第4話 トイレ戦争
第4話 トイレ戦争
その戦いは、ある朝突然始まったわけではない。
じわじわと。
静かに。
しかし確実に。
六人暮らし開始から一週間ほどで勃発した。
朝六時。
美咲は目覚まし時計より先に目を覚ました。
嫌な予感がしたのだ。
会社員としての本能だった。
この家は今、危険である。
寝室のドアを開ける。
すると案の定だった。
「うそでしょ……」
洗面所の前に列ができていた。
一番手は由美子。
鏡の前で髪をとかしている。
二番手は和子。
タオルを首にかけて待機中。
三番手は修一。
新聞を読みながら順番待ち。
四番手は重雄。
コーヒーカップ片手にぼんやり立っている。
「なんでみんな起きてるの!?」
思わず叫んだ。
由美子が振り向く。
「朝だからよ」
「まだ六時です!」
「年取ると早く目が覚めるの」
そういう問題ではない。
美咲は洗面所を見た。
歯磨きしたい。
顔も洗いたい。
化粧もしなければならない。
だが道は閉ざされていた。
しかも由美子は念入りだった。
化粧水。
乳液。
美容液。
クリーム。
さらに髪のセット。
長い。
とにかく長い。
「お母さん」
「なに?」
「会社に遅れる」
「大丈夫よ」
「何が?」
「まだ六時半だもの」
「私の出勤時間知らないでしょう!」
後ろでは和子も待ちくたびれている。
「由美子さん、まだ?」
「あとちょっと」
「さっきも聞いたわよ」
重雄が小声で呟いた。
「あとちょっとは三十分だ」
「聞こえてるわよ」
由美子が睨む。
重雄は黙った。
その時だった。
トイレのドアが開く。
修一が出てきた。
「やっと!」
美咲は駆け出そうとした。
しかし。
「次、私ね」
和子が先に入った。
バタン。
ドアが閉まる。
美咲は立ち尽くした。
「……」
遠くで鳥が鳴いている。
平和な朝だった。
ただし美咲以外には。
その日の夜。
仕事を終えて帰宅した美咲は冷蔵庫を開けた。
牛乳を取り出そうと思ったのだ。
だが。
「ない」
探す。
ない。
探す。
やっぱりない。
「徹!」
リビングから返事が来る。
「なに?」
「牛乳どこ?」
「冷蔵庫じゃない?」
「それは分かってる!」
美咲は冷蔵庫の前でしゃがみ込んだ。
中は異世界だった。
義母のぬか床。
手作り味噌。
漬物。
梅干し。
実母が持ち込んだ有機野菜。
有機人参。
有機きゅうり。
有機小松菜。
有機トマト。
そして謎の保存容器。
大量の保存容器。
牛乳が見当たらない。
和子がやって来た。
「あら、牛乳?」
「はい」
「野菜室よ」
「なんで?」
「入らなかったから」
「牛乳を野菜室に?」
「だめ?」
美咲は返事ができなかった。
野菜室を開ける。
牛乳発見。
しかし今度は野菜が雪崩を起こした。
「きゃあ!」
トマトが転がる。
きゅうりが転がる。
小松菜まで落ちてくる。
その様子を見た修一が笑った。
「野菜天国だな」
「地獄です」
「ははは」
笑い事ではない。
夕食後。
美咲は意を決してソファに座った。
今日は疲れた。
仕事でも会議続きだった。
少しだけぼーっとしたい。
だが。
ソファの真ん中には修一。
右端には重雄。
左端には和子。
由美子は床に座っている。
空いている場所がない。
「私の席は?」
誰も答えない。
本気で考えている。
しばらくして修一が言った。
「ここ?」
拳一個分の隙間だった。
「無理です」
「痩せれば入る」
「入りません」
徹が吹き出した。
美咲はクッションを投げた。
もちろん当たらない程度に。
笑い声が広がる。
その時。
美咲はふと気づいた。
自分の家なのだ。
住宅ローンを払っているのは自分たちだ。
固定資産税も払っている。
管理費も払っている。
名義人も自分たちだ。
それなのに。
「私、居候みたい」
ぽつりと呟いた。
一瞬静かになる。
すると重雄が真顔で言った。
「確かに」
「お父さん!」
「いや、客観的に見て」
「援護してくださいよ!」
重雄は肩をすくめた。
修一が笑う。
和子も笑う。
由美子まで笑う。
徹はお腹を抱えていた。
美咲だけが笑えない。
笑えないのに。
なぜか少しだけ楽しくもあった。
テレビではバラエティ番組が流れている。
食卓には食べ切れなかった唐揚げ。
麦茶の入ったポット。
誰かの読みかけの新聞。
誰かの眼鏡。
誰かの編み物。
生活の匂いが充満している。
以前の静かな暮らしとはまるで違う。
だが不思議なことに。
誰かの笑い声が絶えない。
美咲は大きくため息をついた。
「ねえ徹」
「ん?」
「この家、定員オーバーだと思う」
「そうだね」
「今さら?」
「今さら」
その言葉に全員が笑った。
美咲もつられて笑ってしまう。
そして翌朝。
トイレ前の行列がさらに長くなることを、この時の美咲はまだ知らなかった。
続く。




