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黒い髪  作者: 八重


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22/32

白い指名

一

王宮の奥に、月の間と呼ばれる、小さな祭祀の殿があった。


白い石の床。壁には、満ち欠けする月の姿が、銀の彫りで巡らされている。窓は高く、昼でも、薄い影が降りていた。


「秦明殿、お待ちしておりました」


殿の戸口に立った時、奥から、穏やかな声がした。


国師・李白蓮は、祭壇の脇の椅子に、静かに腰かけていた。白い法衣、白い手袋。純白の髪が、窓から落ちる光を受けて、淡く光っている。


メイリンは、戸口で膝をついた。


「護衛隊長、秦明、参りました」

「顔を、お上げなさい。堅苦しいことは、要りません」


清軒の言葉を、思い出した。


『行け。拒めば、かえって怪しまれる。お前を呼ぶ口実を、向こうは、もう用意している』


昨夜、執務室で、そう言った清軒の顔は、硬かった。それでも、最後に、付け加えた。


『何かあれば、すぐに、俺を呼べ。声が届かなくても、構わん。必ず、駆けつける』


(大丈夫)


メイリンは、顔を上げた。


国師の目は、思ったより、ずっと、柔らかかった。


「先日は、ご災難でしたな」

「恐れ入ります」

「将軍の副官が、軍の名を汚した。私からも、お詫びを申し上げます」

「国師様が、お詫びになることでは」

「いいえ。月の下で起きたことは、月に仕える者の、務めでもあります」


静かな声だった。責めも、探りも、感じられなかった。だからこそ、メイリンは、背筋を伸ばした。


(この人が、黒衣の主かもしれない)


その疑いを、顔に出してはいけない。


「ご用件を、伺います」

「ええ。書状は、殿下に差し上げましたが、本人にも、お目にかかって、お願いしたかったのです」


国師は、膝の上で、白い手を組んだ。


「婚礼の満月の夜、月の巫女の傍らに立つ護衛を、あなたにお願いしたい」

「私に、ですか」

「ええ。護衛の役目には、魔力の強い方が、必要なのです。巫女は、儀式の間、ほとんど無防備になりますから」


メイリンの喉が、わずかに、動いた。


「恐れながら、私は、魔力の弱い兵です。大将軍閣下も、そう仰せでした」

「閣下は、そう仰いましたな」


国師は、微笑んだ。


「ですが、私は、人の目を見ます」


静寂が、落ちた。


殿の外で、風が鳴った。


「秦明殿。魔力を静める技というのは、よほどの修練を積まなければ、身につかないものです。ご存じでしょうが」

「…………」

「それを、あれほど見事に使いこなす方を、私は、久しく見ておりません。どなたに、師事されたのですか」


心臓が、跳ねた。


(見られていた)


忠誠の儀の日、国師は、いなかったはずだった。それなのに、なぜ。


「……独学です。幼い頃から、静かにしている癖がありまして」


声は、震えなかった。


「そうですか」


国師は、頷いた。それ以上、追及しなかった。ただ、その目が、ほんの一瞬だけ、深い影を湛えた。


「独学で、ですか。それは、大変なご苦労を」


意味ありげな、含みのある言葉だった。メイリンは、膝の上で、拳を握った。


その時、殿の奥の帳が、そっと、揺れた。


二


帳の陰から、白い衣の少女が、静かに歩み出た。


年は、十四、五だろうか。小柄で、肌が透けるように白い。長い黒髪を、背に流している。足音が、まるでしなかった。


「巫女です」


国師が、静かに言った。


「婚礼の夜、花嫁の代を務める子です」


少女は、メイリンの前で、小さく頭を下げた。


「よろしく、お願いいたします」


澄んだ、小さな声だった。目は、伏せたまま、メイリンを見なかった。


「巫女の務めは、ただ、祭壇の傍らに立つことです。それだけで、よろしい」


国師は、少女の肩に、そっと手を置いた。


「恐れることはない。この方が、お守りくださる」

「……はい」


少女は、小さく頷いた。その指先が、衣の裾を、ぎゅっと握っているのが、メイリンには見えた。


(この子は、何も知らない)


黒髪だった。長く、豊かで、艶のある。


(黒髪の血筋)


背筋が、冷えた。


巫女に選ばれる者は、どんな者なのか。なぜ、黒髪の少女なのか。儀式の意味を知れば、その答えは、おそらく、残酷なものになる。


「秦明殿」

「はい」

「お顔が、険しい」


国師の声が、柔らかく響いた。


「ご心配には、及びません。巫女には、傷ひとつ、つけさせません」


その言葉に、嘘は感じられなかった。けれど、メイリンは、はっきりと思った。


(あなたが、傷つけるのではないのですか)


口には、出せなかった。


少女が、そっと、顔を上げた。大きな目が、一瞬だけ、メイリンと合った。


「あの」

「はい」

「護衛の方の、手は、温かいですか」


唐突な問いだった。


メイリンは、少し、目を丸くした。それから、静かに微笑んだ。


「ええ。温かいと、言われます」

「そう、ですか」


少女は、ほんの少し、肩の力を抜いた。


「よかった」


それだけを言って、再び、目を伏せた。


国師が、少女の背を、優しく撫でた。


「下がっておいで。後は、大人の話です」

「はい」


少女は、帳の向こうへ、消えていった。


殿に、再び、静けさが落ちた。


三


「ひとつ、お尋ねしても」


国師が、ふと、メイリンの手元に、目を落とした。


「その、手首の紐は」


メイリンは、思わず、袖を引いた。赤い紐。端に、翡翠の珠が、小さく揺れている。


「お守りです」

「ほう」

「妹の、形見で」


誘拐の時にも使った嘘を、もう一度、口にした。


国師は、しばらく、紐を見つめていた。やがて、ふっと、息を吐くように、笑った。


「よい紐ですね」

「恐れ入ります」

「赤は、古い祈りの色です。縁を、結ぶ色とも言う」


その声が、わずかに、遠くなった。


「昔、私も、同じような紐を、見たことがあります。ある方が、手首に結んで、月へ祈っておられた」

「…………」

「その方は、もう、おられませんが」


メイリンは、息を、止めた。


国師の瞳は、メイリンを見ているようで、見ていなかった。どこか遠い、古い日の記憶を、見つめているように見えた。


(先の、王妃様)


なぜか、そう思った。


「大切になさい、秦明殿。その紐は、あなたが思うより、ずっと、強い縁を結ぶ」


静かな、祈るような声だった。


メイリンは、返事ができなかった。


国師は、ゆっくりと、立ち上がった。白い法衣の裾が、石の床を、さらりと擦った。


「ひとつだけ、お願いがあります」

「何でしょう」

「儀式の夜、何が起きても、巫女の傍を、離れないでいただきたい」


メイリンは、顔を上げた。


国師の表情は、穏やかなままだった。けれど、その声には、ひとかけらの、懇願が滲んでいた。


「あの子には、罪がありません。何が起きても、あの子だけは、無事に」

「国師様」

「お約束、いただけますか」


「……お約束します」


迷いは、なかった。


「何があっても、巫女を、お守りします」

「ありがとう」


国師は、目を細めた。


「それと、もうひとつ」

「はい」

「殿下を、よろしく」


メイリンは、はっとした。


国師は、すでに、背を向けていた。祭壇の月の紋を、ゆっくりと、手袋の指で、なぞっている。


「あの方は、強がりな方です。小さな頃から、ずっと。誰の前でも、泣かない。泣きたい時ほど、笑う。……あなたの前では、少しは、素直でしょうか」

「国師様は、殿下を」

「育てました。母君を亡くした、あの日から」


声が、かすかに、揺れた。


「だから、私は、あの方に、嘘をつくことが、できない。……だから」


そこで、言葉が、切れた。


国師は、振り返らずに、静かに言った。


「お下がりなさい、秦明殿。長話を、しました」


メイリンは、一礼して、殿を出た。


扉が閉まる間際、背中越しに、国師の独り言のような声が、聞こえた気がした。


「どうか、間に合いますように」


扉が、閉じた。


四


回廊に出ると、陽が、傾き始めていた。


胸が、早鐘のように鳴っていた。足が、勝手に、早足になる。


(敵か、味方か)


わからなかった。


あの人は、黒衣の主かもしれない。巫女を、儀式の道具にしようとしているのかもしれない。それなのに、あの声は、確かに、清軒を案じていた。巫女を、案じていた。


(両方、なのだろうか)


人は、同じ心の中に、全く違う二つを、抱えられるのだろうか。


「秦明」


回廊の角で、声がした。


清軒だった。柱に背を預けて、腕を組んでいる。


「殿下」

「無事か」


低い声だった。顔は、いつもの軽い笑みを装っていたが、目が、笑っていなかった。


「無事です。お話を、伺っただけで」

「何を言われた」

「巫女の護衛を、お願いされました。それと」


メイリンは、言葉を探した。


「殿下を、よろしく、と」


清軒の瞳が、一瞬、見開かれた。


それから、ふっと、視線を逸らした。


「……そうか」

「はい」

「あの人は、そういう人だ」


小さな声だった。


「厳しくて、優しくて、何を考えているのか、わからなくて。それでも、幼い頃の俺には、世界で一番、頼れる人だった」

「殿下」

「だから、疑いたくないんだ」


清軒は、自分の左耳に、そっと触れた。


「疑って、何も出てこなければ、俺は、救われる。出てくれば、俺は」


そこで、言葉を切った。


メイリンは、そっと、彼の隣に立った。肩が、触れ合うほどの距離で、並んだ。


「どちらでも」

「ん」

「どちらでも、私が、そばにいます」


清軒は、ゆっくりと、メイリンを見た。


しばらく、何も言わなかった。やがて、小さく、笑った。


「お前は、本当に、ずるいな」

「何がですか」

「そういうことを、さらりと、言う」


夕陽が、回廊を、茜色に染めていた。


遠くで、鐘が鳴った。婚礼の満月まで、あと三週間。


月の間の戸は、まだ、閉ざされたままだった。

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