313話 対面*
翌日の午後。
聖都ヨーセフの中心部から少し離れた場所にある、聖教国の古い居住区へとアベルたちは足を運んでいた。
大聖堂や聖女会議の会場がある中心部とは違い、この一帯には観光客の姿もほとんどない。古い石造りの建物と巨大な樹木が混在し、長い年月をかけて自然と建築物が一体化したような静かな街並みが続いている。
その中でも特に古い建物の前で、教皇が足を止めた。
「ここです」
フェリは建物を見上げた。
白い石壁と蔦に覆われた窓。
そして、入口の脇に植えられた一本の大樹。
それだけを見ても、ここに誰が住んでいるのかは分からない。けれど、フェリはなぜか、胸の奥が落ち着かなくなるのを感じていた。
「……ここに、その人がいるの?」
「ええ」
教皇が静かに頷く。
フェリは小さく息を吸った。実際にその人物がいる場所まで来てしまうと、急に現実味が増してくる。
自分の両親について知っているかもしれない人物。
自分と同じ血を引くかもしれない人物。
そして、もしかすると、自分が知らなかった家族。
「フェリ」
隣に立つアベルが、静かに声をかける。
「無理なら、まだ会わなくてもいいぞ」
フェリは少しだけアベルを見る。
「……ううん」
しばらく迷ったあと、首を横に振った。
「会う。怖いけど……知りたいから」
「分かった」
アベルはそれ以上、何も言わなかった。ただ、フェリが一人で歩かなくてもいいように、自然に隣に立ち続けている。その距離が、今のフェリにはありがたかった。
教皇が扉を開く。
「ファム。入りますよ」
返事はなかった。
教皇は気にした様子もなく、そのまま中へ入る。
アベルたちも続いた。
室内は意外なほど質素だった。
大きな家具は少なく、壁際には古びた本棚が並んでいる。窓際には乾燥させた薬草が吊るされ、机の上には古い地図と何冊もの書物が積まれていた。
そして、部屋の奥の窓辺に、一人の女性が立っていた。
長い桃色の髪に褐色の肌。尖った耳。
そして、深い紫色の瞳。
年齢を感じさせる雰囲気はある。
しかし、人間の感覚からすれば、その姿は明らかに異質だった。
エルフ特有の長い耳だけではない。どこか夜を思わせる魔力が、静かに身体の周囲へ漂っている。彼女は読んでいた本を閉じると、ゆっくりと顔を上げた。
「…教皇様。本日はどのようなご用向きで?」
教皇は一歩前に移動する。
「今日は客人を連れて来ました。」
ファムは僅かに眉を動かした。
「私に?」
「ええ」
そして、教皇は一歩横に移動してフェリに前に来るように促した。
「彼女です」
その瞬間、ファムの表情が変わった。ほんの僅かな変化だったが、フェリについてきたアベルにも、それがはっきり分かった。
驚きと戸惑い。
そして、長い年月の底から蘇ったような感情。
ファムは立ち上がった。
フェリを見つめる。
ただ、見つめている。
何も言わない。
フェリも何も言えなかった。
互いに相手を見ているだけなのに。
妙な緊張が部屋を満たしていく。
やがてファムが、震える声で呟いた。
「……フォルナ。」
「え?」
その一言に、フェリの胸が大きく鳴った。フェリが思わず聞き返すほどに…。ファムは目を細める。
「……お母さんを、知ってるの?」
ファムは静かに頷いた。
「ええ。じゃあ、貴女はフォルナの子なのね。」
その声には長い年月が込められていた。
フェリは何かを言おうとして、言葉を失う。母親を知っている。それだけで、これまでずっと空白だった場所に、一つの輪郭が生まれたような気がした。
「じゃあ……」
フェリは恐る恐る尋ねる。
「お父さんのことも?」
「もちろん知っています。」
ファムは答えた。
フェリの指が僅かに震えた。
知りたかった。ずっと知りたかったことなのに、いざ目の前に知っている人が現れると、何から聞けばいいのか分からない。
「……」
「……」
二人の間に沈黙が落ちる。
フェリは視線を逸らした。
自分の家族について知りたい。
そう思って来たはずだった。
なのに、目の前にいる女性を、どう呼べばいいのかさえ分からない。母親とはどのような関係なのか?
「……あの」
フェリがようやく口を開く。
「ファムさん」
ファムの眉が僅かに動く。
「はい」
「お話を聞かせてもらっても良いですか?」
その質問に、ファムはしばらく黙った。
やがて、ほんの少しだけ笑った。
「ええ。良いわよ。何を聞きたいの?」
「お母さんとお父さんのことを……。」
ファムは椅子へ腰を下ろす。
「少し長くなるけど、良いかしら?」
「もちろんです。」
フェリは向かいの椅子に座るよう促されて座った。
ファティマとアベルは、一旦席を外すことにした。目線でファムに挨拶して部屋を出る。
そしてファムとフェリだけの対話が始まった。
◇
ファムは穏やかに話し始めた。
「血の上では、私はあなたの曽祖母です」
フェリの目が大きくなる。
「曽祖母……?」
「ええ」
「じゃあ……」
フェリは指を折るように考え始める。
「お母さんのおばあちゃん?」
「そういうことになりますね」
「……なんか、すごい」
フェリは少しだけ考え込む。
「……ファムおばあちゃん?」
「それは少し違う気がしますね」
ファムが苦笑する。
「曽祖母ですから」
「じゃあ、ファムおお・おばあちゃん?」
「それは言いにくくないですか?」
フェリは困ったように頭を掻いた。
「分かんない……」
その様子を見て、ファムは小さく笑った。
「ファムで構いませんよ。」
「え?」
「無理に家族らしく振る舞う必要はありません」
ファムの声は穏やかだった。
「あなたにとって私は、今日初めて会った人なのでしょう?」
「……うん」
「なら、それでいいのです」
フェリは少しだけ安心したように息を吐いた。
「じゃあ……ファムさん」
「はい」
「よろしくお願いします」
その言葉にファムの目が僅かに潤んだ。
「こちらこそ」
そして。
「よく生きていてくれました」
その言葉だけは、これまでのどんな言葉よりも、フェリの胸に深く響いた。フェリは目を伏せる。
「……うん」
それ以上は、何も言えなかった。
自分が生きている事を喜んでくれる肉親がいたのだと、フェリの両親がいなくなってから初めて実感できた瞬間だった。
◇
静かな部屋でファムはしばらく窓の外を眺めていた。
「あなたの母親フォルナは5人いる私の子のうち末っ子の子の唯一の娘で……。」
「……うん」
「とても活発な子でしたよ」
ファムは昔を思い出すように、ゆっくりと言葉を続ける。
「ダークエルフの里にいた頃から、じっとしていることが苦手で、森へ出ては珍しいものを見つけてきていました。危険な場所へ行くなと何度叱っても、翌日にはまた別の場所へ行ってしまうような子でした」
フェリの表情が少しずつ緩む。
「……私と似てますか?」
「かなり似てる。」
即答だった。
「あなたが森で暮らしていたと聞いた時、妙に納得しました」
「お母さんも、狩りとかしてたの?」
「ええ。フォルナも、あなたのお婆ちゃん、つまりフォルナの母親も弓は得意でしたよ。」
「……お婆ちゃんってことはファムさんの娘?」
「ええ。もう遠くの世界に行ってしまったけれど…。」
ファムが懐かしむように窓の外の空を見上げた。
いたたまれないフェリは話題を変える。
「私も弓を使うよ」
「そうなのでしょうね」
「え?」
ファムはフェリの腕を見る。
「それを見れば分かります。ちょっとこれを持って構えてみて?」
壁にかけてあった弓をファムはフェリに手渡した。
「こう?」
フェリは弓を構える。矢はつがえていないが、蔓を引くとファムは懐かしそうな顔をした。
「いい感じね」
「お母さんも、同じ構えだった?」
「いいえ」
ファムは少し考える。
「あなたの方が、身体の使い方が野生的で上手よ。」
「野性的……」
「褒めているのよ」
フェリが少しだけ頬を膨らませる。
「なんか褒められてる気がしない」
ファムも小さく笑う。
「そこはフォルナに似ていますね」
その言葉にフェリは少しだけ嬉しそうに笑った。
まだ家族と呼ぶには遠い。
それでも、目の前にいる女性が、自分の母親を知っている。自分のことを知ろうとしている。
その事実だけで、フェリの中にあった長い孤独が、ほんの少しだけ薄れていった。




