第1話 柳町交換台
高架下の露店に並んだ品物の中で、スマートフォンだけが妙に新しかった。
真空管のラジオや、受話器のない黒電話。
針の止まった置時計に囲まれ、黒い画面が天幕の隙間から差す昼の光を映している。
隅に貼られた値札は三千円。
天幕の縁に頭が触れて、草壁鷹雪は立ち止まり、首を屈めた。
「これ、動くんですか?」
「充電して確かめたよ。電池の持ちは知らんがね」
奥に座った男は、読みかけの新聞を膝へ置いた。
紺の作業着を着ているが、胸に入った刺繍は擦れて読めない。
鷹雪が持ち上げて電源を入れると、白い文字が現れた。
画面の端に小さな傷がある。他には目立つ傷みもない。
「説明書とかは……?」
「ないよ。箱もない。まとめて引き取った中にあったんだ。触って確かめてくれ」
鷹雪は何度か画面を滑らせた。
指について動く表示が面白く、用もない設定画面まで開いてしまう。
大学二年の秋にもなって、連絡のたびに「俺にはメールで」と頼むのも億劫だった。
旅先で地図を調べたり、安い宿を探したりするにも使える。
冬の旅行へ向けて少しずつ残している金から、三千円だけ借りれば良い。
随分と用途のある三千円だ。
「充電器も付けてもらえません?」
「そこの箱から合うのを探しな。見つかったら持っていって良いよ」
鷹雪はしゃがみ込み、絡まったコードを一本ずつ引き出した。
最終的に、千円札を三枚店主に渡した。
◆ ◆ ◆
禰古万荘へ戻ると、二階の廊下で誰かが布団を叩いていた。
日向に埃が舞い、錆の浮いた外階段に乾いた音が降ってくる。
鷹雪は隣の大家の部屋の引き戸を一瞥し、自分の部屋の鍵を開けた。
大家に見つかれば値段を聞かれる。
出どころまで聞かれたら、店主の説明では済まないだろう。
戸の隙間へ、白い鼻先が差し込まれた。
「ただいま、三宅さん。出ないで!」
足首を擦り抜けようとする三毛猫を抱き上げ、玄関へ。
細い爪がシャツに引っ掛かった。
「はいはい。かわいこさんは中で待ってて」
飼い猫の三宅さんを畳へ下ろすと、不服そうに一声鳴いた後、鷹雪の鞄へ顔を突っ込んだ。
店で渡された持ち帰った紙袋には興味がないらしい。
机へスマホを置き、必要な設定を進めてみた。
途中で分からなくなっては説明を検索し、何とか自分の番号でLINEも使えるようになった。
友人に送った短い挨拶には、妙な顔の絵と「やっとか」という返事。
画面を覗き込んでいた三宅さんが、机の隅へ顎を載せる。
鷹雪は顎の下を指で掻きながら、旅行先の乗換案内を開いた。
小さな画面の中に、行きたい町が幾つも。
――最初の電話がかかってきたのは、窓の光が薄くなり始めた頃だった。
聞き慣れない呼出音に、鷹雪は机へ伸ばしていた脚を引っ込めた。
膝が天板の裏へ当たり、愛猫が顔を上げる。
画面いっぱいに「柳町交換台」と名前が表示されていた。
名前の下に、小さく「LINE無料通話」とある。
大学の代表番号みたいな名前だ。そんな名前を登録した覚えはないが、LINEの設定中に、連絡先から友だちを追加するかどうか尋ねられた気もする。
「はい、草壁です」
耳を当てると、砂を擦り合わせるような音が聞こえた。
『……もうすもうす』
――女性の声。
遠くから細い管を通って届くようで、語尾が雑音に掠れていた。
「? どちら様ですか」
返事はなく、雑音だけが続く。
鷹雪は端末を耳から離して音量を確かめ、もう一度声を掛けた。
「もしもし?」
向こうで何かが鳴った。金属の先端で机を叩くような、小さな音だった。
そこで通話は終わった。
トーク画面を開くと、柳町交換台の名前の下に「通話時間 0:19」と残っている。
鷹雪は画面を少し眺めてから、スマホを机へ戻した。
間違い電話なら、もうかかってこないだろう。
◆ ◆ ◆
二度目の着信は、その夜の十時過ぎだった。
鷹雪は机に肘をつき、図書館から借りた本を読んでいた。
手元へ寄せた文庫本に合わせて背中が丸まり、長い脚は机の下で窮屈に折り畳まれている。
脚を伸ばせる場所には三宅さんが寝ていた。
呼出音に気づいて本を伏せる。
柳町交換台。
夕方と同じ名前を見て、鷹雪は眉を寄せた。
端末の故障でまともに繋がらなかったのなら困る。
応答し、今度はスピーカーに切り替えた。
「前も電話を頂きましたよね。お名前を聞いても良いですか」
ザーッという音が、小さな部屋に広がった。
『もうすもうす。二十七番……』
女の声に、別の誰かの声が重なった。数字を読み上げているらしいが、途中で何度も途切れる。
『西村さんですか』
「違います。俺は草壁です。お電話番号とかお間違えでないですか」
通話の向こうで、硬い音が鳴った。
かちり、かちり、と一定の間を置いて響く。
鷹雪の声が聞こえていないのか、女はなおも西村という名を呼んでいた。
三宅さんが前脚を畳み直し、スマホへ耳を向ける。
細く長い音が聞こえ始めた。
どこか遠くで鳴っているサイレンに似ていた。
高くなっては低くなる音の下で、女が何か話し続けている。
鷹雪は音量を上げたが、声も雑音も一緒に大きくなるばかりだった。
二十七番? 何を言っているのだろうか。
「えーと、すみません、何を言ってるのか……」
突然、音が消えた。
通話は続いていた。画面の数字だけが秒を刻んでいる。
鷹雪はしばらく待ち、自分から切った。
換気扇の回る音が戻ってきたように感じられた。
友だち一覧を開くと、柳町交換台はいた。
画像の設定されていない丸い枠と、見覚えのない名前。
開いても、今の通話以外にやり取りはなかった。
鷹雪は短い茶髪を掻き、検索欄へ名前を打ち込んだ。
電話の設備を紹介するページや、遠くの町の住所が出てくる。
夜分に電話をかけてくる理由を説明してくれそうなものは見つからない。
新しい端末に何か残っていたのだろうか。
電源を入れ直しても、名前は消えなかった。
机の引き出しから手帳を出し、時刻と聞こえた言葉を書き留める。
柳町交換台。二十七番。西村。
番号なのか、住所なのか。
欄外に疑問符を付けてから、鷹雪は隣室との間の壁を見た。
大家に相談したら、真っ先にどこで買ったと聞かれるに違いない。
そういう買い方をするなと、以前にも散々言われている。
ただの悪戯電話で叱られるのは御免だった。
――ただの悪戯電話、のはずだ。
明るくなったら、もう少し調べてみよう。
手帳を閉じると、三宅さんが膝へ前脚を掛けた。
「寝ますか、三宅さん」
猫を抱き上げた拍子に肘が本へ触れ、床へ落としてしまった。
鷹雪は三宅さんを片腕へ抱え直し、長い腕を伸ばして拾った。
◆ ◆ ◆
翌日の昼、三度目の着信があった。
講義から戻り、鍋の湯が沸くのを待っているところだった。
食卓代わりの机に置いた端末が震え、また同じ名前が現れた。
鷹雪はガスの火を止めた。
「何度もかけられても困るんですけど。俺に何の用ですか」
『もうすもうす』
昨夜より声が近かった。掠れた息遣いまで耳に触れ、鷹雪は思わず背筋を伸ばした。
『西村さん。千代を……』
「だから、俺は――」
激しい物音が言葉を遮った。
戸棚を床へ叩きつけたような音に続いて、ガラスの砕ける音がした。
複数の叫び声が入り交じり、誰かが短く咳き込む。
「もしもし! 大丈夫ですか!」
返事はなかった。
大勢の人間が、狭い場所を一度に走っているようだった。
何かを引きずる音が続き、女の声が途中で押し潰される。
『来させ……』
鷹雪は耳へ端末を押しつけた。
「どこにいるんですか!」
鋭い悲鳴が突き刺さった。
手から滑りかけたスマホを胸元で受け止める。
画面には、もう通話終了の表示が出ていた。
三宅さんが台所の入口に立っていた。
鷹雪を見上げ、尻尾の先を一度だけ動かす。
止めたコンロの上で、鍋の蓋がかすかに鳴った。
鷹雪は椅子へ腰を下ろした。
スマホを持つ指に汗が滲んでいる。
耳の奥に残る悲鳴を振り払おうと、空いた手で顔を擦った。
一瞬、手が震えて、うまく画面を触れなかった 。
録音を流していたのかもしれない。
何かの映画か、悪趣味な悪戯か。
そう考えれば、会話が噛み合わないことにも説明はつく。
鷹雪は友だち一覧を開いた。
いずれにしても、これ以上電話に付き合う義理はない。
柳町交換台を選び、ブロックする。
操作を終えた後も設定を開き直し、拒否する相手の一覧へ名前が移っているのを確かめた。
ブロックした相手からは通話が届かないと、さっき検索して読んだばかりだった。
スマホを伏せ、冷めかけた鍋を火に戻した。
沸き直すまでに、今の電話も手帳へ書いておくつもりだった。
ペンの蓋を抜いたところで、机が震えた。
伏せた画面の下から光が漏れ、あの呼出音が鳴り始めた。
鷹雪はペンを握ったまま端末を裏返した。
柳町交換台。
つい今し方、拒否した名前だった。




