満月の夜
一
満月の前夜、護衛隊の四人は、メイリンの部屋に集まっていた。
「配置は、こうだ」
文遠が、紙に描いた月見台の見取り図を、卓に広げた。
「石垣の北が、見張りの死角。小燕、お前は屋根から見張れ」
「任せて。高いところは、得意だよ」
「大牙は、突撃だ」
「おう! 任せろ!」
「待て。合図があるまで、動くな」
「えー」
胸を張る大牙の横で、メイリンは、改めて三人を見回した。
護衛隊の隊員は、全部で数人。その中から、今夜動くのは、この三人だった。事情を知る文遠、身軽な小燕、そして、誰よりも体力のある大牙。
小燕と大牙には、殿下の密命だとだけ伝えてある。満月の夜、月見台で、兵が攫われているらしい。それを、止める、と。
厚山は、兵舎に残る。「点呼は、俺がごまかす」と、短く言ってくれた。
「秦明」
大牙が、不意に、真剣な顔で言った。
「今夜は、俺が前に出る。お前は、後ろにいろ」
「え」
「お前は、隊長だ。隊長は、最後まで立っていなきゃいけない。だから、先に倒れるのは、俺の役目だ」
胸を張ったその顔は、いつもの能天気な笑顔ではなかった。
「……ありがとうございます。でも、無理はしないでください」
「おう」
大牙は、ぐい、と拳を突き出した。メイリンは、少し笑って、その拳に、自分の拳を軽く合わせた。
大牙の耳が、ほんのり赤くなったのを、小燕が、にこにこと見ていた。
二
夜半、月が中天にかかった頃、石段を登る足音が聞こえた。
月見台を見下ろす林の中で、墨雲が、石垣の上を見ては、青い顔をしていた。
「殿下。私は、高いところが、どうにも」
「今更だ。ここは平地だぞ」
「石垣です。三丈あります」
「下を見るな」
小声のやり取りに、メイリンは、緊張の中でも、ほんの少し口元を緩めた。
提灯を持った兵が四人、担架を担いでいる。担架の上には、眠らされた若い兵が三人。将軍の私兵だ、とメイリンはすぐにわかった。
その後ろから、黒衣の者が、音もなく現れた。
頭巾を深く被り、顔は見えない。手に、銀の器。
「来た」
清軒が、息だけで呟いた。
黒衣は、祭壇に兵を横たえさせ、器を月に掲げた。次の瞬間、空気が、変わった。
満月の光が、渦を巻いて器に集まる。兵の体から、無数の光の糸が立ちのぼった。新月の夜とは、桁が違う。髪の根元から、黒が、みるみるうちに灰色に変わっていく。
メイリンは、魔力の流れを読んだ。
吐き気がするほど、冷たい。命の底から、何かを抜き取られていく感覚が、離れていても伝わってきた。
「このままだと、三人とも、助かりません」
「顔を見たい。もう少し、様子を」
「見ている間に、死んでしまいます」
メイリンは、まっすぐ清軒を見た。
清軒は、しばらく黙っていた。それから、ふっと息を吐いた。
「……お前なら、そう言うと思った」
「清軒様」 「俺が前に出る。お前は、兵を」
視線が、ぶつかった。
「三つ数える」
「はい」
「一、二」
三、の声と同時に、全員が、闇から飛び出した。
三
月光の鎖が、四人の私兵の足を絡め取った。
「何だ、貴様ら!」
「殿下!?」
私兵が叫ぶ間に、清軒が、一人を柄で打ち伏せ、もう一人の剣を弾き飛ばした。軽薄な男が、剣を握ると、別人のように鋭い。
「突撃ーーー!」
大牙の絶叫が、夜を貫いた。猪のように突っ込み、私兵を二人まとめて吹き飛ばす。
「後ろだ、大牙!」
「うおっ!」
文遠が、冷静に、背後の敵の足を払った。小燕が、屋根から飛び降りて、敵の剣を蹴り飛ばす。
「墨雲! 兵を連れていけ!」
「は、はいっ!」
墨雲が、担架へ飛びついた。メイリンは、祭壇へ駆け上がった。
器を持つ黒衣が、ゆっくりと、こちらを向いた。
「……邪魔を、する者がいたか」
低い声。男とも女ともつかない。
その手が、軽く振られた。
月光が、奔流となって襲いかかってきた。
「盾!」
月影の盾を、全力で広げる。けれど、薄い。髪を切って弱った盾は、満月の奔流の前で、悲鳴を上げるようにひび割れた。
(持たない)
膝が、揺れた。
「下がれ!」
清軒が、前に踏み込んで、月光の刃で奔流を斬り裂いた。
「大丈夫か」
「平気です」
「嘘をつけ」
怒ったような声だった。その背中が、メイリンの前に、壁のように立つ。
黒衣が、再び手を上げた。今度は、鎖が来る。無数の月光の鎖が、四方から伸びた。
「危ない!」
大牙が、メイリンの前に飛び出した。鎖が、その腕を絡め取る。
「ぐっ」
「大牙さん!」
「平気だ! こんなの、筋肉痛みたいなもんだ!」
歯を食いしばって、笑ってみせる。その横顔が、ほんの少しだけ、頼もしかった。
(この人は、本当に)
胸の奥が、じんと熱くなった。
メイリンは、目を閉じた。
(守られているだけじゃ、いけない)
髪は短い。魔力の貯まりは浅い。けれど、満月だ。月の恵みは、今夜、彼女にも降り注いでいる。
奥底の魔力を、息を吐くように、一気に解き放った。
銀の光が、爆ぜた。
黒衣の鎖が、すべて弾け飛んだ。その衝撃で、頭巾が、わずかにずれた。
見えたのは、顎のあたりと、手首。
そして、白い手袋だった。
「それは」
清軒の声が、凍りついた。
黒衣は、その視線に気づいたように、すっと頭巾を直した。
「……その魔力」
低く、呟く。
「面白い。黒髪の血筋の、それも、飛び抜けた」
メイリンの背筋に、冷たいものが走った。
その時、小燕が、黒衣のすぐ側へ、軽やかに降り立った。彼の腕の、燕の刺繍の布が、風にふわりと揺れた。
黒衣の動きが、ぴたりと止まった。
ほんの一瞬だった。頭巾の奥から、息を呑むような気配が、確かに伝わった。
「……燕」
誰にも聞こえないほどの、小さな呟きだった。
小燕だけが、はっと顔を上げた。
次の瞬間、黒衣は、器を抱えて、月光の中に溶けるように消えた。追う暇もなかった。
四
静けさが戻った祭壇の上で、メイリンは、膝から崩れ落ちた。
「メイリン!」
清軒の手が、肩を支える。
「兵は」
「三人とも、息がある。墨雲が、連れ出した」
担架の傍らで、墨雲が、泣きそうな顔で兵の脈を診ていた。三人とも、顔は蒼白だったが、胸は、かすかに上下している。髪の根元は、灰色に色褪せていた。
「間に合ったな」
「間に合いましたね。……あなたの、おかげで」
清軒が前に出てくれなければ、あの奔流で、自分が倒れていた。
そのとき、墨雲が、地面に倒れた私兵のひとりを指差した。
「殿下、この者が」
捕縛したはずの私兵が、泡を吹いて痙攣していた。髪が、みるみる白くなっていく。
「口封じ、か」
清軒の声が、低く沈んだ。
「黒衣が、去り際に、魔力を吸い尽くしたのか」
「……酷い」
メイリンは、唇を噛んだ。
足元に、銀の欠片が落ちていた。拾い上げると、器の縁の一部だった。月長石が、はめ込まれている。
「色が」
「どうした」
「乳白色でも、青みでもありません。白く濁っています」
文遠が、欠片を覗き込んだ。
「祭祀具の石に、近い。王家の宝物庫の目録を調べれば、持ち主がわかるかもしれない」
「宝物庫の」
清軒が、わずかに眉を寄せた。
そして、祭壇の石の上に、白い手袋の切れ端が、一枚。
「白い、手袋」
「国師か」と大牙
墨雲が、息を呑んだ。
「いや」
清軒は、首を振った。
「国師は、いつも白い手袋をしている。誰でも、それを真似できる。あまりにも、わかりやすすぎる」
「また、罠」
「かもしれない。ただ、あの黒衣は、満月の魔力を、あれほど自在に扱った。並の使い手じゃない」
清軒は、メイリンの顔を覗き込んだ。
「それより、お前だ。あいつ、お前の魔力に気づいたぞ」
「……はい」
メイリンは、喉の奥が、乾くのを感じた。
「黒髪の血筋の、飛び抜けた、と。……あの口ぶりは」 「縁談の裏にいる者と、同じだ」
清軒の目が、すっと細くなった。
「お前が、軍にいることを、知られたかもしれない」
立ち上がろうとして、足がもつれた。
「無理だ」
「大丈夫、です」
「大丈夫じゃない顔だ」
「俺が背負う!」
大牙が、勢いよく、メイリンの前にしゃがみ込んだ。
「大牙さん」
「腕はちょっと痛いけど、お前くらい、軽い、軽い!」 「いえ、私は」
「いいから乗れ!」
有無を言わせぬ勢いで、背負われた。
大きな背中は、驚くほど温かかった。
「……軽いな」
大牙が、ぽつりと呟いた。
「秦明、お前、ちゃんと食ってるか? なんか、女の子みたいに軽いぞ」
メイリンの心臓が、跳ねた。
「そ、そんなことは」
「冗談だよ! でも、もうちょっと食え! 今度、俺の肉を分けてやる!」
屈託のない声に、メイリンは、大牙の背中に顔を埋めて、小さく笑った。
少し離れたところで、清軒が、仏頂面で腕を組んでいた。
「……殿下、顔が」と、墨雲が、そっと囁いた。
「いつも通りだ」
「いつもその顔でしたら、側で仕えられませんよ」
清軒はフンッと顔を逸らした。
夜明けが、東の空を白く染めていた。
小燕は、祭壇の傍らで、腕の燕の刺繍の布を、じっと見つめていた。
「燕……」
さっきの黒衣の呟きが、耳の奥に、こびりついて離れなかった。
誰にも、言えなかった。まだ、自分でも、意味が掴めなかったから。
同じ頃、どこかの暗い一室で、黒衣の者が、頭巾を脱いでいた。
「見つけた」
囁きが、闇に溶けた。
「あの血筋が、軍に」




