325話 エリスの悪夢*
アルセリア王都。
すでに城壁は突破され、かつて人々が行き交っていた大通りには魔族兵の姿が溢れていた。建物から立ち上る黒煙の向こうでは、逃げ惑う人々の叫び声と、剣戟の音、魔法が炸裂する轟音が重なり合い、街全体が巨大な戦場へと変わっている。
その混乱の中を、エリスは歩いていた。
黒い聖衣を身に纏い、魔王軍の紋章を身につけた彼女の姿は、かつて人々から「聖女」と呼ばれていた少女とはあまりにもかけ離れている。それでも彼女自身の意識だけは、はっきりと残っていた。
だからこそ、目の前で起きていることが、何よりも苦しかった。
「聖女。」
魔族兵の一人が、傷ついた仲間を引きずるようにして連れてくる。
「こいつを治せ。」
エリスは反射的にその負傷兵を見る。肩から胸にかけて大きな傷が走り、血が止まらない。普通ならば、このまま戦場へ戻れば命を落としかねないほどの重傷だった。それでも、エリスの手は自然に動いた。
「……分かりました。」
掌から柔らかな光が広がり、傷口を包み込む。裂けた皮膚が塞がり、流れ出ていた血が止まり、魔族兵の顔から苦痛が消えていく。
「助かった。」
男は立ち上がると、再び剣を握って戦線に走って戻り、次の瞬間には、走った先にいたアルセリア兵に斬りかかっていた。
剣が振り下ろされてアルセリアの兵士が倒れる。その光景を見たエリスの身体が、ほんの僅かに震えた。
(私が……治したから。)
自分が傷を癒した。
自分が戦える状態へ戻した。
そして、その力を取り戻した魔族兵が、今、ヒト族を殺している。
(やめて……。)
そう願っても、声にはならない。
魔族兵はさらに別のアルセリア兵へ襲いかかり、その背後では別の部隊が街へ侵入していく。エリスが治療した者たちが戦線へ戻っていくたびに、アルセリアの兵士たちは押し返され、逃げ遅れた人々が巻き込まれていく。
それでも。
「聖女!こっちも負傷した!早く治せ!!」
次々に呼ばれる声に、エリスの身体は抗うことができない。傷ついた魔族兵のもとへ歩き、治癒魔法を使う。また別の兵士が傷つけば、そちらへ向かう。治療が終われば、彼らは再び剣を握り、アルセリアの兵士たちへ向かっていく。その光景を繰り返し見せられるたび、エリスの胸の奥には、少しずつ、しかし確実に重い何かが積み重なっていった。
(私は聖女なのに。どうして私は、ヒトを救うための力で……ヒトを殺す手助けをしているの……。)
心の中では何度も叫んでいる。
けれど、身体はその叫びを聞いてくれない。
◇
しばらくして、大通りの脇を歩いていたエリスは、建物の陰に倒れている一人の人間に気付いた。
まだ幼さの残る少女だった。
魔族兵の剣によって腹部を深く斬られ、石畳の上に倒れたまま、必死に息をしている。
エリスは思わず足を止めた。
その傷を見れば分かる。
自分なら助けられる。
今ならまだ間に合う。
(助けなきゃ。)
心の中で、はっきりとそう思った。
(この人を助けよう。私は聖女でしょう。ヒトを救うために、この力を与えられたんでしょう!)
エリスは一歩を踏み出そうとした。
けれど、足が動かない。
手を伸ばそうとしても、腕は下がったままだった。
(どうして……。)
少女がエリスを見上げる。その目には、明らかな恐怖と、わずかな希望があった。助けてくれる。そう信じているように見えた。その視線が、エリスの胸を突き刺す。
(私は助けたい。お願いだから、動いて……!)
しかし、エリスの身体は何の反応も示さなかった。
やがて少女の呼吸が弱くなっていく。
「……たす、け……。」
小さな声が聞こえた。
心の中のエリスの瞳から涙が落ちる。
それでも、身体は動かなかった。
次の瞬間、少女の手から力が抜けた。
エリスはただ、その場に立ち尽くしていた。
(私……。今、見捨てた。)
自分の意思ではない。そんなことは分かっている。
それでも、心は納得してくれなかった。
目の前で助けを求めていたヒトを救えなかった。
救える力を持っていたのに。
聖女としてヒトを救うために生きてきた自分が……何もしなかった。
いや、何もできなかった。
その違いさえ、今のエリスには慰めにならなかった。
◇
戦況が進むにつれて、魔族兵の負傷者はさらに増えていった。しかし、魔族軍にはエリスがいる。どれだけ傷ついても、彼女が治せば再び戦える。
「聖女!」
指揮官が叫ぶ。
「エリア・ハイヒールを使え!この周辺の負傷兵をまとめて治療するんだ!」
エリスの身体が命令に反応する。
「……はい。」
自分では望んでいない言葉が、口からこぼれた。
杖を掲げ呪文を詠唱すると、巨大な魔法陣が足元へ広がり、淡い光が周囲へ満ちていく。
「《エリア・ハイヒール》」
そこでエリスはふと気付いた。
(エリア・ハイヒールなら……アルセリアの兵士たちも、あそこに倒れている人たちも、さっきのような女の子だって……一緒に治せるんじゃ!?)
エリスの胸に、ほんの僅かな希望が生まれた。
もしかしたら、この魔法なら、自分の意思とは関係なくても、傷ついた人々を救えるのではないか。
(お願い。今度こそ……。)
広範囲へ放たれた治癒の光が、負傷した魔族兵たちを次々と包み込む。裂傷が塞がり、骨折が癒え、失われていた体力と魔力までもが回復していく。さっきまで地面に倒れていた魔族兵たちが、次々と立ち上がった。
「これでヒト族の連中を、まだぶっ殺せるぜ!」
「まったく、聖女、さまさまだな!いや、魔族の聖女だから魔女か。」
「ヒト族の連中、今までこんなズルしてやがったのかよ。」
「もう一度、攻め込むぞ!」
歓声とともに、彼らは再び戦場へ駆け出していく。
しかし、魔法の光が消えた後に立ち上がっていたのは、魔族兵だけだった。少し離れた場所に倒れているアルセリア兵には、治癒の光は届いていない。瓦礫の陰で傷ついている民間人にも、何の変化もない。
エリスは呆然と周囲を見渡した。
(どうして……?)
自分の魔法なのに……。
しかし、治癒する対象は、最初から魔族兵だけに限定されていた。その事実を理解した瞬間、エリスの胸の奥で何かが崩れた。
(違う。私は、こんな魔法を使いたいんじゃない。)
魔族兵たちは笑っている。
「素晴らしいぞ、聖女!これなら、まだまだ戦える!まだまだヒト族を殺せるぞ!」
「お前がいれば、我々は何度でも立ち上がれる!」
その言葉を聞きながら、エリスは唇を噛んだ。
(私は聖女です。ヒトを救うためにいるんです。なのに、どうして……。)
それでも魔族兵が傷つけば、身体は治療へ向かう。
彼らを癒して、戦える状態へ戻す。
そして、またヒト族を傷つけさせる。
その繰り返しだった。
◇
やがて、魔族軍は王城へ到達した。
エリスもまた、その行列の中にいた。
そして王城の最奥、王の居室に繋がる廊下に……
アベルが立っていた。
短聖剣を手に、ただ一人で立っている。
その身体には、すでにいくつもの傷が刻まれていた。
「エリス……。」
その声を聞いた瞬間。胸の奥が大きく揺れた。
(アベル様……。)
本当は叫びたかった。
助けてほしい。
自分を止めてほしい。
こんなことをしている自分を、もう一度、聖女へ戻してほしい。
けれど、身体はアベルへ向かって歩いていく。
アベルが静かに言った。
「エリス、もうこんな事はやめるんだ。」
(やめたいです。)
心の中のエリスの声が震える。
(でも、止まれないんです……!)
その叫びは悲鳴に近かった。
しかし、身体は止まらない。
エリスの掌から、黒い光が溢れ出す。
「……《エナジードレイン》。」
聖女には、負傷した患者に聖女の生命力を分け与え、どんな負傷でも癒す神の奇跡とも言える聖魔法が使える。だが、それは本来あるべき奇跡のベクトルを反転させ、相手の生命力を強制的に奪うもの。聖女たるものが決して犯してはならない禁忌の魔法だった。
エリスの放った黒い霧が広がり、アベルの身体を包み込む。
「ぐっ……!」
アベルの身体から、力が急速に失われていく。
体力だけではなく、魔力、生命力が、まるで身体そのものから引き抜かれていくように減少していく。
アベルが一歩後退する。
「エリス……!」
その声を聞くたびに、エリスの心が引き裂かれる。
(やめて。お願いだから、やめて。私はアベル様を傷つけたいんじゃない。)
その様子を見ていた魔族兵達の笑い声が響く。
「わははは!もっとだ!もっとやれ!」
「聖女の力で勇者を削れ!」
「奴を殺せ!」
エリスの身体が命令に従い、エナジードレインの力がさらに強まった。
「ぐ……あ……。」
アベルの手から短聖剣が落ち、膝が床につく。
呼吸が乱れ、それでもなお、彼はエリスを見ていた。
そこにあったのは怒りではない。
責めるような視線でもない。
ただ、エリスが戻ってくることを信じている目だった。
(そんな目で見ないで……。私は、あなたを傷つけているのに。)
心の中でエリスの頬を涙が伝う。
それでも黒い魔力は止まらない。
アベルの身体から、さらに力が奪われていく。
やがて、アベルは立っていることさえできなくなった。エリスは泣きながら、その姿を見つめる。
(私は聖女なのに……どうして私はヒトを救うために与えられた力で魔族を救い、傷ついたヒトを見捨て、そして今、大切な人まで傷つけているの?そもそも私が聖女になれたのはアベル様のおかげなのに……。)
その問いに答える者はいない。
やがて、アベルは動かなくなった。
聖女として人を救うことを願っていた少女は……
ただ心の中で泣き続けるしかなかった。




