白い指名
一
王宮の奥に、月の間と呼ばれる、小さな祭祀の殿があった。
白い石の床。壁には、満ち欠けする月の姿が、銀の彫りで巡らされている。窓は高く、昼でも、薄い影が降りていた。
「秦明殿、お待ちしておりました」
殿の戸口に立った時、奥から、穏やかな声がした。
国師・李白蓮は、祭壇の脇の椅子に、静かに腰かけていた。白い法衣、白い手袋。純白の髪が、窓から落ちる光を受けて、淡く光っている。
メイリンは、戸口で膝をついた。
「護衛隊長、秦明、参りました」
「顔を、お上げなさい。堅苦しいことは、要りません」
清軒の言葉を、思い出した。
『行け。拒めば、かえって怪しまれる。お前を呼ぶ口実を、向こうは、もう用意している』
昨夜、執務室で、そう言った清軒の顔は、硬かった。それでも、最後に、付け加えた。
『何かあれば、すぐに、俺を呼べ。声が届かなくても、構わん。必ず、駆けつける』
(大丈夫)
メイリンは、顔を上げた。
国師の目は、思ったより、ずっと、柔らかかった。
「先日は、ご災難でしたな」
「恐れ入ります」
「将軍の副官が、軍の名を汚した。私からも、お詫びを申し上げます」
「国師様が、お詫びになることでは」
「いいえ。月の下で起きたことは、月に仕える者の、務めでもあります」
静かな声だった。責めも、探りも、感じられなかった。だからこそ、メイリンは、背筋を伸ばした。
(この人が、黒衣の主かもしれない)
その疑いを、顔に出してはいけない。
「ご用件を、伺います」
「ええ。書状は、殿下に差し上げましたが、本人にも、お目にかかって、お願いしたかったのです」
国師は、膝の上で、白い手を組んだ。
「婚礼の満月の夜、月の巫女の傍らに立つ護衛を、あなたにお願いしたい」
「私に、ですか」
「ええ。護衛の役目には、魔力の強い方が、必要なのです。巫女は、儀式の間、ほとんど無防備になりますから」
メイリンの喉が、わずかに、動いた。
「恐れながら、私は、魔力の弱い兵です。大将軍閣下も、そう仰せでした」
「閣下は、そう仰いましたな」
国師は、微笑んだ。
「ですが、私は、人の目を見ます」
静寂が、落ちた。
殿の外で、風が鳴った。
「秦明殿。魔力を静める技というのは、よほどの修練を積まなければ、身につかないものです。ご存じでしょうが」
「…………」
「それを、あれほど見事に使いこなす方を、私は、久しく見ておりません。どなたに、師事されたのですか」
心臓が、跳ねた。
(見られていた)
忠誠の儀の日、国師は、いなかったはずだった。それなのに、なぜ。
「……独学です。幼い頃から、静かにしている癖がありまして」
声は、震えなかった。
「そうですか」
国師は、頷いた。それ以上、追及しなかった。ただ、その目が、ほんの一瞬だけ、深い影を湛えた。
「独学で、ですか。それは、大変なご苦労を」
意味ありげな、含みのある言葉だった。メイリンは、膝の上で、拳を握った。
その時、殿の奥の帳が、そっと、揺れた。
二
帳の陰から、白い衣の少女が、静かに歩み出た。
年は、十四、五だろうか。小柄で、肌が透けるように白い。長い黒髪を、背に流している。足音が、まるでしなかった。
「巫女です」
国師が、静かに言った。
「婚礼の夜、花嫁の代を務める子です」
少女は、メイリンの前で、小さく頭を下げた。
「よろしく、お願いいたします」
澄んだ、小さな声だった。目は、伏せたまま、メイリンを見なかった。
「巫女の務めは、ただ、祭壇の傍らに立つことです。それだけで、よろしい」
国師は、少女の肩に、そっと手を置いた。
「恐れることはない。この方が、お守りくださる」
「……はい」
少女は、小さく頷いた。その指先が、衣の裾を、ぎゅっと握っているのが、メイリンには見えた。
(この子は、何も知らない)
黒髪だった。長く、豊かで、艶のある。
(黒髪の血筋)
背筋が、冷えた。
巫女に選ばれる者は、どんな者なのか。なぜ、黒髪の少女なのか。儀式の意味を知れば、その答えは、おそらく、残酷なものになる。
「秦明殿」
「はい」
「お顔が、険しい」
国師の声が、柔らかく響いた。
「ご心配には、及びません。巫女には、傷ひとつ、つけさせません」
その言葉に、嘘は感じられなかった。けれど、メイリンは、はっきりと思った。
(あなたが、傷つけるのではないのですか)
口には、出せなかった。
少女が、そっと、顔を上げた。大きな目が、一瞬だけ、メイリンと合った。
「あの」
「はい」
「護衛の方の、手は、温かいですか」
唐突な問いだった。
メイリンは、少し、目を丸くした。それから、静かに微笑んだ。
「ええ。温かいと、言われます」
「そう、ですか」
少女は、ほんの少し、肩の力を抜いた。
「よかった」
それだけを言って、再び、目を伏せた。
国師が、少女の背を、優しく撫でた。
「下がっておいで。後は、大人の話です」
「はい」
少女は、帳の向こうへ、消えていった。
殿に、再び、静けさが落ちた。
三
「ひとつ、お尋ねしても」
国師が、ふと、メイリンの手元に、目を落とした。
「その、手首の紐は」
メイリンは、思わず、袖を引いた。赤い紐。端に、翡翠の珠が、小さく揺れている。
「お守りです」
「ほう」
「妹の、形見で」
誘拐の時にも使った嘘を、もう一度、口にした。
国師は、しばらく、紐を見つめていた。やがて、ふっと、息を吐くように、笑った。
「よい紐ですね」
「恐れ入ります」
「赤は、古い祈りの色です。縁を、結ぶ色とも言う」
その声が、わずかに、遠くなった。
「昔、私も、同じような紐を、見たことがあります。ある方が、手首に結んで、月へ祈っておられた」
「…………」
「その方は、もう、おられませんが」
メイリンは、息を、止めた。
国師の瞳は、メイリンを見ているようで、見ていなかった。どこか遠い、古い日の記憶を、見つめているように見えた。
(先の、王妃様)
なぜか、そう思った。
「大切になさい、秦明殿。その紐は、あなたが思うより、ずっと、強い縁を結ぶ」
静かな、祈るような声だった。
メイリンは、返事ができなかった。
国師は、ゆっくりと、立ち上がった。白い法衣の裾が、石の床を、さらりと擦った。
「ひとつだけ、お願いがあります」
「何でしょう」
「儀式の夜、何が起きても、巫女の傍を、離れないでいただきたい」
メイリンは、顔を上げた。
国師の表情は、穏やかなままだった。けれど、その声には、ひとかけらの、懇願が滲んでいた。
「あの子には、罪がありません。何が起きても、あの子だけは、無事に」
「国師様」
「お約束、いただけますか」
「……お約束します」
迷いは、なかった。
「何があっても、巫女を、お守りします」
「ありがとう」
国師は、目を細めた。
「それと、もうひとつ」
「はい」
「殿下を、よろしく」
メイリンは、はっとした。
国師は、すでに、背を向けていた。祭壇の月の紋を、ゆっくりと、手袋の指で、なぞっている。
「あの方は、強がりな方です。小さな頃から、ずっと。誰の前でも、泣かない。泣きたい時ほど、笑う。……あなたの前では、少しは、素直でしょうか」
「国師様は、殿下を」
「育てました。母君を亡くした、あの日から」
声が、かすかに、揺れた。
「だから、私は、あの方に、嘘をつくことが、できない。……だから」
そこで、言葉が、切れた。
国師は、振り返らずに、静かに言った。
「お下がりなさい、秦明殿。長話を、しました」
メイリンは、一礼して、殿を出た。
扉が閉まる間際、背中越しに、国師の独り言のような声が、聞こえた気がした。
「どうか、間に合いますように」
扉が、閉じた。
四
回廊に出ると、陽が、傾き始めていた。
胸が、早鐘のように鳴っていた。足が、勝手に、早足になる。
(敵か、味方か)
わからなかった。
あの人は、黒衣の主かもしれない。巫女を、儀式の道具にしようとしているのかもしれない。それなのに、あの声は、確かに、清軒を案じていた。巫女を、案じていた。
(両方、なのだろうか)
人は、同じ心の中に、全く違う二つを、抱えられるのだろうか。
「秦明」
回廊の角で、声がした。
清軒だった。柱に背を預けて、腕を組んでいる。
「殿下」
「無事か」
低い声だった。顔は、いつもの軽い笑みを装っていたが、目が、笑っていなかった。
「無事です。お話を、伺っただけで」
「何を言われた」
「巫女の護衛を、お願いされました。それと」
メイリンは、言葉を探した。
「殿下を、よろしく、と」
清軒の瞳が、一瞬、見開かれた。
それから、ふっと、視線を逸らした。
「……そうか」
「はい」
「あの人は、そういう人だ」
小さな声だった。
「厳しくて、優しくて、何を考えているのか、わからなくて。それでも、幼い頃の俺には、世界で一番、頼れる人だった」
「殿下」
「だから、疑いたくないんだ」
清軒は、自分の左耳に、そっと触れた。
「疑って、何も出てこなければ、俺は、救われる。出てくれば、俺は」
そこで、言葉を切った。
メイリンは、そっと、彼の隣に立った。肩が、触れ合うほどの距離で、並んだ。
「どちらでも」
「ん」
「どちらでも、私が、そばにいます」
清軒は、ゆっくりと、メイリンを見た。
しばらく、何も言わなかった。やがて、小さく、笑った。
「お前は、本当に、ずるいな」
「何がですか」
「そういうことを、さらりと、言う」
夕陽が、回廊を、茜色に染めていた。
遠くで、鐘が鳴った。婚礼の満月まで、あと三週間。
月の間の戸は、まだ、閉ざされたままだった。




