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黒い髪  作者: 八重


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15/32

月草堂の夜

一

日が沈んでも、清軒は、動けずにいた。

昼のあいだ、できることは、すべてやった。薬問屋の台帳を洗い、将軍府の動きを探り、文遠たちの拾った手がかりを突き合わせた。月草堂が、怪しい。それは、ほぼ間違いなかった。

けれど。

(あそこに、いる)

そう断じる決め手が、ひとつだけ、足りなかった。

踏み込めば、薬問屋の中に、メイリンがいなければ、すべてが終わる。烈風は、「王太子が、証拠もなく、軍の薬を差し押さえた」と騒ぐだろう。そして、あいつを、二度と、見つけられなくなる。

執務室の机に、白い令状が、置かれていた。『薬事検めの令』。熱病の薬の不正な流通を調べるという名目で、王太子代行の名で、薬問屋を、ひとつ、検められる。署名は、すでに済んでいる。

あとは、押す時を、決めるだけだった。

「殿下」

墨雲が、控えめに、声をかけた。

「お食事を」

「いらない」

「せめて、少し」

「墨雲」

清軒は、窓の外を見たまま、言った。

「出る」

「どちらへ」

「石橋だ」

墨雲は、一瞬、言葉を失った。

「……あの石橋、ですか」

「国師が言った。東の、水の気が、強いと」

清軒は、立ち上がった。

「占いなど、信じない。信じたくもない。だが、足が、勝手に、向かう」

「殿下」

「あそこしか、思いつかないんだ」

声が、かすかに、掠れていた。

「あいつと、最後に会った、夜の、橋だ」

月は、まだ、昇っていなかった。


東の川は、黒く、静かだった。堤を渡る風が、水の匂いを運んでくる。橋の袂の茶屋では、赤い提灯が、まだ、揺れていた。

「おや、墨雲さん。また、来たのかい」

老婆が、顔を上げた。

「婆さん、夜分に、すまない」

「いいんだよ。あんたも、大変だねえ」

老婆は、茶碗を、ふたつ、並べかけて、ふと、手を止めた。

「そういえば、今朝のことなんだけど」

「今朝」

「あの、薬屋の小僧がね。ほら、月草堂の。毎朝、豆腐を買いに来る、痩せた子だ」

清軒の足が、止まった。

「その子が、橋の上で、何かしてたんだよ。欄干の、内側にしゃがんで、指で、こうやって」

老婆は、空中に、小さな弧を、描いた。

「何か、粉みたいなものを、擦りつけてた。誰かに叱られたら、慌てて立ち上がって、豆腐を抱えて、逃げてったよ。変な子だと思ったんだが」

墨雲が、息を呑んだ。

清軒は、すでに、走り出していた。

石橋の上は、夜風が、冷たかった。欄干に手をかけ、川に向いた面を、覗き込む。

闇の中に、何もなかった。

「殿下」

「……ない」

指で、石の面を、なぞった。ざらりとした、冷たい感触。

「何も、ない」

その時、雲が、切れた。

細い月が、東の空に、昇った。

淡い光が、橋の上に、降りた。

そして。

欄干の内側、石の面の、低い位置に、小さな、小さな光が、浮かび上がった。

銀色の、細い、細い、弧。

三日月だった。

清軒は、息を、止めた。

指先で、そっと、触れる。粉が、わずかに、指に、移った。

(ここだ)

石橋の下で、笑っていた、あの子。

先に着いた方が、欄干の内側に、小さく、三日月を描く。あとから来た方は、それを見て、来た印に、そっと消す。

二人だけの、約束だった。

あいつは、まだ、生きている。

あいつは、俺を、待っている。

「……メイリン」

喉の奥で、声が、割れた。

膝が、崩れそうになった。それを、欄干に縋って、堪えた。目から、熱いものが、溢れて、石の上に、ぽたりと、落ちた。

「殿下」

墨雲が、そっと、後ろに立った。何も、言わなかった。

清軒は、袖で、乱暴に、目を拭った。

「……泣いている暇は、ない」

「はい」

「消すな」

「は?」

「この、三日月を。決して、消すな」

指先で、触れたまま、呟いた。

「俺が、迎えに行くまでは」

その時、左耳の翡翠が、かっと、熱を持った。

脈を打つように、一瞬、強く、光った。

「……あ」

墨雲が、目を見開いた。

「殿下、今の」

「ああ」

清軒は、耳に、触れた。熱は、すでに、引いていた。けれど、確かに、感じた。

あいつは、近い。

「行く」

彼は、顔を上げた。もう、迷いは、なかった。

「令を出す。護衛隊を、集めろ。厚山の、古参も。夜明けまでに、片をつける」

二

月草堂の前に、三十人ほどの影が、集まっていた。

王宮の衛士が、十人。護衛隊の四人。それに、厚山が、声をかけて集めた、軍営の古参兵が、十数人。衰弱で、仲間を亡くした者たちだった。

「殿下」

厚山が、低く言った。

「あの子が、閉じ込められているなら、俺たちは、行く」

「頼む」

清軒は、短く、頷いた。それ以上の言葉は、要らなかった。

墨雲が、令状を、広げた。ぶるぶると、手が震えていたが、声は、しっかりと、していた。

「王太子代行、柳清軒殿下の名において。熱病の薬の、不正な流通を調べるため、薬問屋『月草堂』を、検める」

声が、静かな夜の路地に、響いた。

扉が、軋んで、開いた。

「夜分に、何事ですか」

出てきたのは、董だった。軍の鎧ではなく、薬問屋の主人のような、簡素な身なりをしている。それでも、冷たい目は、隠せなかった。

「董副官」

清軒の声が、低く、響いた。

「なぜ、貴殿が、ここに」

「私は、ただの客として、薬を」

「客が、店の主人のように、扉を開けるのか」

董の頬が、ぴくりと、引きつった。

「殿下。恐れながら、軍の薬の調達は、将軍府の管轄でございます。王太子代行の令であっても、将軍の許しなしに」

「要らない」

清軒は、遮った。

「これは、軍の薬の件ではない。市井に流れる熱冷ましの、品質を調べる、政務だ。管轄は、俺にある」

「しかし」

「通せ」

衛士たちが、一歩、前へ出た。

董は、動かなかった。唇が、わずかに、動いた。

「……お待ちを。店の者を、起こして参ります」

「待たない」

清軒は、構わず、足を、踏み出した。

店の中は、薬草の匂いで、満ちていた。壁一面の、小さな引き出し。棚には、壺が、並んでいる。表向きは、何の変哲もない、薬問屋だった。

文遠が、静かに、店の奥を、見渡した。

「殿下」

「何だ」

「この棚の埃が、不自然です」

指差す先は、奥の壁際の、一番大きな薬棚だった。

「他の棚は、埃が積もっている。ですが、この棚だけ、手前の縁が、磨かれたように、白い。何度も、動かされている」

小燕が、しゃがみ込んだ。

「床に、擦れた跡がある。棚の、下に。弧を描いて」

「大牙」

「おうよ」

大牙が、前へ出た。巨体が、棚の脇に立つ。両腕に、力を込める。

董が、叫んだ。

「やめろ!」

ごおん、と、重い音が、した。

棚が、横に、滑った。

その裏に、石の階段が、ぽっかりと、口を開けていた。

湿った冷気が、足元から、這い上がってくる。薬草の匂いに混じって、微かな、鉄の匂いがした。

「ここだ」

清軒の声が、震えていた。

その瞬間、背後で、董の魔力が、膨れ上がった。

「殿下ッ!」

文遠が、叫んだ。

月光の鎖が、清軒の背中に、襲いかかった。

清軒は、振り向きざま、手を払った。月光の刃が、鎖を、真っ二つに、断ち切る。火花のような光が、飛び散った。

「王太子に、刃を向けたな」

声が、冷たかった。

「構わん。ここで、貴殿を、斬る」

「ほざけ」

董の手の中に、二本目、三本目の鎖が、生まれた。蛇のように、うねりながら、四方から、迫る。

清軒は、剣を抜いた。魔力を、刃に纏わせる。翡翠色の光が、闇に、閃いた。

一閃。

二閃。

鎖が、次々と、断たれていく。足を取られそうになるのを、床板を蹴って、跳ね上がる。壁を使って、方向を変える。

「殿下!」

大牙の声が、聞こえた。

「俺が、加勢を」 「来るな。階下へ、行け」

清軒は、振り返らずに、叫んだ。

「あいつを、頼む」

大牙の足が、一瞬、止まった。それから、拳を握りしめて、階段へ、駆け下りた。文遠と小燕が、あとに続いた。

董の目が、険しくなった。

「させるか」

鎖が、階段の方へ、伸びる。その前に、清軒の剣が、立ちはだかった。

「お前の相手は、俺だ」

刃と、鎖が、噛み合った。

董は、強かった。烈風の腹心を名乗るだけの、腕前だった。魔力の流れが、鋭く、無駄がない。清軒の袖が、鎖に裂かれ、頬に、細い傷が走った。

けれど。

「叔父上に、毎朝、叩き伏せられていた、頃を思えば」

清軒は、笑った。笑いながら、一歩、踏み込んだ。

「お前の剣は、遅い」

月光の刃が、董の鎖を、すべて、巻き取った。梃子のように、ひねる。鎖が、ぶつりと、千切れ、董の体が前によろけた所に清軒の蹴りが腹部に入り、後ろに、弾き飛ばされた。

背中が、壁に、叩きつけられる。

剣先が、董の喉元に、ぴたりと、止まった。

「動くな」

低い声だった。

「動けば、斬る」

董は、荒い息をつきながら、清軒を睨んだ。口の端が、不意に、歪んだ。

「……間に合わんぞ、殿下」

「何」

「閣下が、来る。もうすぐ」

清軒は、答えなかった。

ただ、片手で、董の帯に、手を差し入れた。

指先に、柔らかい感触が、触れた。

引き抜くと、赤い紐が、手の中に、ずるりと、現れた。端に、翡翠の珠が、揺れている。

清軒の目が、冷たく、細まった。

「これは、俺のだ」

「……殿下の」

清軒は、紐を、握りしめた。

「お前は、本当に、運がいい」

声が、地の底から、響くようだった。

「今、ここで、お前を斬らずに済むのは、あいつが、見ているかもしれないからだ」

剣を、納めた。

「縛れ」

衛士たちが、董を、縄で縛り上げた。

三

階段は、思ったより、深かった。

石の壁が、ひんやりと、冷たい。墨雲が、衛士の持つ灯りを、必死に、掲げている。

「殿下、足元に」

「わかっている」

下りきった先に、重い鉄の扉が、あった。鍵は、なかった。扉は、すでに、開いていた。大牙の、肩が、ぶち破ったあとだった。

清軒は、扉を、くぐった。

狭い、暗い、地下室だった。壁に、壺が、並んでいる。銀色の粉が、そこかしこで、淡く光っていた。

その、一番奥に。

壁に鎖で繋がれた、小柄な影が、いた。

「……秦明」

大牙の声が、嗚咽に、割れていた。巨体が、その傍らに、跪いている。

「秦明、生きてる。生きてるぞ」

メイリンは、壁にもたれて、薄く、目を開けていた。首と手首に、青白い石の枷。顔色は、紙のように白かった。唇が、乾いて、血が、滲んでいた。

その目が、入り口に立つ人影を、捉えた。

「……殿下」

かすれた声だった。

「遅い、ですよ」

息が、止まった。

「……ああ」

清軒は、ゆっくりと、近づいた。膝をついた。震える手で、メイリンの頬に、触れた。冷たかった。生きている人間の、温度では、ないほどに。

「遅くなった」

「ええ。三日月を、描いたのに」

「見つけた」

「そう、ですか」

メイリンは、わずかに、微笑んだ。

「よかった」

その、たった一言で。

清軒の胸の奥で、張り詰めていた何かが、音を立てて、切れた。

「大牙。鎖を、どけろ」

「はい!」

文遠が、枷の鍵を、探した。小燕が、壁の環を、確かめた。けれど、鍵は、見つからない。

「殿下、この石の枷は」

「俺が、やる」

清軒は、刃を、そっと、構えた。

「動くな」

「……はい」

「石だけを、切る。肌は、傷つけない」

息を、整えた。魔力を、刃の、ごく先端に、集める。

髪の毛ほどの細さに、研ぎ澄ませた翡翠色の光が、枷の継ぎ目に、触れた。

ぱきん、と、澄んだ音が、した。

首の石が、ふたつに割れて、床に、落ちた。続けて、両手首。青白い石が、砕け、鎖が、じゃらりと、崩れた。

その途端、メイリンの体を、光が、駆け抜けた。

胸の奥の、閉ざされていた泉が、溢れ出した。凍えていた指先に、熱が戻る。魔力が、体の隅々まで、どっと、満ちていく。

「……っ」

メイリンは、思わず、息を吸い込んだ。目に、涙が、浮かんだ。

「戻って、きた」

「ああ」

清軒は、メイリンを、抱き寄せた。

細い体が、ひどく、軽かった。抱きしめる腕に、力が入りすぎて、止められなかった。

「……清軒様」

かすかに、本当の名を呼ぶ声が、腕の中で、聞こえた。

「苦しい、です」

「悪い」

「でも、いいです」

メイリンの手が、清軒の背に、そっと、触れた。

「怖かった」

小さな、小さな声だった。強い彼女が、初めて見せた、弱さだった。

「それでも、あなたが、来るまで、待とうと、思ったんです」

清軒は、何も、言えなかった。ただ、強く、強く、抱きしめた。

背後で、大牙が、袖で、顔を覆って、肩を震わせている。小燕が、そっと、その背に、手を置いた。文遠は、本を抱えるように、片腕を、胸に当てていた。墨雲は、灯りを持ったまま、そっぽを向いていた。

誰も、何も、言わなかった。

やがて、清軒は、腕を、緩めた。

「手を」

「はい」

差し出された、メイリンの手首に、赤い紐が、巻かれた。翡翠の珠が、ふたたび、そこで、揺れた。

「……取り返して、くださったんですね」 「ああ。あの男の、帯から」

「大切な品、ですから」

メイリンは、珠を、そっと、握りしめた。

「ところで」

その時、部屋の隅の、棚の陰から、小さな影が、そろそろと、這い出てきた。

「あ、あの」

阿栗だった。顔は、涙と、埃で、ぐしゃぐしゃになっていた。

「無事、だった?」

「阿栗」

メイリンは、手を伸ばした。

「来て」

「うん」

少年は、駆け寄って、メイリンの腕に、飛び込んだ。

「約束、守ってくれた。僕、橋に、描いたよ。ちゃんと、描いたよ」

「うん。よくやった」

メイリンは、少年の頭を、撫でた。

「あなたが、私を、助けてくれたの」

少年は、声を上げて、泣き出した。

清軒は、そっと、膝をついた。

「阿栗、と言ったか」

「は、はい」

「お前の名を、俺は、忘れない」

低い声だった。

「よく、勇気を、出してくれた。もう、怖い思いは、させない。この店の、主は、俺が、片付ける」

少年は、きょとんと、清軒を見上げた。

「あんたは、だれ」

「その人の、仲間だ」

メイリンが、くすりと、笑った。

「仲間、ですか」

「違うのか」

「いいえ」

その笑顔が、あまりにも、温かくて、清軒は、胸が、締めつけられた。


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