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黒い髪  作者: 八重


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24/32

母の枕元

一

あの夜以来、景炎は、毎朝、ここへ来ていた。父は何も言わなかった。咎めもしなかった。ただ、廊下の突き当たりで、黙って、背を向けていた。


(五年も、気づかなかった)


母が、離れで療養していること。会うことを許されなかったこと。父が、病がうつるからと言い張ったこと。そのすべてを、景炎は、疑いもせずに受け入れていた。


(父を、信じていたから)


信じたかった、というほうが、正しい。


母の指が、ぴくりと動いた。


「……景炎」

「母上」


かすれた声だった。景炎は、すぐに、その手を握った。


「起こしてしまいましたか」

「いいえ。もう、ずっと前から、起きていたの」


母の瞳が、ゆっくりと、息子を映した。窪んだ眼窩の奥の光は、思いのほか、澄んでいた。


「毎朝、来てくれているのね」

「はい」

「忙しいでしょうに」

「母上に会えない五年が、長すぎました」


母は、小さく笑った。灰色の髪が、枕の上で、さらりと崩れた。


「鏡を、持ってきてくれる?」

「鏡、ですか」

「ええ。机の、一番上の引き出しに」


景炎は、立ち上がった。引き出しの奥から、小さな手鏡を取り出す。銀の縁が、曇っていた。


差し出すと、母は、震える手で、それを受け取った。


しばらく、鏡の中の自分を、じっと見つめていた。


「やっぱり」

「母上」

「ひどい顔」


母は、ふっと、笑った。


「髪が、こんなに白くなって。景炎、お母さまはね、昔は、艶のある黒髪の、自慢の娘だったのよ」

「知っています」

「あなたの目の色は、お母さま譲りね」

「はい」

「お父様の、頑固なところも、ね」


景炎は、苦笑した。


母は、手鏡を、そっと胸の上に置いた。


「あなたに、話さなければならないことが、あるの」

「無理は」

「いいえ。今日は、調子がいいの。今を逃したら、また、話せなくなるかもしれない」


穏やかな声だった。けれど、そこには、静かな覚悟があった。


二


「私は、知っていたの」


母は、天井を見つめたまま、言った。


「何を、知っていたわけでもないのよ。ただ、薬を飲むたびに、胸の奥が、ざわざわした。苦いというより、悲しい味がした」

「悲しい」

「ええ。誰かが、泣いているような。遠くで、誰かが、膝を抱えているような」


景炎の喉が、ひくりと動いた。


「それが、何なのか、わからなかった。ただ、確かめるのが、怖かった。確かめてしまったら、薬を、飲めなくなる。飲めなくなったら、あなたの顔が、もう見られなくなる」

「母上」

「だから、目を逸らしていたの。弱い母で、ごめんなさい」


景炎は、母の手を、強く握った。


「違います。母上は、悪くありません」

「いいえ」


母は、静かに、首を振った。


「悪かったのは、私。そして、お父様。……でもね、景炎」


母の瞳が、息子に向いた。


「お父様を、責めすぎないであげて」

「…………」

「あの人は、とても臆病なの。大事な人を失うことを、人一倍、恐れている。だから、間違った道を、選んでしまった。それでも、私を生かそうとしたのは、あの人の、愛だった」


景炎は、唇を噛んだ。


「それでも」

「ええ。許されることでは、ないわ。たくさんの人が、傷ついた。私の命が、誰かの涙の上にあるのなら」


母の声が、少し、強くなった。


「そんな命は、私は、望みません」


沈黙が、降りた。


遠くで、鳥が鳴いた。


「景炎」

「はい」

「お父様と、あなたは、違う道を行きなさい」


母の手が、景炎の頬に触れた。熱のない、細い手だった。


「正しいと思う道を、選びなさい。私のことは、考えなくていい。私は、もう、十分に生きたわ」

「そんなこと」

「言わせて」


母は、静かに微笑んだ。


「あなたが生まれた日のことを、覚えているわ。小さな手で、私の指を、ぎゅっと握ったの。あの時、思ったのよ。この子が、どんな道を選んでも、私は、味方でいようって」


涙が、景炎の頬を、伝った。


「母上」

「泣き虫ね。昔から」

「母上のせいです」

「そうね」


二人は、小さく、笑い合った。


しばらく、そのまま、手を握り合っていた。


やがて、母が、ふと、尋ねた。


「ところで、あなたが探している娘さんは」


景炎は、はっとした。


「見つかった?」

「……いいえ」

「そう」


母は、目を細めた。


「その娘さんは、あなたの、心の中の人でしょう」

「はい」

「どんな人?」


景炎は、少し、考えた。窓の外に、目を向ける。


「強い人です。それでいて、人の痛みに、すぐ気づく人です。一度だけ、言葉を交わしました。月祭の夜に」

「ええ」

「疲れた顔をしていた私に、『笑うのが仕事なら、誰も見ていない時くらい、休んでもいい』と」


母の目が、大きくなった。


「まあ」

「あの一言に、救われました」

「素敵な子ね」

「はい」


景炎は、微笑んだ。


「もし、無事でいてくれるなら。もう一度、会って、礼を言いたい。それだけで、十分です」


母は、ゆっくりと、頷いた。


「会えるわ、きっと」

「母上」

「母親の勘は、よく当たるのよ」


優しい声だった。景炎は、胸の奥に、静かに灯るものを感じた。


三


書斎の戸を、叩いた。


「入れ」


父は、窓際に立っていた。後ろ姿が、昨日より、さらに、小さく見えた。


「父上」

「母の様子は」

「今日は、調子がよいようです」

「そうか」


短い返事だった。それ以上、何も続かなかった。


景炎は、扉を閉めて、父の背に向き直った。


「婚礼の儀のことで、お話があります」

「…………」

「私は、花婿として、立ちます」


文昌が、ゆっくりと、振り返った。


「何」

「国師様の仰せの通りに。婚礼の席に、立ちます。逃げも、隠れも、いたしません」

「お前は」


父の目に、驚きが浮かんだ。


「あの夜、あれほど」

「ええ。あれほど、父上を責めました。今も、許してはいません」


景炎の声は、静かだった。


「ですが、父上が逆らえば、母上の薬は止まる。そう仰いましたね」

「ああ」

「ならば、私が従う。表向きは。……婚礼の席が、すべての要でしょう。そこに立てば、何が起きるのか、私が、この目で、見届けられる」


文昌は、息を呑んだ。


「お前、まさか」

「何も、確かな証があるわけではありません。ただ、私の友が、何かを知っている気がする。それだけです」


景炎は、父を、まっすぐに見た。


「父上。私は、花婿として立つ。そして、その場で、何が起きても、逃げません。たとえ、陸家が、どうなろうとも」

「景炎」

「その上で、お願いがあります」


声が、わずかに、震えた。


「すべてが終わったら。法の席で、あなたの知っていることを、すべて話してください」


沈黙が、書斎に、重く降りた。


文昌は、しばらく、動かなかった。やがて、ぎこちなく、椅子に腰を下ろした。


「……お前は、強くなったな」


低い、掠れた声だった。


「いつの間に」

「母上に、教わりました」

「そうか」


文昌は、顔を覆った。


大きな肩が、小さく、震えた。


「すまなかった」


初めて聞く、父の謝罪だった。


「お前を、巻き込んだ。お前の母を、あんな目に遭わせた。娘を、ひとり、行方知れずにした。……すべて、わしの」

「謝るなら、母上に」


景炎は、静かに言った。


「そして、あの方に。秦侯のご令嬢に。それから、傷ついた、すべての人に」

「ああ」

「法の席で、お願いします」

「……ああ」


父の声は、ひどく、小さかった。


景炎は、そっと目を閉じた。


胸の奥の痛みが、少しだけ、和らぐのを感じた。完全には許せない。けれど、これが、父と自分が、同じ方向を向ける、最初の一歩なのかもしれなかった。


四


夕暮れ、景炎は、一人、庭の石灯籠の前に立っていた。


空には、細い月が、浮かんでいる。満ちるまで、あと二週間。


(会えるわ、きっと)


母の言葉が、胸に残っていた。


(もし、あの人が、生きていて。もし、あの席に、現れたなら)


その時、自分は、どんな顔をするのだろう。


驚くだろうか。泣くだろうか。それとも、笑って、礼を言えるのだろうか。


答えは、わからなかった。


ただ、ひとつだけ、決めていた。


あの人が、現れたなら。そして、もし、他に想う人がいたなら。


(私は、笑って、見送ろう)


それが、あの夜、あの人にもらった言葉への、一番の、返事になる気がした。


「笑うのが仕事なら」


小さく、呟いた。


「誰も見ていない時くらい、休んでもいい」


灯籠の火が、ふっと、揺れた。


「……ありがとう」


誰もいない庭に、その声は、静かに、溶けていった。


遠くで、秦明という名の護衛隊長が、王宮の回廊を歩いている頃だった。景炎は、まだ、何も知らなかった。

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