閑話66話 ルナの想い(5)*
アベルへの気持ちを自覚してからも、ルナの生活は大きく変わらなかった。
朝になれば研究室へ行く。
極大爆裂魔法などの魔法式を考える。
失敗すれば原因を探す。
成功すれば次の研究へ進む。
以前と同じ。
ただ、一つだけ変わったことがあった。
「……これなら」
ルナは完成した魔法式を見つめる。以前よりも、アベルの役に立つことを強く意識するようになった。
戦いの中で使えるもの。
移動を助けられるもの。
魔力を節約できるもの。
仲間を守るために使えるもの。
「アベルが困った時に、私が力になれれば……」
そう考えると、研究が楽しくなった。
その日の夕方。
ルナは完成したばかりの魔法陣を書いたメモをアベルへ渡した。
「これを試すのを手伝って欲しい。」
「新しい魔法か?」
「ええ。精神系の魔導具に対抗するための試作魔法陣。」
身体制御系への外部からの介入を防ぐ効果のあるその魔法陣は、絆の指輪のようなものに二度と屈しないための最初のステップとして、ルナがセレスティアやミリアたちとも協力しながら研究してきた成果だった。
「いいけど、これってどうするんだ?」
「魔導具にしたら外されて終わり」
「……だよなぁ。」
「だから、直接肌に描くようにした。」
「ふーん……えっ!?」
「来て。」
ルナはアベルの手を引いて研究室に連れ込んだ。そして、徐ろに服を脱ぎ始めるルナ。思わず目を瞑るアベル。
「もう大丈夫。」
アベルが恐る恐る目を開くと、そこには水着姿のルナがいた。水着を着たのは背中を大きく露出させる必要があるためで、本人も多少恥ずかしそうではあったものの、それ以上に実験への意気込みの方が勝っているようだった。
ルナはアベルに筆と魔法陣のメモを渡す。
「私の背中に魔法陣をその筆で描いて。」
「ちょっと待ってくれ。全然理解が追いつかないんだけど……。」
アベルは筆と魔法陣が描かれた紙をルナに手渡されるも固まっている。
「この魔石を溶かし込んだ特製の塗料で魔法陣を描けば、明日には魔法陣は見えなくなる。だから、心配しなくていい。」
「いや、心配なのはそこじゃなくて……。」
「早く……。」
長い髪をかき分けてうなじごと背中を晒し、アベルに向けるルナ。その顔は赤く緊張しているようだ。
「……俺でいいのか?ミリアとかティアとかでも…。」
「アベルがいい。」
小さな声で、でも確かにルナが言った。アベルは一呼吸おいて返事をする。
「わかった。でも、描くのは下手かもしれないぞ。」
「後ろの鏡でチェックするから大丈夫。」
姿見の鏡にルナが映っている。アベルは覚悟を決めてルナの大きく開いた背中に筆を走らせ始めた。
「じゃあ描くけど……これ、結構複雑だな」
アベルは魔石を溶かした特殊な染料と筆を手に取り、見本の魔法陣とミリアの背中を交互に確認する。
「線を一本間違えると効果が変わる。慎重に。」
「それ、先に言われると余計に緊張するんだけど」
「大丈夫。横から指示する。」
「それなら何とかなるか」
アベルは慎重に筆を動かし始めた。
魔法陣は単純な円や直線だけで構成されているわけではなく、細かな魔法文字が複雑に組み合わされているため、少し描いては見本と照らし合わせ、ルナから「もう少し右です」「そこは細くしてください」と指示を受けながら、一つずつ線を重ねていくことになった。
「……これ、描く側もかなり集中力が必要だな」
「……(はぁ♡はぁ♡)」
「大丈夫か?」
「だ、ダイジョウブ……で…す(うっ♡)」
突然、アベルの動きが止まった。
「……どうしたの?」
「いや……」
アベルが再び筆を走らせる。背中にこそばゆい感触を感じると、胸の奥が熱くなってくる。
そんなやり取りをしながら、ようやく最後の線が描き終わった。
「完成だ。」
「……ありがとう(はぁ♡はぁ♡)」
ルナは鏡を使って自分の背中を確認し、満足そうに頷いた。
「これで半日ほど経てば魔法陣そのものは見えなくなる。効果は一ヶ月程度はもつはず。」
「これで精神系魔法を防げるなら確かに有用だな。」
「ただ、問題は本当に精神干渉を防げるかどうか。」
ルナはそう言って、机の上に置かれていた小さな瓶を手に取った。
「そして、その検証のために用意したのがこれ。」
「……何だ?」
「ミリア特製の惚れ薬。」
「……待て」
アベルの表情が一気に険しくなる。
「なんでそんなものを用意してるんだ?」
「飲んだ人間が、目の前にいる相手を好きになるという効果があるから、この魔法陣の精神干渉への対抗能力を確認するにはちょうどいい。」
「いや、ちょうどよくないだろ。もっと安全な方法を考えようよ。」
「でも、これなら効果が分かりやすい。」
「でも、危ないって。」
「大丈夫。惚れ薬の効果は1時間程度。」
「待――。」
ルナはアベルが止めるより早く、小瓶の中身を一気に飲み干してしまった。
「ルナ?」
「大丈夫です。」
「いや、だから――」
「大丈夫ですよ。」
アベルにしなだれかかるルナ。
「本当に大丈夫か?」
「今のところは何ともありません」
「何ともない……のか?」
「はい。」
妙に色っぽい表情でアベルを見つめるルナ。
ぞれからルナは自分の身体を確認し、再び目の前にいるアベルを見る。
しばらくしても、何かが変わった様子はない。
「……何も起きない。」
「魔法陣が効いたのか?」
「そうかも。」
ルナは首を傾げながら、もう一度アベルを見る。
その瞬間だった。
「……あれ?」
「どうした?」
「少し……」
ルナが胸元に手を当てる。
「心臓の鼓動が速い。」
「惚れ薬の効果じゃないのか?」
「分からない。でも……」
ルナはアベルから視線を外して深呼吸する。ところが、再び顔を上げてアベルを見ると、また鼓動が強くなった。どくん、と大きく脈打つたびに、胸の奥から熱が広がっていく。
「……変ですね」
「具合が悪いなら、すぐにエリスを呼んで薬の効果を解除するぞ」
「大丈夫。」
ルナはそう答えながらも、アベルの顔をまともに見続けることができなくなっていた。
「魔法陣が失敗したかも。」
「そうなのか?」
「惚れ薬の効果が消えていないから。」
「じゃあ、俺のこと、どう思う?」
「……」
ルナは答えに詰まった。確かに、薬を飲んだ直後に突然アベルへ好意を抱いたような感覚はない。けれど、アベルが目の前にいると心臓が落ち着かない。さっきまで普通に話していたはずなのに、今は目を合わせるだけで妙に意識してしまう。そして、それは薬を飲む前から自分の中にあった感情と、どこか似ていた。
「……もしかして」
「何か分かった?」
「この魔法陣は、外から新しく作られた感情を防いでいるだけかも。」
ルナは自分の胸に手を置いたまま、アベルの耳元に口を近づけて小さな声で囁く。
「だから、私がアベルに対してもともと持っていた好意までは消すことはできない……」
「……。」
アベルは困惑した。普段からクールなルナから、そのような告白をされるとは思ってなかったから。
「ルナ?」
「……この検証実験は失敗。」
「じゃあ、魔法陣は成功してる可能性もあるわけだ」
「……そう。」
ルナは頷いた。けれど、その顔はどこか複雑だった。
「ただ……」
「ただ?」
「アベルが好きだという気持ちは検証できた。」
「……ありがとう。でも俺は……。」
言いかけたアベルの口をルナは人差し指で抑えた。それ以上は言わないでいいという意思表示として。
ルナはもう一度アベルを見る。やはり胸が大きく鳴った。
どくん。
その音が自分にしか聞こえないことを確認してから、ルナは小さく息を吐いた。
「……次は、もっと条件を整理して実験しないと」
「そうだな」
アベルはいつもの調子で答える。
「薬の効果が切れるまで様子を見て、魔法陣がちゃんと残っているかも確認しよう」
「はい」
ルナは返事をしながら、もう一度だけアベルを見る。
そしてすぐに視線を逸らした。
魔法陣が失敗したのか、それとも成功したのか、それはわからない。
ただ一つ確かなのは――惚れ薬の効果が消えた後も、アベルを目の前にした時のこの胸の鼓動だけは、しばらく忘れられそうにないということだった。




