大牙の告白
一
その日の大牙は、朝から、おかしかった。
「秦明、水」
「あ、ありがとうございます」
「肉、食うか」
「朝からですか」
「食え。お前、あれから、痩せた」
大部屋の朝餉の席で、大牙は、自分の皿から、焼いた肉を一切れ、メイリンの椀に放り込んだ。それから、慌てて、そっぽを向いた。
向かいで、小燕が、箸を止めた。文遠が、本から、ゆっくりと、顔を上げた。厚山は、茶をすすりながら、遠い目をしている。
「……大牙さん、今日、変だよ」
「変じゃない」
「いつもより、静か」
「俺は、いつも、静かだ」
「それは嘘だろう」
文遠が、静かに呟いた。大牙は、返事をせずに、飯を掻き込んだ。耳が、赤かった。
あの二日間のあとから、ずっとそうだった。
メイリンが戻ってきてから、大牙は、何かと、世話を焼いた。夜の見回りは、必ず自分が付き添う。朝の鍛錬では、木剣を打ち込む手を、いつもより、ほんの少しだけ、緩める。そして、ふとした拍子に、じっと、こちらを見ている。
見られていると気づいて目を向けると、慌てて逸らす。
(……まさか)
メイリンは、薄々、気づき始めていた。
気づきたくなかった、というのが、本音だった。
「なあ、秦明」
食事のあと、大牙が、ぼそりと言った。
「今夜、少し、いいか」
「はい。何か」
「練兵場の、裏で。時間は、消灯のあと」
短く言って、足早に去っていく。その背中を見送りながら、メイリンは、小さく息を吐いた。
(来た)
隣で、小燕が、目を丸くしていた。
「ねえ、今の」
「聞こえてましたか」
「聞こえるよ。あれ、絶対」
「小燕」
文遠が、低く、制した。
「他人の話に、口を挟むな」
「でも」
「挟むな」
そう言いながら、文遠の指は、本の頁を、ひたすら、折り曲げていた。
二
夜の練兵場の裏手は、静かだった。
木人形が、闇の中に、いくつも立っている。昼間は、新兵の打ち込みで騒がしい場所だが、今は、虫の音しか聞こえない。
その真ん中に、大きな影が、ひとつ、立っていた。
「来たか」
「はい」
メイリンは、少し離れた場所で足を止めた。月は細く、顔は、はっきりとは見えない。
「すまん。呼び出して」
「いえ。何か、ご用でしょうか」
「用っていうか」
大牙は、ごしごしと、頭を掻いた。それから、深く、息を吸い込んだ。
「話が、ある。長くない。でも、俺は、口下手だから、うまく言えるかわからん。笑ってもいい。だが、最後まで、聞いてくれ」
「笑いません」
「……そうか」
大牙は、足元の土を、爪先で、ぐりぐりと踏んだ。
「お前が、いなくなった時」
声が、低くなった。
「二日間、俺は、飯が食えなかった。喉を通らなかった。訓練しても、体に力が入らなかった。夜になっても、眠れなくて、寝台の上で、天井ばっかり見てた」
「大牙さん」
「俺は、馬鹿だから、最初は、なんでだかわからなかった。弟分が心配なんだと、思ってた。でも、違った」
拳が、握られた。
「あの地下で、お前を見つけた時。壁に鎖で繋がれて、薄く目を開けたお前を見た時。あの時、俺は」
言葉が、一度、途切れた。
「膝が、抜けるかと思った。生きてた、生きてたって、嬉しくて、嬉しくて。それで、やっと、わかった」
顔を上げた。月明かりの中で、その目は、まっすぐだった。
「俺は、お前が好きだ」
風が、止まったような気がした。
「弟分としてじゃない。仲間としてだけでも、ない。……その、なんだ。男が、女に思うみたいな、そういうやつだ」
メイリンは、息を、止めた。
「変だとは、思う。お前は、男で、俺も、男だ。そんなの、普通じゃないって、わかってる。でも、嘘は、つけなかった」
大牙は、ぎゅっと目を閉じた。
「前に、仲間内で、言ったんだ。『性別は関係ない』って。あれは、強がりじゃなかった。本気だった。お前が男でも、お前の中身に、惚れたんだ。だから」
そこで、言葉が、尽きた。
沈黙が、落ちた。
メイリンは、何も、言えなかった。
胸の奥が、締めつけられるように、痛んだ。この人は、嘘をついていない。こんなにも、まっすぐに、心を差し出している。そして自分は、その心を、騙している。
「返事は、いらない」
大牙が、不意に、言った。
「え」
「返事はいい。言いたかっただけだ。胸に詰まってて、苦しくて、どうしようもなかったから。聞いてくれただけで、十分だ」
「でも」
「お前を困らせたいわけじゃない。それだけは、わかってくれ」
その声は、少し、震えていた。
メイリンは、ぎゅっと、拳を握った。
(逃げちゃ、いけない)
本当のことは、まだ言えない。婚礼の日までは、誰にも、明かせない約束だった。けれど、この想いに、嘘では、返したくなかった。
「大牙さん」
「……ああ」
「ありがとうございます」
静かな声だった。
「あなたが、そんなふうに思ってくださったこと。私は、とても、嬉しいです。冗談ではなく、心から」
「…………」
「あなたが、いつも、まっすぐに、笑ってくれたこと。私が、何も言えずにいた時も、何も聞かずに、隣にいてくれたこと。どれだけ、救われたか、わかりません」
大牙の肩が、ぴくりと、動いた。
「だから、嘘では、答えられません」
メイリンは、まっすぐに、彼を見た。
「私には、心に決めた人がいます」
沈黙が、降りた。
虫の音だけが、闇の中で、鳴っていた。
大牙は、長いこと、動かなかった。やがて、ふうっと、深く、息を吐いた。
「……そうか」
「はい」
「やっぱり、いたか」
苦い笑みが、その口元に、浮かんだ。
「どこの、誰かは、聞かない。聞いたら、きっと、余計に悔しくなる」
「…………」
「でも、その人は、お前を、大事にしてるんだろうな」
「はい。とても」
「なら、いい」
大牙は、袖で、ごしごしと、顔をこすった。
「ごめんな。変なこと、言って」
「変じゃありません」
「いや、変だ。でも」
ぱん、と、自分の頬を叩いた。
「言えて、すっきりした。ありがとう」
そう言って、大牙は、無理矢理、笑った。いつもの、大きな、人の良い笑顔だった。けれど、目の端が、わずかに、光っていた。
「これからも、お前は、俺の弟分だ」
「はい」
「いや、違うな。兄貴分でも、いい。仲間だ。何があっても、お前を守る。それだけは、ずっと、変わらない」
「……はい」
「約束だぞ」
「約束です」
大牙は、頷いた。それから、拳を、メイリンの前に、突き出した。
メイリンは、少しだけ、ためらってから、自分の拳を、こつんと、合わせた。
「ありがとう、大牙さん」
「おう」
月が、雲の隙間から、細く、顔を出した。
その光の中で、大牙の目が、ふっと、柔らかくなった。
「なあ」
「はい」
「その、心に決めた人ってのは」
「はい」
「お前に、あんなふうに、嬉しそうな顔を、させる人か」
メイリンは、少しだけ、目を丸くした。それから、ふわりと、微笑んだ。
「はい」
大牙は、天を仰いだ。
「……そうか。じゃあ、仕方ねえ」
その声は、驚くほど、穏やかだった。
三
背後の木人形の陰が、がさり、と動いた。
「あっ」
小さな声が、した。
メイリンは、はっと、振り向いた。大牙も、同時に、振り返る。
人形の陰から、三つの影が、転がり出てきた。
「ち、違う。通りがかっただけで」
小燕だった。その下敷きになって、文遠が、潰れている。
「重い」
「文遠さんが、押したんじゃないか!」
「押していない。お前が、踏んだ」
さらに、その後ろから、巨体が、ぬっと、姿を現した。
「……すまん」
厚山だった。両手に、二人の襟を、掴んでいた。
「止めたんだが」
大牙の顔が、見る見る、真っ赤になった。
「お、お前ら、聞いてたのか!」
「聞いてない」と、文遠。
「聞こえてた」と、小燕。
「聞いてない!」と、文遠が、小燕の口を塞ごうとした。
メイリンは、頭を抱えそうになった。
「どこから」
「えっと、『お前が、いなくなった時』あたりから」
「ほとんど全部じゃないか」
大牙は、両手で、顔を覆って、その場に、しゃがみ込んだ。
「うわああああ」
「大牙さん」
「俺は、もう、人前に出られない。軍を辞める」
「辞めないでください」
「いやだ! 穴があったら入りたい!」
巨体が、地面に、丸くなった。肩が、小刻みに、震えている。
厚山が、そっと、その背に、掌を置いた。
「大牙」
「うう」
「よく、言った」
低い、優しい声だった。
「男として、立派だった。振られたが、潔かった。恥じることじゃない」
「振られたって言わないでください!」
「事実だ」
「厚山さん!」
小燕が、必死に、笑いを堪えていた。堪えきれず、肩が、びくびくと、揺れる。
「小燕」
「ごめん。でも、あの『これからも、お前は俺の弟分だ』のところ、すごく、かっこよかったから」
「やめろ、やめてくれ」
文遠は、無言で、本を閉じた。それから、ぽつりと、言った。
「雷」
「……何だ」
「見直した」
「文遠」
「馬鹿だと思っていたが、馬鹿なりに、筋は、通っている」
「褒めてるのか、それは」
「褒めている」
大牙は、顔を覆ったまま、ぷるぷると、震えた。
メイリンは、おずおずと、しゃがんだ。
「大牙さん」
「……」
「顔を、上げてください」
ゆっくりと、大牙が、指の隙間から、こちらを覗いた。目は、真っ赤で、鼻の頭まで、赤かった。
「私は、笑いません」
「…………」
「あなたの気持ちを、笑う人がいたら、私が、許しません」
大牙は、ぱちぱちと、瞬きをした。それから、ふいに、ぐしゃりと、顔を歪めた。
「お前、本当に、いい奴だな」
「ありがとうございます」
「そういうとこだ。そういうとこが、好きだったんだ」
涙と鼻水を拭いながら、大牙は、ばっと立ち上がった。
「よし! 素振りだ!」
「は?」
「素振り、千回! 今から! 煩悩を、全部、振り払う!」
「夜中ですよ」
「構わん! 付き合え、秦明!」
「え」
「付き合うよな、みんな」
大牙が、振り返った。三人は、顔を見合わせた。
「俺は、遠慮する」と、文遠。
「僕は、見学で」と、小燕。
「……五百回までなら」と、厚山。
結局、全員が、木剣を握らされた。
細い月の下で、練兵場の裏に、ぶん、ぶん、と、風を切る音が響いた。大牙の素振りは、いつもより、ずっと、力が籠っていた。
メイリンも、木剣を振りながら、そっと、彼を見た。
大きな背中が、闇の中で、揺れている。
(ごめんなさい)
心の中で、そっと、詫びた。
(全部、話しますから。婚礼の前夜に、必ず)
その時、この人は、どんな顔をするだろう。怒るだろうか。泣くだろうか。それとも、笑って、受け止めてくれるのだろうか。
答えは、まだ、わからなかった。
ただ、ひとつだけ、確かなことがあった。
この仲間たちを、騙したままでは、終われない。
月が、雲に隠れた。木剣の音だけが、夜の底で、いつまでも、続いていた。




