↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
黒い髪  作者: 八重


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
12/32

消えた護衛隊長

一

「今日は、ここまでにしよう」

清軒が筆を置いた時、執務室の蝋燭は、半分以上が溶けていた。

「まだ、書類が」 「明日でいい。お前が、先に倒れる」

清軒は、顔を上げずに言った。それでも、メイリンが戸口で立ち止まったのを、気配で察したらしい。

「どうした」 「いえ。殿下こそ、お休みになってください。宰相の通達から、ろくに寝ておられません」 「お前に言われたくない」

ふっと、口元が緩んだ。

「軍営まで、送らせようか。墨雲に」 「軍営の中です。送られる距離では」 「それでも、だ」

少しだけ、声が低くなった。

「あの黒衣は、まだ捕まっていない。将軍の目も、お前に向いている。……夜道は、一人で歩くな」 「はい。心得ています」

そう答えたのは、本心だった。けれど、軍営の裏門までの道は、毎晩歩いている道だった。月見台を巻く土塀の外、練兵場の外れ。灯りは少ないが、迷うことはない。

「大丈夫です。では、お先に失礼します」

「ああ」

一礼して、戸に手をかけた時、後ろから声がした。

「メイリン」

兵のいない部屋では、名は、本当の名に戻る。振り向くと、清軒は、まだ書類に目を落としたまま、言った。

「また、明日」

「……はい。また、明日」

それだけの言葉だった。あとから思えば、なぜ、あの一言を、胸に刻んだのだろう。

二

軍営の裏門は、閉ざされていた。

おかしい、と気づいたのは、門のすぐ前だった。いつもなら、二人の番兵が、焚き火の前で眠そうに立っている。それが、今夜は、一人もいない。

「秦明殿」

闇の中から、若い兵が、一人、歩み出た。見覚えのない顔だった。手には、小さな瓢箪を提げている。

「大将軍閣下より、お言付けです。先日の忠誠の儀を、無事に終えた労いとして」

「閣下から、私に」

「はい。夜番の者全員に、振る舞うようにと」

瓢箪が、差し出された。酒の匂いが、微かにした。

メイリンは、受け取らなかった。

「ありがたく、頂戴します。ただ、勤務中ですので」

「閣下のお心遣いを、断られるのですか」

「そうではありません。明朝、改めて、御礼に伺います」

若い兵の顔が、わずかに引きつった。

その瞬間、背後で、砂利を踏む音がした。

(一人じゃ、ない)

考えるより先に、体が動いていた。振り向きざまに、指先を払う。月光の鎖が、闇に走る。

けれど。

指先から、細く、頼りなく伸びた鎖は、闇の中の二人目の男の肩を、かすめただけだった。

(やはり、遅い)

髪を切ってから、術は、細く、短い。それでも、腕は、鈍っていない。体をひねって、男の手首を取り、投げ飛ばす。三人目が、横から飛びかかる。肘を打ち込む。鈍い音と、呻き声。

「閣下の、お指図だと」

息を弾ませながら、メイリンは剣の柄に手を掛けた。

「ならば、なぜ、番兵を外した。なぜ、顔を隠す」

答えは、なかった。代わりに、闇の奥から、冷たい声が、降ってきた。

「やはり、ただの兵では、ないな」

長身の男が、ゆっくりと、姿を現した。年は四十前後。鎧の上に、副官の印を提げている。

「董副官」

名を知っていた。烈風の腹心だ。練兵場で、何度か、見かけた。

「覚えていたか。光栄だ」

董は、懐から、小さな革の袋を取り出した。

「だが、少し、眠ってもらう」

袋が、投げられた。

地面で、はじけた。銀色の粉が、ふわりと、舞い上がる。月の光を溜め込む草の根は、夜になると、自ら、淡く光る。細かな光が、霧のように、闇の中に広がっていく。

(これは)

息を止めようとした。遅かった。

一息、吸った。ただ、それだけだった。

胸の奥で、何かが、ぷつりと、切れた。魔力が、体の中で、流れを失っていく。足元から、力が、抜けていく。

(魔力を、封じる粉)

膝が、土についた。伸ばした指先に、もう、鎖は、出なかった。

「連れていけ」

董の声が、遠くなる。伸びてきた手に、腕を、掴まれた。

倒れる間際、メイリンは、必死に、自分の腰の袋を、掴んだ。董の部下が落とした、あの銀の粉の袋。その口を、力任せに、引き裂く。

粉が、地面に、ぶちまけられた。闇の中で、細かく、淡く、光った。

(気づいて)

誰に、とは、思わなかった。

けれど、意識が、闇に落ちる最後に、浮かんでいたのは、ひとつの声だった。

また、明日。

三

朝の大部屋で、大牙が、立ち尽くしていた。

「いない」

秦明の寝台は、整えられたままだった。昨夜、誰も、寝た跡がない。

「いつもの、井戸端じゃないのか」

「井戸にも、風呂場にも、いない」

文遠が、本を持たずに、戸口に立っていた。それだけで、事の重さが知れた。

「昨日の夜、秦明は、殿下のところから戻る途中だったはずだ。裏門の番兵は」

「それが」

厚山が、低く言った。

「昨夜は、番兵の配置換えがあったらしい。二人とも、夜半に、別の持ち場へ回されている」

「誰の命令で」

「わからん」

短い沈黙のあと、小燕が、ぽつりと言った。

「行ってみよう。裏門から、練兵場の外れまで」

誰も、反対しなかった。

朝靄の中を、四人は、走った。裏門の前。月見台の土塀に沿った細い道。その途中で、小燕が、足を止めた。

「ここ」

地面が、荒れていた。靴の跡が、いくつも重なり、土が掘り返されている。争った跡だった。

「剣は」

「ない。鞘も、ない」

大牙が、地面に膝をついた。拳を、土に打ちつけた。

「あいつ、一人で」

「大牙」

「俺が、裏門の番をしていれば。いや、見回りを代わっていれば」

「大牙さん」

小燕が、そっと、指を差した。

「これ、見て」

砂利の隙間に、白いものが、散らばっていた。朝日が差すと、ほんの一瞬、銀色に、きらりと光る。

文遠が、屈んで、指先で、少しだけ掬い取った。鼻に近づける。

「……薬草の匂いがする」

「薬」

「ただの粉ではない。何かの、根を挽いたものだ」

文遠の眉が、険しく寄った。

「秦明が、これを、わざと、撒いたのかもしれない」

「どうして」

「誰かに、見つけてもらうために」

その言葉に、大牙が、顔を上げた。

小燕は、さらに、道の先を見ていた。

「それと、これも」

土の上に、二本の、深い筋が、並んで続いていた。幅は広く、縁が、ぎざぎざに欠けている。

「車輪の跡。重い荷を載せた、荷車だ。片方の輪が、欠けてる」

「どっちへ、向かった」

「……東。軍営の外へ」

四人は、顔を見合わせた。

その時、練兵場の方から、足音が、近づいてきた。

「そこで何をしている」

十人ほどの兵が、整然と、歩いてくる。先頭の男の胸に、副官の印が光っていた。董ではない。董の、部下だった。

「秦明の寝台を、検める」

「検める、とは」

「本日未明、秦明は、脱走した。忠誠の儀を恐れた、内通の疑いがある。荷物は、すべて没収する」

大牙が、飛び出した。

「ふざけるな! あいつが、脱走だと! 昨夜、どこかで」

「大牙」

厚山の手が、肩を掴んだ。

「放せ!」

「放さん」

低い声だった。腕の力は、鉄のようだった。

「ここで、騒ぎを起こせば、お前も、拘束される。あの子の居場所を、探す者が、いなくなる」

大牙の体が、ぶるぶると、震えた。歯を食いしばった唇から、血が滲んだ。

兵たちが、大部屋へ入っていく。秦明の寝台の下を、荷を、すべて、運び出していく。

文遠が、小さく呟いた。

「おかしい」

「何が」

「脱走と決めつけるのが、早すぎる。夜が明けて、まだ、半刻も経っていない」

小燕が、頷いた。

「昨夜のうちに、決まってたんだ」

その場の誰もが、同じことを、思っていた。

四

清軒が、それを知ったのは、昼前のことだった。

執務室で、書類をめくる手を、墨雲の足音が、止めた。いつもと違う、早足だった。

「殿下」

「どうした」

「護衛隊の、文遠が参っております。至急、お耳に入れたいことが、と」

清軒は、顔を上げた。

メイリンが、まだ、来ていない。今朝の朝議にも、顔を出さなかった。寝坊でもしたかと、苦笑して、待っていたところだった。

「通せ」

入ってきた文遠は、深く、頭を下げた。顔色が、悪かった。

「秦明が、昨夜から、戻っておりません」

筆が、手から、すべり落ちた。

「……何」

「軍営の裏門から、練兵場の外れの間で、争った跡がありました。薬の粉と、荷車の轍。それと」

文遠は、言葉を選んだ。

「大将軍府の副官が、未明のうちに、秦明を『脱走兵』と定めました。荷が、没収されております」

部屋の空気が、凍りついた。

「脱走」

清軒は、ゆっくりと、繰り返した。

「俺の、護衛隊長が」

「はい」

「あいつが、脱走するはずが、ないだろう」

声が、低かった。怒鳴りも、しなかった。ただ、静かすぎて、墨雲が、息を呑んだ。

「殿下」

「馬を出せ。将軍府だ」

「しかし、殿下」

「出せと言った」

五

大将軍の執務室で、鄭烈風は、悠然と、茶を啜っていた。

「これは、殿下。わざわざ、お越しとは」

「秦明が、消えた」

挨拶を、省いた。

「昨夜から、戻っていない。そちらの副官が、脱走と決めたと聞いた」

「おお、その件か」

烈風は、茶碗を卓に置いた。

「残念なことです。殿下のお気に入りの、隊長殿であっても、先日の忠誠の儀の翌日から、姿が消えた。私の目には、後ろ暗いところのある者の、振る舞いと映ります」

「彼は、昨夜、俺の部屋から、戻る途中だった」

「それは、存じませんでした。ですが」

烈風の唇が、わずかに、歪んだ。

「殿下の部屋を出て、軍営に戻らず、消えた。となれば、賊の仲間が、殿下のお側に潜んでいた、ということになりますな」

「何を」

「恐ろしいことです。護衛隊長が、内通者であったとは」

清軒の拳が、握りしめられた。爪が、掌に、食い込んだ。

「根拠を、示せ」

「根拠は、これから探します。脱走兵の捜索は、軍の務め。殿下のお手を、煩わせるには及びません」

「俺の臣が」

声が、わずかに、震えた。

「俺の臣が、攫われたのかもしれないと、考えないのか」

「攫われた?」

烈風は、大げさに眉を上げた。

「庶民の一兵卒を、誰が、何のために」

目の奥で、冷たい光が、ちらりと、閃いた。

「それとも、殿下には、その兵卒に、特別な価値がおありだと」

清軒は、答えなかった。

答えれば、メイリンの名を、危険にさらす。ここで、感情を見せれば、彼女の首に、縄をかけることになる。

「……軍の捜索を、頼む」

噛みしめるように、そう言った。

「無論です」

「ただし」

清軒は、烈風を、まっすぐに見据えた。

「もし、あいつの身に、何かあれば。軍の責任として、処分する」

「肝に銘じます」

烈風は、深々と、頭を下げた。その背に、嘲りの色が見えた気がした。

六

将軍府を出ると、日は、すでに、傾きかけていた。

墨雲が、馬の手綱を握ったまま、おそるおそる、口を開いた。

「殿下。手が」

清軒は、自分の掌を、見た。握りしめた爪の跡から、血が、細く、滲んでいた。

「……ああ」

「将軍は、何か、ご存じです」

「間違いない」

即答だった。

「だが、証拠が、ない。俺が、軍の中で、将軍を問い詰めれば、あいつは、護衛隊長を『内通者』にして、俺の側近ごと、潰しにくる」

「では」

「動くしかない。俺たちだけで、だ」

清軒は、馬に飛び乗った。

「文遠が、拾ったものを、見せろ。見張りの配置換えの命令書も、洗え。一刻も、無駄にするな」

「はい」

馬の背で、振り向いた。夕陽が、横顔を、赤く染めていた。

「墨雲」

「はい」

「俺は、昨夜、あいつを、一人で帰した」

声が、掠れていた。

「送ると言ったのに。あいつが、軍営の中だからと言うから。引き下がった」

「殿下」

「馬鹿だ。俺は」

墨雲は、何も言えなかった。主の背中が、これほど小さく見えたのは、初めてだった。

その夜、執務室の窓辺に、清軒は、ひとり、立っていた。

月は、ほとんど、欠けていた。細い光が、庭の石畳を、薄く、照らしている。

ふと、左耳が、熱を持った気がした。

翡翠の耳飾りが、ほんの一瞬、脈を打ったような。

「……気のせいか」

指で、そっと、触れた。もう、何も、感じなかった。

「必ず、見つける」

誰に聞かせるでもない呟きが、夜気に、溶けていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。