母の枕元
一
あの夜以来、景炎は、毎朝、ここへ来ていた。父は何も言わなかった。咎めもしなかった。ただ、廊下の突き当たりで、黙って、背を向けていた。
(五年も、気づかなかった)
母が、離れで療養していること。会うことを許されなかったこと。父が、病がうつるからと言い張ったこと。そのすべてを、景炎は、疑いもせずに受け入れていた。
(父を、信じていたから)
信じたかった、というほうが、正しい。
母の指が、ぴくりと動いた。
「……景炎」
「母上」
かすれた声だった。景炎は、すぐに、その手を握った。
「起こしてしまいましたか」
「いいえ。もう、ずっと前から、起きていたの」
母の瞳が、ゆっくりと、息子を映した。窪んだ眼窩の奥の光は、思いのほか、澄んでいた。
「毎朝、来てくれているのね」
「はい」
「忙しいでしょうに」
「母上に会えない五年が、長すぎました」
母は、小さく笑った。灰色の髪が、枕の上で、さらりと崩れた。
「鏡を、持ってきてくれる?」
「鏡、ですか」
「ええ。机の、一番上の引き出しに」
景炎は、立ち上がった。引き出しの奥から、小さな手鏡を取り出す。銀の縁が、曇っていた。
差し出すと、母は、震える手で、それを受け取った。
しばらく、鏡の中の自分を、じっと見つめていた。
「やっぱり」
「母上」
「ひどい顔」
母は、ふっと、笑った。
「髪が、こんなに白くなって。景炎、お母さまはね、昔は、艶のある黒髪の、自慢の娘だったのよ」
「知っています」
「あなたの目の色は、お母さま譲りね」
「はい」
「お父様の、頑固なところも、ね」
景炎は、苦笑した。
母は、手鏡を、そっと胸の上に置いた。
「あなたに、話さなければならないことが、あるの」
「無理は」
「いいえ。今日は、調子がいいの。今を逃したら、また、話せなくなるかもしれない」
穏やかな声だった。けれど、そこには、静かな覚悟があった。
二
「私は、知っていたの」
母は、天井を見つめたまま、言った。
「何を、知っていたわけでもないのよ。ただ、薬を飲むたびに、胸の奥が、ざわざわした。苦いというより、悲しい味がした」
「悲しい」
「ええ。誰かが、泣いているような。遠くで、誰かが、膝を抱えているような」
景炎の喉が、ひくりと動いた。
「それが、何なのか、わからなかった。ただ、確かめるのが、怖かった。確かめてしまったら、薬を、飲めなくなる。飲めなくなったら、あなたの顔が、もう見られなくなる」
「母上」
「だから、目を逸らしていたの。弱い母で、ごめんなさい」
景炎は、母の手を、強く握った。
「違います。母上は、悪くありません」
「いいえ」
母は、静かに、首を振った。
「悪かったのは、私。そして、お父様。……でもね、景炎」
母の瞳が、息子に向いた。
「お父様を、責めすぎないであげて」
「…………」
「あの人は、とても臆病なの。大事な人を失うことを、人一倍、恐れている。だから、間違った道を、選んでしまった。それでも、私を生かそうとしたのは、あの人の、愛だった」
景炎は、唇を噛んだ。
「それでも」
「ええ。許されることでは、ないわ。たくさんの人が、傷ついた。私の命が、誰かの涙の上にあるのなら」
母の声が、少し、強くなった。
「そんな命は、私は、望みません」
沈黙が、降りた。
遠くで、鳥が鳴いた。
「景炎」
「はい」
「お父様と、あなたは、違う道を行きなさい」
母の手が、景炎の頬に触れた。熱のない、細い手だった。
「正しいと思う道を、選びなさい。私のことは、考えなくていい。私は、もう、十分に生きたわ」
「そんなこと」
「言わせて」
母は、静かに微笑んだ。
「あなたが生まれた日のことを、覚えているわ。小さな手で、私の指を、ぎゅっと握ったの。あの時、思ったのよ。この子が、どんな道を選んでも、私は、味方でいようって」
涙が、景炎の頬を、伝った。
「母上」
「泣き虫ね。昔から」
「母上のせいです」
「そうね」
二人は、小さく、笑い合った。
しばらく、そのまま、手を握り合っていた。
やがて、母が、ふと、尋ねた。
「ところで、あなたが探している娘さんは」
景炎は、はっとした。
「見つかった?」
「……いいえ」
「そう」
母は、目を細めた。
「その娘さんは、あなたの、心の中の人でしょう」
「はい」
「どんな人?」
景炎は、少し、考えた。窓の外に、目を向ける。
「強い人です。それでいて、人の痛みに、すぐ気づく人です。一度だけ、言葉を交わしました。月祭の夜に」
「ええ」
「疲れた顔をしていた私に、『笑うのが仕事なら、誰も見ていない時くらい、休んでもいい』と」
母の目が、大きくなった。
「まあ」
「あの一言に、救われました」
「素敵な子ね」
「はい」
景炎は、微笑んだ。
「もし、無事でいてくれるなら。もう一度、会って、礼を言いたい。それだけで、十分です」
母は、ゆっくりと、頷いた。
「会えるわ、きっと」
「母上」
「母親の勘は、よく当たるのよ」
優しい声だった。景炎は、胸の奥に、静かに灯るものを感じた。
三
書斎の戸を、叩いた。
「入れ」
父は、窓際に立っていた。後ろ姿が、昨日より、さらに、小さく見えた。
「父上」
「母の様子は」
「今日は、調子がよいようです」
「そうか」
短い返事だった。それ以上、何も続かなかった。
景炎は、扉を閉めて、父の背に向き直った。
「婚礼の儀のことで、お話があります」
「…………」
「私は、花婿として、立ちます」
文昌が、ゆっくりと、振り返った。
「何」
「国師様の仰せの通りに。婚礼の席に、立ちます。逃げも、隠れも、いたしません」
「お前は」
父の目に、驚きが浮かんだ。
「あの夜、あれほど」
「ええ。あれほど、父上を責めました。今も、許してはいません」
景炎の声は、静かだった。
「ですが、父上が逆らえば、母上の薬は止まる。そう仰いましたね」
「ああ」
「ならば、私が従う。表向きは。……婚礼の席が、すべての要でしょう。そこに立てば、何が起きるのか、私が、この目で、見届けられる」
文昌は、息を呑んだ。
「お前、まさか」
「何も、確かな証があるわけではありません。ただ、私の友が、何かを知っている気がする。それだけです」
景炎は、父を、まっすぐに見た。
「父上。私は、花婿として立つ。そして、その場で、何が起きても、逃げません。たとえ、陸家が、どうなろうとも」
「景炎」
「その上で、お願いがあります」
声が、わずかに、震えた。
「すべてが終わったら。法の席で、あなたの知っていることを、すべて話してください」
沈黙が、書斎に、重く降りた。
文昌は、しばらく、動かなかった。やがて、ぎこちなく、椅子に腰を下ろした。
「……お前は、強くなったな」
低い、掠れた声だった。
「いつの間に」
「母上に、教わりました」
「そうか」
文昌は、顔を覆った。
大きな肩が、小さく、震えた。
「すまなかった」
初めて聞く、父の謝罪だった。
「お前を、巻き込んだ。お前の母を、あんな目に遭わせた。娘を、ひとり、行方知れずにした。……すべて、わしの」
「謝るなら、母上に」
景炎は、静かに言った。
「そして、あの方に。秦侯のご令嬢に。それから、傷ついた、すべての人に」
「ああ」
「法の席で、お願いします」
「……ああ」
父の声は、ひどく、小さかった。
景炎は、そっと目を閉じた。
胸の奥の痛みが、少しだけ、和らぐのを感じた。完全には許せない。けれど、これが、父と自分が、同じ方向を向ける、最初の一歩なのかもしれなかった。
四
夕暮れ、景炎は、一人、庭の石灯籠の前に立っていた。
空には、細い月が、浮かんでいる。満ちるまで、あと二週間。
(会えるわ、きっと)
母の言葉が、胸に残っていた。
(もし、あの人が、生きていて。もし、あの席に、現れたなら)
その時、自分は、どんな顔をするのだろう。
驚くだろうか。泣くだろうか。それとも、笑って、礼を言えるのだろうか。
答えは、わからなかった。
ただ、ひとつだけ、決めていた。
あの人が、現れたなら。そして、もし、他に想う人がいたなら。
(私は、笑って、見送ろう)
それが、あの夜、あの人にもらった言葉への、一番の、返事になる気がした。
「笑うのが仕事なら」
小さく、呟いた。
「誰も見ていない時くらい、休んでもいい」
灯籠の火が、ふっと、揺れた。
「……ありがとう」
誰もいない庭に、その声は、静かに、溶けていった。
遠くで、秦明という名の護衛隊長が、王宮の回廊を歩いている頃だった。景炎は、まだ、何も知らなかった。




