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黒い髪  作者: 八重


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13/32

探す者達

一

軍営の北の外れに、使われなくなった馬具の倉があった。

月のない夜。戸を閉め切った暗がりに、四人が、膝を突き合わせていた。

「大部屋は、見張られている」

厚山が、低く言った。

「昼のうちに、董の部下が二人、廊下に立っていた。夜になっても、まだ、いる。俺たちが何を話すか、聞いている」

「だから、ここか」 と大牙がうなづいた。

「ああ」

文遠が、懐から、小さな紙包みを取り出した。朝、土の上から掬い取った、銀色の粉だった。

「調べた」

淡々とした声だった。けれど、紙を広げる指先が、わずかに白かった。

「月見草の根を、挽いたものだ。月の光を溜め込む草で、夜は、自ら淡く光る。王宮の医務では、熱冷ましの材料にもなる、と書庫の本にあった。ただ」

「ただ?」

「これは、粗い。王宮の医務のものなら、もっと細かく、篩にかける。これは、薬問屋が、卸す時の、荒い挽き方だ」

厚山の目が、細くなった。

「薬問屋」

「それも、かなり大口の。一晩で撒くには、多すぎる量だ。もっと言えば」

文遠は、少し、言い淀んだ。

「これを吸うと、魔力の流れが乱れる、という記述も、あった。眠気と、脱力。昔、罪人を捕らえる時に、使ったとも」

「じゃあ、秦明は」

「魔力を、封じられて、連れていかれた」

大牙が、顔を上げた。暗がりの中で、目だけが、ぎらぎらと光っていた。

「魔力を、封じる」

「ああ」

「秦明は、強い。腕っぷしじゃ、俺より、ずっと」

「それでも、薬には、勝てない」

文遠の声が、静かに、重かった。

小燕が、膝の上に、地面の写しを広げた。炭で描いた、荷車の轍だった。

「縁が、ぎざぎざに欠けてた。鉄の輪の、左側。何度も、同じところを、ぶつけた跡だと思う」

「荷車に、癖が」

「うん。そういう車は、毎日、同じ道を走ってる。誰かの、持ち物だ」

そこで、小燕は、顔を曇らせた。

「それと。追いかけてみたんだ。東門まで、轍が続いてた。けど、東門を出てすぐ、市の大通りに入ったら、他の荷車に、踏み消されて」

「見失った」

「ごめん」

「謝るな」

厚山が、小燕の頭に、大きな手を置いた。

「お前は、よくやった。それで、東だとわかった」

「俺からは」

厚山は、自分の膝を見た。

「昨夜の、番兵の配置換えの命令書を、見てきた。印は、董副官のものだ。署名は、副官の部下の、代筆」

「じゃあ、やっぱり」

「ああ。内の人間だ。将軍府の中で、事は、決められている」

誰も、口を開かなかった。

蝋燭のない闇の中で、大牙の、荒い息だけが、聞こえた。

「俺は、行く」

低い声だった。

「大牙」

「東の下町を、片っ端から、当たる。一軒ずつだ」

「やめろ」と、文遠。

「止めるな」

「お前が、一人で、薬問屋を、片っ端から殴り込んだら、どうなる。秦明を、助けるどころか、将軍に、口実を与える」

「じゃあ、どうすればいい!」

怒鳴り声が、倉の壁に、反響した。

その肩を、文遠が、静かに、掴んだ。

「待つのではない。俺たちには、俺たちの、できることがある。報せは、殿下の許へ届けた。殿下は、動いておられる。俺たちは、手がかりを、集め続ける」

大牙は、肩を震わせた。拳が、床を叩いた。

「……あいつは、弟分なんだ」

絞り出すような声だった。

「弟分って呼んでも、笑って受け入れてくれた。体力馬鹿の俺に、いつも、付き合ってくれた。あいつが、どこかで、一人で」

言葉が、途切れた。

誰も、慰めなかった。ただ、厚山が、その背に、黙って、掌を置いた。小燕は、唇を噛んで、俯いていた。

文遠が、ぽつりと、言った。

「必ず、見つける」

それは、誓いのようだった。

「全員で、見つける。明日は、東の市に、全員で入る。殿下の、仰せの通りに」

暗がりの中で、四つの影が、小さく、頷いた。

二

同じ夜。望月京の、東の下町。

灯りの消えた長屋の路地を、二人の男が、歩いていた。

一人は、着崩した質素な衣に、緩く結んだ黒髪の青年。もう一人は、擦り切れた羽織を、不似合いに着込んだ、目の下に隈のある青年。

「殿下」

「その呼び方は、よせ」

「では、何と」

「墨雲」

「それは、私の名です」

「今夜だけ、貸せ」

「もう、何度も、お貸ししています」

墨雲が、深い溜め息をついた。それでも、その足は、清軒のすぐ後ろを、離れなかった。夜の路地は、明かりが乏しい。彼にとって、苦手な条件が、すべて揃っているはずなのに、一度も、「帰りたい」とは、言わなかった。

清軒は、足を止めた。

見覚えのある、茶屋の軒先だった。

夜市が引けたあとも、ひとつだけ、赤い提灯が、揺れている。軒の下で、小柄な老婆が、湯を沸かしていた。

「おや」

老婆が、顔を上げた。皺だらけの目が、ぱちぱちと、瞬いた。

「墨雲さんじゃないか。久しぶりだねえ」

「婆さん。無沙汰をした」

清軒は、笑った。いつもの、軽い笑顔だった。ただ、目の奥が、笑っていなかった。

「三月ぶりかい。てっきり、愛想を尽かされたのかと」

「仕事が立て込んでな」

「おやおや」

老婆は、茶を二つ、注いだ。

「あの別嬪さんは、元気かい。ほら、いつも、あんたの隣で、お茶を飲んでた」

湯気が、清軒の顔を、白くかすめた。

「……ああ。元気だ」

「そうかい。ならいいんだ。あんたが、あの子を見る目は、本当に、いい目だった。若いってのは、いいねえ」

清軒は、茶を口に運んだ。熱かった。喉が、焼けるようだった。

「婆さん。ひとつ、聞きたい」

「何だい」

「この辺りで、最近、変わったことは、なかったか。特に、薬屋の辺りで」

老婆は、茶を注ぐ手を、止めた。

「薬屋ねえ」

声が、ひそめられた。

「あんたたちが、通ってた、あの店かい。『月草堂』」

「そうだ」

「半年ほど前に、主人が代わったんだよ。前の主人は、気のいい、爺さんでね。腰を悪くして、息子夫婦に譲るって話だった。それが、ふた月もしないうちに、見知らぬ男が、店に立ってた」

「見知らぬ」

「ああ。口数の少ない、冷たい目をした男さ。以来、店の裏口に、夜中に、荷車が来る。ごとごと、重たい音がしてね。薬を運ぶにしちゃ、やけに重そうだった」

墨雲が、息を詰めた。清軒の指が、茶碗の縁を、強く握った。

「その荷車に、何か、目印は」

「そうさねえ」

老婆は、天井の梁を見上げた。

「焼印が、あったような。円に二本の筆のような紋だ。ええと、あれは、確か」 「宰相家の、紋か」 「そうそう。それだ。あのお屋敷の荷車だって、近所で、噂になってた」

清軒の瞳が、すっと細くなった。

宰相家。ちょうど、烈風の背後に、見え隠れしてきた名だ。

「ありがとう、婆さん」

懐から、銀貨を、一枚、置いた。

「多いよ」

「釣りは、いい。その代わり、俺が来たことは、誰にも」

「言わないさ。商売柄、口は堅いんだ」

老婆は、にっと笑った。歯の抜けた、気のいい笑顔だった。

「それと、墨雲さん」

立ち去ろうとした背に、声がかかった。

「あの別嬪さんがね、あたしに、言ったことがあるんだよ。『あの店の薬は、熱が下がらないんです』って。『でも、安いから、貧しい人が、買うんです』ってね。あの子は、本当に、人のことを、よく見てた」

清軒は、振り向かなかった。

「……ああ。そういう人だ」

声が、わずかに、震えていた。

月草堂の前を、通りかかった。

窓は、すべて、板で塞がれていた。軒先の、古い看板だけが、風に揺れている。「月草堂」の三文字が、闇の中に、白く浮かんでいた。

「殿下」

墨雲が、小声で、囁いた。

「踏み込みますか」

「今は、駄目だ」

即答だった。

「中に、誰がいて、何人いて、あいつが、どこにいるのか。何も、わかっていない。ここで、騒ぎを起こせば、あいつの身が、危うくなる」

「では」

「確証を、取る」

清軒は、拳を握った。

「あいつがここにいるという、確証を。それがなければ、俺は、将軍の目の前で、剣を抜くこともできない」

その背中に、墨雲が、そっと、言った。

「殿下」

「何だ」

「私は、暗いところが、嫌いです」

唐突な言葉に、清軒が、振り返った。

墨雲は、真っ青な顔で、それでも、まっすぐに、主を見ていた。

「ですが、殿下が、ここにいらっしゃる間は、私も、ここにおります。何時間でも」 「……墨雲」

「それだけ、申し上げたくて」

清軒は、しばらく、何も言えなかった。やがて、ふっと、顔を伏せた。

「お前の名を、借りて、よかった」

「今更、おっしゃいますか」

小さく、笑った。夜の路地に、二人分の足音が、遠ざかっていく。

三

夜が、更けた。

宰相邸の庭の、石灯籠の陰で、清軒は、陸景炎と向かい合っていた。

「急に呼び出して、すまない」

「いや」

景炎の顔は、疲れて、痩せていた。それでも、友の来訪に、小さく微笑んだ。

「君が来てくれて、よかった。屋敷の中は、息が詰まる。父は、このところ、ほとんど顔を見せない。母の部屋にばかり」 「景炎」

清軒は、単刀直入に切り出した。

「宰相家の荷車が、東の下町で、夜中に、薬屋の裏口へ出入りしている、という話がある」

「荷車」

「紋の焼印が入っているそうだ」

景炎の眉が、寄った。

「うちの荷車が。東の下町で」

「心当たりは」

「……ない。ない、が」

少し、考えてから、景炎は、顔を上げた。

「待ってくれ。調べさせる」

彼は、近くに控えていた家令を呼んだ。短い言葉が交わされる。しばらくして、家令が、帳簿を携えて、戻ってきた。

「若君」

「どうだ」

「三日前の夜に、東の車庫から、荷車が、一台、盗まれたとの、届けが出ております」

景炎は、目を見開いた。

「盗まれた」

「はい。翌朝、番人が気づきました。近隣の役所にも、届けを出しております。まだ、見つかっておりません」

「なぜ、私に、知らせなかった」

「小さなことと、存じまして」

景炎は、頭を抱えそうになった。

「……清軒」

「ああ」

「すまない。うちの落ち度だ。盗まれた荷車が、何に使われたのかは、わからないが」

「お前を、責めに来たんじゃない」

清軒は、首を横に振った。

「お前の家を、疑ってもいない。荷車の焼印が、都合のいい目印に、使われたんだろう。誰かが、宰相家のせいにしたがっている」

「何のために」

「さあな」

景炎は、しばらく、足元の砂利を見つめていた。

「君は、何を、追っている」

「……」

「君は、いつも、何かを探している顔をしている。今夜は、特に」

清軒は、答えなかった。

景炎は、静かに、言葉を続けた。

「私は、この数日、ずっと、探している。秦家の令嬢を。生きているのか、どこにいるのか。何も、わからない。手がかりひとつ、掴めない」

「景炎」

「秦明殿が、行方知れずになったと、聞いた」

清軒の肩が、わずかに、動いた。

「あの方とは、君の執務室で、一度、握手をしただけだ。それでも、まっすぐな目をした人だと思った。どこかで、会ったような気さえした。……あの人も、無事でいてほしい」

その言葉を聞いた時、清軒の胸の奥で、何かが、きしんだ。

目の前の男は、知らない。探している令嬢と、助けてくれた兵士が、同じ人だということを。そして、自分の友が、そのどちらをも、探しているということを。

「……必ず、見つける」

絞り出すように、言った。

「どちらも、だ」

「そうか」

景炎は、少しだけ、笑った。

「君が、そう言うなら、信じる」

その笑顔が、清軒には、痛かった。

胸の内で、そっと、詫びた。許してくれ、と。お前の信頼を、俺は、今、半分、裏切っている。

四

夜明け前、王宮の執務室に、白い影が立っていた。

「殿下」

扉の内側に、音もなく、国師・李白蓮が、佇んでいた。白い法衣、白い手袋、白髪が、薄明かりの中で、静かに、光っている。

「先生」

清軒は、書類から、顔を上げた。目の下に、隈が、濃くなっていた。

「こんな時間に、どうなさいました」

「お顔の色が、悪うございます」

国師は、穏やかに、微笑んだ。

「護衛隊長殿が、行方知れずになったと、伺いました」

「……耳が、早いですね」

「月信仰の者は、夜明けに、祈ります。祈りの場に、噂は、真っ先に届く」

静かな声だった。その声が、母を亡くした幼い日の、清軒を、何度も、救ってきた声だった。

だからこそ、清軒は、今、この人の目を、まっすぐに見られなかった。

「将軍は、脱走と」

「存じております。ですが、私は、そうは思いません」

意外な言葉だった。清軒は、顔を上げた。

「なぜ」

「あの方は、殿下の隣に、いつも、まっすぐに立っておられた。逃げ出す方の目では、なかった」

国師は、窓辺へ、歩み寄った。夜明け前の空に、細い月が、残っている。

「殿下。月は、見ておられますか」

「……いえ」

「ひとつ、お耳に入れても。今宵の月は、東の、水の気が、強うございます」

清軒の背筋が、わずかに、伸びた。

東。水。

あの下町は、川に沿って、広がっている。

「先生。それは」

「ただの、月の占いです。老人の戯言と、お聞き流しください」

国師は、振り向かずに、言った。

「ですが、殿下。大切な方を、探しておられるのなら。急ぐに、越したことは、ございません」

意味ありげな、微笑みだった。その瞳の奥が、一瞬だけ、深い影を、湛えた気がした。

「それでは、失礼を」

国師は、一礼して、音もなく、部屋を出ていった。

扉が閉まる。

清軒は、しばらく、動かなかった。

(なぜ、あの人が)

疑いたくない、と思う。同時に、疑わずには、いられなかった。国師は、満月の夜の、黒衣の主かもしれない。烈風と、繋がっているかもしれない。その人が、なぜ、手がかりを、示した。

罠か。それとも。

「殿下」

扉が、ばたんと開いた。墨雲が、息を切らして、駆け込んできた。手には、分厚い帳面を、抱えている。

「出ました」

「何だ」

「月草堂の、仕入れと卸しの記録です。薬問屋の組合の、台帳から」

墨雲は、帳面を、机に広げた。

「半年前から、取引の量が、跳ね上がっています。卸し先は、三つ。ひとつは、宰相邸。ひとつは、王宮の医務局」

指が、三つ目の行を、示した。

「そして、もうひとつが、大将軍府。当初の三倍、今では、十倍です」

清軒は、帳面に、目を落とした。数字が、無言で、答えを、語っていた。

「将軍府が、主な客だ」

「はい。宰相邸と、医務局は、少量です。将軍府の注文だけが、突出しています」 「しかも」

清軒は、ゆっくりと、言った。

「その薬問屋の、裏口に、宰相家の荷車が来る。盗まれた、荷車が」

「偽装、ですね」

「ああ」

欠けていたものが、ひとつ、嵌まった気がした。

だが、まだ、足りない。

月草堂に、あいつがいる。そう断じるだけの、決め手が、どこにもない。踏み込んで、空振りに終われば、将軍は、「王太子が、証拠もなく、軍の薬を差し押さえた」と、騒ぎ立てる。そして、メイリンは、二度と、見つからなくなる。

窓の外が、白み始めていた。

「殿下」

「わかっている」

清軒は、卓の上の、銀の粉の包みを、じっと見つめた。文遠が、届けてくれたものだ。

あいつは、これを、わざと、撒いた。

誰かに、見つけてもらうために。

(俺に、だ)

胸が、締めつけられた。

「……あいつは、まだ、諦めていない」

誰に言うともなく、呟いた。

「ならば、俺が、先に、諦めるわけにはいかない」

朝日が、窓から、差し込んだ。

長い一日が、始まろうとしていた。

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