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黒い髪  作者: 八重


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25/32

大牙の告白

一


その日の大牙は、朝から、おかしかった。


「秦明、水」

「あ、ありがとうございます」

「肉、食うか」

「朝からですか」

「食え。お前、あれから、痩せた」


大部屋の朝餉の席で、大牙は、自分の皿から、焼いた肉を一切れ、メイリンの椀に放り込んだ。それから、慌てて、そっぽを向いた。


向かいで、小燕が、箸を止めた。文遠が、本から、ゆっくりと、顔を上げた。厚山は、茶をすすりながら、遠い目をしている。


「……大牙さん、今日、変だよ」

「変じゃない」

「いつもより、静か」

「俺は、いつも、静かだ」

「それは嘘だろう」


文遠が、静かに呟いた。大牙は、返事をせずに、飯を掻き込んだ。耳が、赤かった。


あの二日間のあとから、ずっとそうだった。


メイリンが戻ってきてから、大牙は、何かと、世話を焼いた。夜の見回りは、必ず自分が付き添う。朝の鍛錬では、木剣を打ち込む手を、いつもより、ほんの少しだけ、緩める。そして、ふとした拍子に、じっと、こちらを見ている。


見られていると気づいて目を向けると、慌てて逸らす。


(……まさか)


メイリンは、薄々、気づき始めていた。


気づきたくなかった、というのが、本音だった。


「なあ、秦明」


食事のあと、大牙が、ぼそりと言った。


「今夜、少し、いいか」

「はい。何か」

「練兵場の、裏で。時間は、消灯のあと」


短く言って、足早に去っていく。その背中を見送りながら、メイリンは、小さく息を吐いた。


(来た)


隣で、小燕が、目を丸くしていた。


「ねえ、今の」

「聞こえてましたか」

「聞こえるよ。あれ、絶対」

「小燕」


文遠が、低く、制した。


「他人の話に、口を挟むな」

「でも」

「挟むな」


そう言いながら、文遠の指は、本の頁を、ひたすら、折り曲げていた。


二


夜の練兵場の裏手は、静かだった。


木人形が、闇の中に、いくつも立っている。昼間は、新兵の打ち込みで騒がしい場所だが、今は、虫の音しか聞こえない。


その真ん中に、大きな影が、ひとつ、立っていた。


「来たか」

「はい」


メイリンは、少し離れた場所で足を止めた。月は細く、顔は、はっきりとは見えない。


「すまん。呼び出して」

「いえ。何か、ご用でしょうか」

「用っていうか」


大牙は、ごしごしと、頭を掻いた。それから、深く、息を吸い込んだ。


「話が、ある。長くない。でも、俺は、口下手だから、うまく言えるかわからん。笑ってもいい。だが、最後まで、聞いてくれ」

「笑いません」

「……そうか」


大牙は、足元の土を、爪先で、ぐりぐりと踏んだ。


「お前が、いなくなった時」


声が、低くなった。


「二日間、俺は、飯が食えなかった。喉を通らなかった。訓練しても、体に力が入らなかった。夜になっても、眠れなくて、寝台の上で、天井ばっかり見てた」

「大牙さん」

「俺は、馬鹿だから、最初は、なんでだかわからなかった。弟分が心配なんだと、思ってた。でも、違った」


拳が、握られた。


「あの地下で、お前を見つけた時。壁に鎖で繋がれて、薄く目を開けたお前を見た時。あの時、俺は」


言葉が、一度、途切れた。


「膝が、抜けるかと思った。生きてた、生きてたって、嬉しくて、嬉しくて。それで、やっと、わかった」


顔を上げた。月明かりの中で、その目は、まっすぐだった。


「俺は、お前が好きだ」


風が、止まったような気がした。


「弟分としてじゃない。仲間としてだけでも、ない。……その、なんだ。男が、女に思うみたいな、そういうやつだ」


メイリンは、息を、止めた。


「変だとは、思う。お前は、男で、俺も、男だ。そんなの、普通じゃないって、わかってる。でも、嘘は、つけなかった」


大牙は、ぎゅっと目を閉じた。


「前に、仲間内で、言ったんだ。『性別は関係ない』って。あれは、強がりじゃなかった。本気だった。お前が男でも、お前の中身に、惚れたんだ。だから」


そこで、言葉が、尽きた。


沈黙が、落ちた。


メイリンは、何も、言えなかった。


胸の奥が、締めつけられるように、痛んだ。この人は、嘘をついていない。こんなにも、まっすぐに、心を差し出している。そして自分は、その心を、騙している。


「返事は、いらない」


大牙が、不意に、言った。


「え」

「返事はいい。言いたかっただけだ。胸に詰まってて、苦しくて、どうしようもなかったから。聞いてくれただけで、十分だ」

「でも」

「お前を困らせたいわけじゃない。それだけは、わかってくれ」


その声は、少し、震えていた。


メイリンは、ぎゅっと、拳を握った。


(逃げちゃ、いけない)


本当のことは、まだ言えない。婚礼の日までは、誰にも、明かせない約束だった。けれど、この想いに、嘘では、返したくなかった。


「大牙さん」

「……ああ」

「ありがとうございます」


静かな声だった。


「あなたが、そんなふうに思ってくださったこと。私は、とても、嬉しいです。冗談ではなく、心から」

「…………」

「あなたが、いつも、まっすぐに、笑ってくれたこと。私が、何も言えずにいた時も、何も聞かずに、隣にいてくれたこと。どれだけ、救われたか、わかりません」


大牙の肩が、ぴくりと、動いた。


「だから、嘘では、答えられません」


メイリンは、まっすぐに、彼を見た。


「私には、心に決めた人がいます」


沈黙が、降りた。


虫の音だけが、闇の中で、鳴っていた。


大牙は、長いこと、動かなかった。やがて、ふうっと、深く、息を吐いた。


「……そうか」

「はい」

「やっぱり、いたか」


苦い笑みが、その口元に、浮かんだ。


「どこの、誰かは、聞かない。聞いたら、きっと、余計に悔しくなる」

「…………」

「でも、その人は、お前を、大事にしてるんだろうな」

「はい。とても」

「なら、いい」


大牙は、袖で、ごしごしと、顔をこすった。


「ごめんな。変なこと、言って」

「変じゃありません」

「いや、変だ。でも」


ぱん、と、自分の頬を叩いた。


「言えて、すっきりした。ありがとう」


そう言って、大牙は、無理矢理、笑った。いつもの、大きな、人の良い笑顔だった。けれど、目の端が、わずかに、光っていた。


「これからも、お前は、俺の弟分だ」

「はい」

「いや、違うな。兄貴分でも、いい。仲間だ。何があっても、お前を守る。それだけは、ずっと、変わらない」

「……はい」

「約束だぞ」

「約束です」


大牙は、頷いた。それから、拳を、メイリンの前に、突き出した。


メイリンは、少しだけ、ためらってから、自分の拳を、こつんと、合わせた。


「ありがとう、大牙さん」

「おう」


月が、雲の隙間から、細く、顔を出した。


その光の中で、大牙の目が、ふっと、柔らかくなった。


「なあ」

「はい」

「その、心に決めた人ってのは」

「はい」

「お前に、あんなふうに、嬉しそうな顔を、させる人か」


メイリンは、少しだけ、目を丸くした。それから、ふわりと、微笑んだ。


「はい」


大牙は、天を仰いだ。


「……そうか。じゃあ、仕方ねえ」


その声は、驚くほど、穏やかだった。


三


背後の木人形の陰が、がさり、と動いた。


「あっ」


小さな声が、した。


メイリンは、はっと、振り向いた。大牙も、同時に、振り返る。


人形の陰から、三つの影が、転がり出てきた。


「ち、違う。通りがかっただけで」


小燕だった。その下敷きになって、文遠が、潰れている。


「重い」

「文遠さんが、押したんじゃないか!」

「押していない。お前が、踏んだ」


さらに、その後ろから、巨体が、ぬっと、姿を現した。


「……すまん」


厚山だった。両手に、二人の襟を、掴んでいた。


「止めたんだが」


大牙の顔が、見る見る、真っ赤になった。


「お、お前ら、聞いてたのか!」

「聞いてない」と、文遠。

「聞こえてた」と、小燕。

「聞いてない!」と、文遠が、小燕の口を塞ごうとした。


メイリンは、頭を抱えそうになった。


「どこから」

「えっと、『お前が、いなくなった時』あたりから」

「ほとんど全部じゃないか」


大牙は、両手で、顔を覆って、その場に、しゃがみ込んだ。


「うわああああ」

「大牙さん」

「俺は、もう、人前に出られない。軍を辞める」

「辞めないでください」

「いやだ! 穴があったら入りたい!」


巨体が、地面に、丸くなった。肩が、小刻みに、震えている。


厚山が、そっと、その背に、掌を置いた。


「大牙」

「うう」

「よく、言った」


低い、優しい声だった。


「男として、立派だった。振られたが、潔かった。恥じることじゃない」

「振られたって言わないでください!」

「事実だ」

「厚山さん!」


小燕が、必死に、笑いを堪えていた。堪えきれず、肩が、びくびくと、揺れる。


「小燕」

「ごめん。でも、あの『これからも、お前は俺の弟分だ』のところ、すごく、かっこよかったから」

「やめろ、やめてくれ」


文遠は、無言で、本を閉じた。それから、ぽつりと、言った。


「雷」

「……何だ」

「見直した」

「文遠」

「馬鹿だと思っていたが、馬鹿なりに、筋は、通っている」

「褒めてるのか、それは」

「褒めている」


大牙は、顔を覆ったまま、ぷるぷると、震えた。


メイリンは、おずおずと、しゃがんだ。


「大牙さん」

「……」

「顔を、上げてください」


ゆっくりと、大牙が、指の隙間から、こちらを覗いた。目は、真っ赤で、鼻の頭まで、赤かった。


「私は、笑いません」

「…………」

「あなたの気持ちを、笑う人がいたら、私が、許しません」


大牙は、ぱちぱちと、瞬きをした。それから、ふいに、ぐしゃりと、顔を歪めた。


「お前、本当に、いい奴だな」

「ありがとうございます」

「そういうとこだ。そういうとこが、好きだったんだ」


涙と鼻水を拭いながら、大牙は、ばっと立ち上がった。


「よし! 素振りだ!」

「は?」

「素振り、千回! 今から! 煩悩を、全部、振り払う!」

「夜中ですよ」

「構わん! 付き合え、秦明!」

「え」

「付き合うよな、みんな」


大牙が、振り返った。三人は、顔を見合わせた。


「俺は、遠慮する」と、文遠。

「僕は、見学で」と、小燕。

「……五百回までなら」と、厚山。


結局、全員が、木剣を握らされた。


細い月の下で、練兵場の裏に、ぶん、ぶん、と、風を切る音が響いた。大牙の素振りは、いつもより、ずっと、力が籠っていた。


メイリンも、木剣を振りながら、そっと、彼を見た。


大きな背中が、闇の中で、揺れている。


(ごめんなさい)


心の中で、そっと、詫びた。


(全部、話しますから。婚礼の前夜に、必ず)


その時、この人は、どんな顔をするだろう。怒るだろうか。泣くだろうか。それとも、笑って、受け止めてくれるのだろうか。


答えは、まだ、わからなかった。


ただ、ひとつだけ、確かなことがあった。


この仲間たちを、騙したままでは、終われない。


月が、雲に隠れた。木剣の音だけが、夜の底で、いつまでも、続いていた。


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