人質
一
襲撃の翌日、別邸の奥の間に、五人が集まっていた。
清軒、メイリン、景陽、そして、縄を解かれた周鉄。部屋の隅には、墨雲が、いつもの書類を抱えて控えている。
「家族は、郊外の蔵に、閉じ込められています」
周鉄は、床に手をついて、顔を上げなかった。
「宰相家の持ち物の、古い米蔵です。見張りが十人。三日に一度、食事が運ばれるだけで」
「娘の年は」
「七つです」
景陽が、低く唸った。
「七つの子供を、人質にするとは。外道が」
「叔父上、動けますか」
「動けん」
景陽は、苦々しく首を振った。
「俺が動けば、令嬢誘拐に加えて、宰相家への襲撃の汚名まで着せられる。奴らは、それを待っている」
「では、私が」
清軒が言いかけて、自分で首を振った。
「いや、王太子が動けば、宰相との対立が、公になる。まだ、早い」
沈黙が降りた。
その時、メイリンが、口を開いた。
「陸景炎様を、巻き込めないでしょうか」
全員の視線が、集まった。
「宰相の、息子です。蔵が宰相家の持ち物なら、景炎様は、合法的に、中へ入れる」
「だが、あいつの父親が」
「だからこそ、です」
メイリンは、まっすぐ清軒を見た。
「景炎様は、何も知りません。父君を信じて、真実から目を逸らしているだけです。このままでは、いずれ、もっと大きな痛みを知ることになる」
清軒は、しばらく黙っていた。それから、静かに頷いた。
「……そうだな。あいつには、知る権利がある」
二
陸景炎は、清軒の私室で、周鉄の供述を、黙って聞いていた。
「家族を、人質に」
「ああ」
「父の、手の者が」
景炎の指が、膝の上で、白くなるほど握りしめられていた。
「信じられない。いや、信じたくない」
「お前の気持ちは、わかる」
「父は、そんな人ではない」
声が、震えていた。
「厳しい人だ。野心もある。でも、七つの子供を、蔵に閉じ込めるような」
「景炎」
清軒は、友の肩に、静かに手を置いた。
「確かめに行こう。お前の目で、見るんだ」
「……私の、目で」
「そうだ。蔵の鍵は、お前なら、開けられる」
景炎は、しばらく、床の一点を見つめていた。やがて、顔を上げた。その目には、涙が滲んでいたが、揺らぎはなかった。
「行く」
声は、小さかったが、確かな決意が、こもっていた。
「この目で、確かめる」
三
夜の郊外は、虫の音しか聞こえなかった。
古い米蔵の周りには、松明が焚かれ、十人の見張りが、退屈そうに立っている。
「見張りは、私が」
メイリンが、屋根の影から、静かに囁いた。
「景炎様、鍵の準備を」
「ああ」
景炎が、懐から宰相家の印を取り出した。清軒が、その背後で、剣の柄に手を添えている。少し離れた藪の中では、墨雲が、馬車の手綱を握りしめて、震えていた。
「殿下、私は、暗いところと、高いところと、夜が」
「黙って、待機していろ」
「はいぃ」
メイリンは、息を整えた。
指先を、払う。
月光の鎖が、闇の中を、音もなく走った。見張りの足首、手首、口。一人、また一人と、声も上げずに、地面へ崩れ落ちていく。
三人目で、一人の見張りが、異変に気づいた。
「誰だ!」
「静かに」
低く言って、メイリンは、その男の背後に回った。柄で、首筋を、軽く叩く。男は、ぐらりと倒れた。
「……恐ろしい」
藪の中で、墨雲が、小さく呟いた。
十人すべてを無力化するまで、わずか二十を数える間だった。
「行きましょう」
景炎が、蔵の扉の前に立った。印を差し込み、ゆっくりと、重い扉を開ける。
暗がりの中で、小さな影が、びくりと震えた。
蔵の奥には、藁の上に、痩せた女性と、七つの少女が、身を寄せ合っていた。
「……誰」
少女の声が、掠れていた。
「大丈夫です」
景炎が、膝をついて、そっと手を差し伸べた。
「周鉄殿の、ご家族ですね。助けに来ました」
「お父さんの」
少女の目が、ぱっと、見開かれた。
母親が、声を殺して、泣き出した。
その時、蔵の隅の暗がりから、低い声が響いた。
「そこまでだ」
一人の男が、ゆっくりと、姿を現した。宰相家の侍従長だった。景炎が幼い頃から、屋敷に仕えている、見知った顔だ。
「若君。これは、どういうことですか」
「お前こそ」
景炎の声が、震えた。
「なぜ、人質を。誰の命令だ」
「宰相閣下の、お指図にございます」
淡々とした答えだった。
「若君には、関係のないこと。お下がりください」
景炎の顔から、色が失せていく。
「父上の……」
「若君」
侍従長が、剣を抜いた。
「申し訳ございません。ですが、閣下の命令は、絶対です」
その剣先が、景炎に向いた。
「景炎様!」
メイリンが、飛び出した。同時に、清軒の剣が、閃いた。
侍従長の剣は、宙を舞い、地面に突き刺さった。
「……殿下」
「引け」
清軒の声は、低く、冷たかった。
「お前たちの主に、伝えろ。人質は、返してもらった。そして」
剣先が、侍従長の喉元に、ぴたりと止まった。
「俺は、すべて、見ている」
侍従長は、青ざめて、地面に膝をついた。
四
夜明け前、周鉄は、別邸の門前で、妻と娘を、固く抱きしめていた。
「ごめん。ごめんな」
「お父さん」
少女が、父の首に、ぎゅっとしがみついた。
「もう、怖くない?」
「ああ。もう、怖くない」
周鉄の目から、涙が、ぼたぼたと落ちた。その背後で、景陽が、腕を組んで、静かに頷いていた。
「約束は、果たした」
「殿下」
周鉄が、地面に額をこすりつけた。
「この命、殿下に捧げます。どうか、これからも、お仕えさせてください」
「馬鹿者」
景陽は、周鉄の肩を、ばしんと叩いた。
「命など、捧げるな。お前は、生きて、俺の背中を守れ」
「……はい!」
その光景を、少し離れたところから、景炎が、じっと見つめていた。
メイリンが、そっと隣に立った。
「景炎様」
「……ありがとう、ございます。私を、連れて行ってくださって」
「いいえ」
「父に、問いただします」
景炎の声は、静かだった。
「何を知っているのか。何のためにやったのか。……たとえ、答えが、私を傷つけるものでも」
「景炎様」
メイリンは、そっと言った。
「あなたは、強い人です」
「いいえ」
景炎は、苦く笑った。
「不思議だな。君には、つい、話してしまう」
「何を、ですか」
「一年前の夜、庭で、ある人に言われたんだ。笑うのが仕事なら、誰も見ていない時くらい、休んでもいいと」
メイリンは、息を呑んだ。
「その言葉に、ずっと、救われている。……君の目は、その人に、少し似ている」
「……気のせい、でしょう」
「そうかもしれない」
景炎は、小さく笑った。
朝日が、景炎の横顔を、金色に染めていた。
「だから、今度は、私が、逃げずに向き合います」
その背中は、これまでで、一番、まっすぐに見えた。
少し離れた木陰で、清軒が、腕を組んで二人を見ていた。
「……妬いておられますね」と、墨雲が、そっと囁いた。
「妬いていない」
「顔が」
「していない、、こともない」
小さな声で認める主を見て、墨雲は、深く、深く、溜め息をついた。
五
景炎の馬車が、朝靄の中へ遠ざかっていった。別れ際、メイリンは、縁側の床板の下から、ひやりとした気配が這い上がってくるのに気づいた。
「どうした」と、景陽が振り返った。
「いえ。足元が、冷たくて」
「……鋭いな」
景陽は、少しだけ迷ってから、縁側の板を一枚、外してみせた。
石の階段が、地下へ続いていた。
蝋燭を手に降りると、小さな石室があった。壁は苔むし、中央に、低い祭壇がひとつ。古い月の紋が、すり減って刻まれている。祭壇の上面には、丸い窪みがあった。ちょうど、銀の器の底が、はまりそうな大きさだ。
「これは」
「先の王妃様が、昔、ここで月に祈られた。兄上が、許していたそうだ。俺が生まれる前から、ある」
「窪みには、何かが」
「昔は、嵌まっていたらしい。いつ、失われたかは、知らん」
景陽は、石室の壁に手を当てた。
「疑うなら、疑え。俺の屋敷に、こんなものがある。見る者によっては、叔父こそが、と思うだろう」
「叔父上」
清軒が、静かに言った。
「俺は、叔父上を、疑っていません」
「そう言い切れるうちは、まだ若い」
景陽は、苦笑して、蝋燭の火を吹き消した。
暗闇の中で、メイリンの耳に、微かに、水の滴るような音が聞こえた。誰かが、ずっと昔から、ここで祈っていたような音だった。




