銀の粉の地下
一
最初に戻ってきたのは、匂いだった。
甘くて、苦い。薬草の匂い。それに、湿った石と、古い埃。
(……ここは)
瞼が、重かった。無理に持ち上げると、薄暗い天井が、ぼんやりと滲んで見えた。低い、石の天井。梁の間に、蜘蛛の巣が、白く垂れている。
体を起こそうとして、気づいた。
手首が、動かない。
左右の手首に、冷たい輪が、嵌められていた。青みがかった、白い石を、鉄で縁取った枷。細い鎖が、壁の環に繋がっている。そして、首にも、同じ石の輪が、ひやりと、触れていた。
(月長石)
青白く光る石に、見覚えがあった。
忠誠の儀の日、烈風の指に光っていた、あの指輪の石と、同じ色だった。
そっと、魔力を、探った。
胸の奥の、いつもなら、泉のように静かに湧いている場所が、空っぽだった。呼び起こそうとすると、首の石が、ぼう、と淡く光って、何かが、吸い取られていくような感覚があった。
(魔力を、受け取る石。受信の石)
魔力を受け止め、溜め込む石。そう呼ばれるものがあると、聞いたことがあった。
息が、浅くなった。
落ち着け、と自分に言い聞かせた。ここで、取り乱しても、何も変わらない。
ゆっくりと、息を吐いた。
視線を巡らせる。狭い地下室だった。壁の三方は、石積み。一方は、棚が並び、大小の壺が、ぎっしりと詰められている。壺の口からは、微かな銀色が、覗いていた。
(あの粉だ)
闇の中で、壺の中身が、ほのかに光っていた。薬草の匂いの源も、これだった。
頭上から、微かな物音が、聞こえた。足音。木の床の軋み。人の話し声。売り買いの、声。
(上は、店)
薬問屋か、薬屋の、地下だ。
そこまで考えた時、階段を降りてくる足音が、聞こえた。
重い靴音が、二つ。
扉が、軋んで開いた。
「目が覚めたか」
灯りを手にした男が、ゆっくりと、入ってきた。長身。冷たい目。胸に、副官の印を提げている。
「董副官」
「ああ、おはよう」
董は、メイリンの前に、膝を折った。間近で見ると、目の下に、深い皺が刻まれていた。
「気分は、どうだ」
「……最悪です」
「そうだろうな。あの粉は、慣れない者には、きつい」
唇の端が、わずかに上がった。
「一応、確かめておく。名は」
「秦明。大将軍府の、兵です」
「庶民の、兵」
「はい」
董は、返事をせずに、メイリンの腰に、手を伸ばした。
「触らないでください」
「持ち物を、検めるだけだ。男の体に興味はない。」
腰の短刀が、抜き取られた。剣は、すでに奪われている。それから、董の手が、袖の内側に、触れた。
「それは」
メイリンの声が、わずかに、跳ねた。
董の指が、手首に巻かれていた、赤い紐を、つまみ上げた。端に、翡翠の珠が、ひとつ、揺れている。
「ほう」
珠が、灯りに、かざされた。淡い緑の光が、石の壁に、ゆらりと映った。
「立派な品だ。庶民の兵が、持てるものではないな」
「返して」
「どこで、手に入れた」
「妹の、形見です」
咄嗟の嘘だった。声が、震えないよう、腹に力を込めた。
董は、しばらく、珠を眺めていた。やがて、くつくつと、喉の奥で笑った。
「形見、か。男が、赤い紐を、手首に」
「……」
「女から、貰った品だろう。大事な、人から」
胸の奥が、冷えた。
「だが、まあ、いい。預かっておく」
董は、紐を、自分の帯の内側に、無造作に、押し込んだ。
「口を割るまでの、人質だ」
「返してください」
「口を割れば、返してやる」
声が、わずかに、掠れた。
「……何を、聞きたいのですか」
「話が早くて、助かる」
董は、床に、腰を下ろした。灯りを、脇に置いた。
「あの日、閣下の指輪に触れた時、お前は、弱い光しか、出さなかった」
「はい」
「庶民なら、当然だ。だが」
声が、低くなった。
「あの『静め方』は、庶民の技ではない」
息が、止まった。
「魔力を、鏡のように、凪がせた。指輪を、欺いた。貴族の、それも、かなり訓練された者でなければ、できん芸当だ」
「何の、ことか」
「とぼけるな」
董の手が、メイリンの顎を、掴んだ。
「閣下は、お前を、お疑いだ。ただの庶民ではない、と。」
「……私は、ただの、兵です」
「そうか」
手が、離れた。
「ならば、ゆっくりと、思い出してもらおう。時間は、たっぷりある」
董は、立ち上がった。その背に、メイリンは、声を投げた。
「私を、攫って。何が、得られるのですか」
董は、振り返らなかった。
「閣下は、力が欲しい。それだけだ」
扉が、閉まった。足音が、遠ざかる。
暗闇に、青白い石の光だけが、残った。
(体は、気づかれていない)
さらしの感触を、確かめた。男の体に、興味はない、と言った、董の言葉が、頭に残っていた。それだけが、わずかな救いだった。
(まだ、何も、終わっていない)
メイリンは、唇を噛んだ。
二
扉が、再び、開いたのは、どれほどあとのことだったろう。
入ってきたのは、小さな影だった。
「……ご飯」
細い、囁くような声だった。
灯りに照らされたのは、十歳ほどの少年だった。痩せた体に、大きすぎる前掛け。両手で、湯気の立つ椀を、捧げ持っている。
「あなたは」
「阿栗」
少年は、おびえた目で、背後の扉を振り返った。
「董様が、ご飯を、持っていけって。逃げようとしたら、すぐ呼べって。でも」
少年は、椀を、メイリンの口元に、そっと近づけた。
「ひとりで、食べられる? 手、縛られてる」
「……ありがとう。少し、傾けて」
粥は、温かかった。喉を通ると、凍えていた体が、ゆっくりと、緩んでいくような気がした。
「あなたは、ここの、店の子」
「うん。父さんが、借金のかたに、僕を、この店に」
目が、潤んでいた。
「前の主人は、優しかった。でも、今の主人は、違う。毎日、朝から晩まで、粉を挽かされる。逃げたら、父さんが、困るって」
メイリンは、胸が痛んだ。声を、柔らかくした。
「あの粉は、何のための、薬なの」
「わからない」
阿栗は、首を振った。
「でも、毎月、満月の前の晩に、一番きれいな粉だけ、別の壺に、詰めるんだ。他の、粗いのは、軍に行く。でも、きれいなのは、白い服の人が、取りに来る」
「白い服の人」
「うん。顔は、見えない。いつも、頭巾を、深くかぶってる」
メイリンは、息を詰めた。
(満月の前の晩。きれいな粉。それは、誰の口に)
胸の奥で、何かが、かすかに、触れた気がした。
けれど、確かな形には、ならなかった。
「ねえ」
少年が、不安そうに、メイリンを見つめていた。
「あんた、悪い人じゃ、ないよね」
「どうして」
「董様が、悪い人を、連れてくる時は、もっと、怖い顔をしてるから。あんたの時は、嬉しそうだった」
メイリンは、思わず、小さく笑った。
「そう。ありがとう」
「笑うと、いい人だ」
「あなたも」
阿栗は、頬を、赤くした。
その時、上から、鋭い声が、降ってきた。
「阿栗! 何をしている!」
少年が、飛び上がった。
「い、いま!」
椀を、慌てて拾い上げ、扉の方へ走っていく。
「また、持ってくるから」
囁き声を残して、小さな影は、階段を駆け上がっていった。
扉が、閉まる。
暗闇の中で、メイリンは、じっと、考えた。
あの子は、自由に、店の外へ、出られる。
三
夜の底は、深かった。
何度、目を閉じ、何度、開けたかも、わからなかった。時の流れは、頭上の、微かな物音と、遠い鐘の音だけで、測るしかなかった。
次の「取り調べ」は、日が高いうちに、始まった。
董が、小さな、銀の鉢を、携えてきた。
「これを、知っているか」
「……いいえ」
「器だ。ごく小さな、な」
鉢の底に、月長石が、嵌め込まれていた。青白い石が、ぼう、と光る。
「お前の魔力を、ほんの少し、頂く。庶民ならば、何も起こらん。だが」
董の指が、鉢の縁を、メイリンの首の枷に、触れさせた。
「貴族の血が、混じっていれば。この石が、反応する」
石が、脈打った。
胸の奥から、何かが、無理やり、引き出されていく感覚があった。指先から、髪の根元まで、冷たいものが、すうっと、這い上がる。
(駄目)
唇を、噛んだ。血の味が、口の中に、広がった。
(静めて。波を、鎮めて。水面を、凪がせて)
あの朝の、忠誠の儀を、思い出した。魔力を、心の底に、沈めていく。浅い自分を、さらに、浅く。庶民と変わらないほどに、小さく。
石の光が、揺れた。
脈打ちが、弱まる。
董の眉が、ぴくりと、動いた。
「……ほう」
石が、ほとんど、光を失った。
メイリンの額から、汗が、滴り落ちた。体の芯が、凍えている。自分の中の、一番大切な何かが、削り取られていくような恐怖と、必死に、戦った。
「なるほど」
董が、鉢を、引いた。
「なるほど。魔力は、庶民並みだ。だが、この『静め』は、やはり、貴族のものだ。それも、名門の」
「……何を」
「閣下に、報告する」
董は、満足げに、頷いた。
「明晩、閣下が、直々に、お見えになる。それまでに、口を割れば、楽に、済む」
扉が、閉まった。
メイリンは、がくりと、壁にもたれた。
(明晩)
あと、一日。
それだけ、凌げば。いや、凌いだ先に、何が、あるのか。烈風が来れば、さらに、強く、問い詰められる。名を、吐かされるかもしれない。父の名を、秦家の名を。
(父上)
唇が、震えた。
そして、もうひとつ、頭に浮かんだ顔を、必死に、押し戻そうとした。
(駄目。今は、考えては、いけない)
そう思うほど、あの声が、胸の奥で、鳴り響いた。
また、明日。
四
夜半、扉が、そっと、開いた。
「……ねえ」
細い声だった。灯りも持たずに、少年が、忍び込んできた。
「阿栗」
「みんな、寝たから。水、持ってきた」
小さな手が、水の入った竹筒を、口元に当てた。冷たい水が、喉を、潤していく。
「ありがとう」
「ううん」
少年は、膝を抱えて、メイリンの傍に、座り込んだ。
「ねえ。あんた、さっき、苦しそうだった。上まで、聞こえた」
「……そう」
「董様は、怖い人だ。でも、あんたは、泣かなかった」
「泣いてる暇は、ないの」
メイリンは、静かに、言った。
「ここから、出る。そして、あなたも、一緒に出す」
「僕も?」
「ええ。だから、お願いがあるの」
少年の目が、大きく、見開かれた。
メイリンは、声を、ひそめた。
「明日の朝、市へ、お使いに出る?」
「うん。毎朝、豆腐を、買いに」
「石橋を、知っている? 東の川に、かかる、一番大きな橋」
「知ってる。毎日、渡る」
メイリンは、心の中で、橋にもたれかかる人を思い浮かべた。人目に、つかないように。けれど、必ず、見つけてもらえるように。
「橋の、欄干の、内側。川の方を向いた面に」
「うん」
「この、粉で、三日月を、描いてほしいの。小さくて、いい。指で、さっと」
阿栗は、不思議そうに、首を傾げた。
「どうして」
「この粉は、夜になると、光るでしょう。昼は、誰も、気づかない。でも、夜、月の下で、見る人には、わかる」
少年は、じっと、考えていた。
「それ、誰に、見せるの」
「……私の、大切な人に」
言葉にした瞬間、胸が、熱くなった。
石橋の下で、手を繋いだ夜。欄干に、もたれて、笑っていた彼。
あの頃、約束の合図が、あった。先に着いた方が、欄干の内側に、小さく、三日月を描く。あとから来た方は、それを見て、これから、会いに来た印に、そっと消す。
誰にも、知られていない、二人だけの、合図だった。
(あの人なら、きっと、わかる)
「できる?」
「……うん」
少年は、こくりと、頷いた。それから、少しだけ、ためらってから、言った。
「見つかったら、僕、殴られる」
「そうね」
メイリンは、まっすぐに、少年を見た。
「だから、怖かったら、やめていい。無理は、しなくていいの。でも」
声が、少し、掠れた。
「もし、描いてくれたなら。私は、必ず、あなたを、守る。何があっても」
少年は、しばらく、メイリンの顔を、見つめていた。
それから、懐から、小さな紙包みを、取り出した。銀の粉が、少しだけ、入っている。
「持ってきた。さっき、粗いのを、少しだけ」
「……阿栗」
「約束する」
小さな手が、メイリンの、縛られた指に、そっと、触れた。
「僕、やる」
その夜、メイリンは、眠らなかった。
暗闇の中で、少年の手の温もりと、遠い日の笑い声だけを、頼りに、一刻、また一刻と、朝を、待った。
頭上の床が、軋む。
夜が、少しずつ、白み始める。
その薄い光が、地下まで、届くことはなかった。けれど、メイリンには、わかった。
(あの人は、必ず、来る)
根拠は、なかった。ただ、そう信じる以外の道を、もう、持っていなかった。
(私も、ただ、待っているだけでは、ない)
指先に、わずかに、力を込めた。枷の中で、手首が、ぎり、と鳴った。
遠く、市の呼び声が、聞こえ始めた。
豆腐屋の、間延びした声。魚売りの、威勢のいい声。
阿栗が、店を出ていく足音が、頭上を、軽く、遠ざかっていった。
(お願い)
メイリンは、目を閉じた。
(届いて)




