閑話64話 ルナの想い(3)
新しい魔法式が完成した。
ルナは机の上に広げた魔法式が描かれた紙を見つめながら、しばらく動かなかった。
「……完成」
長い時間をかけて組み上げた術式だった。魔力の流れを一部変更し、これまで無駄になっていた魔力を再利用する。理論上は完璧だった。
実際に試してみるために魔法式へ魔力を流すと、術式が光った。
「成功……!」
思わず声が出た。
ルナは立ち上がる。
まずミリアに見せようか。
それともセレスティアに。
そう考えた瞬間だった。
「……アベル」
最初にその名前が浮かんだ。
「……」
自分でも驚いた。
どうして最初にアベルが出てきたのだろう。けれど、理由を考えるより先に、ルナは研究室を飛び出していた。
廊下を歩き、アベルを探す。
しばらくして、中庭で彼を見つけた。
「アベル」
「ルナ?」
「これを見て」
ルナは完成した魔法式を見せた。
「新しい術式」
「おお」
アベルは興味深そうに紙を覗き込む。
「これ、前に話してたやつか?」
「うん。完成した」
「すごいな」
「……」
「これなら魔力効率もかなり良くなるんじゃないか?」
「はい」
ルナは頷いた。けれど、本当に嬉しかったのはそこではなかった。
「よくやったな、ルナ」
その一言だった。
「……ありがとう」
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
研究が成功したことも嬉しい。
自分の理論が正しかったことも嬉しい。
けれど、それ以上に。アベルが一緒に喜んでくれたことが嬉しかった。
「……」
ルナは自分の手元を見る。少し前までは、研究成果を完成させることだけが嬉しかった。
今は違う。
完成したら、まずアベルに見せたい。
アベルに「すごい」と言ってもらいたい。
アベルが嬉しそうにしているところを見たい。
「……私」
ルナは小さく呟いた。
(アベルに認めてもらいたい)
「ん?」
「何でもない」
その日の夜。
ルナは研究記録へ新しい術式について書き込んだ。
最後に一行だけ、研究とは関係のないことを書く。
『完成した時、一番最初にアベルに見せたかった』
書いた後、しばらく見つめる。
そして、その文字を消そうとはしなかった。
◇
帝国滞在中、ルナとアベルが二人で研究をする機会は少なくなかった。
以前なら、ルナにとってそれは単純に効率の良い時間だった。アベルは実験の協力者として優秀で、こちらの意図を説明すれば余計なことをせずに動いてくれる。研究者として、これほどありがたい相手はいない。
ところが最近は少し違っていた。
「今日は二人きり」
「そうだな」
研究室に二人しかいない。その事実を確認しただけなのに、ルナは少し嬉しくなっていた。
「では、実験を」
「ああ」
実験を進める。
魔力を測定し、数値を書き留める。
術式を調整する。
何度も同じ作業を繰り返す。
そして、予定していた研究が終わった。
「これで終わり」
「ああ」
アベルが立ち上がる。
「じゃあ、そろそろ俺は戻るな」
「……」
ルナは一瞬だけ迷った。
「待って」
「ん?」
「その……」
何か言わなければ。けれど、特に用事はない。
「……この結果について、もう少し確認したいことがある」
「分かった」
アベルが再び椅子へ座る。
「どこを見ればいい?」
「ここ」
ルナは説明を始めた。自分でも分かっている。本当はもう研究を続ける必要はない。それでもアベルともう少し一緒にいたかった。そのことを認めるのは、少し恥ずかしい。
「……」
「ルナ?」
「はい?」
「さっきから同じところを三回説明してるぞ」
「……」
ルナは固まった。
「そう?」
「ああ」
「……すみません」
「疲れてるのか?」
「いえ」
ルナは少しだけ笑った。
「たぶん、今日は少し集中できていないだけ」
「そうか」
アベルはそれ以上追及しなかった。
二人で研究室に残る。ただ、それだけ。
なのにルナは、不思議なくらい心地よかった。
やがて時計を見る。
「……もうこんな時間」
「そろそろ戻るか」
「はい」
立ち上がる。研究は終わった。
なのに、少しだけ名残惜しい。
その感情を抱えたまま、ルナはアベルと一緒に研究室を出た。
廊下を歩きながら、ふと思う。
「……二人きりが、嬉しい」
それはもう、「研究効率がいいから」だけでは説明できなかった。




