315話 魔弓術
翌日の朝。
聖都ヨーセフには、まだ柔らかな朝靄が残っていた。
大聖堂の鐘が遠くで鳴り、巨大な樹木の枝葉から落ちる雫が、白い石畳の上で小さな音を立てている。
フェリは約束の時間より少し早く、ファムの家の前に立っていた。昨日から楽しみにしていたせいか、ほとんど眠れなかった。
「……早すぎたかな」
扉を見つめながら呟く。
すると、
「いいえ。私も今、準備が終わったところです」
背後から声がした。
振り返ると、ファムが立っていた。
「ファムひいお婆ちゃん!」
「おはようございます、フェリ」
「おはよう!」
フェリは嬉しそうに笑う。
ファムはその表情を見て、ほんの少し目を細めた。
「昨日の今日ですから、来てくれるか少し心配していました」
「来るに決まってるよ」
「そうですか」
「それに、エルフ流の弓術を教えてくれるんでしょ?」
フェリが期待に満ちた目を向ける。
ファムは小さく笑った。
「ええ。ただし、今日はその練習だけではありません」
「え?」
「あなたのお母さんの話も、少ししましょう」
フェリの表情が柔らかくなる。
「うん」
その返事を聞くと、ファムは静かに歩き始めた。
フェリも、その隣へ並ぶ。
◇
二人が向かったのは、聖都の外れにある広い森だった。聖教国の管理する森ではあるが、街から離れているため人の姿はほとんどない。木々の間から差し込む朝の光が地面をまだらに照らし、遠くでは小鳥の声が聞こえている。
「ここなら、人目を気にせず練習できます」
ファムが足を止める。
「まず、弓を見せてください」
「うん」
フェリは背負っていた弓を取り出した。
長年使い込んだ愛用の弓。それを手にした瞬間、フェリの表情が変わる。普段の明るさが少しだけ消え、狩人としての集中が目に宿った。
ファムは黙ってその様子を見ていた。
「……なるほど」
「どう?」
「確かに、フォルナの面影があります」
ファムは弓そのものではなく、フェリの立ち方を見ていた。
「右足を少し後ろへ引く癖も、弦を引く時に肩へ力を入れないところも似ています」
「本当?」
「ええ。ただし、あなたにはあなたの癖があります」
「悪い癖?」
「そうとも言えますし、才能とも言えます」
ファムは少し考える。
「フォルナの弓は非常に正確でした。狙った場所へ、最短の軌道で矢を飛ばすことを好んでいました」
「私は?」
「あなたは、普段、動きながら撃っているのではなくて?」
フェリが目を丸くする。
「分かるの?」
「見れば分かりますよ」
ファムは穏やかに笑った。
「森で生きてきた者の身体は、弓を引くためだけに存在しているわけではありません。走り、跳び、避け、その途中で矢を放つ。それもまた、一つの弓術です」
フェリは少し誇らしげに胸を張る。
「じゃあ、私のやり方も間違いじゃないんだ」
「ええ。むしろ、あなたには合っています」
その言葉を聞いて、フェリは嬉しそうに笑った。
◇
「では、エルフ流の弓術、いわゆる魔弓術について話しましょう」
ファムは一本の古びた矢を取り出した。
矢羽根は使い込まれ、軸にも細かな傷がある。
「魔弓術とは、単純に魔力を矢へ流し込む技術ではありません」
「え?」
「よくヒト族が使う魔法は、術者が魔力を外へ放ち、その魔力で矢の形を作り弓で放つものです。ですが魔弓術は違います」
ファムは矢を一本、指先で軽く回した。
「矢そのものを、魔力の通り道にするのです」
「通り道?」
「ええ」
ファムはフェリの弓を指差す。
「弓を引くことで生まれる力。矢が飛ぶ方向。そこへ魔力の流れを重ねる。魔力を矢に込めるのではなく、矢を魔力が通過するようにする」
フェリは少し考えた。
「……魔力で矢を押すんじゃなくて、矢そのものを魔法の一部にする?」
「その理解で構いません」
ファムは満足そうに頷いた。
「だから、魔力を込めすぎてはいけません」
「込めすぎると?」
「矢が壊れます」
「……なるほど。」
「最初は普通の矢を使いましょう。その方が安全ですから」
フェリはほっとしたように頷いた。
◇
最初の一射。
フェリは弓を構え、魔力を矢へ流し込む。
「……こう?」
「少し多いです」
「え?」
「もっと細く。水を一気に流すのではなく、糸を一本ずつ通すような感覚で」
フェリは集中する。
魔力を弱め、さらに細くする。
矢の周囲に、淡い光がまとわりついた。
「そうです」
ファムの声が少しだけ明るくなる。
「そのまま放ってください」
「うん!」
フェリが弦を離す。
矢は一直線に飛び、木の幹へ突き刺さった。
しかし、
「……あれ?」
光はすぐに消えてしまった。
「失敗?」
「いいえ」
ファムは首を横に振る。
「初めてなら十分です」
「本当に?」
「ええ」
ファムは少しだけ嬉しそうに笑った。
「フォルナは、最初の一射で弓を燃やしました」
「えっ」
「二射目ではつがえた矢を撃つ前に灰にしました」
「……お母さん、結構危ない人だったんだね」
「……否定はしませんよ」
フェリが吹き出した。
ファムも静かに笑う。
昨日よりも二人の間に流れる空気は、少しだけ自然になっていた。
◇
その後も練習は続いた。
魔力を細くする。
矢へ流す。
弓を引く。
狙いを定める。
そして放つ。
最初は数秒しか維持できなかった魔力が、少しずつ矢の周囲へ留まるようになっていく。
やがて。
「……できた」
フェリの放った矢が、淡い光をまとったまま木の幹へ突き刺さった。
その瞬間。
矢の周囲から小さな衝撃が広がり、木の表面に亀裂が走る。
「……!」
フェリ自身が驚いている。
「今の……私がやったの?」
「ええ」
ファムは静かに頷いた。
「魔力が矢の先端へ集中していました」
「威力も悪くありません」
「すごい……!」
フェリは自分の手を見つめる。
「これなら、もっと強くなれる?」
「ええ」
ファムは答えた。
「ですが、威力だけを追い求めてはいけません」
「魔弓術の本当の強さは、そこではありません」
「じゃあ、何?」
ファムは森の奥を指差した。
遠くの枝に、一枚の葉が揺れている。
「動くものを撃つことです。止まっている的、あるいは動きを予測できる的なら、誰でも狙えます。ですが、魔弓は魔力の流れを維持したまま、動く標的を追い続けることができます。それができれば、あなたの戦い方は大きく変わるでしょう」
フェリはその言葉を聞いて、目を輝かせた。
「やってみたい!」
「では、次です」
ファムは小さく笑った。
「今度は、走りながら撃ってください」
「分かった!」
フェリは弓を握り直した。そして森の中へ駆け出していく。ファムはその背中を見つめながら、静かに目を細めた。その姿は、かつてのフォルナとよく似ていた。
けれど、同じではない。フォルナが歩んだ道を、そのまま娘が辿る必要はない。自分が今できるのは、過去を悔やみ続けることではなく。目の前にいるこの少女が、自分自身の道を歩めるよう支えることだ。
ファムは弓を手に取り、フェリの後を追った。
「フェリ!」
「次はもう少し姿勢を低くしてください!」
「分かった!」
森の中に、二人の声が響く。
それは、長い間途切れていた家族の時間が、ようやく再び動き始めた瞬間だった。




