寝所の扉
一
陸家の書斎は、夜になっても灯りがついていた。
「父上」
扉を開けた景炎の声は、低く、静かだった。
宰相、陸文昌は、書き物の手を止めずに言った。
「遅いな、景炎。婚礼の支度は」
「周鉄殿の家族が、救い出されました」
筆が、ぴたりと止まった。
「私は、郊外の米蔵に、行ってまいりました。侍従長が、白状しました。父上の命令だと」
しばらく、沈黙があった。
文昌は、ゆっくりと筆を置いた。それから、狐のような目を細めて、息子を見た。
「……そうか」
「否定、なさらないのですか」
「無駄だ。お前は、頭のいい子だ」
その声は、少しも揺れていなかった。それが、かえって、景炎の胸を抉った。
「なぜです」
「お前のためだ」
「私の」
「ついて来い」
文昌は、立ち上がった。蝋燭を一本取って、書斎の奥の、小さな戸を押し開けた。
長い廊下の先に、離れの部屋があった。
「ここは」
「母の、部屋だ」
景炎の足が、止まった。
母は、五年前から病で臥せっていると、聞かされていた。薬は、国師様が調合してくださる、とも。会うことだけは、許されなかった。「うつる病だ」と、父が言い張って。
戸を開けた。
寝台の上に、痩せ細った女性が、横たわっていた。眠っているようだった。その髪の根元が、灰色に色褪せていた。
「……母上」
景炎は、足を震わせて、寝台に近づいた。
「あの衰弱が」
「ああ。五年前、突然始まった。医者は、原因不明と言った」
文昌の声が、初めて、掠れた。
「国師が、言ったのだ。黒髪の血筋の魔力に、延命の薬が宿ると。それを、私が用意する限り、お前の母の命は、保たれると」 「それで」
「命じられるまま、動いた。縁談も、人質も。すべて、お前の母を、生かすためだ」
景炎は、膝から崩れ落ちた。
「母上……」
小さな呻きが、寝台から漏れた。かすかに目を開けた母が、息子を見て、微笑んだ。
「……景炎」
「母上」
「大きく、なって」
手が、震えながら、景炎の頬に触れた。涙が、ぼたぼたと落ちた。
「父上」
景炎は、母の手を握ったまま、父を見上げた。
「あなたは、間違っている」
「わかっている」
「母上を生かすために、他の誰かを犠牲にして、母上が、喜ぶとお思いですか」
文昌は、何も答えなかった。
「私は、父上を、裁きたくない。でも」
景炎の目は、赤かった。けれど、その瞳には、揺るぎない光があった。
「これ以上、続けさせるわけには、いきません」
二
翌日、王宮の奥の回廊を、三人が、足音も荒く進んでいた。
「叔父上。剣は、預けてください」
「嫌だ」
「宮中は、帯剣が」
「俺の兄上の寝所へ行くのに、丸腰でいられるか」
王太子の清軒と、王弟の景陽。その後ろに、護衛の秦明が控え、さらに少し後ろを、墨雲が、書類を抱えて小走りでついてくる。
門番たちが、王弟の姿を見て、一斉に縮み上がった。
「お、王弟殿下」
「通せ」
「しかし、陛下の寝所には」
「通せと言っている」
景陽の一喝に、門番が道を空けた。
国王の寝所は、王宮の最奥にあった。長い回廊の先に、重厚な扉が、静かに閉ざされている。その前に、二人の人影が、立ちはだかっていた。
純白の法衣の老人と、白衣の侍医長だった。
「殿下。ご機嫌麗しゅう」
国師、李白蓮が、穏やかに微笑んだ。
「陛下は、ただいま、安静が必要でございます」
「兄上に、会わせろ」
「なりません」
「何故だ」
「陛下のお体に、障りますゆえ」
景陽の拳が、震えた。
「三年だ。三年、兄上の顔を見ていない」
「承知しております」
「何が、承知だ!」
清軒が、一歩、前に出た。
「国師。俺が、命じる。叔父上を、通せ」 「殿下」
国師は、静かに首を振った。
「いくら殿下の仰せでも、陛下のご意志に反することは」
「陛下の、ご意志」
「はい。陛下は、どなたにも、お会いにならないと」
清軒の目が、鋭く光った。
「それは、陛下が、直接そう言ったのか」 「……侍医を通じて、承っております」
答えは、わずかに遅れた。
メイリンは、護衛として、扉の傍らに控えていた。その時、不意に、背筋に冷たいものが走った。
(冷たい)
扉の向こうから、冷気が、肌を撫でていく。部屋の中は、暖かいはずの季節なのに。そして、かすかに、何か、渦を巻くような気配。
息を殺して、そっと、魔力を読もうとした。
けれど、その途端、国師の灰色の瞳が、すっと、こちらを向いた。
穏やかな微笑みのまま、じっと見つめられて、メイリンは、慌てて、目を伏せた。
(気づかれた?)
「護衛隊長殿」
国師が、柔らかく言った。
「ずいぶんと、お顔の色が優れませんね」
「……いえ。問題ありません」
「そうですか。お大事に」
その声は、慈愛に満ちていた。それが、かえって、恐ろしかった。
扉の向こうから、かすかな音が、聞こえた。
誰かの、低い咳。苦しげな、うめき声。
「兄上!」
景陽が、扉に飛びついた。
「兄上! 俺です、景陽です! 聞こえますか!」
返事は、なかった。
国師と侍医長が、素早く扉の前に立ちはだかった。
「お引き取りを」
「どけ!」
「殿下」
清軒が、景陽の腕を、強く掴んだ。
「叔父上。ここは、引きましょう」
「清軒!」
「今、ここで暴れれば、奴らの思う壺です。証拠が、足りない」
景陽は、歯を食いしばって、扉を睨んだ。拳が、白くなるほど握られていた。
やがて、ゆっくりと、肩の力が抜けた。
「……わかった」
その声は、血を吐くようだった。
三
夜、別邸の奥の間に、四人が集まっていた。
清軒、景陽、メイリン、そして、陸景炎。
「国師は、母の病を、盾に」
景炎の話を聞き終えて、景陽は、重く息を吐いた。
「宰相も、人質を取られていたということか」
「はい。父は、母を守るために、動いていました。もちろん、許されることではありません」
景炎は、静かに言った。
「私は、父の罪を、見過ごすことはできません。けれど、母を救う手立ても、探したい」
「同盟を、組もう」
清軒が、まっすぐに言った。
「お前が、宰相邸の内側にいる。婚礼の花婿として、儀式の中心に立つ。国師の計画を、一番近くで見られるのは、お前だ」
「危険です」
メイリンが心配そうに忠告する。
「ああ。だが、景炎にしか、できない」
景炎は、しばらく黙っていた。それから、顔を上げて、頷いた。
「やります」
「景炎様」
メイリンが、思わず口を開いた。
「あなたは、母君のことも」
「大丈夫です」
景炎は、少しだけ、笑った。
「あなたが、守ってくれたように、私も、誰かを守りたい」
その横顔は、これまでで、最も、頼もしく見えた。
「それと」
メイリンが、重く切り出した。
「寝所の扉の前で、感じました。冷気と、何かが、渦を巻く気配が」
「何かとは」
「わかりません。でも」
唇を噛む。
「陛下の病は、ただの病では、ないかもしれません」
沈黙が、降りた。
景陽が、低く呟いた。
「兄上を、救わなければならない」
「叔父上」
「何があろうと。たとえ、それが」
その先は、言葉にならなかった。
窓の外には、半分に欠けた月が、冷たく輝いていた。婚礼の満月まで、あと、ひと月余り。
王宮の奥深くで、誰かが、低く、咳き込んでいた。
その音は、闇の底に、静かに沈んでいった。
四
皆が引き上げたあとの客間で、メイリンは、縁側に座る清軒を見つけた。
「眠れませんか」
「……ああ」
清軒は、月を見上げたまま、小さく言った。
「夢を、見るんだ。同じ夢を」
「どんな」
「母上が死んだ夜だ。俺は、十一だった。扉の隙間から、寝台が見えた」
指が、膝の上で、握られていた。
「父上が、母上の髪を、握っていた。長い、黒い髪を。両手で、すくうように。泣いていたのか、祈っていたのか、わからない。何か、囁いていた」
「何と」
「聞こえなかった。いつも、そこで目が覚める」
メイリンは、何も言わずに、隣に座った。
「叔父上は、父上を救えと言った。俺も、そうしたい。父上を、嫌いになりたくない」
「はい」
「だが、あの夢の父上の顔を、思い出すたびに」
清軒は、そこで言葉を切った。それ以上は、言えなかったのか、言いたくなかったのか。
メイリンは、そっと、彼の手の上に、自分の手を重ねた。
「全部終わるまで、考えなくて、いいです」
「……ああ」
握り返された手は、冷えていた。




