月草堂の夜
一
日が沈んでも、清軒は、動けずにいた。
昼のあいだ、できることは、すべてやった。薬問屋の台帳を洗い、将軍府の動きを探り、文遠たちの拾った手がかりを突き合わせた。月草堂が、怪しい。それは、ほぼ間違いなかった。
けれど。
(あそこに、いる)
そう断じる決め手が、ひとつだけ、足りなかった。
踏み込めば、薬問屋の中に、メイリンがいなければ、すべてが終わる。烈風は、「王太子が、証拠もなく、軍の薬を差し押さえた」と騒ぐだろう。そして、あいつを、二度と、見つけられなくなる。
執務室の机に、白い令状が、置かれていた。『薬事検めの令』。熱病の薬の不正な流通を調べるという名目で、王太子代行の名で、薬問屋を、ひとつ、検められる。署名は、すでに済んでいる。
あとは、押す時を、決めるだけだった。
「殿下」
墨雲が、控えめに、声をかけた。
「お食事を」
「いらない」
「せめて、少し」
「墨雲」
清軒は、窓の外を見たまま、言った。
「出る」
「どちらへ」
「石橋だ」
墨雲は、一瞬、言葉を失った。
「……あの石橋、ですか」
「国師が言った。東の、水の気が、強いと」
清軒は、立ち上がった。
「占いなど、信じない。信じたくもない。だが、足が、勝手に、向かう」
「殿下」
「あそこしか、思いつかないんだ」
声が、かすかに、掠れていた。
「あいつと、最後に会った、夜の、橋だ」
月は、まだ、昇っていなかった。
東の川は、黒く、静かだった。堤を渡る風が、水の匂いを運んでくる。橋の袂の茶屋では、赤い提灯が、まだ、揺れていた。
「おや、墨雲さん。また、来たのかい」
老婆が、顔を上げた。
「婆さん、夜分に、すまない」
「いいんだよ。あんたも、大変だねえ」
老婆は、茶碗を、ふたつ、並べかけて、ふと、手を止めた。
「そういえば、今朝のことなんだけど」
「今朝」
「あの、薬屋の小僧がね。ほら、月草堂の。毎朝、豆腐を買いに来る、痩せた子だ」
清軒の足が、止まった。
「その子が、橋の上で、何かしてたんだよ。欄干の、内側にしゃがんで、指で、こうやって」
老婆は、空中に、小さな弧を、描いた。
「何か、粉みたいなものを、擦りつけてた。誰かに叱られたら、慌てて立ち上がって、豆腐を抱えて、逃げてったよ。変な子だと思ったんだが」
墨雲が、息を呑んだ。
清軒は、すでに、走り出していた。
石橋の上は、夜風が、冷たかった。欄干に手をかけ、川に向いた面を、覗き込む。
闇の中に、何もなかった。
「殿下」
「……ない」
指で、石の面を、なぞった。ざらりとした、冷たい感触。
「何も、ない」
その時、雲が、切れた。
細い月が、東の空に、昇った。
淡い光が、橋の上に、降りた。
そして。
欄干の内側、石の面の、低い位置に、小さな、小さな光が、浮かび上がった。
銀色の、細い、細い、弧。
三日月だった。
清軒は、息を、止めた。
指先で、そっと、触れる。粉が、わずかに、指に、移った。
(ここだ)
石橋の下で、笑っていた、あの子。
先に着いた方が、欄干の内側に、小さく、三日月を描く。あとから来た方は、それを見て、来た印に、そっと消す。
二人だけの、約束だった。
あいつは、まだ、生きている。
あいつは、俺を、待っている。
「……メイリン」
喉の奥で、声が、割れた。
膝が、崩れそうになった。それを、欄干に縋って、堪えた。目から、熱いものが、溢れて、石の上に、ぽたりと、落ちた。
「殿下」
墨雲が、そっと、後ろに立った。何も、言わなかった。
清軒は、袖で、乱暴に、目を拭った。
「……泣いている暇は、ない」
「はい」
「消すな」
「は?」
「この、三日月を。決して、消すな」
指先で、触れたまま、呟いた。
「俺が、迎えに行くまでは」
その時、左耳の翡翠が、かっと、熱を持った。
脈を打つように、一瞬、強く、光った。
「……あ」
墨雲が、目を見開いた。
「殿下、今の」
「ああ」
清軒は、耳に、触れた。熱は、すでに、引いていた。けれど、確かに、感じた。
あいつは、近い。
「行く」
彼は、顔を上げた。もう、迷いは、なかった。
「令を出す。護衛隊を、集めろ。厚山の、古参も。夜明けまでに、片をつける」
二
月草堂の前に、三十人ほどの影が、集まっていた。
王宮の衛士が、十人。護衛隊の四人。それに、厚山が、声をかけて集めた、軍営の古参兵が、十数人。衰弱で、仲間を亡くした者たちだった。
「殿下」
厚山が、低く言った。
「あの子が、閉じ込められているなら、俺たちは、行く」
「頼む」
清軒は、短く、頷いた。それ以上の言葉は、要らなかった。
墨雲が、令状を、広げた。ぶるぶると、手が震えていたが、声は、しっかりと、していた。
「王太子代行、柳清軒殿下の名において。熱病の薬の、不正な流通を調べるため、薬問屋『月草堂』を、検める」
声が、静かな夜の路地に、響いた。
扉が、軋んで、開いた。
「夜分に、何事ですか」
出てきたのは、董だった。軍の鎧ではなく、薬問屋の主人のような、簡素な身なりをしている。それでも、冷たい目は、隠せなかった。
「董副官」
清軒の声が、低く、響いた。
「なぜ、貴殿が、ここに」
「私は、ただの客として、薬を」
「客が、店の主人のように、扉を開けるのか」
董の頬が、ぴくりと、引きつった。
「殿下。恐れながら、軍の薬の調達は、将軍府の管轄でございます。王太子代行の令であっても、将軍の許しなしに」
「要らない」
清軒は、遮った。
「これは、軍の薬の件ではない。市井に流れる熱冷ましの、品質を調べる、政務だ。管轄は、俺にある」
「しかし」
「通せ」
衛士たちが、一歩、前へ出た。
董は、動かなかった。唇が、わずかに、動いた。
「……お待ちを。店の者を、起こして参ります」
「待たない」
清軒は、構わず、足を、踏み出した。
店の中は、薬草の匂いで、満ちていた。壁一面の、小さな引き出し。棚には、壺が、並んでいる。表向きは、何の変哲もない、薬問屋だった。
文遠が、静かに、店の奥を、見渡した。
「殿下」
「何だ」
「この棚の埃が、不自然です」
指差す先は、奥の壁際の、一番大きな薬棚だった。
「他の棚は、埃が積もっている。ですが、この棚だけ、手前の縁が、磨かれたように、白い。何度も、動かされている」
小燕が、しゃがみ込んだ。
「床に、擦れた跡がある。棚の、下に。弧を描いて」
「大牙」
「おうよ」
大牙が、前へ出た。巨体が、棚の脇に立つ。両腕に、力を込める。
董が、叫んだ。
「やめろ!」
ごおん、と、重い音が、した。
棚が、横に、滑った。
その裏に、石の階段が、ぽっかりと、口を開けていた。
湿った冷気が、足元から、這い上がってくる。薬草の匂いに混じって、微かな、鉄の匂いがした。
「ここだ」
清軒の声が、震えていた。
その瞬間、背後で、董の魔力が、膨れ上がった。
「殿下ッ!」
文遠が、叫んだ。
月光の鎖が、清軒の背中に、襲いかかった。
清軒は、振り向きざま、手を払った。月光の刃が、鎖を、真っ二つに、断ち切る。火花のような光が、飛び散った。
「王太子に、刃を向けたな」
声が、冷たかった。
「構わん。ここで、貴殿を、斬る」
「ほざけ」
董の手の中に、二本目、三本目の鎖が、生まれた。蛇のように、うねりながら、四方から、迫る。
清軒は、剣を抜いた。魔力を、刃に纏わせる。翡翠色の光が、闇に、閃いた。
一閃。
二閃。
鎖が、次々と、断たれていく。足を取られそうになるのを、床板を蹴って、跳ね上がる。壁を使って、方向を変える。
「殿下!」
大牙の声が、聞こえた。
「俺が、加勢を」 「来るな。階下へ、行け」
清軒は、振り返らずに、叫んだ。
「あいつを、頼む」
大牙の足が、一瞬、止まった。それから、拳を握りしめて、階段へ、駆け下りた。文遠と小燕が、あとに続いた。
董の目が、険しくなった。
「させるか」
鎖が、階段の方へ、伸びる。その前に、清軒の剣が、立ちはだかった。
「お前の相手は、俺だ」
刃と、鎖が、噛み合った。
董は、強かった。烈風の腹心を名乗るだけの、腕前だった。魔力の流れが、鋭く、無駄がない。清軒の袖が、鎖に裂かれ、頬に、細い傷が走った。
けれど。
「叔父上に、毎朝、叩き伏せられていた、頃を思えば」
清軒は、笑った。笑いながら、一歩、踏み込んだ。
「お前の剣は、遅い」
月光の刃が、董の鎖を、すべて、巻き取った。梃子のように、ひねる。鎖が、ぶつりと、千切れ、董の体が前によろけた所に清軒の蹴りが腹部に入り、後ろに、弾き飛ばされた。
背中が、壁に、叩きつけられる。
剣先が、董の喉元に、ぴたりと、止まった。
「動くな」
低い声だった。
「動けば、斬る」
董は、荒い息をつきながら、清軒を睨んだ。口の端が、不意に、歪んだ。
「……間に合わんぞ、殿下」
「何」
「閣下が、来る。もうすぐ」
清軒は、答えなかった。
ただ、片手で、董の帯に、手を差し入れた。
指先に、柔らかい感触が、触れた。
引き抜くと、赤い紐が、手の中に、ずるりと、現れた。端に、翡翠の珠が、揺れている。
清軒の目が、冷たく、細まった。
「これは、俺のだ」
「……殿下の」
清軒は、紐を、握りしめた。
「お前は、本当に、運がいい」
声が、地の底から、響くようだった。
「今、ここで、お前を斬らずに済むのは、あいつが、見ているかもしれないからだ」
剣を、納めた。
「縛れ」
衛士たちが、董を、縄で縛り上げた。
三
階段は、思ったより、深かった。
石の壁が、ひんやりと、冷たい。墨雲が、衛士の持つ灯りを、必死に、掲げている。
「殿下、足元に」
「わかっている」
下りきった先に、重い鉄の扉が、あった。鍵は、なかった。扉は、すでに、開いていた。大牙の、肩が、ぶち破ったあとだった。
清軒は、扉を、くぐった。
狭い、暗い、地下室だった。壁に、壺が、並んでいる。銀色の粉が、そこかしこで、淡く光っていた。
その、一番奥に。
壁に鎖で繋がれた、小柄な影が、いた。
「……秦明」
大牙の声が、嗚咽に、割れていた。巨体が、その傍らに、跪いている。
「秦明、生きてる。生きてるぞ」
メイリンは、壁にもたれて、薄く、目を開けていた。首と手首に、青白い石の枷。顔色は、紙のように白かった。唇が、乾いて、血が、滲んでいた。
その目が、入り口に立つ人影を、捉えた。
「……殿下」
かすれた声だった。
「遅い、ですよ」
息が、止まった。
「……ああ」
清軒は、ゆっくりと、近づいた。膝をついた。震える手で、メイリンの頬に、触れた。冷たかった。生きている人間の、温度では、ないほどに。
「遅くなった」
「ええ。三日月を、描いたのに」
「見つけた」
「そう、ですか」
メイリンは、わずかに、微笑んだ。
「よかった」
その、たった一言で。
清軒の胸の奥で、張り詰めていた何かが、音を立てて、切れた。
「大牙。鎖を、どけろ」
「はい!」
文遠が、枷の鍵を、探した。小燕が、壁の環を、確かめた。けれど、鍵は、見つからない。
「殿下、この石の枷は」
「俺が、やる」
清軒は、刃を、そっと、構えた。
「動くな」
「……はい」
「石だけを、切る。肌は、傷つけない」
息を、整えた。魔力を、刃の、ごく先端に、集める。
髪の毛ほどの細さに、研ぎ澄ませた翡翠色の光が、枷の継ぎ目に、触れた。
ぱきん、と、澄んだ音が、した。
首の石が、ふたつに割れて、床に、落ちた。続けて、両手首。青白い石が、砕け、鎖が、じゃらりと、崩れた。
その途端、メイリンの体を、光が、駆け抜けた。
胸の奥の、閉ざされていた泉が、溢れ出した。凍えていた指先に、熱が戻る。魔力が、体の隅々まで、どっと、満ちていく。
「……っ」
メイリンは、思わず、息を吸い込んだ。目に、涙が、浮かんだ。
「戻って、きた」
「ああ」
清軒は、メイリンを、抱き寄せた。
細い体が、ひどく、軽かった。抱きしめる腕に、力が入りすぎて、止められなかった。
「……清軒様」
かすかに、本当の名を呼ぶ声が、腕の中で、聞こえた。
「苦しい、です」
「悪い」
「でも、いいです」
メイリンの手が、清軒の背に、そっと、触れた。
「怖かった」
小さな、小さな声だった。強い彼女が、初めて見せた、弱さだった。
「それでも、あなたが、来るまで、待とうと、思ったんです」
清軒は、何も、言えなかった。ただ、強く、強く、抱きしめた。
背後で、大牙が、袖で、顔を覆って、肩を震わせている。小燕が、そっと、その背に、手を置いた。文遠は、本を抱えるように、片腕を、胸に当てていた。墨雲は、灯りを持ったまま、そっぽを向いていた。
誰も、何も、言わなかった。
やがて、清軒は、腕を、緩めた。
「手を」
「はい」
差し出された、メイリンの手首に、赤い紐が、巻かれた。翡翠の珠が、ふたたび、そこで、揺れた。
「……取り返して、くださったんですね」 「ああ。あの男の、帯から」
「大切な品、ですから」
メイリンは、珠を、そっと、握りしめた。
「ところで」
その時、部屋の隅の、棚の陰から、小さな影が、そろそろと、這い出てきた。
「あ、あの」
阿栗だった。顔は、涙と、埃で、ぐしゃぐしゃになっていた。
「無事、だった?」
「阿栗」
メイリンは、手を伸ばした。
「来て」
「うん」
少年は、駆け寄って、メイリンの腕に、飛び込んだ。
「約束、守ってくれた。僕、橋に、描いたよ。ちゃんと、描いたよ」
「うん。よくやった」
メイリンは、少年の頭を、撫でた。
「あなたが、私を、助けてくれたの」
少年は、声を上げて、泣き出した。
清軒は、そっと、膝をついた。
「阿栗、と言ったか」
「は、はい」
「お前の名を、俺は、忘れない」
低い声だった。
「よく、勇気を、出してくれた。もう、怖い思いは、させない。この店の、主は、俺が、片付ける」
少年は、きょとんと、清軒を見上げた。
「あんたは、だれ」
「その人の、仲間だ」
メイリンが、くすりと、笑った。
「仲間、ですか」
「違うのか」
「いいえ」
その笑顔が、あまりにも、温かくて、清軒は、胸が、締めつけられた。




