第8話 帰ってください作戦
第8話 帰ってください作戦
七月に入った。
朝から蝉が鳴いている。
窓を開ければ熱気が流れ込み、マンションのベランダでは洗濯物が風に揺れていた。
そして今日も。
洗濯物は大量だった。
「第三便、出発しまーす」
和子が洗濯かごを抱えてベランダへ向かう。
「第四便もあるわよ」
由美子が続く。
美咲はテーブルに突っ伏した。
「洗濯物に便数という概念が生まれてる……」
徹が苦笑した。
「慣れたね」
「慣れたくなかった」
しかし本音を言えば、最近は少しだけ慣れてしまっていた。
朝食を六人で囲み。
昼には誰かがお茶を淹れ。
夜には誰かが夕食を作る。
生活そのものが共同作業になっていた。
それでも。
それでもだ。
このままではいけない。
美咲は家計簿を見た。
数字が恐ろしい。
食費も光熱費も右肩上がりである。
そして何より。
夫婦の時間がほぼ消滅していた。
美咲は小声で言った。
「徹」
「ん?」
「作戦会議」
その夜。
二人は寝室にこもった。
エアコンの風が静かに流れる。
リビングからは父親たちの笑い声。
和室からは母親たちの会話。
相変わらず賑やかだった。
「よし」
美咲がメモ帳を広げる。
「帰ってください作戦を始めます」
徹も真剣な顔で頷いた。
「作戦名は?」
「知らない」
「そこ大事じゃない?」
「今はいいの」
まず第一案。
義実家のリフォーム完了を伝える。
これは王道だ。
翌日。
夕食後。
美咲は切り出した。
「そういえばお義父さん」
「ん?」
「リフォーム、かなり進んだらしいですよ」
「へえ」
「来月には終わるとか」
「そうか」
修一は枝豆を食べた。
終わり。
反応が薄い。
美咲は焦った。
「終わるんですよ?」
「うん」
「帰れますね」
「まあ、そのうちな」
そのうち。
嫌な言葉だった。
第二案。
実家の心配作戦。
「お母さん」
美咲は由美子へ向き直る。
「庭の草、大丈夫?」
「あ」
「夏だし」
「確かに」
「荒れてるかも」
由美子は少し考えた。
希望が見えた。
だが。
「近所の佐藤さんに頼んでる」
終了だった。
第三案。
重雄攻略。
翌日。
美咲は父と二人でコーヒーを飲んだ。
重雄は黒いポロシャツ姿で新聞を読んでいる。
「お父さん」
「なんだ」
「家帰りたくない?」
「少しは」
きた。
美咲は身を乗り出した。
「でしょ?」
「でもな」
「うん」
「ここ居心地いいんだよ」
美咲は固まった。
重雄が苦笑する。
「飯はうまいし」
「うん」
「将棋相手もいるし」
視線の先には修一。
最近二人はすっかり仲良しだった。
「それに」
重雄が続ける。
「母さん楽しそうだろ」
リビングでは和子と由美子がテレビを見ながら笑っている。
確かに楽しそうだった。
びっくりするほど。
その夜。
夫婦は再び作戦会議を開いた。
「全敗」
美咲は言った。
「全敗だね」
徹も言った。
二人はため息をつく。
そこで徹がふと思いついた。
「直接聞こうか」
「何を?」
「なんで帰らないのか」
翌日の夕食。
テーブルには夏野菜カレーが並んでいた。
焼き茄子。
トマトサラダ。
福神漬け。
らっきょう。
スイカまである。
六人は食卓を囲んだ。
そこで徹が切り出した。
「みんな」
「ん?」
「今の生活どう思ってる?」
四人は顔を見合わせた。
そして。
修一が言った。
「楽しいぞ」
即答だった。
和子も頷く。
「毎日修学旅行みたい」
由美子も笑う。
「分かる」
重雄まで同意した。
「賑やかでいい」
美咲は頭を抱えた。
「なんで?」
思わず聞く。
「なんでそんなに楽しいの?」
和子が少し考える。
「だってね」
「うん」
「誰かと一緒にご飯食べるのって楽しいじゃない」
静かになった。
修一も頷く。
「定年してから家で一人の時間が増えたしな」
「私は毎日夫婦だけだったし」
由美子が言う。
「久しぶりに賑やかで嬉しいの」
重雄も笑う。
「将棋仲間もできた」
「仲間って」
修一が胸を張る。
「親友だ」
「まだ一か月も経ってないでしょう」
「親友だ」
真顔だった。
全員が笑う。
美咲もつられて笑ってしまう。
その時。
ふと思った。
この人たち。
本当に楽しんでいるのだ。
善意だけじゃない。
義務でもない。
ただ楽しいから一緒にいる。
子どもみたいな理由で。
「みんなでいる方が賑やかじゃない」
和子がぽつりと言った。
その言葉に誰も反論しなかった。
確かにそうだった。
騒がしい。
面倒くさい。
トイレは足りない。
洗面所も足りない。
冷蔵庫は限界だ。
それでも。
笑い声だけは増えていた。
夕食後。
美咲はベランダへ出た。
夜風が気持ちいい。
遠くで花火の音が聞こえる。
徹も隣へ来た。
「失敗したね」
「うん」
「完全敗北」
「うん」
二人は夜空を見上げた。
そして同時に笑った。
帰ってください作戦。
結果は大失敗。
だがなぜだろう。
少しも悔しくなかった。
むしろ。
この時間が終わる日を想像すると、ほんの少しだけ寂しい気もした。
その時だった。
リビングから修一の大声が聞こえる。
「おーい!」
「なにー!」
美咲が返事をする。
「今度みんなで温泉行かないか!」
美咲と徹は顔を見合わせた。
どうやら。
この家の定員オーバーは、まだまだ続くらしい。
続く。




