庭の巫女
水面を、赤と白の鯉がゆったりと横切っていく。その縁にしゃがみ込んで、白い衣の少女が、じっと水の中を覗いていた。
「殿下、あれは」
「ああ」
回廊の角で、清軒が足を止めた。後ろにメイリンと墨雲が続く。
「月の巫女だな。国師が立てた」
「一人で、こんな所に」
「許されているんだろう。庭と月の間の往復だけは」
清軒は、少しだけ顔を曇らせた。
「ひと月ほど前に、神殿から連れて来られたと聞いた。婚礼の代わりを務めるために、急に立てられた子だ。それ以来、それ以外の所へは、どこへも行けないらしい」
メイリンは、胸の奥が、きゅっと縮むのを感じた。あの日、月の間で見た少女の、衣の裾を握りしめていた小さな指を思い出した。
その時、少女が顔を上げた。大きな目が、回廊の三人を捉え、ぱちぱちと瞬いた。
「あ」
慌てて立ち上がり、深く頭を下げる。
「で、殿下。失礼いたしました」
「いい。そのままで」
清軒は、軽い足取りで池のほうへ下りていった。
「鯉が好きか」
「はい。毎日、見ています。昨日より、赤いのが、一匹増えたんです」
「よく見ているな」
「他に、見るものが、ないので」
少女は、はっとして口を押さえた。
「申し訳ありません。変なことを」
「変じゃない」
清軒は、池の縁にしゃがんだ。少女と同じ高さで、水面を覗く。
「ほら、あの白いのは、尾が曲がってるだろう。俺が子供の頃から、いる。」
「えっ、そんなに長生きなんですか」
「鯉は、長生きだ。お前より、ずっと年上かもしれない」
少女の頬が、ふわりと緩んだ。
後ろで、メイリンは、咳払いをひとつした。
「…………」
小声で、隣の墨雲に言う。
「殿下は、お優しいですね」
「ええ。お優しい方でございます」
「ずいぶん、お優しいですね」
「は?」
墨雲が首を傾げた。メイリンは、ふいとそっぽを向いた。
二
「あの、護衛の方」
少女が、おずおずと、メイリンのほうを向いた。
「先日は、失礼いたしました。変なことを、お尋ねして」
「手のことですか」
「はい。温かいと、仰って、本当に、安心いたしました」
「それなら、よかった」
メイリンは、膝を折って、目線を合わせた。少女は、はにかんで、俯いた。
「殿下と、護衛の方は、仲が、よろしいのですね」
「えっ」
「先ほどから、殿下が、護衛の方を、ちらちら見ていらっしゃいます」
メイリンは、思わず、振り返った。
清軒が、わざとらしく空を見上げた。
「いい天気だな」
「殿下」
「鯉がいる」
「...…」
少女は、くすくすと笑った。
「秦明様、とお呼びしても、よろしいですか」
「あ、はい」
「秦明様は、殿下の、一番の、ご家来なのですね」
メイリンは、答えに詰まった。
一番の家来。そう言われれば、間違ってはいない。けれど、もっと違う言葉が、胸の中にある。
「……そう、ありたいと、思っています」
「素敵です」
少女は、目を輝かせた。
「私も、殿下のようなお方のために、お役に立てたら、いいのに」
小さな声だった。それから、頬を、薔薇色に染めた。
(……あ)
メイリンは、その横顔を見て、はっきりと、わかってしまった。
(この子、殿下のことが)
好きなのだ。恋というには、まだ幼い、淡い想い。けれど、その眼差しは、間違いなく、清軒を追っていた。
そして、清軒は、そのことに、気づいていない。
のんきに鯉に餌をやりながら、少女に、笑いかけている。
「これを食べるか」
袖から、飴の小袋を取り出した。
「月見団子の、飴だ。市で見つけた」
「いただいて、よろしいのですか」
「ああ。国師には、黙っていろ」
少女は、両手で小袋を受け取り、胸に抱えた。まるで、宝物のように。
「ありがとう、ございます」
メイリンは、拳を握りしめた。
(……なんで、殿下は、こう)
(無自覚に、優しいんですか)
胸の奥が、ちくちくと痛む。
相手は、十四、五の子供だ。恋敵になどなるはずがない。わかっているのに、少女が清軒に向ける笑顔を見るたびに、胸が熱くなる。
(これが、嫉妬)
自分でも、驚くほど、子供じみていた。
三
「殿下」
墨雲が、小声で割り込んだ。
「そろそろ、お時間が。国師様のお使いが」
「ああ。わかった」
清軒が、立ち上がる。
「秦明、行くぞ」
「はい、殿下」
メイリンは、つんと澄ました顔で、答えた。それから、わざとらしく、墨雲のほうへ向き直った。
「墨雲様。お荷物を、お持ちしましょうか」
その瞬間、庭の空気が、凍った。
「…………」
墨雲が、書類を抱えたまま、固まった。
「秦殿? 今、何と」
「墨雲様、と」
「今日は、玄殿では」
「いけませんか。墨雲様」
にっこりと、メイリンが微笑む。
清軒の肩が、ぴくりと跳ねた。
(それは、俺の名のはずだろう)
あの名は、メイリンが呼ぶから、意味があった。二人の時は、そう呼ぶと言ったのは、彼女のほうだ。それを、よりによって、本物の墨雲に、向けるとは。
墨雲が、そっと、主のほうを見た。
(殿下、何をなさったんですか)
目だけで、問いかけてくる。
清軒は、首を横に振った。
(何も、していない)
(そんなはずがありません。秦殿が、急に、私を墨雲様と呼ぶなど)
(本当に、何もしていない)
(嘘は、おやめください)
(嘘じゃない。強いて言えば、鯉と、飴と)
(それです)
目だけの会話だった。
少女が、きょとんとして、二人を見比べた。
「あの……お二方は、どうして、見つめ合って、いらっしゃるのですか」
「お気になさらず」
墨雲は、涼しい顔で、即答した。
「殿下が、また何か、やらかしたのです」
「やらかしてない」
「やらかしておられます」
墨雲は、深い溜め息をつき、小声で、続けた。
「巻き込まないでください」
「俺のせいじゃない」
「原因は、殿下です。普段は鋭いのに、肝心なところで鈍感なんですから」
メイリンは、そっぽを向いたまま、頬を、ほんの少しだけ、膨らませていた。
四
その時だった。
頭上で、乾いた音がした。
「危ない!」
メイリンが叫ぶより早く、庭に張り出した楠の古い枝が、ばきり、と折れた。太い枝が、まっすぐ、池の縁にしゃがんでいた少女の頭上へ、落ちてくる。
「きゃ——」
少女が、目を閉じた。
次の瞬間、風が鳴った。
何が起きたのか、メイリンにも、すぐには、わからなかった。
気づけば、墨雲が、少女の前に立っていた。
腰の短剣が、抜かれている。いつの間に。刃の一閃で、折れた枝が、二つに断たれ、少女の左右に、ざん、と落ちた。
少女の髪の先すら、触れていない。
静寂が、庭を包んだ。
墨雲は、短剣を、静かに鞘に収めた。それから、膝をついて、少女の顔を覗き込んだ。
「お怪我は、ございませんか」
声は、いつもの、穏やかな調子だった。
「だ、大丈夫、です」
「それは、よかった」
墨雲は、ほっと息をついて、立ち上がった。それから、自分の手を見て、情けない顔をした。
「ああ……袖が、破れてしまいました。この官服、先月、新調したばかりなのに」
「…………」
少女は、ぽかんと口を開けたまま、墨雲を見上げていた。
メイリンも、呆気にとられていた。
あの動き。あの抜刀の速さ。見えなかった。景陽ほどの、とまではいかなくとも、並の兵とは、まるで違う。
清軒だけが、涼しい顔で、腕を組んでいた。
「ほらな」
「殿下、何が、ほらなですか」
「少し、本気を出せば、こいつは、俺より強い」
清軒は、少女に向かって、囁くように言った。
「剣を握りたくないと言い張ってるが、本当は、俺と一緒に、子供の頃から稽古してきた」
「殿下!」
「俺は、一度も勝てたことがない」
「殿下、余計なことを」
「事実だ」
墨雲は、顔を真っ赤にして、袖口を押さえた。
「いえ、あれは、たまたまです。枝が、勝手に割れたのです」
「割れてない。お前が斬った」
「斬っておりません。割れたのです」
「無理があるぞ」
少女は、しばらく、呆然と墨雲を見つめていた。
「あの」
「は、はい」
「ありがとう、ございました。……お強いのですね」
「いえ、強くなど。たまたまです」
「たまたま、、」
「たまたまです」
墨雲は、顔を赤くして、頑なに首を振った。清軒は、にやにやしながら、目を逸らした。
少女はがにやにやした清軒の顔をみてまた頬を赤く染めたのをみて、メイリンは、澄ました顔のまま、無言で、清軒の足の甲を、ぎゅっと踏んだ。
清軒は、一瞬だけ、口の端を引きつらせた。けれど、少女の前では、笑顔を崩さなかった。
少女が、くすくすと笑った。墨雲は、まだ、袖口を押さえたまま、うろたえている。
五
迎えの女官の姿が、回廊に現れた。
「巫女様。お時間でございます」
少女は、はっとして、立ち上がった。
「はい」
名残惜しそうに、池のほうを振り返る。それから、清軒に向かって、深く頭を下げた。
「殿下。ありがとうございました。お話しできて、嬉しかったです」
「ああ」
「また、お会いできますか」
清軒は、少し、考えた。
「婚礼が終われば、また。……必ず」
「はい」
少女は、嬉しそうに微笑んだ。それから、ふと、尋ねた。
「あの、殿下」
「ん」
「私、今は、名前が、ないのです。巫女になった日に、神殿での名は、お返しするものだと言われて。それからは、巫女、としか呼ばれなくて」
声は、静かだった。
清軒の表情が、一瞬だけ、固まった。
それから、柔らかく、笑った。
「なら、婚礼のあとで、一緒に、考えよう」
「一緒に」
「ああ。好きな名前を、選べ。前の名でも、新しい名でもいい。俺が、国師に話を通しておく」
「……はい」
少女の目に、うっすらと、光るものが滲んだ。
女官に伴われて、少女は、回廊の奥へと消えていった。去り際に、一度だけ、振り返って、墨雲に向かって、小さく手を振った。
墨雲は、固まったまま、手を振り返せずにいた。
静かになった庭に、鯉の跳ねる音が、ぱしゃりと響いた。
六
しばらく、誰も、口を開かなかった。
やがて、清軒が、低い声で言った。
「婚礼のあと、とは言ったが」
「はい」
「あの子は、あの儀式で、何をされるのか、知らないんだな」
「はい」
メイリンは、頷いた。
月移しの儀。黒髪の者の魔力を吸い上げる、禁忌の術。巫女が、その器の傍らに立たされる理由。その先にあるものを、少女は、何も知らない。
「必ず、助ける」
「はい」
「約束だ」
「はい。私も、約束します」
清軒が、墨雲を振り返った。
「墨雲」
「はい」
「頼んだぞ」
墨雲は、袖口から手を離して、まっすぐに背を伸ばした。さっきまでのうろたえた顔は、もう、なかった。
「承知いたしました」
静かな声だった。
「あの子には、私が、ついております。何があっても」
「ああ」
「ですが、」
「何だ」
「剣は、やはり、嫌いです」
「知っている」
清軒は、くすりと笑った。メイリンも、笑った。
「墨雲。国師からの使いへの返書を、先に整えておいてくれ」
「かしこまりました」
墨雲は、一礼して、二人の顔を、交互に見た。それから、小声で、付け加えた。
「お二人の件は、お二人だけで完結していただけませんか。私を、巻き込まないでください」
「何の話だ」
「何でもございません」
澄ました顔で、墨雲は、回廊の奥へと去っていった。
二人きりになった庭に、鯉の跳ねる音が、またひとつ、響いた。
「ところで、メイリン」
「はい、殿下」
「二人の時は、墨雲と呼ぶと、言ったろう」
「気が変わりました」
「何」
「あの名を、飴をお配りになる方に、お呼びするのは、まだ、早いかと」
メイリンは、つんと、顔を背けた。
清軒は、一瞬、ぽかんとした。それから、ゆっくりと、口の端を持ち上げた。
「……なるほど。そういうことか」
「何がですか」
「お前、あの子に」
「違います」
「飴をやったのが」
「違います」
答えが、早すぎた。
清軒は、堪えきれずに、くつくつと笑い出した。
「笑わないでください」
「いや、悪い。ただ」
彼は、声を落とした。
「安心しろ。お前に、渡し損ねた分の、代わりだ」
「…………」
「今度、お前にも、買ってやる」
メイリンは、返事に詰まって、耳まで赤くなった。
夕陽が、池の水面を、茜色に染めていく。鯉が、一匹、ゆっくりと、尾を翻した。
婚礼の満月まで、あと二週間半。




