです。はい、私も撃ちました。軍医でしたがアフガンでは実際の戦闘にも参加して、拳銃は使い慣れていましたから。家が荒らされたんで、落ち着くまで診療所は休診しています…。

 苦労して説明しながら診察を終えてベイカー街に戻ったら、もう昼をかなり過ぎていた。すでに昼食がテーブルに用意されていた。ホームズは、君が遅いんで悪いけど先にいただいたよ、と安楽椅子でパイプをふかしていた。コテージパイ(マッシュポテトのパイ皮で作るイギリス風ミートパイ)を食べ終わってナプキンで口をぬぐっていると、

「さっきライリーが来て、いろいろ報告してくれたよ。」

「その後、ロシアの動きはどうだい?」

「ロシア大使館からリークした内部情報では、今回の侵入事件は、大使館の諜報機関による正規の工作ではないらしい。」

「ふーん、それじゃドイツがロシア人を使ってやらせたのかな?」

「いや、どうも、ロシア本国の強硬派が、大使館にいる息のかかった諜報員を勝手に動かしたらしい。そのためか、大使館の諜報責任者が更迭されて帰国命令が出たようだ。」

「そうすると、現在のロシア政府は、割とまともなようだね?」

「ロシアには首相はいないから、事実上ウィッテ蔵相が首相だが、彼は極東でのロシアの冒険主義に反対していることはよく知られている。外相のラムズドルフも同じ考えだ。」

「では、今回は政府内部の反対派の仕業か?」

「それと、ライリーによると、サンクト・ペテルスブルグの英国大使館からの情報では、今回の協約書紛失事件に関して、ドイツがロシア側にいろいろと情報を漏らしているらしい。」

「ドイツは、何の目的でそんなことをしているのかな?」

「ライリーの言うように、ドイツはまだ軍事協約書の詳しい中身までは知らないのだろう。何とか探り出そうといろいろ工作しているのに違いない。我々の尾行もその一つだろう。なかなかうまくいかないので、今度は、ロシアをそそのかして、ロシア人にそれをやらせようというわけだ。」

「それにしても、外国に来て白昼堂々の不法侵入や発砲は乱暴過ぎる。」

「ロシア政府といえども、いきなりそこまではしない。やはり、ライリーの言う通り、強硬派があせって無謀な工作をしたのだろう。ドイツは、強硬派を煽り、ウィッテをはじめ穏健派の追い落としを狙っているのではないかな。」

「ドイツというのは実に巧妙かつ狡猾だね。この書類が強硬派の手に落ちたら、どうなるのだろう。」

「おそらく、人の意見に左右されやすいニコライ2世をたきつけて、英国への敵意を煽って穏健派を攻撃し、ますます冒険主義的な行動をとらせるだろうね。」

ホームズは、懐中時計を取り出して、マントルピースの時計と見比べながら、

「いずれにしても、今回、死者まで出た銃撃騒動で、ドイツ。ロシアとも少しは行動を控えるかもしれない。」

こういってから、そろそろ来るかなと言った。私は、誰だいと聞くと、ホームズは黙ったまま不意に立ち上がって窓に近寄り、通りを見下ろしていたが、しばらくして、やはり来たか、言った。

 玄関でやりとりする音がして、まもなくハドソンさんが現れ、昨日のお客様がまたお出でですけど、どうしましょう、と言った。ホームズは、すぐに上がるように伝えてほしい、と頼んだ。やがて部屋に現れたのは、私服姿の財部少佐だった。

「連絡も差し上げず、突然お伺いして申し訳ありません。」

彼は帽子を取って、まずこう詫びながら、

「本日参りましたのは、昨日の件で取り急ぎお話ししたいことがありまして、失礼をも顧みず参上しました。」と言った。顔色も悪く、緊張した表情だった。

椅子を勧めた後、ホームズが、まずはお話をお聞きしましょうと言うと、

「昨日は失礼を致しました。公使館にもどっていろいろ考えたあげく、ホームズ氏のご懸念の点ももっともだと思われ、捜査にご協力はしたいと思います。ただ、いわゆるコミッション問題については、残 念ながら海軍部内にそうした行為をする者は存在するようです。しかし、これはあくまで一部の者の行為とお考えください。この問題がむやみに扇情的に拡散されると、海軍軍人に対する不信を煽り、ひいては国民の海軍に対する信頼が揺らぎかねません。ご承知のように、今、我が国は未曾有の国難に直面しております。綱紀粛正は海軍自ら厳格に行いますので、この件は、構えて内密にお願いしたいと思います。」

 ホームズは、よく分かっております、と答えてから

「お聞きしたいことが、何点があります。まず、軍艦の発注の件です。発注は、どなたなさるのですか?」

「軍令部及び艦政本部で協議し、海軍大臣が決定します。」

「どの会社を選ぶかは、誰が決めるのですか?」

「これも、軍令部、艦政本部が協議し、最終的には海軍大臣が決めます。しかし、事実上は、現地の会社と直接折衝する駐在武官や派遣された造船造兵関係の機関科士官の報告書や資料に基づいて、決定されます。」

「各造船会社と直接折衝する責任者はどなたですか?」

「公使館駐在武官室の海軍武官です。」

「すると、駐在武官のタマイ大佐殿ですね?」

「そうですが、あと武官補の士官が二人います。」

「大佐殿は、いつ頃から英国に駐在されているのですか?」

「えー、確か一八九四年の日清戦争直後から赴任されているはずです。」

「そうすると、もう8年ほどになりますね。この時期、貴国は我が国で大量の艦船を建造されていますが、大佐殿はそのほとんどの発注にかかわっていたのですね?」

「そう思いますが…。」

財部少佐は次第に困惑した表情となった。

「ところで、発注の契約と支払は誰が行うのですか?」

「契約は、海軍ではなく外務大臣が駐英公使に訓示して、外務省と造船会社との間で行われます。支払はロンドンにある造船造兵監督事務所が窓口で、契約成立時点の契約金、工事中に何度かに分けて支払う中間金、完成後各種検査の上支払う最終金と分かれて監督事務所の会計官が行います。」

「ところで、ビッカース社の担当をされていた会計官は、なんという方ですか?」

財部少佐は、少し驚いた様子だった。

「えー、会計官は何名かいますが、誰だったかよく覚えていません。しかし、彼がどうかしました か?」

「通常、コミッションは、支払い直後のキックバックとして渡されることが多いと聞いています。昨日、お話ししたシーメンス関係の証拠というのは、ビッカース社建造の戦艦ミカサにかかわるものらしいのです。ドイツが接触を試みるとしたら、その人物の可能性があります。できましたらその人物の経歴等を知りたいのです。」

財部少佐は、蒼白な表情で、

「分かりました。もし、不正が事実なら、許されることではありません。早速その会計官について調べてみます。」

「可能ならば、写真もお願いしたと思います。」

「はい、おそらく手に入ると思います。」

「ところで、私どもがこうして少佐にお聞きしていることについて、タマイ大佐はご存知ですか?」

「とんでもない。もし知っていれば、私はここに来ることなどできなかったでしょう。すべて、私一存の判断と行動です。私としては、今、ホームズ氏への協力こそが、海軍を救い、国家に忠誠を尽くす途だと確信しています。」

こう言って、できるだけ早く連絡すると言って、目立たぬように立ち去った。

 私は窓から見送りながら、

 「タカラベ少佐は、取り澄ました嫌な男と思っていたが、けっこう骨のある、清廉な人物だね。」

 「そうであってほしいね。しかし、コミッションの問題は、海軍上層部もかかわった深刻な問題だと思う。積年の悪弊をなくすのはたいへんだろう。」

「ところで少佐はアポなしで突然やってきたが、君は彼が来るのを予期していたみたいだった。なぜ分かった?」

「簡単な推理さ。少佐は、タマイとその取り巻き連中の醜行は気付いている。ひょっとしたら、というか間違いなく本国の上層部もかかわっている。だから、海軍部内でもこの問題には誰も手を触れない。それを僕が突っついたわけさ。彼には選択肢は2つしかない。僕の希望に応ずるか、断るかだ。応じた場合、海軍部内からどんなしっぺ返しがあるか分からない。自分のキャリアはこれでおしまいかもしれない。少佐は、昨夜は眠れなかったにちがいない。」

「確かに今日は疲れて、憔悴した感じだったな。」

「上司にも同僚にもとても相談できない。これに触れるのはタブーだからだ。一晩考えたあげく、僕の 希望に応える決心をしたはずだ。なぜかというと、この問題を放置した場合、いつかは不正が明るみに出て、海軍にとってもっと深刻な事態となりかねないからだ。誰とも相談できないとしたら、自分の気持ちが変わらぬうちに返事は一刻も速いほうがよい。かといって、午前中から公使館を離れるのは目立つから、昼食時、公使館を抜け出して、私服に着替えてくるに違いない、とにらんだのさ。時間は午後1時半頃と想定したが、案の定だった。」

なるほど、と私は納得した。

ホームズは、

「推理の基本だよ! ワトソン。さあ、捜査はいよいよ大詰めに近づいた。あとは、もう一人の日本人の聞き取りが必要だが、彼は今、パリにいる。」

「それは誰だい?」

「アカシという陸軍中佐だ。駐仏日本公使館の駐在武官をしているらしい。」

「その男は、どういう人物なのだ?」

「アカシはどうやら日本の参謀本部の指示を受けて諜報活動をしているらしい。彼はロシア工作ではか なりのやり手で、あのライリーと親密だそうだ。」

「へえ、ライリーと。そういえば、ライリーもロシア工作が専門だったね。」

「ライリーは、実はオデェサ生まれのロシア人さ。若いとき革命学生グループに参加してオフラーナ(ロシア秘密警察)に逮捕されたことがあるそうだ。逃げて南米に渡り各地を転々として、ブラジルで現地の英国諜報機関にスカウトされたのだ。やがて、英国でアイルランド人の妻をめとって、妻の姓のライリーを名乗ったらしい。5年前に帰化して陸軍諜報局に正式採用されたそうだ。1897年から2年間、サンクト・ペテルスブルグの英国公使館で諜報活動に従事して、ロシア革命派の調査をしたらしい。」

「ふーん、ライリーという男も、若いが波乱万丈の人生だな。ところで、さっきのアカシだが、今回の事件とどんな関わりがあるのだい?」

「まだはっきりとはしない。しかし、何かあると思う。前にも言ったが、日本海軍の汚職の件は、僕ははじめライリーから聞いて知った。ライリーは、こういった情報の収集にかけてはお手のものだ。実は、アカシは六月から七月のはじめにかけて2回ほど、ひそかにロンドンに来たらしい。ライリーの話によると、アカシはかなり以前からタマイらの不正行為はライリーから聞いていたそうだ。しかし、六月に来たとき、彼は、ライリーにこの件の情報を随分詳しく求めたということだ。」

「同じ日本の軍人として、憤りを感じたのじゃないかな?」

「そうかもしれない。だが、彼は不正を告発する等の行動を取ったとも思われない。それに今になって急にこの問題に関心を持ったのは、なぜだろう?」

「それもそうだ。」

「それと、ライリーの話では、彼がロンドンに来た目的は、人に会うためだったらしい。」

「誰と会おうとしたのだい?」

「それもはっきりしない。ただ、今回の陸軍協約書と何か関係がありそうな気がする。彼は公使館駐在武官の身分を隠して、ロンドンに来ている。当然、諜報活動のために来たはずだ。同盟国の英国でどんな活動をしたのだろう? ライリーに聞いても、ロシア関係ではないだろうと言う。じゃあ、何の活動をしに来たのか?」

「アカシはいつ来たのだい?」

「来た日は分からない。ただ六月中頃と七月六日の二回、彼はライリーに会っている。」

「七月六日といえば、ちょうど軍事協商会議が行われた前日だね。」

「そのときも、彼は人と会うため来た、といったそうだ。」

「自分の身分を隠して、パリからわざわざ会いに来る相手とは、どんな人物だろう?」

私は考えあぐねた。ホームズは

「ひょっとして、何か打ち合わせに来たのかもしれない。ロンドンの日本公使館関係者でアカシと会った人物を確かめようと思っている。」

ホームズは、急に立ち上がって、帽子とステッキを取って

「これから公使館のウツノミヤ少佐に面談要請の電報を打ってくる。往診で疲れただろうから、君は休憩したまえ。」 

こう言うなり、外へ出て行った。そのまま彼はなかなか帰って来なかった。





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