探す者達
一
軍営の北の外れに、使われなくなった馬具の倉があった。
月のない夜。戸を閉め切った暗がりに、四人が、膝を突き合わせていた。
「大部屋は、見張られている」
厚山が、低く言った。
「昼のうちに、董の部下が二人、廊下に立っていた。夜になっても、まだ、いる。俺たちが何を話すか、聞いている」
「だから、ここか」 と大牙がうなづいた。
「ああ」
文遠が、懐から、小さな紙包みを取り出した。朝、土の上から掬い取った、銀色の粉だった。
「調べた」
淡々とした声だった。けれど、紙を広げる指先が、わずかに白かった。
「月見草の根を、挽いたものだ。月の光を溜め込む草で、夜は、自ら淡く光る。王宮の医務では、熱冷ましの材料にもなる、と書庫の本にあった。ただ」
「ただ?」
「これは、粗い。王宮の医務のものなら、もっと細かく、篩にかける。これは、薬問屋が、卸す時の、荒い挽き方だ」
厚山の目が、細くなった。
「薬問屋」
「それも、かなり大口の。一晩で撒くには、多すぎる量だ。もっと言えば」
文遠は、少し、言い淀んだ。
「これを吸うと、魔力の流れが乱れる、という記述も、あった。眠気と、脱力。昔、罪人を捕らえる時に、使ったとも」
「じゃあ、秦明は」
「魔力を、封じられて、連れていかれた」
大牙が、顔を上げた。暗がりの中で、目だけが、ぎらぎらと光っていた。
「魔力を、封じる」
「ああ」
「秦明は、強い。腕っぷしじゃ、俺より、ずっと」
「それでも、薬には、勝てない」
文遠の声が、静かに、重かった。
小燕が、膝の上に、地面の写しを広げた。炭で描いた、荷車の轍だった。
「縁が、ぎざぎざに欠けてた。鉄の輪の、左側。何度も、同じところを、ぶつけた跡だと思う」
「荷車に、癖が」
「うん。そういう車は、毎日、同じ道を走ってる。誰かの、持ち物だ」
そこで、小燕は、顔を曇らせた。
「それと。追いかけてみたんだ。東門まで、轍が続いてた。けど、東門を出てすぐ、市の大通りに入ったら、他の荷車に、踏み消されて」
「見失った」
「ごめん」
「謝るな」
厚山が、小燕の頭に、大きな手を置いた。
「お前は、よくやった。それで、東だとわかった」
「俺からは」
厚山は、自分の膝を見た。
「昨夜の、番兵の配置換えの命令書を、見てきた。印は、董副官のものだ。署名は、副官の部下の、代筆」
「じゃあ、やっぱり」
「ああ。内の人間だ。将軍府の中で、事は、決められている」
誰も、口を開かなかった。
蝋燭のない闇の中で、大牙の、荒い息だけが、聞こえた。
「俺は、行く」
低い声だった。
「大牙」
「東の下町を、片っ端から、当たる。一軒ずつだ」
「やめろ」と、文遠。
「止めるな」
「お前が、一人で、薬問屋を、片っ端から殴り込んだら、どうなる。秦明を、助けるどころか、将軍に、口実を与える」
「じゃあ、どうすればいい!」
怒鳴り声が、倉の壁に、反響した。
その肩を、文遠が、静かに、掴んだ。
「待つのではない。俺たちには、俺たちの、できることがある。報せは、殿下の許へ届けた。殿下は、動いておられる。俺たちは、手がかりを、集め続ける」
大牙は、肩を震わせた。拳が、床を叩いた。
「……あいつは、弟分なんだ」
絞り出すような声だった。
「弟分って呼んでも、笑って受け入れてくれた。体力馬鹿の俺に、いつも、付き合ってくれた。あいつが、どこかで、一人で」
言葉が、途切れた。
誰も、慰めなかった。ただ、厚山が、その背に、黙って、掌を置いた。小燕は、唇を噛んで、俯いていた。
文遠が、ぽつりと、言った。
「必ず、見つける」
それは、誓いのようだった。
「全員で、見つける。明日は、東の市に、全員で入る。殿下の、仰せの通りに」
暗がりの中で、四つの影が、小さく、頷いた。
二
同じ夜。望月京の、東の下町。
灯りの消えた長屋の路地を、二人の男が、歩いていた。
一人は、着崩した質素な衣に、緩く結んだ黒髪の青年。もう一人は、擦り切れた羽織を、不似合いに着込んだ、目の下に隈のある青年。
「殿下」
「その呼び方は、よせ」
「では、何と」
「墨雲」
「それは、私の名です」
「今夜だけ、貸せ」
「もう、何度も、お貸ししています」
墨雲が、深い溜め息をついた。それでも、その足は、清軒のすぐ後ろを、離れなかった。夜の路地は、明かりが乏しい。彼にとって、苦手な条件が、すべて揃っているはずなのに、一度も、「帰りたい」とは、言わなかった。
清軒は、足を止めた。
見覚えのある、茶屋の軒先だった。
夜市が引けたあとも、ひとつだけ、赤い提灯が、揺れている。軒の下で、小柄な老婆が、湯を沸かしていた。
「おや」
老婆が、顔を上げた。皺だらけの目が、ぱちぱちと、瞬いた。
「墨雲さんじゃないか。久しぶりだねえ」
「婆さん。無沙汰をした」
清軒は、笑った。いつもの、軽い笑顔だった。ただ、目の奥が、笑っていなかった。
「三月ぶりかい。てっきり、愛想を尽かされたのかと」
「仕事が立て込んでな」
「おやおや」
老婆は、茶を二つ、注いだ。
「あの別嬪さんは、元気かい。ほら、いつも、あんたの隣で、お茶を飲んでた」
湯気が、清軒の顔を、白くかすめた。
「……ああ。元気だ」
「そうかい。ならいいんだ。あんたが、あの子を見る目は、本当に、いい目だった。若いってのは、いいねえ」
清軒は、茶を口に運んだ。熱かった。喉が、焼けるようだった。
「婆さん。ひとつ、聞きたい」
「何だい」
「この辺りで、最近、変わったことは、なかったか。特に、薬屋の辺りで」
老婆は、茶を注ぐ手を、止めた。
「薬屋ねえ」
声が、ひそめられた。
「あんたたちが、通ってた、あの店かい。『月草堂』」
「そうだ」
「半年ほど前に、主人が代わったんだよ。前の主人は、気のいい、爺さんでね。腰を悪くして、息子夫婦に譲るって話だった。それが、ふた月もしないうちに、見知らぬ男が、店に立ってた」
「見知らぬ」
「ああ。口数の少ない、冷たい目をした男さ。以来、店の裏口に、夜中に、荷車が来る。ごとごと、重たい音がしてね。薬を運ぶにしちゃ、やけに重そうだった」
墨雲が、息を詰めた。清軒の指が、茶碗の縁を、強く握った。
「その荷車に、何か、目印は」
「そうさねえ」
老婆は、天井の梁を見上げた。
「焼印が、あったような。円に二本の筆のような紋だ。ええと、あれは、確か」 「宰相家の、紋か」 「そうそう。それだ。あのお屋敷の荷車だって、近所で、噂になってた」
清軒の瞳が、すっと細くなった。
宰相家。ちょうど、烈風の背後に、見え隠れしてきた名だ。
「ありがとう、婆さん」
懐から、銀貨を、一枚、置いた。
「多いよ」
「釣りは、いい。その代わり、俺が来たことは、誰にも」
「言わないさ。商売柄、口は堅いんだ」
老婆は、にっと笑った。歯の抜けた、気のいい笑顔だった。
「それと、墨雲さん」
立ち去ろうとした背に、声がかかった。
「あの別嬪さんがね、あたしに、言ったことがあるんだよ。『あの店の薬は、熱が下がらないんです』って。『でも、安いから、貧しい人が、買うんです』ってね。あの子は、本当に、人のことを、よく見てた」
清軒は、振り向かなかった。
「……ああ。そういう人だ」
声が、わずかに、震えていた。
月草堂の前を、通りかかった。
窓は、すべて、板で塞がれていた。軒先の、古い看板だけが、風に揺れている。「月草堂」の三文字が、闇の中に、白く浮かんでいた。
「殿下」
墨雲が、小声で、囁いた。
「踏み込みますか」
「今は、駄目だ」
即答だった。
「中に、誰がいて、何人いて、あいつが、どこにいるのか。何も、わかっていない。ここで、騒ぎを起こせば、あいつの身が、危うくなる」
「では」
「確証を、取る」
清軒は、拳を握った。
「あいつがここにいるという、確証を。それがなければ、俺は、将軍の目の前で、剣を抜くこともできない」
その背中に、墨雲が、そっと、言った。
「殿下」
「何だ」
「私は、暗いところが、嫌いです」
唐突な言葉に、清軒が、振り返った。
墨雲は、真っ青な顔で、それでも、まっすぐに、主を見ていた。
「ですが、殿下が、ここにいらっしゃる間は、私も、ここにおります。何時間でも」 「……墨雲」
「それだけ、申し上げたくて」
清軒は、しばらく、何も言えなかった。やがて、ふっと、顔を伏せた。
「お前の名を、借りて、よかった」
「今更、おっしゃいますか」
小さく、笑った。夜の路地に、二人分の足音が、遠ざかっていく。
三
夜が、更けた。
宰相邸の庭の、石灯籠の陰で、清軒は、陸景炎と向かい合っていた。
「急に呼び出して、すまない」
「いや」
景炎の顔は、疲れて、痩せていた。それでも、友の来訪に、小さく微笑んだ。
「君が来てくれて、よかった。屋敷の中は、息が詰まる。父は、このところ、ほとんど顔を見せない。母の部屋にばかり」 「景炎」
清軒は、単刀直入に切り出した。
「宰相家の荷車が、東の下町で、夜中に、薬屋の裏口へ出入りしている、という話がある」
「荷車」
「紋の焼印が入っているそうだ」
景炎の眉が、寄った。
「うちの荷車が。東の下町で」
「心当たりは」
「……ない。ない、が」
少し、考えてから、景炎は、顔を上げた。
「待ってくれ。調べさせる」
彼は、近くに控えていた家令を呼んだ。短い言葉が交わされる。しばらくして、家令が、帳簿を携えて、戻ってきた。
「若君」
「どうだ」
「三日前の夜に、東の車庫から、荷車が、一台、盗まれたとの、届けが出ております」
景炎は、目を見開いた。
「盗まれた」
「はい。翌朝、番人が気づきました。近隣の役所にも、届けを出しております。まだ、見つかっておりません」
「なぜ、私に、知らせなかった」
「小さなことと、存じまして」
景炎は、頭を抱えそうになった。
「……清軒」
「ああ」
「すまない。うちの落ち度だ。盗まれた荷車が、何に使われたのかは、わからないが」
「お前を、責めに来たんじゃない」
清軒は、首を横に振った。
「お前の家を、疑ってもいない。荷車の焼印が、都合のいい目印に、使われたんだろう。誰かが、宰相家のせいにしたがっている」
「何のために」
「さあな」
景炎は、しばらく、足元の砂利を見つめていた。
「君は、何を、追っている」
「……」
「君は、いつも、何かを探している顔をしている。今夜は、特に」
清軒は、答えなかった。
景炎は、静かに、言葉を続けた。
「私は、この数日、ずっと、探している。秦家の令嬢を。生きているのか、どこにいるのか。何も、わからない。手がかりひとつ、掴めない」
「景炎」
「秦明殿が、行方知れずになったと、聞いた」
清軒の肩が、わずかに、動いた。
「あの方とは、君の執務室で、一度、握手をしただけだ。それでも、まっすぐな目をした人だと思った。どこかで、会ったような気さえした。……あの人も、無事でいてほしい」
その言葉を聞いた時、清軒の胸の奥で、何かが、きしんだ。
目の前の男は、知らない。探している令嬢と、助けてくれた兵士が、同じ人だということを。そして、自分の友が、そのどちらをも、探しているということを。
「……必ず、見つける」
絞り出すように、言った。
「どちらも、だ」
「そうか」
景炎は、少しだけ、笑った。
「君が、そう言うなら、信じる」
その笑顔が、清軒には、痛かった。
胸の内で、そっと、詫びた。許してくれ、と。お前の信頼を、俺は、今、半分、裏切っている。
四
夜明け前、王宮の執務室に、白い影が立っていた。
「殿下」
扉の内側に、音もなく、国師・李白蓮が、佇んでいた。白い法衣、白い手袋、白髪が、薄明かりの中で、静かに、光っている。
「先生」
清軒は、書類から、顔を上げた。目の下に、隈が、濃くなっていた。
「こんな時間に、どうなさいました」
「お顔の色が、悪うございます」
国師は、穏やかに、微笑んだ。
「護衛隊長殿が、行方知れずになったと、伺いました」
「……耳が、早いですね」
「月信仰の者は、夜明けに、祈ります。祈りの場に、噂は、真っ先に届く」
静かな声だった。その声が、母を亡くした幼い日の、清軒を、何度も、救ってきた声だった。
だからこそ、清軒は、今、この人の目を、まっすぐに見られなかった。
「将軍は、脱走と」
「存じております。ですが、私は、そうは思いません」
意外な言葉だった。清軒は、顔を上げた。
「なぜ」
「あの方は、殿下の隣に、いつも、まっすぐに立っておられた。逃げ出す方の目では、なかった」
国師は、窓辺へ、歩み寄った。夜明け前の空に、細い月が、残っている。
「殿下。月は、見ておられますか」
「……いえ」
「ひとつ、お耳に入れても。今宵の月は、東の、水の気が、強うございます」
清軒の背筋が、わずかに、伸びた。
東。水。
あの下町は、川に沿って、広がっている。
「先生。それは」
「ただの、月の占いです。老人の戯言と、お聞き流しください」
国師は、振り向かずに、言った。
「ですが、殿下。大切な方を、探しておられるのなら。急ぐに、越したことは、ございません」
意味ありげな、微笑みだった。その瞳の奥が、一瞬だけ、深い影を、湛えた気がした。
「それでは、失礼を」
国師は、一礼して、音もなく、部屋を出ていった。
扉が閉まる。
清軒は、しばらく、動かなかった。
(なぜ、あの人が)
疑いたくない、と思う。同時に、疑わずには、いられなかった。国師は、満月の夜の、黒衣の主かもしれない。烈風と、繋がっているかもしれない。その人が、なぜ、手がかりを、示した。
罠か。それとも。
「殿下」
扉が、ばたんと開いた。墨雲が、息を切らして、駆け込んできた。手には、分厚い帳面を、抱えている。
「出ました」
「何だ」
「月草堂の、仕入れと卸しの記録です。薬問屋の組合の、台帳から」
墨雲は、帳面を、机に広げた。
「半年前から、取引の量が、跳ね上がっています。卸し先は、三つ。ひとつは、宰相邸。ひとつは、王宮の医務局」
指が、三つ目の行を、示した。
「そして、もうひとつが、大将軍府。当初の三倍、今では、十倍です」
清軒は、帳面に、目を落とした。数字が、無言で、答えを、語っていた。
「将軍府が、主な客だ」
「はい。宰相邸と、医務局は、少量です。将軍府の注文だけが、突出しています」 「しかも」
清軒は、ゆっくりと、言った。
「その薬問屋の、裏口に、宰相家の荷車が来る。盗まれた、荷車が」
「偽装、ですね」
「ああ」
欠けていたものが、ひとつ、嵌まった気がした。
だが、まだ、足りない。
月草堂に、あいつがいる。そう断じるだけの、決め手が、どこにもない。踏み込んで、空振りに終われば、将軍は、「王太子が、証拠もなく、軍の薬を差し押さえた」と、騒ぎ立てる。そして、メイリンは、二度と、見つからなくなる。
窓の外が、白み始めていた。
「殿下」
「わかっている」
清軒は、卓の上の、銀の粉の包みを、じっと見つめた。文遠が、届けてくれたものだ。
あいつは、これを、わざと、撒いた。
誰かに、見つけてもらうために。
(俺に、だ)
胸が、締めつけられた。
「……あいつは、まだ、諦めていない」
誰に言うともなく、呟いた。
「ならば、俺が、先に、諦めるわけにはいかない」
朝日が、窓から、差し込んだ。
長い一日が、始まろうとしていた。




