第1話 ワイングラスと見知らぬ靴
第1話 ワイングラスと見知らぬ靴
六月の終わりだった。
夕方まで降っていた雨は上がり、濡れたアスファルトが街灯の光を反射している。仕事を終えた美咲は、駅前のワインショップで買った白ワインの入った紙袋を大事そうに抱えながらマンションへ向かっていた。
ベージュのリネンブラウスにネイビーのロングスカート。朝は蒸し暑かったのに、夜風は少しだけ涼しい。
金曜日だった。
美咲はこの時間が好きだった。
明日は休み。
早起きする必要もない。
今夜は夫の徹と映画を見ながらワインを飲む予定だった。
冷蔵庫には昨日仕込んでおいたローストビーフがある。
チーズもある。
オリーブもある。
完璧な週末だった。
結婚して三年。
子どもはいない。
二人とも仕事が好きだったし、今の暮らしに満足していた。
休日は映画館へ行く。
旅行も好きだ。
家具選びも好きだった。
リビングのウォールナットのテーブルも、革張りのソファも、照明も、全部二人で悩んで選んだものだった。
静かな暮らし。
それが二人の宝物だった。
マンションのエレベーターを降りた美咲は鼻歌を歌いながら廊下を歩く。
だが、自宅の前で足を止めた。
「あれ?」
玄関に見知らぬ靴があった。
黒い革靴。
花柄のサンダル。
見覚えがない。
宅配業者ではない。
そんな気軽な置き方ではなかった。
嫌な予感が胸をよぎる。
鍵を開ける。
ドアを開けた瞬間だった。
ふわりとビールの香りが流れてきた。
そしてテレビの笑い声。
「おや、美咲ちゃん!」
聞き慣れた声に美咲は固まった。
リビングには義父の修一がいた。
ビール缶を片手にくつろいでいる。
その隣には義母の和子。
しかも二人とも、美咲が半年悩んで購入した高級ソファにどっかり腰を下ろしていた。
「お帰りなさい」
和子がにこにこ手を振る。
美咲は口をぱくぱくさせた。
「え?」
「お疲れさま」
「え?」
キッチンからエプロン姿の徹が現れる。
「お帰り」
「いやいやいや」
美咲は紙袋を抱えたまま後ずさった。
「なんで?」
徹が気まずそうに笑う。
「あのさ……」
その笑い方を見た瞬間、美咲は理解した。
ろくでもない話だ。
間違いない。
修一が枝豆をつまみながら言う。
「実家な」
「はい」
「雨漏りが見つかってな」
「はい」
「全面リフォームすることになった」
「はい」
「しばらく世話になる」
美咲は瞬きをした。
一回。
二回。
三回。
「しばらくって?」
「二か月くらいかしら」
和子が明るく答えた。
美咲は天井を見上げた。
二か月。
二日ではない。
二週間でもない。
二か月。
「聞いてない」
低い声が出た。
徹が目を逸らす。
「今日言おうと思ってた」
「今?」
「うん」
「今なの?」
「うん」
美咲は両手で顔を覆った。
叫びたい。
ものすごく叫びたい。
だが社会人歴十年以上の理性が辛うじて踏みとどまらせる。
和子は悪びれる様子もない。
「遠慮しないでね」
「ここ私の家なんですけど」
「家族じゃない」
「そういう問題じゃないです」
リビングを見回す。
旅行用スーツケース。
義母の編み物セット。
義父の新聞。
読みかけの雑誌。
すでに生活が始まっていた。
いや、始まりどころではない。
侵略完了だった。
「徹」
「はい」
「相談って言葉知ってる?」
「知ってる」
「使ったことある?」
「今回はちょっと……」
「ないのね」
修一が笑った。
「まあまあ」
「笑い事じゃありません」
「賑やかでいいじゃないか」
「静かなのが好きなんです」
「若いのに年寄りみたいだな」
その時だった。
ジュワッという音が聞こえた。
キッチンから香ばしい匂いが漂ってくる。
唐揚げだった。
和子が立ち上がる。
「ご飯できたわよ」
食卓に料理が並び始める。
大皿いっぱいの唐揚げ。
きゅうりの浅漬け。
ポテトサラダ。
だし巻き卵。
豆腐とわかめの味噌汁。
湯気とともに出汁の香りが立ち上る。
お腹が鳴った。
最悪だった。
腹が立っているのに美味しそうなのだ。
「美咲ちゃん、座って」
「……」
「冷めちゃうわよ」
徹がそっと椅子を引く。
美咲は大きなため息をついた。
椅子に座る。
修一がビールを注ぐ。
「乾杯だな」
「何にですか」
「共同生活の始まりに」
「始まってほしくなかったです」
和子が笑い出し、修一も笑い、徹まで笑い始めた。
美咲だけが笑えない。
それなのに。
食べた唐揚げは驚くほど美味しかった。
衣はさくりとしていて、中は熱々で肉汁があふれる。
悔しい。
本当に悔しい。
「どう?」
和子が尋ねる。
美咲はしばらく黙り込んだ。
そして小さく答えた。
「……おいしいです」
「でしょ?」
得意そうな顔をする義母。
その顔を見ながら、美咲は再びため息をついた。
窓の外には東京の夜景が広がっている。
本当なら今頃、ワインを飲みながら映画を見ていたはずだった。
静かな金曜の夜。
二人だけの週末。
だが、その計画は完全に崩壊した。
美咲はまだ知らない。
この日を境に、自分たちのマンションがとんでもない戦場になることを。
そして二か月後には、さらに想像を超える来客が現れることを。
その時の美咲はただ一つだけ思っていた。
――ワイン、冷やしてあったのになあ。
続く。




