第6話 避難所はビジネスホテル
第6話 避難所はビジネスホテル
その朝、美咲は決意した。
もう無理だ。
本当に無理だ。
朝五時四十五分。
まだ外は薄暗い。
なのに洗濯機が回っている。
しかも二台分くらいの勢いで。
ガタガタガタガタ。
ゴウンゴウンゴウン。
美咲は布団の中で目を閉じた。
だが眠れない。
眠れるわけがない。
リビングからは由美子と和子の声が聞こえる。
「今日は鯵が安いのよ」
「じゃあ私は筑前煮作ろうかしら」
「肉じゃがもいいわね」
「コロッケも作る?」
朝六時前である。
なぜ夕食会議が始まっているのか。
その時。
トイレのドアが開く音がした。
続いて修一の声。
「新聞どこだ?」
「テーブルの上」
「ないぞ」
「さっきまであったわよ」
重雄が言う。
「俺が読んでる」
「先に言えよ」
朝から賑やかだった。
いや、騒がしかった。
美咲は枕を抱きしめる。
静寂が恋しい。
あの頃が恋しい。
二人だけだった頃が。
その夜。
夕食は十五品になった。
十五品である。
もう旅館だった。
天ぷら。
筑前煮。
鯵の南蛮漬け。
肉じゃが。
茶碗蒸し。
ひじき煮。
胡麻和え。
きんぴら。
サラダ。
冷奴。
味噌汁。
漬物。
炊き込みご飯。
果物。
そしてなぜかプリン。
テーブルが悲鳴を上げていた。
「多すぎる」
美咲は呟く。
「遠慮しないで」
和子が言う。
「たくさん食べて」
由美子も言う。
「そういう問題じゃない」
その時だった。
修一が何気なく言った。
「そういえばな」
「はい」
「来週、弟夫婦も遊びに来るかも」
美咲は固まった。
「誰の?」
「俺の弟」
「何人ですか」
「二人」
美咲は立ち上がった。
椅子が大きな音を立てる。
「徹」
「はい」
「外出よう」
「今?」
「今」
十分後。
二人は夜の街を歩いていた。
蒸し暑い夏の風が吹く。
遠くで電車の音が聞こえる。
コンビニの灯りがやけに優しく見えた。
徹が隣を歩いている。
「怒った?」
「怒った」
「ごめん」
「怒った」
「うん」
「すごく怒った」
「うん」
しばらく沈黙が続いた。
やがて美咲が言う。
「ホテル行こう」
「え?」
「今夜だけ」
「ホテル?」
「避難」
徹は少し驚いた顔をした。
だが反対はしなかった。
三十分後。
二人は駅前のビジネスホテルにいた。
ごく普通の部屋だった。
広くもない。
豪華でもない。
白い壁。
小さな机。
セミダブルベッド。
窓から見えるのは隣のビル。
それだけ。
なのに。
「静か……」
美咲は呟いた。
本当に静かだった。
誰も喋らない。
洗濯機も回らない。
テレビの音もしない。
トイレの順番待ちもない。
静寂だった。
久しぶりに耳が休まる。
徹もソファ代わりの椅子に座った。
「こんなに静かだったっけ」
「そうよ」
「忘れてた」
「私は忘れてない」
二人は顔を見合わせる。
そして同時に笑った。
近くのレストランで夕食を食べることにした。
小さなイタリアンだった。
キャンドルが灯り、落ち着いた音楽が流れている。
美咲は白いブラウスにネイビーのスカート。
徹は仕事帰りのシャツ姿。
二人だけで食事をするのは久しぶりだった。
「何食べる?」
徹がメニューを開く。
「好きなもの」
「そんなの久しぶりに聞いた」
美咲は笑う。
最近は六人分だった。
誰かの好み。
誰かの健康。
誰かの食欲。
そんなことばかり考えていた。
やがて料理が運ばれてくる。
生ハムのサラダ。
マルゲリータ。
魚介のパスタ。
冷えた白ワイン。
オリーブオイルの香りが漂う。
グラスを合わせる。
小さな音が響いた。
「乾杯」
「乾杯」
ワインを飲む。
冷たくて美味しい。
胸の奥の力が少し抜ける。
徹がぽつりと言った。
「ごめん」
美咲は顔を上げた。
「何が?」
「全部」
徹はワインを見つめている。
「最初はさ」
「うん」
「二か月くらいなら平気だと思った」
「うん」
「親も楽しそうだったし」
「うん」
「でも」
徹は苦笑した。
「俺も最近しんどい」
美咲は思わず笑った。
「今さら?」
「今さら」
「遅い」
「ごめん」
「本当に遅い」
徹も笑った。
少しだけ肩の力が抜ける。
久しぶりだった。
二人でちゃんと話すのは。
美咲はワインを一口飲む。
「ねえ」
「なに?」
「私たちの家だよね」
「そうだよ」
「取り戻したい」
「俺も」
その言葉は意外だった。
徹がそこまで思っているとは知らなかった。
「じゃあ戦う?」
「戦う」
「どうやって?」
「考える」
珍しく頼もしい顔だった。
美咲は少しだけ嬉しくなった。
ホテルへ戻る。
静かな廊下。
静かな部屋。
静かな夜。
ベッドに横になる。
聞こえるのはエアコンの小さな音だけ。
「徹」
「ん?」
「静かだね」
「静かだな」
「幸せ」
「分かる」
二人は笑った。
久しぶりだった。
本当に久しぶりだった。
だが翌朝。
マンションへ戻った二人を待っていたのは、
「お帰りー!」
「どこ行ってたの?」
「朝ご飯できてるわよ!」
という四人の大歓迎だった。
そして美咲と徹は知る。
ここからが本当の戦いなのだと。
自分たちの家を取り戻すための、お引っ越し大作戦が始まろうとしていた。
続く。




