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第7話 六人目の椅子

第7話 六人目の椅子


 ビジネスホテルから戻って数日後だった。


 六月の終わり。


 窓の外では入道雲がゆっくりと膨らんでいた。


 朝の光がリビングへ差し込む。


 相変わらず洗面所の前には行列ができている。


「次、私!」


 由美子が宣言する。


「その前に私よ」


 和子が負けじと言う。


「私は顔を洗うだけだから」


「私は化粧水だけだから」


 どちらも信用できない。


 美咲はコーヒーカップを持ちながら眺めていた。


 最近はもう諦めている。


 戦っても勝てない。


 この家の朝は戦場なのだ。


 重雄が新聞を読みながら呟いた。


「やっぱり洗面所は二ついるな」


「いるわねえ」


 和子が真剣に頷く。


「トイレも二つ」


「二つどころか三つ欲しい」


 修一まで参加する。


 徹が笑った。


「なんか大家族みたいですね」


「大家族でしょう」


 美咲は即答した。


 その時だった。


 ふと胸の奥に奇妙な感覚が生まれた。


 大家族。


 確かにそうだ。


 騒がしい。


 面倒くさい。


 朝はトイレ争奪戦。


 夜は冷蔵庫争奪戦。


 洗濯物は山。


 食器はもっと山。


 それなのに。


 少し前までの静かな生活を思い出そうとすると、なぜか輪郭がぼやける。


 朝食のテーブル。


 今日は由美子が担当だった。


 焼き鮭。


 卵焼き。


 ほうれん草のおひたし。


 味噌汁。


 炊きたてのご飯。


 焼き海苔。


 六人で囲む食卓は狭い。


 肘がぶつかる。


 味噌汁を取ろうとして誰かと手が当たる。


 だが賑やかだった。


「鮭うまいな」


 修一が言う。


「塩加減が絶妙」


 重雄が頷く。


 由美子は満足そうに笑った。


 すると和子が言う。


「今夜は私が餃子作る」


「じゃあ私は春雨サラダ」


「私も手伝う」


 また始まった。


 家事オリンピック第二ラウンドである。


 美咲は苦笑した。


 昼過ぎ。


 仕事が休みだった美咲はリビングでノートパソコンを開いていた。


 窓から風が吹き込む。


 洗濯物が揺れる。


 その向こうで修一と重雄が将棋を指していた。


「王手」


「うそだろ」


「人生そんなもんだ」


「ひどいな」


 二人のやり取りが聞こえる。


 キッチンからは母たちの笑い声。


 餃子の餡を作っているらしい。


 ニラと生姜の香りが漂ってくる。


 美咲は仕事の手を止めた。


 不思議だった。


 こんなに騒がしいのに。


 なぜか落ち着く。


 ふと。


 徹が隣へ座った。


 Tシャツにハーフパンツという休日の格好だ。


「なに笑ってるの?」


「笑ってた?」


「笑ってた」


 美咲は窓の外を見た。


 青空だった。


「ねえ」


「うん」


「このまま六人で暮らせたら楽しいのかも」


 言った瞬間、自分で驚いた。


 あれほど文句を言っていたのに。


 あれほど静寂を恋しがっていたのに。


 徹も少し驚いた顔をする。


「本気?」


「半分くらい」


「半分か」


「でも」


 美咲は苦笑した。


「トイレと洗面所はもう一つずつ欲しい」


 徹が吹き出した。


「それは確かに」


「あと冷蔵庫も」


「もう一台?」


「絶対いる」


 二人で笑う。


 その会話を聞いていたらしい修一が振り向いた。


「じゃあ大きい家に引っ越すか」


「簡単に言わないでください」


「二世帯住宅とか」


「もっと嫌です」


 和子がキッチンから顔を出した。


「でも楽しそうじゃない?」


「楽しそうなのはお義母さんです」


「楽しいわよ」


 満面の笑顔だった。


 悔しいが説得力がある。


 夕方。


 餃子パーティーが始まった。


 ホットプレートの上で餃子が焼ける。


 ジュウウウッという音。


 香ばしい匂い。


 黄金色の羽根。


 春雨サラダ。


 トマトのマリネ。


 枝豆。


 冷えた麦茶。


 修一はビール。


 重雄も今日は付き合っている。


「乾杯!」


 六つのグラスがぶつかった。


 笑い声が響く。


 餃子を取り合い。


 最後の一個でじゃんけんをし。


 誰かが負けて文句を言う。


 そんな時間が続いた。


 食後。


 美咲は食器を洗いながら思った。


 もしかしたら。


 本当に少しだけ。


 この生活が好きになっているのかもしれない。


 もちろん問題は山積みだ。


 トイレは足りない。


 洗面所も足りない。


 収納も足りない。


 冷蔵庫なんて完全に限界だ。


 それでも。


 誰かが笑っている。


 誰かがご飯を作っている。


 誰かがくだらない話をしている。


 その音が家の中に満ちている。


 食器を拭いていた時だった。


 玄関のチャイムが鳴った。


 ピンポーン。


 全員が顔を上げる。


「誰だろう」


 徹が立ち上がった。


 玄関へ向かう。


 ドアが開く音。


 そして。


「えっ?」


 という徹の声。


 次の瞬間。


 聞き覚えのない女性の声が響いた。


「お兄ちゃん、久しぶり!」


 美咲は嫌な予感しかしなかった。


 どうやらこの家の定員は、まだ増えるらしい。


続く。


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