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ねこま荘怪異帖  作者: クティラ
第一章 もうすもうす
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第2話 窓の向こうの火の手

 呼出音を聞きながら、鷹雪は画面と自分の手を見比べた。


 ブロックした。


 名前が一覧へ移ったことも確かめた。


 ペンの蓋さえ、まだ手の中にある。


「……何なんだよ」


 応答せずに切ると、音は止まった。


 設定を開き直しても、柳町交換台はブロックした相手の一覧に残っていた。


 コンロの上で鍋の蓋が鳴った。


 慌てて火を止め、隣室へ向かう。


 大家の戸を叩いたが返事はない。


 もう一度呼んで耳を澄ませても、室内からは物音一つ聞こえなかった。


 こんな時に限って留守か。


 部屋へ戻り、机の端に置いてあった古い携帯を開いた。


 折り畳み式の小さな画面に、懐かしくもない安堵を覚える。


 連絡先から大家の番号を選ぶと、数回の呼出しの後で繋がった。


『草壁氏。ボクは今、外だよ』


「知ってます。さっき部屋に行きました」


『急ぎかい』


「昨日買ったスマホが変なんです。ブロックした相手から電話が来て」


『どこで買った』


 ほら、聞かれた。


「高架下の露店です。古いラジオとか売ってる」


『……大儀だねえ』


 電話の向こうで袋の擦れる音がした。


『相手と話したかい』


「三回。俺が何を言っても、もうすもうすって言って……西村さんって人を呼んでました。さっきは悲鳴が聞こえて……今、四回目が来たところです」


『もうすもうす? 聞こえた言葉は書いた?』


「手帳にあります」


『なら良い。電源を落として、机に置いておきな。何か聞こえても返事をしないように。すぐ戻る』


「電源、切れば大丈夫なんですか」


『切って大丈夫かどうか、見に行くんだよ。ミヤはいるかい』


「います」


『外へ出さないで』


 通話はそこで終わった。


 鷹雪はスマホの電源を落とした。


 画面が暗くなったのを確かめてから、机の奥へ押しやる。


 念のために充電器も抜いた。


 コードの先が何にも繋がっていないことまで見届けてしまい、自分で嫌になる。


 急いで帰ってくると言っていた。


 大家が来るまで触らなければ良い。


 大家が来るまでは、昼食を作る気になれず、鍋をコンロから下ろした


 三宅さんが足元へやって来て、鷹雪の脚に額を擦りつける。


「悪いけど、今は遊べないよ」


 撫でた指へ鼻を寄せた猫は、机の下へ潜っていった。


 鷹雪も畳へ腰を下ろし、手帳の余白に四回目の時刻を書いた。


 ブロック後。応答せず。


 文章にしてみても、すぐには意味を受け入れられない。


 ブロックする設定をした相手から電話が来る。


 それだけなら機械の不調で済みそうなのに、思い出すのは女の悲鳴ばかりだった。


 電源を落とした端末に通話は届かない。ブロックした相手なら、なおさらだ。 


 五回目の音が鳴った時、鷹雪は書き終えたページを眺めていた。


 ペン先が止まる。


 机の上のスマホは暗いままだった。


 台所を見ても、今使った古い携帯を見ても、他に音の出どころになるものはない。


 鷹雪は立ち上がらず、首だけを伸ばして黒い画面を確かめた。


 呼出音が鳴るたびに、薄い端末が木の天板を震わせている。


「切っただろ……」


 声に出してから口を閉じた。


 返事をするなと言われている。


 音が止まった。


 ほっと息を吐くより早く、机の上から声が聞こえた。


『もうすもうす』


 何かが喉へ貼りついた。


 鷹雪は唾を飲み込み、膝の上で拳を握った。


『西村さん……聞こえませんか』


 答えなかった。


 換気扇は止めてある。


 それでもザーッという雑音が部屋へ流れ込み、机の下から出てきた三宅さんが鼻を鳴らした。


 やがて声も途絶えた。


 鷹雪はスマホへ背を向けないように身体をずらし、三宅さんを膝へ抱き上げた。


 猫は一度だけ降りようとしたが、顎の下を掻かれると腹を預けてくれた。


「ちょっとだけ。頼むから」


 白い胸元へ指を埋めると、温かかった。


 大家と何度か妙なものに付き合ってきても、慣れたのは後始末の手伝いばかりだ。


 自分の部屋へ入り込まれるのは、いつだって嫌だった。


 机の上で、画面が点いた。


 柳町交換台。


 着信の表示はすぐに消え、通話時間の数字へ変わった。


 触(・)っ(・)て(・)い(・)な(・)い(・)。


 鷹雪は三宅さんを抱える腕に力を込めた。


 スマホから低い唸りが聞こえ始め、窓の向こうの自動車の音へ重なっていく。


『もうすもうす。二十七番……』


 女の声が続く途中で、甲高い音が鳴った。


 昨日聞いたサイレンだった。


 スピーカーの小さな穴から出ているはずの音が、頭の上まで広がっていく。鷹雪は肩を縮めた。


 通話が切れた。


 画面が暗くなる。


 それでも、サイレンは鳴り続けていた。


 三宅さんが悲鳴を上げた。


「三宅さん!」


 猫は鷹雪の腕に爪を掛け、窓へ顔を向けていた。


 全身の毛が膨らみ、開いた口の奥に小さな牙が見える。


 窓の外が暗かった。


 昼過ぎだったはずだ。


 鷹雪は猫の視線を追い、窓を見た。


 向かいの駐車場がなくなっていた。


 いつも洗濯物の下がっているマンションも、その手前の青い自動販売機も見えない。


 低い屋根が折り重なり、隙間を縫う道に人が走っている。


 火が上がっていた。


 一軒の屋根が燃え、通りを挟んだ家の軒先からも炎が噴き出している。


 煙の下が赤く照らされ、傾いた電柱の向こうを、何かがばらばらと落ちていった。


 雨のような音がした。


 女の声に混じっていた雑音と同じだった。


 窓枠が震え、畳へ落ちる光が橙色に揺れた。


 鷹雪は立ち上がろうとして、片脚を敷いたままだったことに気づいた。


 猫を落とすまいと身を捻り、背中から壁へぶつかる。


 尻餅をついた途端、窓の外で激しい音がした。


「待って、三宅さん! 出ちゃ駄目だ!」


 逃げようとする猫を抱え直す。


 自分の声が遠く、サイレンばかりが耳の奥で鳴っていた。


 玄関で鍵を回す音がした。


 戸ががらりと開く。


「草壁氏。今月の家賃は?」


 墨色の着物を着た男が、買い物袋を提げて立っていた。


「今それどころじゃないです! 窓、見てください!」


 大家は眼鏡越しに室内を見渡した。結んだ黒髪が首の後ろで短く揺れる。


 いつもと同じ顔だったが、袋を置く手は早かった。


「窓は開けたかい」


「開けてません!」


「なら、そのまま離れて。ミヤを放すなよ」


 鷹雪が猫を抱えて台所へ下がる間に、大家はカーテンを引いた。


 薄い布の向こうで、炎の色が揺れている。


 大家は懐から小さな和綴じの手帖を出した。


 開いたページの間から細長い紙を抜き、スマホの画面へ伏せて置く。


 何かが切れたような音がした。


 サイレンが止んだ。


 布越しの赤い光が消え、昼の日差しに変わった。


 鷹雪は三宅さんを抱いたまま、カーテンの裾を見つめていた。


 窓の外を自動車が通り過ぎる。


 大家は端末に紙を巻き付け、机の中央へ置き直した。


 左手の薬指で、金の指輪が光った。


 淡い色の石を留めた指輪は、くたびれた袖口にも、煙草の匂いをさせるこの男にも不似合いだった。


「……戻ったんですか」


「見てごらん」


 鷹雪は窓へ近づき、カーテンを指先で少しだけ開けた。


 駐車場には白い軽自動車が停まっていた。


 マンションのベランダで、誰かのシャツが風に膨らんでいる。


 膝から力が抜けた。机へ手をついて座り込み、ようやく三宅さんを畳へ下ろす。


「ミヤ、おいで」


 大家が手を差し出すと、三宅さんは鼻を寄せて匂いを嗅いだ。


 そのまま膝へ乗ろうとする猫を撫で、大家も向かいへ腰を下ろした。


 三十代の終わり頃に見える男だった。


 普段は面倒臭そうにしているくせに、人の部屋でも猫の扱いでも遠慮がない。


「それで、幾らだったんだい」


「三千円です。充電器も付けて」


 答えてから、安さを自慢している場合ではない。


 大家は鼻から息を抜いた。


「訳の分からんものを訳の分からん相手から買うなと、前にも言ったろう」


「店では普通に動いてたんですよ」


「家でも動いてるじゃないか」


「そこを動作に含めないでください!」


 大家は三宅さんの背を撫でながら、包んだ端末へ目を向けた。


「ひとまず、繋がらないようにはしておいた。触らずに置いておきな」


「これで終わりじゃないんですか」


「相手が分からないからね。どこから来て、何をしたがっているのか」


「家の外、空襲みたいでした」


「そう見えた?」


「昔の家が燃えてて、人が走って……電話から聞こえてた音も、外からしました」


 口にしているうちに、猫の爪が掛かった腕が痛み始めた。小さな赤い筋が何本か残っている。


 大家は鷹雪の手帳へ顎を向けた。


「聞こえた言葉を見せて」


 鷹雪は開いたページを押し出した。


 大家の指が時刻を辿り、二十七番という数字の脇で止まる。


「この番号へ繋ぎたがっていたのかな」


「ずっと西村さんを呼んでました。俺が違うと言っても話をやめなくて」


「ほかには」


「千代を、って。あとは、来させ……そこまでしか聞こえませんでした」


 鷹雪は余白へ二つの言葉を書き加えた。


 大家は少し眺めた後、手帳を鷹雪の側へ戻した。


「柳町の電話局を調べてみようか」


「昔あったんですか」


「それを君に調べてもらいたいんだよ。市内の名前だし、図書館に何かあるだろう」


「検索では別の町ばっかり出てきました」


 鷹雪は手帳と、紙に包まれたスマホを交互に見た。


「これ、そちらの部屋で預かってもらえません?」


「構わないよ」


「三宅さんが触らない所でお願いします」


「ミヤの方が分別はあるさ」


 反論しかけて、鷹雪は口を閉じた。


 大家の手が包みへ伸びた時、その下から小さな声が漏れた。


『もうすもうす』


 三宅さんの耳が動いた。


 大家は指先で紙を押さえたまま、鷹雪を見た。


 鷹雪はペンを握り直し、手帳の新しいページへ、柳町電話局、と書いた。


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