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前編その3

七 「諜報員」

明くる日(八月一日)、しばらく初診は断っているので、患者は私が掛かり付け医をしている3人だけだった。メイドに頼んで昼食を早めに済ませ、私がディオゲネス・クラブに着いたのは。午後一時過ぎだった。玄関の詰め所で案内係に名前を告げると、あらかじめ知らされていたと見え、ただちに来客室に案内された。すでにホームズは来ていた。

 「早かったね。もう食事は済ませたかい?」

 「今日は、診察が早く終わったので、早めに済ませてきたよ。君はどうだい?」

 「僕も、先ほど、ここのダイニングルームで済ませた。」

肘掛け椅子に腰を下ろすと、ウェーターが早速カクテルを持ってきた。よく冷えたウィスキーソーダだった。

 「ウツノミヤ武官にはさっき電話したよ。シバ中佐は、今日は公使館にいる。会議は午前中にすんだので、午後はいつでもお目にかかれます、とのことだ。一応、三時に訪問すると伝えておいたよ。まだ時間があるから、ゆっくりくつろいでくれ。」

 「ありがとう。ところで、マイクロフトはどうしたのかな?」

 「兄は、今、政府関係者との昼食会に出かけているが、昼食会に名を借りた緊急会合らしい。今回の件で政府のほうに何か動きがあるようだ。今日の日本側の会議もそれと関係があると思う。」

 「なんだろう? 捜査の見通しもまだ立っていないのに、事態がどんどん進んでしまうなんて、やりき れないね。」

 「我々の捜査はまだ5日目だが、事件そのものは、すでに20日以上たっている。情報を知って、いよ いよロシアあたりが動きだしたのかな?」

 「そうすると、いよいよ開戦もあり得るかな? 英国が満州に派遣軍を送る前に叩いておこうと、ロシ アは、日本に先制攻撃をかけるかもしれないよ。」

 「陸上戦力に関しては日本の戦備は遅れているらしい。もともとロシアは日本軍の実力をなめきってい て、その気になればいつでも勝てると思っている。英国が関与して来る前に、一気にかたを付けようと することも考えられないこともないね。」

 「そうなったら、我が英国はどうするのかな? 本気で日本を助ける気はないようだし、日本を見殺し にしてしまうのだろうか?」

 「いや、その前に、日本が英国を見限ってロシア側につくかもしれない。」

 「いずれにしても、日本にとっては大変だが、我が英国も難しい立場だね。」

この後、二人は、両国の命運を思って、しばらく沈黙していた。

そのとき、ボーイが現れ、お客様がおいでですと一枚の名刺をホームズに渡した。ホームズは名刺を見てから、私に寄越した。名刺には、シドニー・ライリーと名前だけ記してあった。すぐお通ししてと、ホームズが言った。

 「例の諜報局の将校かい?」

 「うん、今朝マイクロフトが連絡して、ここに呼んでくれたの。」

まもなく、山高帽をかぶり、ステッキを持った紳士が現れた。年のころはまだ三十歳半ば、中肉中背の若い男で、黒い髪、灰色の眼をしていた。帽子を脱ぎ、挨拶をして握手を求めた。

 「シャーロック・ホームズ氏とワトソン博士でございますか。初めまして、陸軍省のシドニー・ライ  リーと申します。」

彼は、席を勧めると感謝して座ったが、飲み物は断った。

 「失礼とは思いますが、お二人には昨日から護衛を付けさせていただいています。」

 「昨日と今日のハンサム・キャブ(一頭立て二輪馬車)ですね。ご配慮ありがとうございます。」とホームズが言うと

 「すでにお気づきでしたか?」とライリーは笑った。

私は、今日ここまで来るのにオムニバス(乗合馬車)を使ったので、

 「私には、今日は付いて居なかったと思うが?」

 「いえ、やはり辻馬車の格好で、乗合馬車の後を付けておりました。」

 「全く気づかなかったな。」

ホームズが聞いた。

 「ところで、我々を尾行していた馬車の正体が分かりましたか?」

 「はい、だいたいのところは分かりました。」

 「やはり、ロシアかフランスですか?」

 「始めはロシアを疑っていましたが、実はドイツでした。」

私は意外に思って、

 「ほう、ドイツですか、どうして分かったのですか?」

 「あの日、マイクロフト氏から電話を受けた後、我々は直ちに日本公使館に駆けつけました。幸い、  我々のオフィスからすぐ近くだったので、まだ馬車は通りに停まっていて我々は4人のチームで監視を 続けました。まもなく暗くなって公使館の門が閉じられる

 と、ようやく馬車が動き出しました。その後、さらにもう1チームを動員して追跡を行ったところ、途 中で2人が降りて別な馬車を乗り換え、あちこち移動して最終的にはカールトン・テラスのドイツ大使 館の構内に入っていくのを見届けました。始めの馬車は借り物で、馬車屋に返されました。御者の男は あちこち歩いて尾行の有無を確認した後、やはりこれも最後にはドイツ大使館に入って行きました。」

 「彼らはドイツの諜報員なのでしょうか?」

 「英国人で雇われている者もいるでしょうが、中心メンバーは間違いなく大使館員の肩書きを持った諜 報関係者でしょう。今日見た1人は、確か大使館付陸軍武官補のフォン・ヘルリンク大尉だったと思い ます。彼は、2年前から英国で勤務していますが、それ以前はロシアで活動していました。私が一八九 八年にサンクト・ペテルブルグで諜報活動に携わっていたとき、彼の姿を見たことがあります。」

ホームズは、

 「今日は、我々に尾行が付いていましたか?」

 「部下の報告では、付いていなかったようです。おそらく、昨日、あなたがたがうまく尾行をまいたの で、自分たちの存在を知られたと思って警戒しているのです。我々の動きにも気づいているかもしれま せん。」

私は、自問するように言った。

 「彼らは何の目的で我々を尾行したのだろう?」

 「あくまでも推測ですが、彼らは英国と日本の軍事協商の秘密会議が行われたことを知り、どのような 協約が交わされたのか関心をったはずです。今回の書類紛失事件についても、彼らが関与したかどうか は分かりませんが、捜査の成り行きや日英両国の今後の動きによっては、ドイツの利害に大きな影響が あるわけで、この辺の情報を欲しがっているかもしれません。」

 「彼らは、協定書の内容を知っているのでしょうか?」

 「それは、まだ分かりません。」

 ここまで言うと、ライリー中尉は、今後新しい情報が入り次第、マイクロフト氏を通じてお知らせすると言って、最後に、

 「名前は申せませんが、今回の作戦で私が直接指示を受けている人物の話によると、7年前のブルー  ス・パーティントン設計書事件を根に持っていて、彼らはホームズ氏へ報復するかもしれない、とのこ とでした。我々も警護に最善を尽くしますが、当分はくれぐれもご注意下さい。本日は、とくにこの点 を申し上げたくて参りました。」

こう言って、すぐ立ち去った。


私は後ろ姿を見送ってから、

 「彼は少しアイルランドなまりがあるが、アイルランド人とも思えないな。」

 「あの英語はアイルランドの特徴だけでなく、多国籍のことばのなまりがあるよ。頭髪や目の色、体型 から見て東欧か、ロシアの出身かもしれない。」

 「本当に、英国陸軍の将校かな?」。」

 「諜報の世界には、多種多様な人材が必要だ。海外の諜報活動では、ことばなどから現地出身の諜報員 が欠かせない。彼はその道のプロとして、陸軍にスカウトされたかもしれない。」

 「あの若さで、この事件を任されているのだから、相当のやり手なのだろう。それにして、陸軍諜報局 は、ずいぶん大がかりな作戦をするな。」

 「いや、これは諜報局だけではないよ。我々の護衛やスパイの追跡は、ヤード(ロンドン警視庁)のス ペシャル・ブランチ(特別部)だ。でないと、あれだけの人数や馬車は動かせないよ。マイクロフトに 聞いたが、部長はウィリアム・メルヴィルといって、もう10年以上防諜の仕事している古つわものだ そうだ。ライリー中尉の指示を受けている人物とは、メルヴィルのことだろう。」

 「そういえば、ブルース・パーティントン設計書事件のとき、君の兄さんがスペシャル・ブランチのM に聞いたとか言っていたが、Mとはメルヴィルのことじゃないか?」

 「うん、だから今回は、諜報局とスペシャル・ブランチの共同作戦さ。」

 「そうか、ますます大変なことになったな。」

 「まもなく家庭を持つ君に、こんな危険な仕事に協力してもらうのは、申し訳ないよ。」

 「なに、いまのところはまだ大丈夫だろう。いよいよとなったら、遠慮無く引かしてもらって、高みの 見物をさせてもらうよ。」

私はこう言って笑った。そして、

 「ところで、ドイツは、7年前の事件で本当に我々に報復をするつもりかな? 当時、あの事件につい てドイツは完全に関わりを否定して、売国奴のウォールター大佐と情報を各国に売ろうとしたオーバー シュタインの個人的犯罪ということで決着したはずだ。オーバーシュタインは、15年の懲役刑を受け てまだ英国監獄にいるが、結婚直前の青年技師カドガン・ウエストの命を奪った割には刑が軽すぎる  よ。」

 「あの事件にはいろいろ裏がある。オーバーシュタインは金で雇われたスパイだが、背後にはドイツの 諜報機関がいるのは確実だ。マイクロフトの話だと、ドイツの悪辣さには、 さる高名にして高貴な女 性も、それが自分の娘の嫁ぎ先と孫の国だけに激怒されたらしい。」

 「それなら、どうしてドイツの関わりは明らかにされず、オーバーシュタインは死刑にならなかったの だい?」

 「一説には、オーバーシュタインが自分の握っている他国の機密情報を提供するかわりに死刑を免れた のではないか、と言われている。」

 「たとえば、ドイツの諜報機関の内情とか?」

 「あり得る。その辺の詳しい事情はマイクロフトも一切口外しないが、オーバーシュタインを捕らえた ことで、英国は貴重な情報を得たに違いない。例えば、ドイツのスパイ網とか英国のエージェント(協 力者)とか。」

 「ウォールター大佐は、その1人だったわけだ。」

 「そう、彼は株取引で巨額の損をして、多額の借金をしていた。ドイツ側はこれを掴んでオーバーシュ タインを使って接近し、設計書を盗むよう唆したのさ。」

 「そう考えると、ウォールター大佐も哀れな男だな。彼は最後までドイツに操られていることも知ら  ず、金に目がくらんで売国奴に仕立てられてしまった。 兄のサー・ジェームズは自殺し、一族は汚名 を負い、彼自身も刑期を2年も勤めないうちに獄死したそうだ。」

 「ドイツは同様の手口で、金に困った人間や弱みのある人物に目をつけて、エージェントに仕立て上げ る工作をしていたが、オーバーシュタインの情報でこちらの防諜機関が動いて、工作のほとんどが破綻 したと思うよ。」

 「そうか。英国がドイツの関与を明らかにしなかったのは、そのほうが都合よかったからだね。」

 「ドイツに正式抗議となると外交問題ともなるし、抗議する上での証拠や事実も明らかにしないといけ ない。せっかく手に入れた情報を相手にさらけ出して、こちらの手の内をわざわざ教えるようなもの  だ。それより、その情報を有効利用したほうがよい。そちらのほうがドイツ側にとっては打撃が大き  い。」

 「なるほどね。そうなるとやはり、我々への報復も考えられるな?」

 「うん、十分考えられるね。マイクロフトによると、あの事件の後、ドイツ大使館の駐在武官が交代し たのは、その時の諜報工作の失敗による更迭だろうという話だ。そうだとしたら、ドイツ側の被害は予 想以上に大きかったことになる。」

 「我々を尾行したフォン・ヘルリンク大尉とは、どんな男だろう?」

 「僕も名前を初めて聞く男だが、諜報員だとしたら本名かどうかも分からない。2年前から英国で活動 しているというから、こちらの防諜機関も把握しているだろう。ロシアにもいたというから、それなり のやり手かもしれない。」

 「我々への報復を狙っているとしたら、気味が悪いね。」

 「向こうも、自分の正体がすぐ割れるような露骨な行動はしないと思うが、ともかく注意しよう。」


   八 「コロネル・シバ」

 マイクロフトは戻って来なかったので、我々は二時半ころにディオゲネス・クラブを出て、呼んでもらった辻馬車に乗り、エベリーストリートに向かった。日本公使館に着くと、ホームズは、御者にここで待つように言った。御者は、自分の正体が知られているのを分かっているようで、黙ってうなずいた。公使館の門衛詰め所で用件を伝えると、すぐに前回と同じ応接室に通された。前と同じ若い日本人が、コーヒーと例のすてきな緑茶を運んで来た。まもなく、宇都宮少佐とともに、黒の肋骨服の胸にいくつもの勲章を飾った、中年の陸軍将校が現れた。髪を短く切り、口髭の薄い引き締まった顔つきで、痩身小柄ながら、いかにも機敏そうな体つきをしていた。

 「お待たせいたしました。私が柴です。」

こういうと、会釈して握手を求めた。宇都宮少佐がホームズと私

を紹介し、それぞれ握手を交わして席に着いた。ホームズは、

 「シバ中佐のご高名は、我々イギリス人にもとどろいております。本日は、ご多忙にもかかわらず、お会いいただいてありがとうございます。」

 「いいえ、とんでもない。こちらこそ我が国の不手際をお詫びしなければなりません。ホームズ氏とワトソン博士には、とんだご面倒をおかけして申し訳ありません。公務とは申せ、私も不在を続け、いままで捜査にご協力できなかったことを申し訳なく思っております。」

柴少佐は、完璧な英語で丁重に語った。わざとらしさない謙虚さと、明るく率直な物言いで、好感が持てた。ホームズは早速ですがと言って、質問し始め、私はメモを取った。

「恐れいりますが、中佐殿の七日から十日かけての行動についてお聞かせください。」

「はい、七月三日に小松宮殿下がヨーロッパ歴訪のためパリを出発された後、福島閣下を始め我々陸軍の者は、七日の日英軍事協商会議に向けての打ち合わせや資料作成を行いました。七日の会議には私は出席せず、昼間は公使館におりました。この日は、陸海軍共通の協約書が調印されました。翌八日には再度、陸軍のみの会議が行われ、協議の結果、日英陸軍の秘密協約が締結されたことは、ご存知だと思います。この日は、私は技術的側面について補佐する、砲・工兵専門委員として、安藤中佐も歩・騎兵専門委員として会議の前半のみオブザーバ参加が許されました。」

「そうすると、お2人とも、協約書の内容はご存知だったのですね?」

「協約書の文書そのものは目にしておりませんが、日本側の要望案の作成に関わりましたので、大体のところは、知っておりました。」

 「九日以降について、お話しください。」

「はい、九日は、私は終日ウーリッジのロイヤル・ミリタリー・アカデミー(王立陸軍士官学校)で砲兵科教育の視察をさせていただきました。十日は、小松宮殿下のベルギー国王陛下表敬のご訪問に随行するため、早朝ホテルを出発し、ドーバー行きの列車に乗りました。そして、海峡渡船でオステンドを経て同日夜ブリュッセルに到着しました。」

「ホテルは何時頃に出発されましたか?」

「列車に間に合うよう、9時前でした。」

「フクシマ少将の出発前でしたか?」

「はい。」

「お部屋の鍵は、どうされましたか?」

「あのときは、急いでいたので、フロントに渡すつもりで忘れてしまい、駅まで荷物を運ばせたホテルのポーターに託して返却しました。」

「時間は何時頃でしたか?」

「ドーバー行きの1番線ホームで列車に荷物を積み終えたときは、発車の十分前くらいでしたから、おそらく、10時前だったと思います。」

「昨日、こちらに戻られるまでは、ずっと大陸におられたのですね?」

「はい、小松宮殿下に随行してベルギー国王陛下の後は、フランスの大統領閣下、サンセバスチャンに避暑中のスペイン国王陛下に表敬し、その後はしばらく賜暇をたまわり、ドイツ、フランスの兵器廠や民間工場、砲兵教育の視察をさせていただきました。現地機関との日程調整がうまくいかず、英国に戻る予定が遅くなり、こうして捜査にご迷惑をかけました。」

ここまで聞くとホームズは、本事件についての聞き取りは以上です、ありがとうございましたと礼を言った。そして、参考までにお聞きしたいことがあります、と次のように言った。

「シバ中佐は拳匪の乱で主要国と協同して戦い、各国の軍の戦いぶりをよく御覧になったことと思われます。各国のなかでも、日本軍は、北京籠城戦を始め各地で連合軍の主力となって戦い、その勇敢さと軍規の厳正さ、戦後の講和会議での公正な振る舞いは世界中が賞賛しております。」

柴中佐は、

 「過分なお褒めのことばをいただき、感謝しております。我が軍だけでなく、英国、ロシア、ドイツを始め各国がそれぞれに任務を果たされた結果だと思います。」

私は、2年前の拳匪の乱は、従軍した従兄弟のアーサーから聞いてよく知っていた。そこで口を挟んで、

「いや、それは謙遜のし過ぎかと思われます。あの事件が早期に収拾したのは、やはり日本軍の貢献が大きかったと思います。ロシアは、連合軍最大の18万という兵力を送りこみながら、満州の領土をかすめ取るばかりで、主戦場の天津・北京方面ではろくな戦いをしていなかったといわれます。」

「確かに、ロシア軍は満州方面に力を入れたため、北清への主力の展開は遅れましたが、英国を始め列強諸国がその穴を埋めてくれました。」

「私は、拳匪の乱には従軍しませんでしたが、従兄弟が英印軍の軍医として参加しました。彼の話によると、あの時、直ちに戦略単位の兵力を派遣できる国は、ロシアと日本だけだったそうです。当時ボーア戦争で手一杯の我が国が、インド・ビルマ方面からある程度まとまった兵力を派遣できるようになったのは九月以降で、それまでは、ホンコン、シンガポール等の極東駐在の少数の部隊しか派遣できませんでした。それはドイツ、フランス等の他の諸国も同じでした。ロシアを除いた8カ国連合軍が、兵力を整えてようやく7万を超えたのは、北京攻略後の十月中旬以降で、内、日本が約2万、英国が1万8千だったそうです。」

「その他、ドイツが1万8千、フランスは1万4千、アメリカも約3千おりました。」

「しかし、戦いのピークは八月十五日の北京攻略までで、その間主力となって戦い、勝利に貢献したのは日本軍だったそうです。ドイツもフランスも勝負が付いた後の掃討戦に参加したようなものです。とくにドイツに至っては、北京占領後にやって来て何の働きもしなかったにもかかわらず、ロシアと示し合わせて、ヴァルデルゼー元帥を各国派遣軍の司令官に据えるという厚顔ぶりで、各国を呆れさせました。このときアメリカは拒否して、独自の行動を取ったくらいです。すでに清国政府は崩壊して事実上戦争は終わっているのに、ヴァルデルゼーときたら、北シナ一帯の大作戦を命じて、1万6千のドイツ兵は、北京でし損なった略奪・暴行を、周辺の討伐によって埋め合わせようと、お話しにならないくらいひどい振る舞いをしたようです。」

義憤にかられた私は、つい熱弁をふるってしまった。2人の日本人は厳しい表情をして黙って聞いていた。

このときホームズは、とりなすようにして、

「ワトソン博士の見解は、我々全員が共有しているものと思います。ところで、私がお聞きしたかったことは、日本軍の実力から見て、極東方面では英陸軍の支援がなくても、日本は独力でロシアに対抗できるのではないかと言う見方についてです。これについては、もちろん否定的な見方のほうが多いことは承知しておりますが、あの戦いでロシア軍の実情を御覧になった中佐は、正直なところどう思われますか?」

 「いや、これについては、私はお答えする立場になく、その判断はとても出来かねると

思うのですが。」

 「シバ中佐、この問題は、今回の協約書紛失の背景を考える上で重要です。協約書窃取が外国政府によるものならば、今後の彼らの国策に何らかの影響を与えるはずです。日本が独力で戦えないとすれば、フランスは、軍事協約を阻止するか、無力化させようと

するでしょう。これは自国が英国との戦いに巻き込まれないためです。また、独力でロシアに対抗できるとする場合は、ドイツはロシア極東軍の増強がすむまで、英国の厭戦気分をあおって、日本に戦争回避の圧力をかけさせるかもしれません。これは、最終的にロシアを戦争に向かわせるための時間稼ぎです。つまり、彼らの今後の動きで、協約書の窃取者が誰なのかが推測できます。」

柴少佐はしばらくホームズの顔を見つめてから、

「そういうことでしたら、あくまでも私の個人的見解として申し上げたいと思います。」

それから宇都宮少佐に向かって、日本語で何か言った。宇都宮少佐は頷いて、

「中佐は、この件はここだけの話として私の胸にしまっておいてくれと言われ、私は承知した旨のご返事をしました。」と英語で説明した。

 「ホームズ氏、私は、ワトソン博士のおっしゃる通り、北京でのロシアの振る舞いには怒りを覚えました。北京攻略の間、彼らは自軍の利益しか眼中になく、全体の戦闘に貢献しないばかりか、たびたびの協定違反や任務の放棄によって、連合軍に多大の迷惑をかけました。このあたりのことは、福島閣下が一番よくご存知です。彼らの傍若無人ぶりや身勝手さには、タイムズ紙のモリソン記者も、これが文明国のすることか、とあきれておりました。」

こう言うと、柴少佐は、私のほうを見てうなずいた。

「さて、お尋ねの件ですが、軍の組織や部隊の運用、将兵の士気や質は、ロシア本国は別として極東方面に関しては、今のところは我が国のほうが勝っており、十分対抗できると思います。極東のロシア軍は部隊相互の連携が悪く、協力体制が極めて弱体です。また、将校と兵員との意思疎通も乏しく、将校は兵員の状況に全く無関心で、個々の兵員は野蛮なくらい勇猛ですが、自己の責務や戦いの意義などは知ろうともしません。また、ロシア軍には、ロシア人以外の多様な民族が含まれ、これも全体としての団結心を弱めているようです。したがって、ロシア軍は、優勢な時は勇猛果敢に振る舞いますが、いったん不利となったらあっけなく崩壊し、先を争って敗走する癖があります。」

私は、うなずいて、

「なるほど、貴族主義の将校団と無知蒙昧な農奴兵というロシア軍の構造は、ナポレオン戦争以来、あまり変わっていないようですね。」

「しかし、我が国には、大国ロシアとの国力の差という大きなハンディがあります。さらに、それ以外にも、軍事上の大きな弱点を抱えているのです。」

「それはなんですか?」

「私は砲兵将校です。ナポレオンが大砲を活用したことは有名ですが、当時は、大砲はまだ補助兵器で、戦闘の帰趨を制したのは、騎兵の衝撃力、戦列歩兵の突撃でした。だが今や大砲は長足の進歩を遂げ、普仏戦争の例を見るまでもなく、今後は砲火力が戦闘の帰趨を決めるでしょう。しかし、この砲火力が、我が国は先進諸国に比べて極めて弱体なのです。」

 「そういえば、フランスが画期的な大砲を開発したというが、それほど大きな発明なのでしょうか?」

 「はい。4年前、私が駐英公使館付駐在武官であった時から、すでにこの情報は得ておりましたが、当時は軍事機密ということで詳細を知ることは出来ませんでした。今回は、とくにフランス政府の許可を得て、この最新式の大砲を実際この目で見ることができました。」

ホームズが、口を挟んだ。

 「砲工学校を視察されたときですか?」

 「はい。1897年式の75ミリ野戦速射砲です。これは最大射程距離が8千メートルを超え、防盾を備え、間接照準が可能です。そしてなによりも世界初の液気圧式の完全な駐退復座装置を備えている点が最大の特徴です。発射時は砲身が後座するだけで砲架は動きませんから、今までのように照準をいちいち修正する必要はなくなりました。砲身は油圧によって自動的に元の位置に復座しますので、直ちに次の砲弾の装填が可能です。実弾射撃の演練を見学しましたが、驚くべきことに4秒に1発、1分間に15発の発射が可能で、砲架が安定しているので、命中率もかなりのものでした。これが今のところ世界最高の野砲だと思われます。」

私は、そんなにすごいものかと興味を惹かれて、

 「私は軍医だが、実戦に参加して大砲の発射は見慣れている。あの当時は1発撃つのに1・2分はかかっていたと思う。もっともインドだったから砲も旧式で、砲員の錬度も低かったのだろう。ところで英国やドイツにも、このたぐいの砲はあると聞いていますが?」

「はい。復座装置を備えた野砲は、英国には、オードナンスBL15ポンド砲、ドイツには77ミリFK96NC野戦砲があります。駐退機はいずれもバネ式で、砲尾シリンダー内のバネと鋼線でつながった駐鋤によって、発射時の砲車の後退を元の位置にもどしますが、射撃の度に砲全体が前後に激しく振動します。これですと、どうしても照準が狂ってしまうので、命中精度はかなり低下し、発射速度も1分間に7・8発程度です。」

「日本の野砲は、どうですか?」

「とてもとても、フランスどころか英国やドイツにも及びません。我が国の野砲は1898年に制式化された、有坂成章中将が開発された31年式野戦速射砲です。自国開発というのが唯一の誇りで、速射砲と言っても、無煙火薬を用いて装填が速くなっただけで、復座バネによる砲架後座式のため、発射速度は1分間に3発が限度です。最大射程は6千2百メートルで、直接照準による射撃が基本です。」

「ロシアはどうなのですか?」

「実は、ロシアは我が国とは比較にならない最新式の野砲を装備しているのです。ロシアは、1900年、我が国から2年遅れて、協商国フランスから先ほどの75ミリ砲の技術を導入して、完全な砲身後座式のプチロフ式速射砲を制式化し、極東に配備してきているのです。わずか2年の違いですが、この2年間の技術的格差は大きく、取り返しがつかない事態となったことが悔やまれます。」

「さきほど言った、軍事上の弱点とはこのことですか?」

「はい、プチロフ式野砲の射程距離は31年式より1000メートル以上長く、発射速度は5倍、しかも観測班からの間接照準が可能です。これでは、我が軍は姿を暴露したまま、隠蔽された敵陣地から一方的に撃ちまくられてしまいます。ロシアの野砲を制圧するには、まず敵陣地を発見し、砲弾が届く距離まで砲車を前進させ、直接敵を視認しながら照準を定めて、攻撃しなければなりません。このため野戦では、我が軍は極めて不利な戦いを迫られることになると思われます。」

「何か対抗策はないのですか?」

「私見ですが、唯一の対抗手段としては、野砲の機動性を高めるしかありません。ロシアが照準を修正して有効弾を打ち込む前に、迅速に陣地変換をして、できるだけ損害を少なくすることです。幸い31年式はプチロフ式より軽量なので、移動が楽です。できるだけ敵に接近して攻撃し、速やかに移動して違う場所から攻撃を繰り返せば、敵を翻弄することができるかもしれません。」

私は、血と汗と泥にまみれた兵士が砲火を浴びながら、必死に砲を移動している姿を思い浮かべた。

「奇策に近い方法で、犠牲も大きいでしょうが、今のところ、この方法がもっとも有効だと思われます。このためには、砲の運搬や操作法の習熟の徹底、馬匹牽引器具や弾薬車の改良、開発が必要となります。」

「すでに、この対策は進んでいるのですか?」

「いえ、まだ不十分、というより、ほとんどされていないと言ってよいでしょう。現状では軍首脳は火砲の技術進歩に対する認識が浅く、実戦の見通しが甘いようです。私は、帰国後ただちに、この件について上申するつもりです。このまま開戦に及べば、平坦な地形の、地物に乏しい満州の原野では、我が軍は身を隠すところもなく、ロシア軍の十字砲火で壊滅的な被害を受けるでしょう。」

「そうすると、今の砲火力ではとてもロシアにかなわないということですか?」

「攻城砲、野戦重砲等の重火器については、従来我が国は極めて貧弱でしたが、クルップ社に15糎及び12糎榴弾砲、10糎半カノン砲等を発注し、来年には到着予定です。これによっていくらか近代化はされますが、まだ数は充分とは申せません。また、さきほど申しあげた通り、砲火力の中心となる野戦砲に関しては質、量とも我が国はかなり劣っています。野砲連隊の増設も行っていますが、まだまだ、ロシア軍の戦力には及びません。私は2年前に新設されたばかりの第十五野砲兵連隊の連隊長を務めておりますが、兵の多くは未熟で、経験豊かな将校の数も少なく、おまけに最新式の31年式は、既設の連隊に優先配備されているため、いまだに砲の半数は旧式の青銅製七糎野砲のままです。」

ホームズは、いままでの質問をまとめるようにして訊いた。

 「協約書によると、開戦時、我が英軍が派遣されることになっているようですが、これは、中佐のおっしゃる軍事上の弱点を補うことになりますか?」

「貴国の支援は、我が国にとって物理的にのみならず、精神的にもかけがえのない支えとなるもので、いくら感謝しても感謝しきれません。しかし、英軍の到着前に、圧倒的なロシア軍によって、大陸に展開する我が軍が敗北する可能性もあり、そうならぬよう、今はともかく、将兵の練成と砲火力の充実に努め、自力でロシアに対抗できるようにしなければならないと思います。」

ここで、ホームズは、貴重なお話を聞かせていただき、ありがとうございました、と感謝して握手を求めた。私も同様に握手を求め、柴中佐は立ち上がって、本日はお会いできて幸いでしたと述べ、恭しくお辞儀をして部屋を出て行った。


宇都宮少佐は、少しお話があるので、しばらくお待ちくださいと言って、中佐を送り出して、まもなく部屋にもどってきた。

「お待たせしました。本日はご足労いただき、ありがとうございました。ところで、捜査のほうはいかがでしょうか。何か分かりましたか?」

「今のところはまだ、不明です。ただ、ドイツの諜報機関に多少動きが見られます。また、英国政府のほうが、本日会合を開いているようなので、ロシア、フランスなどに動きがあったのかも知れません。」

「ほう、ドイツが動き出してきたのですか。具体的にはどのような動きですか?」

「2日前から、我々を尾行しているようです。」

「そうですか。実は、公使館のほうにも、正体不明の問い合わせがあったり、現地採用の雇員へ接触を図ろうとしたりする動きがありました。情報の収集を狙っているようですが、これもドイツかもしれませんね?」

「ええ、可能性はありますね。ところで、本日は会議が行われたようですが、この事件に関することですか?」

「はい、あまり詳しくはお話できませんが、もちろん関係しています。この事件そのものというより、今後の対応についてです。近日中に英国側と協議を行うこととなっています。」

「そうですか。協議の前に、事件解明ができれば良いのですが。」

ホームズはこう言った後、

「この間、お話を聞いた海軍士官の方、名前は…えーと。」

私は、手帳をめくって、タマイ大佐とタカラベ少佐だと、教えた。

「そうそう、あのタマイ大佐は、この軍事協商会議の海軍側代表を務めておられたのですか?」

「いいえ。大佐は代表ではなく、私と同様、海軍側の交渉委員伊集院少将の補佐官です。もっとも、今回の海軍側の協約案は、同じ補佐官を務めた海軍省軍務局の財部少佐の仕事です。大佐は海軍の駐在武官として長く英国に滞在され、主として英国で建造している我が国の軍艦について、英国海軍省や造船会社との連絡調整を担当されている方です。海軍の協約は、協同信号法、電信用協同暗号、戦時石炭供給、運用船調達、海底電纜敷設など、実務にわたることが多く、英国海軍省に知り合いの多い玉井大佐の伝手が必要でした。」

「タカラベ少佐は、英国に来られたのは初めてですか?」

「いいえ、3年前、駆逐艦霓の回航委員長として英国に滞在されていました。」

「そうすると、建艦にもかかわっておられたのですか?」

「はっきりとは知りませんが、直接は関わっていないのではないかと思います。財部少佐は、本国で軍政方面の実務を取り仕切っている方で、将来は海軍大臣になる逸材と言われています。義父に当たられる山本海相がお嬢様の婿に望まれたくらいですから。回航委員長として英国に来られたのも、駆逐艦艦長としてのキャリアを積むためのもので、回航後は、すぐに本省に復帰されたようです。」

「そうですか。そうすると建艦の実務は、現地駐在の士官の方々が行っておられるのですね?」

「そうだと思います。建造には時間がかかり、造船会社との折衝もありますから、ある程度は、現地に腰を落ち着けて取り組まないとできないと思います。」

 「なるほど、そうですか。ところで、軍艦建造の主な造船会社は、アームストロング社ですか?」

 「それとテムズ社、ジョン・ブラウン社、ビッカース社もあります。」


話を終えて、我々は宇都宮少佐に分かれを告げて、日本公使館を退去した。待っていた辻馬車に乗り込み、ベイカー街だと告げると、馬車はすぐ動き出した。私は、馬車の後ろを注意しながら、

「シバ中佐は冷静沈着、かつ責任感の強い男だね。」

「うん、どんな事態になっても、あせらず慌てず、決して投げ出さずに任務を果たす男のようだ。」

私は、従兄弟のアーサーから聞いたことを思い出した。連合軍が北京入城し、その後開かれた列国指揮官会議で、マクドナルド公使は北京籠城の経過について、いかにも軍人出身らしく、事実について的確に、淡々と順を追って述べた。その席で、マクドナルド公使はとくに、籠城戦の最大の功労者としてシバ中佐の名を挙げて、彼の勇敢さと不屈の精神、不眠不休の働きを賞賛したという。

「彼は、おごらず敵をあなどらず、実に的確で冷静な判断をしているよ。」

ホームズは、

「彼は、英軍の支援など、始めからあてにしていないようだ。いや、英陸軍の派遣など信じていないかもしれない。」

「そうかもしれないな。英国の口約束を見抜いているかもしれない。それでいて、英国に対して悪感情は持っていないようだね。」

ホームズは、ぽつりと言った。

「人を恨まず、まず自己を責める。本当のサムライだな。」

「彼の見方では、訓練や規律、士気や団結心では日本のほうが上だが、火力や装備ではロシアに著しく劣るということだね。」

「兵器は買えばよい。一番大切なのはそれを使いこなす人間だよ。実際、日本海軍は軍艦のほとんどは外国から買って、将兵を練成して強力な海軍力を作り上げた。日本は陸軍力の整備が遅れているが、それさえ整えばロシアに十分対抗出来る、というのが僕の見方さ。」

「なるほど、その時は英軍の支援なども必要ないわけだ。」

「一般に、日本の潜在力を見落として、ロシアを過大評価しているように思う。なるほど、今、ロシアが日本を攻めたら、日本には勝ち目はないよ。戦備の遅れた日本が必死になって英軍の支援の約束を取り付けようとしているもこのためだ。しかし、日本の戦備が整った時、ロシアは痛い目を見るかもしれない。」

「兄さんのマイクロフトが言っていた、ロバーツ元帥が日本の勝利を予測したというのは、君のような見方かな?」

「おそらく、そうかも知れない。でも、こんな見方は少数だ。ドイツもフランスも日本の敗北を必至と見ており、彼らが最大の関心を寄せるのは、日本ではなくて我が英国の動向だよ。英国がどこまで日露の紛争に介入する気があるのか、それを知りたがっているに違いない。シバ中佐に説明したように、もし今回の事件に彼らが関与しているならば、これが事件の背景だよ。」

「つまり、英国の真意を探ろうとした、ということだね?」

「そういうことさ。」

しばらく走ったが、やはり尾行らしい馬車は見えなかった。

ベイカー街に着いて、ホームズは、明日は自分一人で調査するので、君はメイパリー夫人のもとにいてくれたまえ、明後日来てくれ、と言った。私は、了解し、そのまま馬車を自宅まで走らせた。

  


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