閑話62話 ルナの想い(1)
帝国に滞在するようになって、しばらく経った頃。
ルナはあてがわれた研究室の机に向かい、一枚の紙へ魔法式を書き込んでいた。
細かな魔法文字を一つずつ確認し、計算式を書き足しては消し、また別の式を書き込む。いつもの研究風景だった。
けれど今日は、どうにも集中できない。
「……おかしい」
ルナは筆を置いた。
研究が難しいわけではない。計算が合わないわけでもない。むしろ今日の研究は順調で、午前中の段階で予定していたところまで終わっている。
問題は、少し前から聞こえてくる声だった。
「だから、それは俺がやるって」
「大丈夫です。これくらいなら私ができますから」
「いや、重そうだから」
「……では、お願いします」
研究室の外から聞こえてくるアベルとクラリスの声。
ルナは無意識に耳を澄ませていた。
「……」
そして、気づいた。自分は今、研究をしているふりをしながら、二人の会話を聞いている。
「……集中しないと」
自分へ言い聞かせるように呟き、再び紙へ視線を落とす。しかし、しばらくするとまた声が聞こえた。
「アベル様、ありがとうございます。」
「気にするなよ」
そのやり取りを聞いた瞬間、ルナはなぜか少しだけ眉を寄せた。
「……」
別に、何もおかしくない。
アベルとクラリスは仲間なのだから、普通に会話することもある。むしろ、今までなら気にも留めなかった。
なのに今日は、どうしても気になる。
「……これは」
ルナは筆を置いた。
「何なの…」
研究者として考えるなら、原因を分析するべきだ。
最近の睡眠時間。
食事。
疲労。
魔力の消耗。
どれも特に問題はない。
「となると……」
ルナは少し考えた。
やがて、一つの可能性へたどり着く。
「アベルだから、でしょうか」
口にしてから、自分で首を傾げた。
その日の午後。
研究室へアベルが顔を出した。
「ルナ、いるか?」
「はい」
「ちょっといいか?」
「何?」
アベルはルナの机に近づくと、研究中の魔法式を覗き込んだ。
「これ、また新しい術式か?」
「はい。精霊式のやり方で以前の術式を改良して、魔力の消費を抑えられないかと」
「へえ……」
アベルはしばらく紙を眺め、それから笑った。
「最近、ルナは本当に頑張ってるよな」
「……え?」
たった、それだけだった。
特別な言葉でもない。ただ褒められた、それだけのこと。なのに……。
「……ありがとう……ございます。」
自分でも分かるほど、声が少し明るくなった。
アベルは気づかないまま、
「じゃあ、邪魔したな」
と部屋を出ていく。
扉が閉まった。
静かになった研究室で、ルナはしばらく動かなかった。
「……」
そして、ゆっくり頬へ手を当てる。
「……嬉しい」
ぽつりと呟いた。
胸の奥が、ほんの少しだけ温かい。ただ褒められただけなのに、どうしてこんなに嬉しいのだろう。
その日の夜、研究記録を書き終えたルナは、最後の余白を見つめていた。研究内容とは関係のないことを書き込む。
『アベルに努力を褒められた』
そこまで書いて、手が止まる。
「……これは、研究記録ではない。」
ルナは慌てて線を引いた。しかし、消した文字を見つめながら、少しだけ笑う。
「……でも、嬉しかったのは事実」
まだ、その感情に名前はない。
ただ、アベルが誰かと話していると、少し気になる。
アベルに褒められると、嬉しい。
アベルに名前を呼ばれると、安心する。
その理由を、ルナはまだ知らなかった。
閑話が思ってたよりも長くなったので、分割して1時間毎に連投します。




