忠誠の儀
一
満月の夜から三日。大部屋の夜は、いつもより、騒がしかった。
「なあ、聞いてくれ」
大牙が、膝を抱えて、真顔で言った。
「俺、最近、おかしいんだ」
「いつもおかしい」と、文遠。
「違う、本気だ!」
小燕が、目を輝かせて、身を乗り出した。
「どうおかしいの?」
「秦明の顔を見ると、胸が、こう、ぎゅっとなる。あいつが隊長になって、殿下の隣にいると、無性に腹が立つ。でも、あいつが笑うと、嬉しい」
沈黙。
「それは」と、文遠が、本を閉じた。「恋だな」
「恋!?」
「大牙さん、恋だよ!」
「相手は男だぞ!」
「それを俺に言うな」
文遠が、額を押さえた。小燕は、必死に笑いをこらえている。
秦明が、実は女であることを知っている二人は、目を合わせた。この真実を、今、この純粋な男に告げるべきか。
「……いや」
大牙は、突然、立ち上がった。
「待て。俺は、わかったぞ」
「何が」 「俺は、秦明という『人間』が、好きなんだ! 性別は関係ない! 弟分として、仲間として、一人の男として、あいつを尊敬している!」
胸を張って宣言する大牙に、文遠は、遠い目をした。
「……そうか。それで、いい」
「だろう!?」
「ああ。お前は、それでいい」
小燕は、笑いすぎて、布団に突っ伏した。
その隅で、厚山だけが、黙って、寝台に横たわっていた。細い目が、わずかに、天井を見つめている。
二
翌朝、練兵場に、全兵が整列させられた。
「先日の満月の夜、月見台に賊が入った」
壇上の鄭烈風が、雷のような声で告げた。
「見張りは打ち倒され、兵が三人、連れ去られた。内通者が、この中にいる」
ざわめきが、広がった。
「これより、全員に忠誠の儀を行う。この指輪に、手を当てよ。偽りの心を持つ者は、光が答える」
烈風が、右手を掲げた。月長石の指輪が、淡く脈打つ。
メイリンの背筋に、冷たいものが走った。
(探知の器)
あの指輪は、魔力に反応する。庶民の兵なら、ごく微弱な光しか出ない。けれど、黒髪の血筋の強い魔力が触れれば、明らかな光になる。
兵が、一人ずつ、列を進んでいく。指輪に触れ、微かな光が灯っては、次の者へ。
(大丈夫。まだ、順番まである)
メイリンは、目を閉じた。
(静めの術)
息を吐くように、魔力を、心の底へ沈めていく。波を鎮め、水面を、鏡のように凪がせる。
その時、気づいた。
髪を切ってから、魔力の貯まりは、浅くなっていた。弱さを嘆いてきたその浅さが、今は、静めやすい。沈めた魔力は、庶民のそれとほとんど変わらないほど、小さくなる。
(髪を切ったことが、今、私を守る)
胸の奥で、あの夜の泉の音が、静かに蘇った。
「次、秦明」
名を呼ばれて、メイリンは、一歩、前に出た。
烈風の鳶色の目が、まっすぐ、こちらを射抜く。
「手を」
指輪に、掌を当てる。
月長石が、淡く、淡く、光った。ほんのわずかに、脈を打つ。
烈風の目が、すっと細くなった。
「……ほう」
その声に、全身が、強張る。
「お前は、ずいぶんと、弱いな」
息が、止まった。
「剣の腕は一流だが、魔力は、凡人以下だ。これでは、賊の仲間にはなれん」
豪快に笑って、烈風は手を離した。
「次!」
メイリンは、膝の力が抜けそうになるのを堪えて、列に戻った。
(……通った)
掌に、冷たい汗が、滲んでいる。
けれど、烈風の目の奥の、鋭い光だけが、いつまでも消えなかった。
三
その夜、厚山が、メイリンを、練兵場の隅に呼んだ。
「少し、いいか」
月明かりの下で、巨体の古参兵は、いつもの穏やかな顔だった。
「今朝の、お前の手を見ていた」
「……手」
「震えていた。必死に、抑えていた」
心臓が、跳ねる。
「何の話ですか」
「いいんだ。言わなくて」
厚山は、ゆっくりと、空を見上げた。
「俺には、娘がいた。生きていれば、お前くらいの歳だ」
意外な言葉に、メイリンは、息を呑んだ。
「流行り病で、早くに亡くした。……お前を見ていると、どうしても、重なってな」
静かな声だった。
「お前が、何者であろうと、俺は構わん。ただ」
大きな手が、メイリンの頭に、そっと置かれた。
「女の子が、一人で背負うには、重すぎる荷だ。困ったら、俺を頼れ」
視界が、急に、滲んだ。
何も言っていないのに。ずっと、気づいていたのだ。この人は、最初から、全部。
「……ありがとうございます」
「礼は要らん。娘の代わりだ」
厚山は、不器用に笑った。
メイリンは、堪えきれずに、小さく肩を震わせた。彼は、何も言わず、ただ、隣に立ち続けてくれた。
四
満月から十日ほど後、王宮の執務室。
「黒衣の件、将軍の指輪の件、それに」
清軒は、報告書の束を、卓に積んだ。
「今朝、宰相から通達が届いた」
「何でしょう」
墨雲が、顔を曇らせた。
「景炎の婚礼の儀は、予定通り、次の次の満月に執り行う、と」
メイリンの手が、止まった。
「花嫁は」
「不在のままでは、儀式にならない。代わりに、国師が、『月の巫女』を立てると」
「ほかには」
「叔父上の派閥が、朝議で、月見台の管理を改めて検めるよう願い出た。見張りが破られた以上、当然の申し出だ」
「それで」
「国師が、一言で退けた。『王家の祭祀に、軍も朝廷も口を挟むべからず』と。陛下の名代として、宰相も頷いた」
墨雲が、書き留める手を止めた。
「王弟殿下が邪魔をしているどころか、邪魔をされているのでは」
「そう見える。見えすぎるのが、気に入らん」
清軒の目が、鋭く光った。
「誰かを、花嫁の代わりに、立てる気だ。……あるいは、お前を、力ずくで引き出す気か」
メイリンは、拳を握りしめた。
「準備を、急がなければなりません」
「ああ」
窓の外には、欠けかけた月が、静かに浮かんでいた。
婚礼の満月まで、あと一か月と少し。猶予があるようで、少しもなかった。




