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黒い髪  作者: 八重
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父と娘

一

秦家の裏門は、夜更けの闇の中に、ひっそりと佇んでいた。

「ここです」

メイリンは、門の前で、足を止めた。三か月ぶりの生家だった。懐かしさと、気まずさと、胸の奥の鈍い痛みが、一度に押し寄せてくる。

扉が、内側から静かに開いた。

「お嬢様」

あの古参の従者が、深々と頭を下げた。その目は、すでに潤んでいた。

奥の間には、秦剛毅が、岩のように座っていた。

「戻ったか」

低い声だった。それだけだった。

メイリンは、膝をついた。

「ただいま戻りました」

「顔を上げろ」

言われた通りにすると、父は立ち上がって、ゆっくり近づいてきた。その手が、短くなった娘の髪に、そっと触れる。

「切ったか」

「はい」

「……似合う」

声が、ほんの少しだけ、掠れていた。

「無事で、何よりだ」

それだけ言って、父は背を向けた。肩が、わずかに震えていた。メイリンは、胸の奥が熱くなるのをこらえて、唇を結んだ。

「ところで」

その背が、ぐるりと振り向いた。

「そちらの方は」

視線の先で、清軒が、ぎくりと背筋を伸ばした。

「柳清軒と申します。王太子の」

「存じております」

剛毅の目が、すっと細くなった。

「うちの娘を口説いた不届き者は、貴殿か」

「……は」

珍しく、清軒が言葉に詰まった。

「三か月前から、下町で、娘に付きまとっていた青年がいるとは聞いておりました。まさか、王太子殿下とは」 「付きまとってなど」

「では何だ」

「……好きに、なりました」

潔い返事に、剛毅の眉が、ぴくりと動いた。

「ほう」

「お父上。お手合わせを願えますか」

墨雲が、横で「えっ」と声を上げた。

「殿下!?」

「ここで認めてもらえなければ、娘御を守る資格はない」

庭で、二人の手合わせが始まった。

結果は、一手で決まった。

清軒の木剣が、宙を舞い、地面に突き刺さった。

「……参りました」

「まあ、悪くない」

剛毅は、木剣を下ろして、鼻を鳴らした。

「だが、まだ足りん。娘を任せるには、全部終わってからだ」

肩で息をする清軒を見て、メイリンは、思わず吹き出した。

「笑うな」

「すみません」

「後で覚えておけ」

軽口のやり取りの端で、剛毅の口元が、ほんの少しだけ緩んだのを、メイリンは見逃さなかった。

二

「本題に入ろう」

卓を囲んで、剛毅が、一枚の書状を広げた。

「縁談の勅書だ。国璽が押されている。宰相は、国王陛下の御意だと言った」

「国王の」

清軒の声が、わずかに沈んだ。

「だが、不審がある。陛下は病床で、ここ数年、公の場には出ておられん。国璽は、宰相が預かっているはずだ。この勅の筆跡も、宰相のものでも、陛下のものでもなかった」

「では、誰が」

「わからん。ただ、勅書に押された日付が気にかかる。その日、宰相は、妻の療養で都を離れていたはずだ。国璽は、誰の手で押された」

墨雲が、はっとして顔を上げた。

「宰相邸の出入りの記録を、洗います」

「頼む。ただし、宰相を責めるな。あの男の怯え方は、悪人のものではない気がする」

剛毅は、別の記録を取り出した。

「縁談の三か月前、国師が、わが家の血統の記録を、閲覧していた。黒髪の血筋が、どれほど続いているかをな」

三人は、顔を見合わせた。

「国師と、宰相。そして、勅書の主」

墨雲が、重く呟いた。

「全員、怪しいですね」

「ああ」

清軒は、腕を組んだ。

「ひと月後の満月に、婚礼の儀が行われる。祭壇には、月の巫女が立つ。そこで、必ず何かが起きる」

「儀式の場に、入り込む必要があります」

メイリンは、まっすぐに言った。

「私が、令嬢として戻ります」

静寂が落ちた。

「何を言っている」

清軒の声が、低く尖った。

「家出した令嬢が、自ら戻る。婚礼の儀に、参列する。そうすれば、黒幕は必ず、私に近づいてくる」

「囮になるつもりか」

「はい」

「駄目だ」

即座に、彼は首を振った。

「お前を餌にして、黒幕を釣る? 冗談じゃない。あの黒衣は、満月の魔力であれだけの力を見せた。お前が、その前に立つなど」

「清軒様」

「危険すぎる。……半月前、お前が攫われた二日間、俺がどんな思いでいたか、忘れたのか」

声が、わずかに、震えた。

「あの石橋で、三日月を見つけるまで。もう一度、あれをやれと言うのか」

「清軒様」

「俺は許さない」

声が荒くなっていた。この人が、感情を露わにするのは、珍しかった。

メイリンは、静かに言った。

「あなたが、私を失いたくないと思ってくださるのは、わかります。それでも、私は、行きます」

「メイリン」

「決めたことは、やり通す。それが、私です」

目が、ぶつかった。

しばらくの沈黙のあと、剛毅が、ゆっくりと口を開いた。

「決めるのは、娘だ」

「秦侯」

「それに、殿下。娘が、一人で行くとは言っていない」

剛毅は、清軒を見据えた。

「貴殿が隣に立つ。それが、条件だろう」

清軒は、長く、深く、息を吐いた。それから、苦々しく笑った。

「……わかりました」

「清軒様」

「ただし、条件がある」

彼は、メイリンの肩を、強く掴んだ。

「少しでも危なくなったら、すべてを捨てて、お前を連れて逃げる。真相も、国も、全部だ。いいな」

「それは」

「いいな」

真剣な目だった。メイリンは、胸が詰まった。

「……はい」

三

秦家を出る頃には、空が白み始めていた。

人気のない裏道を、二人は、並んで歩いた。墨雲は、馬の手綱を引いて、少し離れた後ろを、わざとらしく眠そうな顔でついてくる。

「怒っていますか」

「怒っている」

清軒は、前を見たまま答えた。

「お前の無茶に。それと、止められない自分に」

メイリンは、少し俯いた。

「ごめんなさい」

「謝るな。……そういうところに、惚れたんだ」

足が、止まった。

清軒は、彼女の前に立ち、そっと手を伸ばした。短い髪に、指先が触れる。三か月で、少しだけ伸びていた。肩には、まだ届かない。

「伸びたな」

「まだ、肩にも届きません」

「全部終わったら」

彼は、少しだけ笑った。

「伸びていくところを、そばで見ていたい」

息が、止まった。

胸の奥で、ずっと閉じていたものが、ゆっくりと、軋む。

「……ずるいです」

「知っている」

「そんなことを、今、言うなんて」

「今だから、言う」

指先が、髪から頬へ、そっと降りた。メイリンは、目を閉じた。この温もりを、何度、夢に見ただろう。

「清軒様」

「ああ」

「全部、終わったら」

自分でも、驚くほど小さな声だった。

「……その時は、もう一度、聞かせてください」

「何を」

「あの夜の、続きを」

清軒の目が、大きく見開かれた。それから、ゆっくりと、心底嬉しそうに、笑った。

「約束だ」

「殿下」

背後から、墨雲の咳払いが聞こえた。

「馬が、待っております。夜が明けます。それと、私は、見ておりません」

「見ているだろう」

「見ておりません!」

墨雲の叫びに、二人は、顔を見合わせて、笑った。

四

王宮に戻った清軒を、一通の書状が待っていた。

「国師からです」

墨雲が、顔を曇らせて差し出した。

「婚礼の儀に、月の巫女の護衛として、護衛隊長・秦明を、お借りしたい、と」

清軒の目が、鋭く光った。

「秦明を、名指しで」

「はい」

「国師は」

しばらく、沈黙があった。

「……気づいているのか」

窓の外の細い三日月が、雲に隠れていく。

婚礼の満月まで、あと、ひと月。罠か、偶然か。どちらにせよ、舞台は、静かに整い始めていた。

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