月草堂の夜2
地上へ戻ると、路地は、まだ、暗かった。
けれど、空気が、ざわついていた。遠くから、重い、足音が、近づいてくる。
「殿下」
厚山が、低く、報せた。
「将軍府の兵が、来ます。三十は、下りません」
清軒は、メイリンを、背に庇うように、前へ出た。
衛士たちが、剣を、構えた。護衛隊の四人が、メイリンの周りを、固める。古参兵たちが、通りの両側に、散った。
松明の列が、路地の向こうに、現れた。
先頭に、巨躯の男が、馬上から、見下ろしていた。
「これは、殿下」
鄭烈風だった。
「夜更けに、このような場所で、何をしておいでか」
「大将軍」
清軒は、冷ややかに、答えた。
「王太子代行として、薬事を検めている」 「検め、ですか。それにしては、物々しい」
「貴殿こそ、なぜ、ここへ」
「私の副官が、揉め事を起こしたと、報せがありましてな」
烈風は、悠然と、馬を降りた。
「董が、何か、ご無礼を」
「無礼どころではない」
清軒は、一歩、前に出た。
「貴殿の副官は、俺の護衛隊長を、攫った」
ざわめきが、将軍府の兵たちに、走った。
烈風の眉が、ほんのわずかに、動いた。
「……攫った、とは」
「地下に、閉じ込めていた。魔力を封じる枷を、嵌めて」
清軒は、手の中の、砕けた石の欠片を、掲げた。
「この石は、貴殿の指輪と、同じ色をしている」
烈風の右手の、青みがかった月長石が、松明の光に、鈍く、光った。
「偶然では、ないだろう」
「石など、似たものは、いくらでも」
「では、これは」
厚山が、前へ出た。懐から、一枚の紙を、取り出した。
「昨夜の、裏門の番兵の、配置換えの命令書です。印は、董副官のもの。命じられたのは、秦明が消えた夜の、半刻前」
古参兵たちが、次々と、声を上げた。
「俺も、見た」
「あの夜、番兵は、全員、外されていた」 「脱走の届けが出たのは、夜が明けて、半刻も経たないうちだ」
烈風の顔から、笑みが、消えた。
「……なるほど」
静かな声だった。
「董が、独断で」
そう言って、烈風は、ゆっくりと、縛られた董を、見た。
董の顔から、血の気が、引いていた。
「閣下」
低い、掠れた声だった。
「私は、閣下の、ために」
「黙れ」
烈風の声が、地鳴りのように、響いた。
「軍の副官が、王太子の護衛隊長に、手を出した。申し開きは、牢で、するがいい」
董の唇が、わなわなと、震えた。
そして、不意に、静かになった。
「……閣下」
董は、小さく、笑った。
「長い、お勤め、でした」
その口の端から、白い泡が、ごぼりと、溢れた。
「董!」
衛士が、駆け寄った時には、遅かった。男の体は、がくりと、前に倒れ、縄の中で、動かなくなった。
奥歯に、毒を、仕込んでいたのだった。
誰も、何も、言わなかった。
烈風が、肩をすくめた。
「死んだか。厄介なことを」
「貴殿は」
清軒の声が、低く、震えた。
「また、切り捨てたな」
「何を、仰る。副官の暴走を、私が、止められなかった。それだけのこと」
烈風は、悲しげな顔を、作ってみせた。
「不徳の致すところ。殿下には、後日、改めて、お詫びを」
「詫びは、要らない」
清軒は、はっきりと、言った。
「月草堂は、これより、俺が、封印する。帳簿も、薬も、すべて。将軍府の手は、入れさせない」
「……ご随意に」
「それと」
清軒は、背後の、メイリンを、振り返らずに、告げた。
「これは、通告だ。秦明は、俺の護衛隊長だ。あいつに、再び、手を出す者は、将軍であろうと、俺の敵だ」
烈風は、しばらく、清軒を見つめていた。それから、ふいに、その視線が、清軒の背後に、逸れた。
メイリンが、立っていた。
衛士に、肩を支えられながら、それでも、まっすぐに、顔を上げていた。
「ほう」
烈風の目が、すっと、細くなった。
「生きていたか、秦明」
「はい。おかげさまで」
静かな、よく通る声だった。
「閣下の副官に、よく、もてなして頂きました」
「それは、結構」
烈風は、わずかに、口の端を上げた。
「弱いはずの兵が、殿下に、これほど、大事にされるとは。不思議なことも、あるものだ」
「……」
「大切に、なさい。殿下の、お気に入りを」
その言葉に、含まれた棘に、メイリンは、気づいた。
けれど、顔には、出さなかった。
烈風は、馬に跨がると、手綱を、引いた。
「引き上げる」
兵たちが、列を、組み直す。松明の光が、路地の向こうへ、遠ざかっていった。
最後に、烈風が、振り返った。
その目は、清軒でも、メイリンでもなく、月草堂の、板で塞がれた窓を、見ていた。
(あの目は)
メイリンは、ぞくりと、した。
あれは、獲物を、諦めた目では、なかった。
五
夜が、明けた。
東の空が、薄く、白む頃、一行は、軍営の門をくぐった。
清軒は、メイリンを抱えたまま、ここまで来た。門の内で、ようやく、彼女を地面に下ろした。足は、まだ頼りなく、ふらついた。その腕を、横から、大きな手が、支えた。
「掴まれ」
厚山だった。
「俺たちが、部屋まで送る」
清軒は、一瞬だけ、手を離すのをためらった。それから、小さく頷いた。
「頼む」
大部屋の戸は、開けたまま出ていったので、中は、夜の冷えを、そのまま抱いていた。
メイリンは、戸口で、足を止めた。
自分の寝台に毛布が、敷かれていた。大牙の、継ぎの当たった毛布。小燕の、少し小さな枕。文遠の外套が、足元に、畳んで置かれている。
「副官に荷を没収されちゃったから、出る前に、整えたんだ」
小燕が、小声で言った。
「帰ってきた時に、何もなかったら、嫌だと思って」
「……はい」
「秦明が、冷たい寝台で寝るなんて、絶対、駄目だから」
喉の奥が、熱くなった。
「ただいま、戻りました」
声が、掠れた。それでも、言えた。
「おう」
大牙が、ぐい、と袖で顔を拭った。目も鼻も、真っ赤だった。
「お前な。お前な、本当に」
「大牙さん」
「俺は、寝てないんだ。二日、一睡もしてないんだ。お前が、いなくなってから、ずっと」
「はい」
「だから、もう、勝手に」
そこで、言葉が、途切れた。
巨体が、ぐらりと、傾いた。
「大牙さん?」
「……ぐう」
立ったまま、寝ていた。
小燕が、堪えきれずに、吹き出した。文遠が、やれやれとため息をもらす。厚山が、無言で、大牙の体を受け止めて、自分の寝台まで運び、毛布を掛けてやった。
「やっと、寝たか」
低く、呟いた。その声は、ひどく、優しかった。
メイリンも、笑った。笑いながら、目の端から、涙が、一粒、こぼれた。
「……ありがとう、ございます。みなさん」
誰も、何も、答えなかった。ただ、小燕が、そっと、毛布の端を、持ち上げてくれた。
少し離れた、廊下の陰で、清軒が、その光景を、見ていた。
踏み込む気は、なかった。ここは、彼らの場所だ。メイリンが、「秦明」でいられる、数少ない場所だ。
「殿下」
墨雲が、そっと、声をかけた。
「お入りに、ならないのですか」
「ああ」
清軒は、小さく、笑った。
「今は、いい」
踵を返しかけた時、廊下の向こうから、足音が、駆けてきた。
「殿下」
王宮の使いが、息を切らして、一礼した。
「王弟殿下より、お言付けが」
「叔父上が」
「『俺の別邸の庭先に、面白いものが、置かれていた。至急、来い』と」
清軒の眉が、寄った。
「面白いもの」
「秦侯のご令嬢の、お髪、と」
墨雲が、息を呑んだ。
清軒は、ゆっくりと、振り返った。大部屋の戸口の向こうで、メイリンが、毛布に包まれて、小燕に何か囁かれ、小さく笑っている。
その笑顔を、しばらく、見つめていた。
「……行く」
低く、言った。
「ただし、出発は、明日の朝だ。あいつを、少しでも、休ませる」
「はい」
朝日が、軍営の屋根を、白く、染めていた。
長い、三日間が、終わった。
けれど、清軒の胸の奥には、ひとつの、決意が、深く、刻まれていた。
もう二度と、あいつを、一人で、帰さない。




