封じられた声
一
「護衛隊、全員、整列!」
別邸の庭に、大牙の声が響き渡った。
護衛隊といっても、並んだのは三人だった。胸を張る大牙、にこにこと両手を揃える小燕、そして、本を小脇に抱えたままの文遠。
「声が大きい」と、文遠。
「気合いだ!」
「ここは敵地ではない。王弟殿下の別邸だ」
「だからこそ、粗相がないよう気合いを入れるんだ!」
その様子を、縁側から、景陽が眺めていた。
「元気のいいのが、揃っているな」
「恐れ入ります」と、メイリンは、半歩下がって頭を下げた。
景陽が、のそりと立ち上がった。
「そこの、一番でかいの」
「はっ! 雷大牙であります!」
「俺と、手合わせをしてみるか」
「えっ、いいんですか!?」
目を輝かせた大牙が、木剣を握って前に出た。メイリンが「やめたほうが」と言うより早く、景陽の片手が、閃いた。
どすん、と音がして、大牙の巨体が、庭の土に仰向けに転がった。
「…………」
「一手で、終わったな」
「…………すげえ!」
大牙は、仰向けのまま、叫んだ。
「今の、何ですか! 見えなかった! 師匠と呼ばせてください!」
「呼ぶな。それは、清軒の役目だ」
「ええっ、殿下の師匠!? なら、俺は、孫弟子ですか!」
「勝手に増やすな」
呆れながらも、景陽の口元は、笑っていた。
その横で、小燕が、墨雲の袖を、そっと引いた。
「あの。墨雲様も、手合わせ、されますか」
「私は、官服ですから!」
「官服だと、剣は握れないんですか」
「握れます。握れますが、握りたくないのです」
小燕は、きょとんとして首を傾げた。
メイリンは、笑いをこらえながら、その光景を見ていた。軍営の外で、こんな日が過ごせることが、不思議に思えた。
二
昼過ぎ、メイリンは、門の前で、文遠を見つけた。
彼は、鉄で打たれた門扉の紋を、じっと見上げていた。半月に、柳の葉。指先を宙に走らせて、何かを数えている。
「文遠さん」
「……ああ」
返事は、少し遅れた。
「何を、見ているんですか」 「確かめている」
文遠は、紋から目を離さなかった。
「月見台で拾った、あの布。『数が』と言いかけた」
「覚えています」
「あの時は、確信が持てなかった。記憶違いかもしれないと」
そこへ、景陽が、大股で近づいてきた。
「小僧。何を、嗅ぎ回っている」
「失礼しました」
文遠は、慌てず、頭を下げた。
「殿下に、お話ししたいことがあります。ただ、まだ確かめが済んでいません。確かめてから、お伝えしても」
「内容は」
「紋のことです。それ以上は」
景陽の鋭い目が、文遠の顔を、じっと射抜いた。しばらくして、ふっと細くなる。
「……いいだろう。ただし、確かめたら、真っ先に、俺に言え」
「はい」
「清軒より、先にだ」
文遠は、わずかに眉を動かしたが、何も問わなかった。
メイリンは、胸の奥が、ざわつくのを感じた。紋の、何を。聞こうとして、やめた。この人は、確信を得るまで、決して口にしない。
三
その夜、別邸の地下の石室に、五人が集まった。
蝋燭が一本。祭壇の脇に、藁を敷いた寝台がある。そこに、痩せた中年の男が、腰かけていた。
「医務官の、蘇方殿だ」
景陽が、静かに紹介した。
「二か月、俺が匿ってきた。ようやく、口を開く気になった」
「は、はい」
蘇方は、青白い顔で、頭を下げた。
「王太子殿下に、こうして、お目にかかれるとは」
「顔を上げてくれ。あなたの証言が、命綱になる」
清軒の声は、穏やかだった。その後ろで、墨雲が、壁に張りついて、小刻みに震えている。
「墨雲」
「は、はい」
「地下は、嫌いか」
「嫌いです。暗くて、湿っていて、何か出そうで」
「何も出ない」
「出そうなのです」
メイリンは、思わず、吹き出しそうになった。蘇方が、不思議そうに二人を見比べている。
「では、聞かせてください」
メイリンは、蘇方の前に膝をついた。
「あなたが、記録から消された、理由を」 「はい」
蘇方は、深く息を吸った。
「私は、軍の医務棟で、記録を付けておりました。二年前から、衰弱者が、増えました。満月の、二日後に、倒れる者が、特に」 「ええ」 「半年前、それを上申しようとしました。国師様に。その翌日から、同僚が、一人、また一人と、消えて」
声が、震えていた。
「私は、命じられたのです。口をつぐめ、と。その代わりに、役目を与えると」
「役目」
「満月の、翌朝だけ。ある薬を、王宮の奥の、寝所まで、運ぶこと」
空気が、凍りついた。
景陽の手が、石の床の上で、ぎゅっと握られた。
「その薬は」と、清軒が、低く問うた。 「国師様の、調合です。中身は、私には、わかりません。ただ、月の光のような、淡い銀色で。受け取った寝所の侍従は、いつも、手を」
「手を」
「手袋を、していませんでした。素手で、受け取って」
蘇方の目が、遠くを見た。
「それから、寝所の中から、声が。『これで、また、一月は』と」
「誰の声だ」
「それは」
蘇方の口が、開いたまま、止まった。
「……あ」
喉に、手が伸びた。
「蘇方殿?」
「あ、が……」
その首筋に、銀色の細い線が、浮かび上がった。三日月の形をしている。みるみるうちに、光が強くなっていく。
「いけない」
メイリンは、飛びついた。掌を、蘇方の喉に当てる。魔力の流れを、読む。
「封です。月の名のもとの、誓約の封」
「何だと」と、景陽。
「話そうとした瞬間に、喉が、閉じる仕組みです。無理に破れば」
「破れば」
「喉が、裂けます」
蘇方は、涙を流して、口をぱくぱくと動かしていた。声は、出なかった。
メイリンは、封に、そっと魔力を流した。解こうとはしない。ただ、締め付けを、緩める。
「ゆっくり、息をして。喋ろうとしなくて、大丈夫です」
しばらくして、銀の線が、薄れて消えた。蘇方は、がくりと崩れ落ちて、荒い息をついた。
「……これは、誰が」
清軒が、重く尋ねた。
「国師様の魔力か」
「わかりません」
メイリンは、慎重に答えた。
「ただ、国師様の魔力とは、質が違う気がします。もっと、古くて、大きい。月に、誓わせる力。……本来は、王家の血でなければ、刻めないはずです」
静寂が、降りた。
景陽が、自分の掌を、じっと見つめた。清軒は、目を閉じた。
「叔父上」
「俺は、知らん」
景陽は、かすれた声で言った。
「俺の屋敷で。俺の目の前で。こんなものを」
「疑って、いません」
「疑え」
景陽が、顔を上げた。その目は、苦しげに歪んでいた。
「疑うべきだ。お前は、王太子だ。俺も、お前も、同じ血だ。同じ血を、まず疑え」 「……はい」
清軒は、静かに頷いた。
「疑った上で、信じます。叔父上を」
重い沈黙の中に、壁際から、か細い声が聞こえた。
「あの」
「何だ、墨雲」
墨雲は、蝋燭の揺れる壁に、顔を押しつけたまま、続けた。
「暗いのは、もう、限界です。とりあえず、上へ戻りませんか」
張りつめていた空気が、ほんの少し、緩んだ。清軒が、小さく息を吐いて、笑った。
「戻ろう」
四
石室を出ると、庭には、夜明け前の薄い光が差していた。
蘇方は、さらに奥の離れへ移されることになった。見張りは、周鉄が、自ら買って出た。
「命に代えても、お守りします」
「命は、代えるな」と、景陽。
「はっ、失礼しました! 命がけで、お守りします!」
「同じだ」
苦笑いを交わす二人を見て、メイリンは、肩の力を抜いた。
清軒が、隣に並んだ。
「秦明」
「はい」
「秦家へ、行く。秦侯に、会わなければならない。蘇方殿の証言も、勅書の件も、秦侯の持つ記録と、突き合わせたい」 「……はい」
胸が、きゅっと鳴った。四か月ぶりに、父に会う。
「怖いか」
「少しだけ。……殿下も、手が、冷たいです」
「そうか?」
清軒は、自分の手を見て、苦く笑った。
「さっきの、封のせいだな」
「いいえ」
メイリンは、そっと首を振った。
「あなたの手は、いつも、少し冷たい。でも、ちゃんと、温かいです」
清軒は、目を見開いた。それから、ふいと顔を逸らして、耳まで赤くした。
「……護衛隊長を、解任するぞ」
「できませんよ」
「ところで、殿下」
少し遅れて庭へ出てきた墨雲が、青い顔のまま、袖を引いた。
「先ほどの封のことで、ひとつ、気づいたことが」
「何だ。地下では言わなかったな」
「地下では、頭が、働きませんでした」
胸を張って言うことではない。
「王家の血でなければ、刻めない、と秦殿は仰いました。王家の血筋の方の名簿は、私が、お預かりしております。今、おいでになる方は、陛下と、景陽殿下と、清軒殿下の、お三方だけです」
「俺を数えるな」と、景陽。
「数えないわけには、参りません」
墨雲は、真顔のまま続けた。
「蘇方殿が封じられたのは、半年前です。そして、その後、この二か月は、景陽殿下の別邸で、厳重に守られておりました。つまり、封を刻める方は、お三方のうちの、どなたかで、あとは、その方から血を、分け与えられた者、ということに」
言いかけて、墨雲は、口を噤んだ。
その先を、誰も、口にしなかった。清軒は、朝の薄明かりの中で、長いこと、黙っていた。
「……今は、言うな」
「はい」
「確かめもせずに、断じない。叔父上の教えだ」
「教えた覚えは、ない」
「あります」
景陽は、鼻を鳴らして、顔を背けた。その耳が、ほんの少し、赤かった。
遠くで、朝の鳥が鳴いた。
縁側の隅では、毛布にくるまった大牙が、大の字で眠っていた。昨日、さんざん投げられた疲れで、そのまま寝入ってしまったらしい。
「……師匠……もう、一本……」
寝言だった。景陽が、うんざりした顔で、毛布の端を、爪先で小突いた。「起きるな」と言ったのが、聞こえたのか、聞こえないのか、大牙は、幸せそうに、寝返りを打った。
その横で、早起きの文遠が、じっと門の紋を見上げていた。
婚礼の満月まで、あと、ひと月。




