閑話69話 アンジェリカの悪夢*
アンジェリカは幼い頃の自分に戻っていた。
目の前に広がっていたのは、帝都の大通りだった。色とりどりの旗が風に揺れ、露店からは焼き菓子や香辛料の甘く刺激的な匂いが漂い、行き交う人々の話し声が絶え間なく響いている。その賑やかな通りを、アンジェリカは姉たちに挟まれるようにして歩いていた。
「アンジェリカ、本当にこれが欲しいの?」
第一皇女マリアンヌが、妹の手に握られた小さな包みを見下ろしながら、呆れたように笑った。
「だって、前に見つけたときは売り切れていたんですもの。今日は絶対に買いたいの!」
幼いアンジェリカは、姉の腕に抱きつきながら、期待に目を輝かせていた。宮殿の中では手に入らない、街でしか買えない珍しい菓子をどうしても欲しくて、何日も前から姉たちに頼み続けていたのだ。
「ふふ。そこまで言うなら仕方ないわね」
隣を歩く第二皇女ジュリエッタも、妹の様子を見て楽しそうに笑っていた。その笑顔は柔らかく、春の日差しのように温かかった。
普段なら、皇女が護衛もなく街へ出ることなど許されるはずがない。まして三人の皇女が揃って帝都の大通りを歩くなど、警備上の問題が多すぎる。しかし、この日はアンジェリカが何度も姉たちに頼み込み、二人が皇帝に願い出てくれたことで、特別に外出が認められていた。
もちろん、護衛もついている。
その数は六人だったが、彼らは単なる兵士ではなかった。皇女姉妹を守るために厳しい選抜を受けた精鋭であり、剣術だけでなく魔法や市街戦にも通じている。人混みの中であっても周囲の異変を見逃さず、三人の皇女を常に安全な位置へ置くため、一定の距離を保ちながら歩いていた。
「アンジェリカ、あまり離れないでね」
ジュリエッタが、露店へ駆け寄ろうとした妹へ声をかける。
「分かっています、ジュリエッタ姉様」
「本当に?」
「本当にです!」
アンジェリカが胸を張って答えると、マリアンヌとジュリエッタは顔を見合わせ、同時に笑った。その笑い声を聞きながら、アンジェリカも嬉しそうに笑っていた。
あの頃は、それがずっと続くと思っていた。
姉たちと街へ出て、欲しかったものを買い、宮殿へ帰る。途中で何か美味しいものを食べ、今日見たものについて話しながら眠る。そんな当たり前の日が、これからも何度でも訪れるのだと、幼いアンジェリカは疑いもしなかった。
だからこそ、最初に感じた違和感が何だったのか、今のアンジェリカには思い出せなかった。
ただ、夢の中の彼女は、人混みの向こうに立つ一人の男を見ていた。男は周囲の人々に紛れるようにして立っていたが、その視線だけが不自然なほどこちらへ向けられていた。目が合ったように感じた瞬間、男はわずかに身を引き、周囲の人波へ溶け込んでいった。
次の瞬間、空気を切り裂くような叫び声が響いた。
「敵襲!」
護衛の一人が叫ぶと同時に、人混みの中から黒い服を着た男たちが一斉に飛び出してきた。彼らは周囲の人々を押しのけ、あるいは短剣で脅しながら、最初から皇女たちのいる場所を正確に目指していた。
「アンジェリカ!」
マリアンヌの声が響き、護衛たちは瞬時に三人を取り囲んだ。剣が抜かれ、魔法の光が次々と走り、逃げ惑う人々の悲鳴が大通りを満たしていく。さっきまで祭りのように賑わっていた街は、ほんの数秒で血と怒号に覆われ、誰が敵で誰が市民なのかさえ分からない混乱へと変わっていた。
「走ってください! こちらへ!」
護衛の一人が、皇女たちを安全な路地へ移動させようと叫んだ。
しかし、敵の数はあまりにも多かった。しかも、彼らの目的は、身代金目的の誘拐に見せかけて三人の皇女を一人残らず殺害することだった。
その背後には、皇位継承を狙う第ニ皇子を支援する者たちの思惑があった。3人とも第一皇子を推す立場にあり、特に上の2人の皇女はそれぞれ有力な貴族や他国との結びつきを持つ。それは、皇位継承を巡る争いにおいて無視できない影響力を備えていることを意味していた。
だからこそ、彼らは誘拐事件に見せかけて三人をまとめて消そうとしていた。身代金目的の賊による犯行として処理されれば、皇族同士の権力争いを疑われる可能性は低い。皇女たちが死んでも、悲劇として受け止められ、真の黒幕へ目を向けることはない。
護衛たちは必死に応戦していたが、敵は最初から皇女たちを殺すために訓練された暗殺者だった。彼らは自分の命を惜しまず、護衛の隙を見つけるたびに皇女たちへ迫ってくる。
一人、また一人と、皇女たちを守っていた護衛が倒れていった。血に濡れた剣が地面へ落ち、魔法を使っていた男が膝をつき、別の護衛が敵を押し返しながらも背中を斬られて崩れ落ちる。
「嫌……!」
アンジェリカは、逃げなければならないと分かっているのに、足を動かすことができなかった。目の前で起きていることがあまりにも恐ろしく、何が敵で、誰が味方なのかを理解することさえできない。ただ、自分たちを守っていた人々が次々に倒れていく光景だけが、幼い心に焼きついていった。
「アンジェリカ!」
ジュリエッタが叫んだ。
その声に振り向いたアンジェリカの目の前で、一人の暗殺者が剣を振り上げていた。刃が陽光を反射し、まっすぐに自分へ向かって振り下ろされる。
アンジェリカが恐怖で目を閉じるより早く、ジュリエッタが身体を滑り込ませた。
「姉様……?」
鈍い音がした。
剣が肉を断つ音を、アンジェリカははっきりと聞いた。ジュリエッタの身体が大きく揺れ、その胸元から赤い血が広がっていく。白い衣装が瞬く間に赤く染まり、彼女の手から力が抜けていった。
「……え?」
何が起きたのか理解できないまま、アンジェリカは姉を見上げた。
ジュリエッタはゆっくりと振り返り、苦痛に歪みながらも、妹の無事を確かめようとした。
「……無事?」
「姉様……?」
「よかった……」
ジュリエッタは、いつものように微笑んだ。その笑顔はあまりにも穏やかで、まるで今起きていることが大した問題ではないかのようだった。
しかし、次の瞬間には、その身体から力が抜けた。
「姉様ぁぁぁぁ!」
アンジェリカの叫び声が、血と悲鳴に満たされた街中へ響き渡った。
けれど、ジュリエッタはもう答えてくれなかった。伸ばした手が届くこともなく、何度呼びかけても、あの優しい声が返ってくることはなかった。
――そこで、夢が一度途切れた。
次にアンジェリカが見たのは、葬儀の場だった。
そこには黒い服を着た大勢の人々が集まり、誰もが重苦しい沈黙の中で俯いていた。香の煙がゆっくりと立ち上り、遠くでは弔鐘が一定の間隔で鳴り続けている。その中央に置かれた棺の中で、ジュリエッタはまるで眠っているかのように横たわっていた。
「どうして……」
幼いアンジェリカは、棺の中の姉を見つめながら、何度も同じ言葉を繰り返していた。
「どうして私なの……?」
ジュリエッタが死んだのは、自分を庇ったからだった。
自分が街へ行きたいなどと言わなければ、こんなことにはならなかったかもしれない。自分が何度もわがままを言わなければ、姉たちは外出を願い出ることもなく、護衛たちが命を落とすことも、ジュリエッタが自分の前に立つこともなかったはずだ。
そんな考えが、幼いアンジェリカの胸を何度も締めつけていた。周囲の大人たちは彼女を慰め、誰もお前のせいではないと繰り返したが、その言葉を聞くほど、アンジェリカは自分だけが生き残った事実を強く意識するようになった。
けれど、夢はそこで終わらなかった。
葬儀の光景が遠ざかると、時間が急速に流れ始めた。幼かったアンジェリカの身体は少しずつ成長し、宮殿の廊下や庭園、季節の移り変わりが目の前を通り過ぎていく。そして次に彼女が立っていたのは、別れのために用意された場所だった。
マリアンヌが、他国へ嫁ぐことになったのだ。
「……姉様」
旅立ちの準備が整えられた部屋で、アンジェリカはマリアンヌの前に立っていた。何かを言わなければならないと思っているのに、胸の奥に溜まった感情が大きすぎて、声にすることができない。
「そんな顔をしないで、アンジェリカ」
マリアンヌは、妹を安心させるように優しく笑った。
「私は大丈夫よ」
「でも……」
「これは私自身が決めたことでもあるの」
マリアンヌが嫁ぐ相手は、もともとジュリエッタの婚約者だった。ジュリエッタと相思相愛だった男であり、妹を失った後、マリアンヌはその男との婚姻を受け入れた。
そこには、国同士の関係や外交上の都合、王族として果たすべき責務など、いくつもの理由があった。帝国と相手国の関係を維持するためには、婚姻を白紙に戻すことが難しかったのだろう。けれど、幼いアンジェリカにも、それだけが理由ではないことは分かっていた。
マリアンヌもまた、ジュリエッタを失った痛みを抱えている。それなのに、妹の死を乗り越える暇もないまま、妹が愛していた男と結婚し、故郷である帝国を離れなければならないのだ。
「姉様……私……」
「何も言わなくていいわ」
マリアンヌはアンジェリカの頭に手を置き、ゆっくりと撫でた。
「あなたは悪くない」
その言葉が、かえって苦しかった。
悪くないと言われるたびに、アンジェリカは自分だけが生き残ったことを思い知らされた。誰も責めていないからこそ、自分で自分を責め続けるしかなかった。
そして、また場面が変わった。
マリアンヌの結婚式が終わった後、アンジェリカはジュリエッタの元婚約者と向き合っていた。男の目には、隠しきれない怒りと悲しみが浮かんでいる。彼はジュリエッタを愛していた。その愛する人を失っただけでなく、彼女の死後には、その姉との結婚を強いられたのだ。
「……君は、何とも思わないのか」
男の声は低く、抑え込まれた怒気を含んでいた。
「え……?」
「ジュリエッタは君を庇って死んだ」
その言葉を聞いた瞬間、アンジェリカの身体が震えた。すでに何度も自分へ言い聞かせてきた事実だったが、他人の口から突きつけられると、胸の奥に押し込めていた罪悪感が一気に引きずり出された。
「分かっています……」
「分かっている?」
男の声が、さらに冷たくなる。
「本当に分かっているのなら、どうして君は生きている?」
「……っ」
「殿下、おやめください!」と嗜める側近達を無視して彼は怒りと悲しみをアンジェリカにぶつけ続けた。
「ジュリエッタは君を守って死んだ。私は彼女を愛していた。彼女も私を愛してくれていた。それなのに、彼女が死んだ後、私はマリアンヌと……彼女の姉と結婚しなければならなかった。私はマリアンヌの顔を見るたびにジュリエッタを思い出す。この苦しみがわかるのか?」
アンジェリカは何も言い返せなかった。男の言葉には、彼自身が背負わされた苦しみと、失ったものへの憎しみが滲んでいた。
「……ごめんなさい」
「謝れば済むと思っているのか!」
男が声を荒らげると、アンジェリカは肩を震わせた。
「聞けば、そもそもの原因は、君が街へ行きたいと我儘を言ったからだろう!」
「……」
「君の我儘がなければ、ジュリエッタが死ぬことはなかった!」
その言葉は、すでに自分の中にあった罪悪感を、何度も鋭く突き刺した。
「マリアンヌはジュリエッタの婚約者だった私と結婚して祖国を離れることになった。君は二人の姉に、一体どれだけのものを背負わせれば気が済むんだ?」
「……私は……」
アンジェリカは、それ以上何も言えなかった。
何を言っても言い訳にしかならないと思った。ジュリエッタが死んだことも、マリアンヌが妹の婚約者だった男と結婚したことも、そして自分だけが生きていることも、すべてが動かしようのない事実だった。
「……ごめんなさい」
結局、口から出てきたのは、その言葉だけだった。
「ごめんなさい……」
涙が頬を伝い、視界が滲んでいく。
「ごめんなさい……姉様……」
夢の中で、アンジェリカは何度も謝り続けた。誰に向けた謝罪なのかさえ分からないまま、ジュリエッタにも、マリアンヌにも、そして自分を守って倒れていった護衛たちにも、ただ繰り返し謝ることしかできなかった。
すると、いつの間にか目の前にジュリエッタが立っていた。
「アンジェリカ」
「姉様……!」
アンジェリカは、ようやく見つけた救いに縋るように手を伸ばした。しかし、ジュリエッタはその手を取ることなく、ゆっくりと後ろへ遠ざかっていく。
「待って……!」
「アンジェリカ」
「待って、姉様! 私が悪かったの! 私が街に行きたいなんて言わなければ、姉様は死なずに済んだのに……!」
「アンジェリカ」
「私がもっと強ければ、私が自分で戦えれば、姉様が私を庇う必要なんてなかったのに……!」
ジュリエッタは答えなかった。
その身体が、少しずつ血に染まっていく。胸元から広がった赤が衣装を覆い、あの日の光景が夢の中で再び繰り返される。
「姉様ぁ……!」
アンジェリカは必死に手を伸ばしたが、どれほど走っても距離は縮まらなかった。
「ごめんなさい……!」
ジュリエッタの笑顔、血に染まった衣装、マリアンヌの優しい言葉、そして自分を責める男の声が、記憶の中で何度も繰り返される。どれだけ目を逸らそうとしても罪悪感は消えず、胸の奥に重く沈み続けていた。
現実ではマリアンヌはジュリエッタの元婚約者と仲睦まじい夫婦となり、良い関係を築けています。2人とも少なくとも今ではアンジェリカの事を恨んだりはしていません。機会があれば、このあたりも閑話にするかもしれません。
前話の例のシーンをGrokでショートアニメにしてみた。
https://x.com/code3600/status/2106171249168920780?s=46
18時に閑話をもう一つ投稿します。




