第2話 消えた静寂
第2話 消えた静寂
義父母がやって来て一週間が過ぎた。
たった一週間。
それなのに美咲には一か月ほど経過したように感じられた。
月曜日の朝。
いつもなら静かな目覚めだった。
だが今は違う。
朝六時。
ガラガラガラッ。
何かを引きずる音で目が覚めた。
続いて聞こえてくる義母・和子の声。
「修一さん! そのお鍋はそっちじゃないわ!」
「どこだっけ?」
「昨日教えたでしょう!」
「忘れた!」
美咲は布団の中で目を閉じたまま天井を見つめた。
起きたくない。
現実を見たくない。
だが隣では徹が気持ちよさそうに寝息を立てている。
この男だけは平和だった。
美咲は枕を握り締めた。
「起きなさい」
「んー?」
「あなたの親が今日も元気よ」
「それは良かった」
「良くない」
徹はのんびり起き上がった。
美咲はパジャマから着替える。
白いブラウスにグレーのタイトスカート。
髪をまとめて洗面所へ向かった。
そこで立ち止まる。
義父が歯磨きをしていた。
「おはよう」
「おはようございます」
五分待つ。
終わらない。
さらに五分。
まだ終わらない。
ようやく空いた頃には出勤準備が押していた。
朝から疲れる。
リビングへ入ると焼き魚の香りが漂ってきた。
鯖だった。
湯気の立つ味噌汁。
卵焼き。
ほうれん草のおひたし。
朝食としては完璧だ。
完璧すぎる。
「美咲ちゃん、食べて」
和子が笑顔を向ける。
「ありがとうございます」
それは本心だった。
和子は料理が上手い。
ものすごく上手い。
それがまた困る。
完全な悪人なら怒れるのに。
善意百パーセントなのだ。
食卓につく。
焼きたての鯖は脂がのり、香ばしい。
味噌汁からは鰹だしの香りが立ち上る。
思わずため息が出る。
「美味しい」
「でしょ?」
和子が嬉しそうに笑う。
修一も頷く。
「和子の飯は昔からうまい」
そこだけ聞けば幸せな家庭だ。
ただし。
ここは美咲の家だった。
会社から帰宅したのは夜八時過ぎだった。
疲れ切って玄関を開ける。
だが違和感を覚えた。
「あれ?」
キッチンが違う。
明らかに違う。
美咲は立ち尽くした。
スパイスラックが消えている。
調味料の配置も違う。
引き出しの中身も変わっている。
何より。
自分しか分からない収納ルールが消滅していた。
「ただいま」
声も少し震える。
和子が笑顔で振り向いた。
「お帰りなさい」
「……キッチンどうしました?」
「使いやすく整理したの」
「整理?」
「こっちの方が絶対便利よ」
美咲は引き出しを開ける。
探している菜箸がない。
さらに開ける。
ない。
さらに開ける。
ない。
「どこ?」
「一番下」
「なんで?」
「長いから」
「毎日使うんですけど」
「そう?」
和子は不思議そうだった。
悪気はない。
本当にない。
それが腹立たしい。
その夜。
夕食は煮込みハンバーグだった。
赤ワインで煮込まれたソースの香りが食欲を刺激する。
マッシュポテトも添えられている。
美咲は複雑な顔でフォークを持った。
うまい。
やっぱりうまい。
だが心は晴れない。
食後。
ようやくソファでくつろごうとした。
お気に入りの革張りソファ。
映画を観ながらワインを飲むために買ったものだ。
だがそこには修一がいた。
リモコンを握り締めている。
テレビ画面には演歌歌手。
派手な着物。
満開の桜。
大音量。
「あれ?」
美咲は録画リストを開いた。
そして固まった。
演歌。
演歌。
演歌。
旅番組。
演歌。
昭和歌謡特集。
「私の映画は?」
修一が振り向く。
「容量足りなかった」
「消したんですか?」
「消した」
あっさりだった。
あまりにもあっさりだった。
「徹」
「ん?」
「映画が消えてる」
「そうなんだ」
「そうなんだじゃない」
「また録画すれば?」
「配信終了したの」
徹は黙った。
少しだけ気まずそうな顔になる。
だが次の言葉が良くなかった。
「まあ親だし」
その瞬間。
美咲の中で何かが切れた。
「親だし、じゃないのよ!」
リビングが静まる。
修一も和子も目を丸くした。
美咲は立ち上がる。
「私の映画が消えたの!」
「うん」
「私の収納が消えたの!」
「うん」
「私の静かな夜も消えたの!」
「うん」
「全部消えてるの!」
徹は困ったように頭を掻いた。
和子がおろおろする。
「ごめんなさいね」
「お義母さんは悪くないです」
「でも」
「悪いのは」
美咲は夫を指差した。
「この人です」
徹が目を見開く。
「俺?」
「あなたです」
修一が吹き出した。
和子も笑いをこらえている。
そして美咲まで笑えてきた。
腹は立つ。
本当に腹は立つ。
でも怒鳴り続けるのも疲れる。
窓の外には東京の夜景が広がっている。
本来なら静かな部屋だった。
ワインを飲みながら映画を見るはずだった。
だが今は違う。
テレビから演歌が流れ。
義父が笑い。
義母がお茶を入れ。
徹が気まずそうに頭を掻いている。
美咲はソファの端に腰を下ろした。
自分の家なのに落ち着かない。
それでも。
まだこの時の美咲は知らなかった。
この騒動が、さらに大きな方向へ進み始めていることを。
そして数日後。
玄関のチャイムが鳴った瞬間、自分が本当の地獄を見ることになることを。
続く。




