第11話 父たちの家出
第11話 父たちの家出
異変に気づいたのは夜九時過ぎだった。
夕食は焼肉だった。
ホットプレートの上で肉がじゅうじゅうと音を立て、カルビの脂が弾ける。玉ねぎは甘く、ピーマンは香ばしく焼けていた。
六人で囲む食卓は相変わらず賑やかだった。
だが食後。
片付けが終わり、お茶の時間になった頃だった。
「そういえば」
和子が急に顔を上げた。
「修一さんは?」
由美子も周囲を見回す。
「あら、本当」
美咲も気づいた。
確かにいない。
リビングにも。
和室にも。
ベランダにも。
そして。
「お父さんもいない」
重雄の姿も消えていた。
一瞬、全員が固まった。
「散歩じゃない?」
徹が言う。
「こんな時間に?」
美咲は首を傾げた。
しかし十分後。
二十分後。
三十分後。
二人は戻らなかった。
電話も出ない。
和子の顔色が変わり始める。
「事故じゃないでしょうね」
「まさか」
由美子も不安そうだった。
窓の外では夏の夜風が木々を揺らしている。
昼の熱気が残る夜だった。
遠くから救急車のサイレンが聞こえ、美咲の胸がざわついた。
「探そう」
徹が立ち上がった。
結局。
六人ではなく四人で夜の街へ飛び出した。
駅前。
商店街。
公園。
コンビニ。
思いつく場所を探す。
汗が首筋を流れる。
アスファルトからは昼間の熱がまだ立ち上っていた。
「本当にどこ行ったのかしら」
和子が心配そうに呟く。
「喧嘩した?」
美咲が聞く。
「してないわよ」
「お母さんは?」
徹が由美子に尋ねる。
「してないわよ」
四人は顔を見合わせた。
すると。
通りの向こうから香ばしい匂いが流れてきた。
焼き鳥だった。
駅前の古い居酒屋。
赤提灯が揺れている。
ガラガラと戸を開けた瞬間。
全員が見つけた。
「あっ」
カウンター席だった。
修一と重雄。
二人とも真っ赤な顔をしていた。
テーブルには焼き鳥。
枝豆。
冷奴。
唐揚げ。
空になったジョッキ。
そして新しいジョッキ。
完全に宴会だった。
「いた!」
和子が叫ぶ。
修一が振り返った。
「おお」
「おお、じゃないでしょう!」
由美子も怒る。
しかし二人は妙に機嫌が良かった。
「座れ座れ」
修一が手招きする。
「探したのよ!」
「すまんすまん」
全然反省していない。
重雄も珍しく笑っていた。
美咲は呆れた。
「何してるの?」
「男同士の会議」
修一が真面目な顔で言う。
「会議?」
「重要会議」
重要会議のテーブルにはレモンサワーが並んでいた。
信用できない。
結局。
全員で席に座ることになった。
店の中は賑やかだった。
焼き鳥の煙。
タレの匂い。
ビールの泡。
テレビから流れる野球中継。
昭和の空気がそのまま残っているような店だった。
その中で。
酔った修一がぽつりと言った。
「なあ」
「なに?」
和子が答える。
修一はジョッキを見つめた。
「家にいても暇なんだよ」
全員が黙った。
初めて聞く声だった。
いつもの明るさが少しだけ消えている。
「暇?」
美咲が聞く。
「定年したら急にな」
修一は苦笑した。
「朝起きても仕事ないし」
「うん」
「テレビ見て」
「うん」
「昼飯食って」
「うん」
「またテレビ見て」
そこで言葉が止まる。
重雄が続けた。
「俺も似たようなもんだ」
美咲は父を見る。
父は昔から働いていた。
休んでいる姿をあまり見たことがない。
その父が言う。
「家にいると、自分が何の役に立ってるのか分からなくなる時がある」
静かだった。
居酒屋なのに。
その席だけが静かだった。
「そんなことないでしょう」
徹が言う。
修一は笑う。
「そう言ってくれるのは嬉しい」
「本当ですよ」
「でもな」
修一は少しだけ目を細めた。
「子どもに迷惑だと思われたくないんだ」
美咲の胸が痛んだ。
重雄も頷く。
「分かる」
「お父さんまで」
「年取ると考えるんだよ」
そう言って笑う。
「邪魔じゃないかなってな」
由美子が目を伏せた。
和子も何も言わない。
美咲は言葉を失った。
今まで。
ただ騒がしいと思っていた。
図々しいと思っていた。
楽しそうだと思っていた。
でも。
その裏にそんな気持ちがあったなんて知らなかった。
修一が照れ臭そうに笑う。
「だから今は楽しい」
「え?」
「みんなで飯食って」
「うん」
「騒いで」
「うん」
「将棋やって」
重雄も笑った。
「毎日文化祭みたいだ」
その表情は少年みたいだった。
美咲は胸の奥が少しだけ熱くなるのを感じた。
帰り道。
夜風が涼しかった。
六人で並んで歩く。
街灯の光が歩道に長い影を落としている。
修一と重雄は少し酔っていた。
肩を組みながら歩いている。
「親友だな」
「親友だ」
本当に仲良くなっていた。
その姿を見て。
美咲と徹は顔を見合わせた。
「複雑だね」
徹が言う。
「うん」
美咲は頷く。
帰ってほしい気持ちはある。
でも。
今日聞いた話を思い出すと、それだけでは片付けられなかった。
夏の夜空には星が一つだけ見えていた。
騒がしくて。
面倒で。
だけど少しだけ愛おしい。
そんな六人暮らしは、まだ終わりそうになかった。
続く。




