309話 エリスの苦悩*
帝国の飛空艇は、雲海の上を静かに進んでいた。
眼下にはどこまでも続く白い雲が広がり、その遥か彼方には、朝の光を受けて青く霞む山々が連なっている。帝国を発ってからすでに数時間が経過していたが、飛空艇の航行は驚くほど安定しており、船体を揺らすのは時折吹き抜ける上空の強い風くらいだった。
今回の航行には、アンジェリカだけでなく帝国から選ばれた六名の随行員も乗っている。彼らは、それぞれ操縦、魔力機関の管理、航路確認、船体の状態確認などを担当しており、長距離航行に慣れた専門の乗員だった。
船内では、それぞれが思い思いの時間を過ごしている。
ミリアとルナは早々に機関室へ向かい、帝国側の機関員に許可された範囲で飛空艇の構造について質問を続けていた。
「この魔力炉は、出力を一定に保つための制御式ですか?」
ルナが魔導回路を覗き込みながら尋ねる。
「はい。急激に出力を上げると浮力が不安定になりますので、複数の制御術式を組み合わせています」
「なるほど……。出力そのものを抑えるのではなく、変動幅を小さくしているんですね」
ルナは感心したように頷きながら、持ってきたノートへ次々と書き込んでいく。
その隣では、ミリアが別の部分を見つめていた。
「この部分、別の術式に置き換えたら、もっと小型化できそう」
「それは……帝国の技術者でも考えたことがない発想ですね」
機関員が苦笑する。
「申し訳ありませんが、そこから先は軍事機密になりますので」
「分かっています」
ミリアは素直に頷いた。
「でも面白いです」
その目は、完全に新しい魔道具を見つけた研究者のものだった。
一方、客室側ではクラリスが窓の外を眺めていた。
「聖教国って、どんなところなのかしら」
その問いに、エリスが答える。
「私も実際に行くのは初めてです。教皇様とは何度かお手紙のやり取りをさせて頂いたのですが、聖教国そのものについては詳しくありません」
「巡礼に行くには遠過ぎるものね。」
「はい。でも、いつかは行きたいと思っていたので、経緯はどうあれ今回行かせて頂けるのはとても嬉しいです。」
エリスは少しだけ笑った。
その言葉に、アベルの視線が静かにエリスへ向く。
エリスもその視線に気付き、小さく微笑んだ。
ただし、エリスには聖教国という名前を聞いた瞬間から、胸の奥にずっと眠っていた不安が少しずつ目を覚ましている。
かつて聖女だった自分。
神聖魔法を使い、人々を救うことを使命だと信じていた自分。
いつか世界中の聖女たちと肩を並べ、より多くの人々を救える日が来ると信じていた自分。
その全てが、今では遠い過去になっている。
聖女の称号を無くし、一時期は聖魔法を使う事すら出来なくなった自分が聖女会議でどのように扱われるのか……。それについては期待よりも恐怖が先に立っていた。もしかしたら、他の聖女達に辛い言葉を浴びせられるのではないか?そんな思いが、胸の奥で静かに渦巻いていた。
◇
「そろそろ見えてくる頃です」
アンジェリカの声が響いた。
エリスは顔を上げる。
「聖教国ですか?」
「はい。この先に大きな山脈があります。その向こう側が聖教国です」
山脈を超えて飛空艇が徐々に高度を下げていく。
雲の層へ近づき、その白い世界を抜ける。
次の瞬間、視界が一気に開けた。
「……!」
最初に声を上げたのはフェリだった。
「すごい……!」
眼下には巨大な森が広がっていた。
森の間を縫うように川が流れ、その先には広大な湖が見える。湖から流れ出した大河が大地を横切り、その周囲には大小さまざまな街や集落が広がっていた。
他のヒト族の都市とは、どこか雰囲気が違う。
白い石造りの建物があり、その隣には巨大な樹木を利用した建築物がある。森を切り開いて街を作ったというより、森そのものと共存するように都市が形成されているように見えた。
さらに遠くには巨大な城塞都市があり、その中心には一本の巨大な塔がそびえ立っている。
「あれが聖教国の首都、聖都ヨーセフです」
アンジェリカが説明する。
その名前を聞いた瞬間、アベルはほんの少しだけ目を細めた。
ゲームの知識に、その名前が残っている。
聖女ルートの終盤に世界各地から集まった聖女たちが、この都市を舞台に魔王軍との戦いについて協議するイベントがあった。
ゲームの中では、白い大理石で造られた壮麗な都市として描かれていた。
巨大な聖堂。
無数の巡礼者。
街中を行き交う聖職者。
だが、実際に見る聖都は、ゲーム画面で見たものよりもずっと静かだった。
森と都市が完全に分離しているわけではない。大樹の根元に建物があり、木々の間に道が通り、建築物の一部には生きた樹木がそのまま組み込まれている。大自然の中に人間が住まわせてもらっているような、不思議な街だった。
「綺麗……」
エリスが小さく呟いた。しかし、その声に込められていたのは純粋な感嘆だけではなかった。聖都を見れば見るほど、胸の奥にある緊張が強くなっていく。ここには、聖女という存在について誰よりも詳しい者たちがいる。
今までなら、知らない場所だから怖いのだと思えた。
しかし、エリスが今怖いのは、自分自身が聖女という存在を汚したことと、それについて糾弾されることだった。そこには、もう一度「聖女ではない」という現実を突きつけられることへの恐怖も含まれる。だからこそ、その説明責任から逃げるわけにはいかなかった。エリスは無意識に自分の両手を握り締めていた。
爪が掌へ食い込む。
何か不穏な空気を感じ隣にいたアベルが振り向いた。
「アベル様……。」
「エリス…大丈夫だ。いざとなれば俺たちがついてる。」
「…はい。」
エリスは微笑んだ。けれど、まだ指先の震えは止まっていなかった。アベルはそれを見ていたが、あえて何も言わなかった。今は強引に安心させるより、彼女自身が立つための時間を残した方がいいと考えたからだ。
やがて飛空艇は聖都上空へ入った。
その時、地上から、低く長い鐘の音が響き始めた。
ゴーン。
ゴーン。
重厚な音が、都市全体へ広がっていく。
アンジェリカは窓の外を見る。
一つの鐘が鳴り終わる前に、別の場所から次の鐘が響いた。さらに遠くからも音が重なる。やがて聖都全体が、無数の鐘の音に包まれていった。その壮大な光景を見ながら、アベルは静かに息を吐く。
「大歓迎……なのかな?」
「少なくとも警報とかの類ではないですから、拒絶はされていないようですが……。」
セレスティアが答える。
しかしエリスは、鐘の音を聞くほどに胸の鼓動が速くなっていくのを感じていた。
世界中の聖女が集まる場所。それは自分を裁くために用意された舞台へ、これから上がっていくような感覚だった。呼吸を整えようとしても、胸がうまく動かない。何度も深く息を吸おうとするけれど、肺へ入ってくる空気が妙に少ない。
エリスは膝の上で手を握った。
大丈夫。
そう何度も自分へ言い聞かせる。
私は逃げない。
けれど、心の奥から別の声が返ってくる。
本当に大丈夫なのか。
もしも、聖属性魔法を使うことを禁じられたら……。その考えが浮かんだ瞬間、エリスの手がわずかに震えた。
「エリス」
アベルが静かに呼んだ。
「はい」
「無理に平気なふりをする必要はない」
「……」
「会議で何を言われるかは、俺にも分からない」
アベルは窓の外へ視線を向ける。
「でも、お前がしてきたことまで、そこで決められるわけじゃない」
エリスの瞳が揺れた。
「エリスの魔法で助かった人がいる。それは事実だ」
「……はい」
その言葉だけで、胸の奥に張り詰めていたものが少しだけ緩んだ。
「エリスが聖女であってもなくても、俺の大切な仲間であることにはかわりはない。」
エリスはしばらく黙っていた。
やがて小さく息を吸う。
「……はい」
声はまだ震えている。
けれど、今度は逃げたいという震えではなかった。
飛空艇はゆっくりと聖都の外縁に設けられた発着場へ降下していく。
地上にはすでに大勢の人々が集まっていた。その中心には、白いローブを纏った一団が立っている。先頭にいる人物を見た瞬間、エリスは再び息を呑んだ。
白い長衣。
銀色の髪。
そして、人間とは異なる少し尖った耳。
何よりも遠目からでも分かるほど静かな威厳を纏っている。
「……あの方が」
エリスの声が小さく震える。
「はい。教皇様です」
アンジェリカが告げた。
聖教国を治め、世界各地の聖職者たちを束ねる者。そして、その女教皇はヒト族ではなくエルフである。
教皇は静かに飛空艇を見上げていた。その視線を見ただけで、エリスの胸が再び強く締め付けられる。
やがて飛空艇が完全に停止し、タラップが降ろされた。
最初にアベルが地上へ降りる。続いてリシア、フェリ、ルナ、ミリア、クラリス、セレスティア、そしてエリスが降りていく。
最後にアンジェリカと帝国の六名の随行員が続いた。
「勇者一行の皆さま、よくいらっしゃいました。私が教皇のファティマ=エルドランドです。」
「歓迎ありがとうございます。勇者アベルです。」
アベルが代表して教皇ファティマに挨拶を交わし、続いてアンジェリカが挨拶した。アンジェリカは既に何度も面会しているようで、距離感が少し近い。
それから教皇は一行を一人ずつ見渡した。そして、フェリに一瞬だけ気を取られたような素振りのあと、エリスのところで視線を止めた。
「……貴女が聖女エリスですね。」
静かな声だった。
エリスの身体が固まる。
「……え?」
教皇は穏やかな表情のまま、彼女を見つめていた。
(聖女エリス)
その呼び方に、エリスの胸が大きく跳ねる。
自分はもう聖女ではない。
なのに、この人は今、自分を聖女と呼んだ。
それが救いなのか。それとも、かえって恐ろしいことなのか。
分からない。ただ、喉が乾き、声が出にくくなる。
聖都の鐘が、再び鳴り響く。
四年に一度の聖女会議。
かつて聖女だった少女が、自分自身と向き合うための舞台が、今まさに始まろうとしていた。




