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黒い髪  作者: 八重


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19/32

寝所の扉

一

陸家の書斎は、夜になっても灯りがついていた。

「父上」

扉を開けた景炎の声は、低く、静かだった。

宰相、陸文昌は、書き物の手を止めずに言った。

「遅いな、景炎。婚礼の支度は」

「周鉄殿の家族が、救い出されました」

筆が、ぴたりと止まった。

「私は、郊外の米蔵に、行ってまいりました。侍従長が、白状しました。父上の命令だと」

しばらく、沈黙があった。

文昌は、ゆっくりと筆を置いた。それから、狐のような目を細めて、息子を見た。

「……そうか」

「否定、なさらないのですか」

「無駄だ。お前は、頭のいい子だ」

その声は、少しも揺れていなかった。それが、かえって、景炎の胸を抉った。

「なぜです」

「お前のためだ」

「私の」

「ついて来い」

文昌は、立ち上がった。蝋燭を一本取って、書斎の奥の、小さな戸を押し開けた。

長い廊下の先に、離れの部屋があった。

「ここは」

「母の、部屋だ」

景炎の足が、止まった。

母は、五年前から病で臥せっていると、聞かされていた。薬は、国師様が調合してくださる、とも。会うことだけは、許されなかった。「うつる病だ」と、父が言い張って。

戸を開けた。

寝台の上に、痩せ細った女性が、横たわっていた。眠っているようだった。その髪の根元が、灰色に色褪せていた。

「……母上」

景炎は、足を震わせて、寝台に近づいた。

「あの衰弱が」

「ああ。五年前、突然始まった。医者は、原因不明と言った」

文昌の声が、初めて、掠れた。

「国師が、言ったのだ。黒髪の血筋の魔力に、延命の薬が宿ると。それを、私が用意する限り、お前の母の命は、保たれると」 「それで」

「命じられるまま、動いた。縁談も、人質も。すべて、お前の母を、生かすためだ」

景炎は、膝から崩れ落ちた。

「母上……」

小さな呻きが、寝台から漏れた。かすかに目を開けた母が、息子を見て、微笑んだ。

「……景炎」

「母上」

「大きく、なって」

手が、震えながら、景炎の頬に触れた。涙が、ぼたぼたと落ちた。

「父上」

景炎は、母の手を握ったまま、父を見上げた。

「あなたは、間違っている」

「わかっている」

「母上を生かすために、他の誰かを犠牲にして、母上が、喜ぶとお思いですか」

文昌は、何も答えなかった。

「私は、父上を、裁きたくない。でも」

景炎の目は、赤かった。けれど、その瞳には、揺るぎない光があった。

「これ以上、続けさせるわけには、いきません」

二

翌日、王宮の奥の回廊を、三人が、足音も荒く進んでいた。

「叔父上。剣は、預けてください」

「嫌だ」

「宮中は、帯剣が」

「俺の兄上の寝所へ行くのに、丸腰でいられるか」

王太子の清軒と、王弟の景陽。その後ろに、護衛の秦明が控え、さらに少し後ろを、墨雲が、書類を抱えて小走りでついてくる。

門番たちが、王弟の姿を見て、一斉に縮み上がった。

「お、王弟殿下」

「通せ」

「しかし、陛下の寝所には」

「通せと言っている」

景陽の一喝に、門番が道を空けた。

国王の寝所は、王宮の最奥にあった。長い回廊の先に、重厚な扉が、静かに閉ざされている。その前に、二人の人影が、立ちはだかっていた。

純白の法衣の老人と、白衣の侍医長だった。

「殿下。ご機嫌麗しゅう」

国師、李白蓮が、穏やかに微笑んだ。

「陛下は、ただいま、安静が必要でございます」

「兄上に、会わせろ」

「なりません」

「何故だ」

「陛下のお体に、障りますゆえ」

景陽の拳が、震えた。

「三年だ。三年、兄上の顔を見ていない」

「承知しております」

「何が、承知だ!」

清軒が、一歩、前に出た。

「国師。俺が、命じる。叔父上を、通せ」 「殿下」

国師は、静かに首を振った。

「いくら殿下の仰せでも、陛下のご意志に反することは」

「陛下の、ご意志」

「はい。陛下は、どなたにも、お会いにならないと」

清軒の目が、鋭く光った。

「それは、陛下が、直接そう言ったのか」 「……侍医を通じて、承っております」

答えは、わずかに遅れた。

メイリンは、護衛として、扉の傍らに控えていた。その時、不意に、背筋に冷たいものが走った。

(冷たい)

扉の向こうから、冷気が、肌を撫でていく。部屋の中は、暖かいはずの季節なのに。そして、かすかに、何か、渦を巻くような気配。

息を殺して、そっと、魔力を読もうとした。

けれど、その途端、国師の灰色の瞳が、すっと、こちらを向いた。

穏やかな微笑みのまま、じっと見つめられて、メイリンは、慌てて、目を伏せた。

(気づかれた?)

「護衛隊長殿」

国師が、柔らかく言った。

「ずいぶんと、お顔の色が優れませんね」

「……いえ。問題ありません」

「そうですか。お大事に」

その声は、慈愛に満ちていた。それが、かえって、恐ろしかった。

扉の向こうから、かすかな音が、聞こえた。

誰かの、低い咳。苦しげな、うめき声。

「兄上!」

景陽が、扉に飛びついた。

「兄上! 俺です、景陽です! 聞こえますか!」

返事は、なかった。

国師と侍医長が、素早く扉の前に立ちはだかった。

「お引き取りを」

「どけ!」

「殿下」

清軒が、景陽の腕を、強く掴んだ。

「叔父上。ここは、引きましょう」

「清軒!」

「今、ここで暴れれば、奴らの思う壺です。証拠が、足りない」

景陽は、歯を食いしばって、扉を睨んだ。拳が、白くなるほど握られていた。

やがて、ゆっくりと、肩の力が抜けた。

「……わかった」

その声は、血を吐くようだった。

三

夜、別邸の奥の間に、四人が集まっていた。

清軒、景陽、メイリン、そして、陸景炎。

「国師は、母の病を、盾に」

景炎の話を聞き終えて、景陽は、重く息を吐いた。

「宰相も、人質を取られていたということか」

「はい。父は、母を守るために、動いていました。もちろん、許されることではありません」

景炎は、静かに言った。

「私は、父の罪を、見過ごすことはできません。けれど、母を救う手立ても、探したい」

「同盟を、組もう」

清軒が、まっすぐに言った。

「お前が、宰相邸の内側にいる。婚礼の花婿として、儀式の中心に立つ。国師の計画を、一番近くで見られるのは、お前だ」

「危険です」

メイリンが心配そうに忠告する。

「ああ。だが、景炎にしか、できない」

景炎は、しばらく黙っていた。それから、顔を上げて、頷いた。

「やります」

「景炎様」

メイリンが、思わず口を開いた。

「あなたは、母君のことも」

「大丈夫です」

景炎は、少しだけ、笑った。

「あなたが、守ってくれたように、私も、誰かを守りたい」

その横顔は、これまでで、最も、頼もしく見えた。

「それと」

メイリンが、重く切り出した。

「寝所の扉の前で、感じました。冷気と、何かが、渦を巻く気配が」

「何かとは」

「わかりません。でも」

唇を噛む。

「陛下の病は、ただの病では、ないかもしれません」

沈黙が、降りた。

景陽が、低く呟いた。

「兄上を、救わなければならない」

「叔父上」

「何があろうと。たとえ、それが」

その先は、言葉にならなかった。

窓の外には、半分に欠けた月が、冷たく輝いていた。婚礼の満月まで、あと、ひと月余り。

王宮の奥深くで、誰かが、低く、咳き込んでいた。

その音は、闇の底に、静かに沈んでいった。

四

皆が引き上げたあとの客間で、メイリンは、縁側に座る清軒を見つけた。

「眠れませんか」

「……ああ」

清軒は、月を見上げたまま、小さく言った。

「夢を、見るんだ。同じ夢を」

「どんな」

「母上が死んだ夜だ。俺は、十一だった。扉の隙間から、寝台が見えた」

指が、膝の上で、握られていた。

「父上が、母上の髪を、握っていた。長い、黒い髪を。両手で、すくうように。泣いていたのか、祈っていたのか、わからない。何か、囁いていた」

「何と」

「聞こえなかった。いつも、そこで目が覚める」

メイリンは、何も言わずに、隣に座った。

「叔父上は、父上を救えと言った。俺も、そうしたい。父上を、嫌いになりたくない」

「はい」

「だが、あの夢の父上の顔を、思い出すたびに」

清軒は、そこで言葉を切った。それ以上は、言えなかったのか、言いたくなかったのか。

メイリンは、そっと、彼の手の上に、自分の手を重ねた。

「全部終わるまで、考えなくて、いいです」

「……ああ」

握り返された手は、冷えていた。

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