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黒い髪  作者: 八重


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17/32

叔父上と別邸の夜

一

王弟・柳景陽の別邸は、望月京の北の外れにあった。

「叔父上は、苦手だ」

馬車の中で、清軒が、窓の外を見たまま呟いた。

「殿下にも、苦手な方が」と、向かいの墨雲が、目を丸くした。

「剣の師だったんだ。子供の頃、毎朝、木剣で叩き伏せられた」

「それは、お気の毒に」

「容赦がなかった。『王太子だろうが、弱ければ死ぬ』と言って」

メイリンは、護衛として、御者台の脇に座っていた。馬車の中の会話が、風に乗って、断片的に聞こえてくる。

(あの清軒様が、苦手な人)

少し、興味が湧いた。

別邸の門扉には、半月に柳の葉三枚の紋が、黒い鉄で打ち出されていた。その前で、壮年の男が、腕を組んで待っていた。

背が高く、肩幅が広い。無精髭に、鋭い目つき。四十代半ばの、堂々たる体躯である。王弟、柳景陽だった。

「遅いぞ、清軒」

「叔父上。ご無沙汰しております」

「無沙汰も何も、三か月、顔も見せなかったではないか」

「政務が」

「言い訳は聞かん」

景陽は、いきなり大きな手を、清軒の頭に置いて、わしゃわしゃと撫でた。

「叔父上、やめてください」

「大きくなったな、馬鹿者が」

「人前で」

「お前がどれだけ偉くなろうが、俺の前では、いつまでも小僧だ」

笑いを堪えるメイリンの肩が、小刻みに震えた。

その視線に、景陽が、ふと気づいた。

「そちらは」

「新しい護衛隊長です。秦明といいます」

「ほう」

景陽の鋭い目が、じっとメイリンを見据えた。上から下まで、一瞬で。

「いい目をしている」

「恐れ入ります」

「歩き方が、整いすぎている。ただの農家の出ではないな」

背筋が、冷えた。

「訳ありか」

「叔父上」

「わかっている。聞かん」

景陽は、にやりと笑った。

「お前が連れてきたなら、信用する。それで、十分だ」

二

奥の間に通されると、景陽は、どっかりと胡坐をかいた。

「用件を、言え」

「叔父上が、先に呼んだのでは」

「そうだったな」

景陽は、酒を一口あおって、低く切り出した。

「髪の束の件は、聞いているか」

「はい」

「俺の別邸の庭先に、秦侯の娘の髪が置かれていた。誰が置いたかは知らん。だが、おかげで、宰相派は俺が令嬢を攫ったと触れ回っている」

「国師が、そう吹き込んだと」

「ああ」

景陽の目に、怒りが宿った。

「馬鹿にするな。俺が、娘一人を攫って、何になる。そんな姑息な真似は、せん」

「叔父上の人柄は、存じております」

「だが、軍が動いている。この別邸の周りを、将軍の兵が、うろついている」

清軒が、メイリンと目を合わせた。

(髪の束)

メイリンの胸が、ちくりと痛んだ。自分が仕組んだことが、この人を窮地に追い込んでいる。

「申し訳ございません」

思わず、口をついて出た。

「何がだ」

「いえ。あの、私の」

清軒が、軽く咳払いをした。

「叔父上。この者は、事情を知っています。いずれ、お話しします」

「ふむ」

景陽は、しばらくメイリンを見つめていたが、やがて、ふっと目を細めた。

「謝る必要は、ない。誰かの思惑に、使われただけのことだ」

「叔父上」

「それより」

景陽の声が、ぐっと低くなった。

「兄上のことだ」

清軒の肩が、わずかに揺れた。

「兄上の病は、五年になる。侍医団は、原因不明だと言う。俺は、何度も見舞いを申し出た。その度に、宰相が、『陛下はお会いになれません』と門前払いだ」

「宰相が」

「国師と、侍医だけが、寝所に出入りしている。俺は、兄上の顔を、もう三年も見ていない」

拳が、卓の上で震えていた。

「何かが、おかしい。だが、証拠がない」

景陽は、杯を置いた。

「手は、打っている。先日の朝議で、月見台の管理を、改めて検めよと願い出た。国師が、一言で退けた。『王家の祭祀に、口を挟むな』とな。宰相は、陛下の名代として、頷くだけだった」

「それは、聞いております」

「それと、もう一手」

声が、さらに低くなった。

「軍の医務棟から消えた者のうち、一人は、俺が匿っている。口を割る前に、消されかけていた男だ。まだ、何も喋らんがな」

清軒が、目を見開いた。

「医務官を」

「ああ。時が来たら、会わせる」

メイリンは、息を呑んだ。

王の寝所に、誰も入れない。月見台の祭壇に刻まれた、王家の紋。その二つが、頭の中で、かすかに結びつきかけた。

(まだ、わからない。でも)

三

その夜、別邸に、火が放たれた。

「敵襲!」

悲鳴のような声が、夜の闇を裂いた。

「数は」

「二百は下らぬ! 宰相家の私兵と、将軍の兵です!」 「令嬢を、返せと」

景陽は、大剣を握って、立ち上がった。

「来るなら、来い」

清軒も、剣を抜いた。

「叔父上、背中は任せます」

「当然だ。お前に守られる年ではない」

笑い合って、二人は、戦場へ駆け出した。

メイリンは、別邸の屋根の上に、身を伏せた。四方から押し寄せる私兵を見下ろして、息を整える。

(盾も鎖も、まだ薄い。でも)

指先を、払った。

月光の鎖が、門の前で幾重にも交差した。突破しようとする私兵の足が絡まり、将棋倒しになる。

「な、何だ、この魔法は!」

「庶民の兵に、魔法が!?」

「いや、あれは、護衛隊長」

怒号が飛び交う。メイリンは、その声を聞きながら、冷静に、次の網を張った。

「やるな、秦明!」

景陽の大剣が、唸りを上げて、私兵を薙ぎ倒していく。その一撃は、重く、速く、一片の迷いもなかった。清軒の師だった、と言う意味が、一目でわかる。

「さすが叔父上」

「お前こそ、腕を上げたな。それより」

景陽が、ふと、顔を曇らせた。

「門が、開いている」

見ると、別邸の裏門が、内側から、静かに開かれていた。そこから、黒装束の一団が、音もなく流れ込んでくる。

「誰が、開けた」

その時、景陽の背後から、一人の男が、進み出た。

「申し訳、ございません」

別邸の副官、周鉄だった。景陽が、二十年傍に置いてきた、腹心である。

「周」

「殿下。私が、開けました」

その手が、震えていた。

「家族を、人質に取られました。妻と、娘と。宰相の、手の者に」

景陽の剣先が、ぴたりと止まった。

「……そうか」

低い声だった。

「いつからだ」

「三か月前から。申し訳、ございません」

「俺に、言えなかったのか」

「言えば、家族が」

周鉄の目から、涙が溢れた。

景陽は、しばらく、何も言わなかった。やがて、ゆっくりと、剣を鞘に収めた。

「殿下」

「周。お前の家族は、必ず、俺が取り戻す」

「えっ」

「お前を、斬らん」

景陽は、周鉄の肩を、そっと掴んだ。

「二十年、共に戦った。お前の苦しみに、気づけなかった俺にも、罪がある」

周鉄が、声を上げて泣き崩れた。

「清軒」

「はい」

「裏門を、固めろ。俺は、こいつと話す」

「承知しました」

清軒が、頷いた。その横顔に、メイリンは、尊敬と、少しの切なさを覚えた。

この国の、王家の人々は、不器用なほど、優しい。

四

夜明け前、襲撃は、退けられた。

別邸の庭には、倒れた私兵が、縛り上げられて並んでいた。景陽は、庭の縁側に座って、静かに酒を呑んでいる。

「見事だったな、秦明」

「恐れ入ります」

「その魔力。……黒髪の血筋の、それも」

景陽は、言葉を切った。

「いや。聞かん、と言ったな」

「はい」

「だが、これだけは言っておく」

その目が、まっすぐ、メイリンを射抜いた。

「清軒を、頼む」

メイリンは、息を呑んだ。

「あいつは、不器用でな。強がって、一人で抱え込む。……あれの母が死んだ時も、一滴も涙を見せず、一人で泣いていた」

「……はい」

「俺は、兄上を疑いたくない。だが、疑わずには、いられない」

景陽の声が、わずかに掠れた。

「清軒が、真実に辿り着いた時、あいつを、一人にしないでやってくれ」

メイリンは、深く頭を下げた。

「約束します」

「うむ」

景陽は、にやりと笑った。それから、ふいに、立ち上がって、清軒の頭を、ぐしゃりと撫でた。

「叔父上!」

「同盟だ、清軒。満月の夜、俺の兵も動かす」

「ありがとう、ございます」

「礼は、全部終わってからだ」

清軒は、わずかに頬を染めて、俯いた。その様子を、メイリンは、くすくすと笑いながら、眺めていた。

「笑うな、秦明」

「いえ。可愛らしいなと」

「誰が、だ」

「殿下が」

「……護衛隊長を、解任するぞ」

「できませんよ」

二人のやり取りに、景陽が、豪快に笑い声を上げた。

「いい娘を、見つけたな」

その呟きは、風に消えた。メイリンの耳には、確かに届いていたけれど、聞こえなかったふりをした。

朝日が、別邸の庭を、金色に染めていた。


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