消えた護衛隊長
一
「今日は、ここまでにしよう」
清軒が筆を置いた時、執務室の蝋燭は、半分以上が溶けていた。
「まだ、書類が」 「明日でいい。お前が、先に倒れる」
清軒は、顔を上げずに言った。それでも、メイリンが戸口で立ち止まったのを、気配で察したらしい。
「どうした」 「いえ。殿下こそ、お休みになってください。宰相の通達から、ろくに寝ておられません」 「お前に言われたくない」
ふっと、口元が緩んだ。
「軍営まで、送らせようか。墨雲に」 「軍営の中です。送られる距離では」 「それでも、だ」
少しだけ、声が低くなった。
「あの黒衣は、まだ捕まっていない。将軍の目も、お前に向いている。……夜道は、一人で歩くな」 「はい。心得ています」
そう答えたのは、本心だった。けれど、軍営の裏門までの道は、毎晩歩いている道だった。月見台を巻く土塀の外、練兵場の外れ。灯りは少ないが、迷うことはない。
「大丈夫です。では、お先に失礼します」
「ああ」
一礼して、戸に手をかけた時、後ろから声がした。
「メイリン」
兵のいない部屋では、名は、本当の名に戻る。振り向くと、清軒は、まだ書類に目を落としたまま、言った。
「また、明日」
「……はい。また、明日」
それだけの言葉だった。あとから思えば、なぜ、あの一言を、胸に刻んだのだろう。
二
軍営の裏門は、閉ざされていた。
おかしい、と気づいたのは、門のすぐ前だった。いつもなら、二人の番兵が、焚き火の前で眠そうに立っている。それが、今夜は、一人もいない。
「秦明殿」
闇の中から、若い兵が、一人、歩み出た。見覚えのない顔だった。手には、小さな瓢箪を提げている。
「大将軍閣下より、お言付けです。先日の忠誠の儀を、無事に終えた労いとして」
「閣下から、私に」
「はい。夜番の者全員に、振る舞うようにと」
瓢箪が、差し出された。酒の匂いが、微かにした。
メイリンは、受け取らなかった。
「ありがたく、頂戴します。ただ、勤務中ですので」
「閣下のお心遣いを、断られるのですか」
「そうではありません。明朝、改めて、御礼に伺います」
若い兵の顔が、わずかに引きつった。
その瞬間、背後で、砂利を踏む音がした。
(一人じゃ、ない)
考えるより先に、体が動いていた。振り向きざまに、指先を払う。月光の鎖が、闇に走る。
けれど。
指先から、細く、頼りなく伸びた鎖は、闇の中の二人目の男の肩を、かすめただけだった。
(やはり、遅い)
髪を切ってから、術は、細く、短い。それでも、腕は、鈍っていない。体をひねって、男の手首を取り、投げ飛ばす。三人目が、横から飛びかかる。肘を打ち込む。鈍い音と、呻き声。
「閣下の、お指図だと」
息を弾ませながら、メイリンは剣の柄に手を掛けた。
「ならば、なぜ、番兵を外した。なぜ、顔を隠す」
答えは、なかった。代わりに、闇の奥から、冷たい声が、降ってきた。
「やはり、ただの兵では、ないな」
長身の男が、ゆっくりと、姿を現した。年は四十前後。鎧の上に、副官の印を提げている。
「董副官」
名を知っていた。烈風の腹心だ。練兵場で、何度か、見かけた。
「覚えていたか。光栄だ」
董は、懐から、小さな革の袋を取り出した。
「だが、少し、眠ってもらう」
袋が、投げられた。
地面で、はじけた。銀色の粉が、ふわりと、舞い上がる。月の光を溜め込む草の根は、夜になると、自ら、淡く光る。細かな光が、霧のように、闇の中に広がっていく。
(これは)
息を止めようとした。遅かった。
一息、吸った。ただ、それだけだった。
胸の奥で、何かが、ぷつりと、切れた。魔力が、体の中で、流れを失っていく。足元から、力が、抜けていく。
(魔力を、封じる粉)
膝が、土についた。伸ばした指先に、もう、鎖は、出なかった。
「連れていけ」
董の声が、遠くなる。伸びてきた手に、腕を、掴まれた。
倒れる間際、メイリンは、必死に、自分の腰の袋を、掴んだ。董の部下が落とした、あの銀の粉の袋。その口を、力任せに、引き裂く。
粉が、地面に、ぶちまけられた。闇の中で、細かく、淡く、光った。
(気づいて)
誰に、とは、思わなかった。
けれど、意識が、闇に落ちる最後に、浮かんでいたのは、ひとつの声だった。
また、明日。
三
朝の大部屋で、大牙が、立ち尽くしていた。
「いない」
秦明の寝台は、整えられたままだった。昨夜、誰も、寝た跡がない。
「いつもの、井戸端じゃないのか」
「井戸にも、風呂場にも、いない」
文遠が、本を持たずに、戸口に立っていた。それだけで、事の重さが知れた。
「昨日の夜、秦明は、殿下のところから戻る途中だったはずだ。裏門の番兵は」
「それが」
厚山が、低く言った。
「昨夜は、番兵の配置換えがあったらしい。二人とも、夜半に、別の持ち場へ回されている」
「誰の命令で」
「わからん」
短い沈黙のあと、小燕が、ぽつりと言った。
「行ってみよう。裏門から、練兵場の外れまで」
誰も、反対しなかった。
朝靄の中を、四人は、走った。裏門の前。月見台の土塀に沿った細い道。その途中で、小燕が、足を止めた。
「ここ」
地面が、荒れていた。靴の跡が、いくつも重なり、土が掘り返されている。争った跡だった。
「剣は」
「ない。鞘も、ない」
大牙が、地面に膝をついた。拳を、土に打ちつけた。
「あいつ、一人で」
「大牙」
「俺が、裏門の番をしていれば。いや、見回りを代わっていれば」
「大牙さん」
小燕が、そっと、指を差した。
「これ、見て」
砂利の隙間に、白いものが、散らばっていた。朝日が差すと、ほんの一瞬、銀色に、きらりと光る。
文遠が、屈んで、指先で、少しだけ掬い取った。鼻に近づける。
「……薬草の匂いがする」
「薬」
「ただの粉ではない。何かの、根を挽いたものだ」
文遠の眉が、険しく寄った。
「秦明が、これを、わざと、撒いたのかもしれない」
「どうして」
「誰かに、見つけてもらうために」
その言葉に、大牙が、顔を上げた。
小燕は、さらに、道の先を見ていた。
「それと、これも」
土の上に、二本の、深い筋が、並んで続いていた。幅は広く、縁が、ぎざぎざに欠けている。
「車輪の跡。重い荷を載せた、荷車だ。片方の輪が、欠けてる」
「どっちへ、向かった」
「……東。軍営の外へ」
四人は、顔を見合わせた。
その時、練兵場の方から、足音が、近づいてきた。
「そこで何をしている」
十人ほどの兵が、整然と、歩いてくる。先頭の男の胸に、副官の印が光っていた。董ではない。董の、部下だった。
「秦明の寝台を、検める」
「検める、とは」
「本日未明、秦明は、脱走した。忠誠の儀を恐れた、内通の疑いがある。荷物は、すべて没収する」
大牙が、飛び出した。
「ふざけるな! あいつが、脱走だと! 昨夜、どこかで」
「大牙」
厚山の手が、肩を掴んだ。
「放せ!」
「放さん」
低い声だった。腕の力は、鉄のようだった。
「ここで、騒ぎを起こせば、お前も、拘束される。あの子の居場所を、探す者が、いなくなる」
大牙の体が、ぶるぶると、震えた。歯を食いしばった唇から、血が滲んだ。
兵たちが、大部屋へ入っていく。秦明の寝台の下を、荷を、すべて、運び出していく。
文遠が、小さく呟いた。
「おかしい」
「何が」
「脱走と決めつけるのが、早すぎる。夜が明けて、まだ、半刻も経っていない」
小燕が、頷いた。
「昨夜のうちに、決まってたんだ」
その場の誰もが、同じことを、思っていた。
四
清軒が、それを知ったのは、昼前のことだった。
執務室で、書類をめくる手を、墨雲の足音が、止めた。いつもと違う、早足だった。
「殿下」
「どうした」
「護衛隊の、文遠が参っております。至急、お耳に入れたいことが、と」
清軒は、顔を上げた。
メイリンが、まだ、来ていない。今朝の朝議にも、顔を出さなかった。寝坊でもしたかと、苦笑して、待っていたところだった。
「通せ」
入ってきた文遠は、深く、頭を下げた。顔色が、悪かった。
「秦明が、昨夜から、戻っておりません」
筆が、手から、すべり落ちた。
「……何」
「軍営の裏門から、練兵場の外れの間で、争った跡がありました。薬の粉と、荷車の轍。それと」
文遠は、言葉を選んだ。
「大将軍府の副官が、未明のうちに、秦明を『脱走兵』と定めました。荷が、没収されております」
部屋の空気が、凍りついた。
「脱走」
清軒は、ゆっくりと、繰り返した。
「俺の、護衛隊長が」
「はい」
「あいつが、脱走するはずが、ないだろう」
声が、低かった。怒鳴りも、しなかった。ただ、静かすぎて、墨雲が、息を呑んだ。
「殿下」
「馬を出せ。将軍府だ」
「しかし、殿下」
「出せと言った」
五
大将軍の執務室で、鄭烈風は、悠然と、茶を啜っていた。
「これは、殿下。わざわざ、お越しとは」
「秦明が、消えた」
挨拶を、省いた。
「昨夜から、戻っていない。そちらの副官が、脱走と決めたと聞いた」
「おお、その件か」
烈風は、茶碗を卓に置いた。
「残念なことです。殿下のお気に入りの、隊長殿であっても、先日の忠誠の儀の翌日から、姿が消えた。私の目には、後ろ暗いところのある者の、振る舞いと映ります」
「彼は、昨夜、俺の部屋から、戻る途中だった」
「それは、存じませんでした。ですが」
烈風の唇が、わずかに、歪んだ。
「殿下の部屋を出て、軍営に戻らず、消えた。となれば、賊の仲間が、殿下のお側に潜んでいた、ということになりますな」
「何を」
「恐ろしいことです。護衛隊長が、内通者であったとは」
清軒の拳が、握りしめられた。爪が、掌に、食い込んだ。
「根拠を、示せ」
「根拠は、これから探します。脱走兵の捜索は、軍の務め。殿下のお手を、煩わせるには及びません」
「俺の臣が」
声が、わずかに、震えた。
「俺の臣が、攫われたのかもしれないと、考えないのか」
「攫われた?」
烈風は、大げさに眉を上げた。
「庶民の一兵卒を、誰が、何のために」
目の奥で、冷たい光が、ちらりと、閃いた。
「それとも、殿下には、その兵卒に、特別な価値がおありだと」
清軒は、答えなかった。
答えれば、メイリンの名を、危険にさらす。ここで、感情を見せれば、彼女の首に、縄をかけることになる。
「……軍の捜索を、頼む」
噛みしめるように、そう言った。
「無論です」
「ただし」
清軒は、烈風を、まっすぐに見据えた。
「もし、あいつの身に、何かあれば。軍の責任として、処分する」
「肝に銘じます」
烈風は、深々と、頭を下げた。その背に、嘲りの色が見えた気がした。
六
将軍府を出ると、日は、すでに、傾きかけていた。
墨雲が、馬の手綱を握ったまま、おそるおそる、口を開いた。
「殿下。手が」
清軒は、自分の掌を、見た。握りしめた爪の跡から、血が、細く、滲んでいた。
「……ああ」
「将軍は、何か、ご存じです」
「間違いない」
即答だった。
「だが、証拠が、ない。俺が、軍の中で、将軍を問い詰めれば、あいつは、護衛隊長を『内通者』にして、俺の側近ごと、潰しにくる」
「では」
「動くしかない。俺たちだけで、だ」
清軒は、馬に飛び乗った。
「文遠が、拾ったものを、見せろ。見張りの配置換えの命令書も、洗え。一刻も、無駄にするな」
「はい」
馬の背で、振り向いた。夕陽が、横顔を、赤く染めていた。
「墨雲」
「はい」
「俺は、昨夜、あいつを、一人で帰した」
声が、掠れていた。
「送ると言ったのに。あいつが、軍営の中だからと言うから。引き下がった」
「殿下」
「馬鹿だ。俺は」
墨雲は、何も言えなかった。主の背中が、これほど小さく見えたのは、初めてだった。
その夜、執務室の窓辺に、清軒は、ひとり、立っていた。
月は、ほとんど、欠けていた。細い光が、庭の石畳を、薄く、照らしている。
ふと、左耳が、熱を持った気がした。
翡翠の耳飾りが、ほんの一瞬、脈を打ったような。
「……気のせいか」
指で、そっと、触れた。もう、何も、感じなかった。
「必ず、見つける」
誰に聞かせるでもない呟きが、夜気に、溶けていった。




