景炎
一
陸景炎は、その夜も眠れずにいた。
書斎の机に広げた地図には、赤い印が、いくつも打ってある。王弟派の別邸、秦侯の屋敷、望月京の出入口。二か月以上、毎晩、同じ地図を睨んできた。
秦剛毅は、門前で穏やかに言った。娘は家出した、縁談を断る形になり、申し訳ないと。深く頭を下げたその目は、少しも揺らがなかった。あの人は、何かを知っている。そう思うのに、それ以上、踏み込めなかった。
(無事で、いてくれ)
目を閉じると、一年前の夜が、いつも蘇る。
二
月祭の夜だった。
宰相家の嫡男として、景炎は、その夜も笑い続けていた。名門の貴族に頭を下げ、父の知人に杯を注ぎ、誰かの娘と踊る。笑っているのが仕事だ、と自分に言い聞かせながら。
息が詰まって、庭の奥へ逃げた。
石灯籠の陰に、先客がいた。
黒髪を高く結んだ少女が、木剣を握って、ひとりで型を繰り返している。額に汗を光らせ、月の下で、真剣な目をしていた。
「あ。ごめんなさい、ここ、空いていると思って」
「いや、こちらこそ。君は、どうしてこんなところで」 「踊りが苦手なんです。剣のほうが、気楽で」
悪びれもなく言うので、思わず笑ってしまった。久しぶりに、心から出た笑いだった。
少女は、木剣を下ろして、景炎の顔をじっと見た。
「顔色が、悪いです。人に囲まれすぎたんですね」 「……宰相家の息子は、笑っているのが仕事だから」 「笑うのが仕事なら」
少女は、そっと言った。
「誰も見ていない時くらい、休んでもいいと思います」
その一言で、胸の奥に張りつめていたものが、ほどけた気がした。
少女は、空を指した。細い月が、雲間にかかっていた。
「月は、満ちても欠けても、月ですから。私は、そう思うことにしています」
それだけ言って、軽く頭を下げ、彼女は暗がりへ消えた。名を、聞きそびれた。
後日、父の書類で、秦侯の娘、明凛という名を知った。
あの夜から、一年。縁談を、父に頼み込んだ。父は、驚くほどすぐに話を進めてくれた。国師様にも相談した、と言っていた。
(私が、あの縁談を望んだから)
そう思うたびに、胸が痛んだ。彼女が逃げたのは、自分のせいかもしれない。
三
翌朝、景炎は、王宮の清軒の執務室を訪れた。
「顔が死んでいるぞ」
筆を走らせていた清軒が、顔も上げずに言った。
「ひどい言い草だな」
「事実だ。寝ていないだろう」
軽口の応酬は、幼い頃から変わらない。景炎は、少し笑って、卓の向かいに腰を下ろした。
「頼みがある。彼女を見つけたら、真っ先に私に教えてくれ」
清軒の筆が、ほんの一瞬だけ、止まった。
「……ああ」
その声は、いつもと変わらなかった。ただ、紙の上に、小さな墨の染みが広がっていた。
「それと、もうひとつ」
景炎は、声を落とした。
「父が、最近、国師様と頻繁に会っている。夜更けに、人払いをして」 「宰相が、国師と」 「用向きを聞いても、お前には関係ないと言う。母の病も、国師様の薬だけが効くとかで、父は、あの方に頭が上がらない。……私は、、」
その時、扉が叩かれた。
「失礼いたします。護衛の秦明です」
入ってきたのは、短い髪の、若い兵だった。直立して、清軒に頭を下げる。その手首の袖口から、赤い紐が、ちらりと覗いた。
「ご苦労。景炎、こいつが新しい護衛隊長だ」
「陸景炎だ。よろしく」
景炎が手を差し出すと、秦明は、一拍遅れて、その手を握った。
近くで見て、不意に、不思議な感覚が胸をよぎった。
「君とは、どこかで会ったことがあるだろうか」
「いえ。初めてお会いします」
「そうか。……君は、月のような目をしているね」
秦明の肩が、ほんのわずかに強張った。
「気のせいでしょう」
「そうだな。失礼した」
景炎は、苦笑して手を離した。ただ、その目の奥に、あの夜の少女の、真剣な眼差しが、重なって見えた気がしたのだ。
「口説くなよ、景炎」と、清軒が横から言った。
「口説いていない! 私には、心に決めた人がいる」
「知っている。毎晩、地図を睨んでいるくらいにはな」
三人の間に、小さな笑いが生まれた。
けれど、笑い声の底で、清軒の目だけが、笑っていなかった。
四
景炎が去ったあと、執務室には、静けさが降りた。
メイリンは、長い息を吐いた。握られた手のぬくもりが、まだ残っている。
「あの方は、いい方です」
「知っている」
清軒は、窓の外を見たまま、答えた。
「私が逃げたことで、あの方を、傷つけました」
「お前が悪いわけじゃない」
「でも」
「それに、あいつが傷ついているのは、俺のせいでもある」
低い声だった。
「あいつが、お前を見つけたら教えてくれと頭を下げた時、俺は、頷いた。……最低だ」
「清軒様」
初めて、名で呼んだ。
清軒が、驚いたように振り向く。
「……今、何と」
「いえ。失礼しました」
慌てて目を逸らしたメイリンに、彼は、ふっと、柔らかく笑った。
「謝るのは、全部終わってからだ。景炎にも、お前にも」
「はい」
「それまでは、俺たちは共犯だ。そうだろう」
「……はい」
窓の外に、昼の月が、うっすらと浮かんでいた。
「宰相が、国師と夜に会っている」と、清軒が呟いた。
「景炎様の、お父様が」
「ああ。そして、景炎の縁談を、すぐに通した」
メイリンは、はっとした。
「それは」
「偶然か、誰かの意思か。調べる価値がある。それと、宰相夫人の薬の出所もだ」
満月まで、あと四日。
月見台と、宰相と、国師と、将軍。それらを結ぶ糸の、ほんの端が、見え始めていた。




