最後のお忍び
一
「殿下。本気でございますか」
王宮の裏門の脇で、墨雲が、青い顔をして立っていた。両手には、なぜか、野菜の入った籠を提げている。
「本気だ」
「婚礼の前日に、お忍びで、下町へ。万が一のことがあれば」
「万が一のないように、お前が付いてくる」
「私は、荷運びでございます」
「そういう設定だ」
清軒は、着崩した質素な衣に、緩く結んだ黒髪。左耳の翡翠だけは外さずに、その上から、薄い布を巻いていた。
「似合わないな、その籠」
「殿下のご命令でございます」
「お前、本当に、嫌そうだな」
「嫌ではありません。心配なのです」
墨雲は、深い溜め息をついた。それから、声を落とした。
「ですが、わかっております。今日が、最後の、穏やかな日になるかもしれないのでしょう」
清軒は、何も答えなかった。ただ、ふっと、横を向いて笑った。
その時、裏門の影から、小柄な人影が、そっと現れた。
「お待たせしました」
メイリンだった。
町の少年が着るような、質素な麻の服。短い髪を、布で軽く包んでいる。いつもの鎧も剣もない。腰に、短い木剣だけを、帯びていた。
清軒の足が、一瞬、止まった。
「…………」
「どうしました」
「いや」
彼は、咳払いをして、視線を逸らした。
「似合う」
「え」
「その格好も、似合う」
「普通の服ですよ」
「普通の服が、似合うんだ」
メイリンは、目を丸くした。それから、頬を、わずかに赤らめて、俯いた。
「……行きましょうか」
「ああ」
後ろで、墨雲が、籠を抱えたまま、天を仰いだ。
「私は、いないものと思ってください」
二
昼下がりの、東の下町は、賑やかだった。
軒を連ねる屋台から、湯気が立ちのぼる。饅頭の甘い匂い、焼いた魚の香ばしい匂い、魚売りの威勢のいい声。子供たちが、路地を走り抜けていく。
「変わらないな」
清軒が、呟いた。
「ここは」
「ええ。何も、変わっていない」
メイリンも、頷いた。
三月前、同じ道を、二人で歩いた。互いに偽りの名を名乗り、同じ事件を追いながら、少しずつ、距離を縮めていた。
あの頃の自分に、教えてあげたい気がした。数か月後には、あなたは短い髪で、男の格好をして、この道を歩いている、と。そして、隣には、同じ人がいる、と。
「何を考えている」
「昔のことを」
「そうか」
清軒が、屋台の前で足を止めた。
「おい。二つ」
「へい、毎度!」
差し出された紙包みの中で、白い饅頭が、ほかほかと湯気を立てている。清軒は、その一つを、メイリンに渡した。
「熱いぞ」
「いただきます」
一口、かじる。餡の甘さが、口いっぱいに広がった。思わず、頬が緩む。
「おいしい」
「だろう。あの時も、これを食べた」
「覚えています」
「お前、三つ食べた」
「二つです」
「三つだ」
「二つです」
くだらない言い合いが、ひどく懐かしかった。
後ろから、墨雲が、籠を抱えて、小走りでついてくる。すれ違う町人に、いちいち頭を下げていた。
「あの、すみません。荷運びでございます。通ります」
メイリンは、くすくすと笑った。
「墨雲様、お似合いですよ」
「全く、嬉しくありません」
三
茶屋の赤い提灯は、昼でも、軒先に揺れていた。
「いらっしゃい」
ほうきを持った老婆が、顔を上げた。皺だらけの目が、ぱちぱちと瞬き、それから、きらりと光った。
「おや、墨雲さんじゃないか」
「婆さん。久しぶり、というほどでもないか」
「こないだの夜に来たばかりだよ」
老婆は、清軒の隣の人影を、じっと見た。
メイリンは、少し緊張して、頭を下げた。
「お邪魔します」
「ああ、いらっしゃい」
老婆の目が、細くなった。髪を覆った布。男の子のような服。それでも、その顔を、じっと見つめる。
「……おや、まあ」
小さな、驚きの声だった。
「どうした」と、清軒。
「いや。何でもないよ」
老婆は、にっと笑った。歯の抜けた、気のいい笑顔だった。
「いい坊やだねえ。墨雲さんの、お連れかい」
「ああ」
「ゆっくりしていきな。お茶を淹れるよ」
何も言わなかった。けれど、その目が、すべてを知っているように、優しく笑っていた。
(梅婆さん)
メイリンは、そっと、頭を下げた。
その時、店の奥から、小さな影が、飛び出してきた。
「秦明さん!」
阿栗だった。
痩せた体に、今度は、きちんとした前掛け。顔色が、以前より、ずっとよくなっている。大きな目を、きらきらと輝かせて、メイリンに駆け寄った。
「来てくれたんだ!」
「阿栗」
メイリンは、膝をついて、少年の肩を抱いた。
「元気そうね」
「うん! 梅婆さんが、ご飯、いっぱい食べさせてくれるんだ。毎日、お使いもするし、お茶も淹れるんだよ」
「それは、立派」
「父さんも、帰ってきたんだ。借金がなくなって、今は、お婆さんのところで、荷物を運んでる」
メイリンは、思わず、清軒を見上げた。
清軒は、そっぽを向いて、窓の外を見ていた。
「……さあな。何のことやら」
「殿下」
「その呼び方は、よせ」
小さな声で、かわした。それから、咳払いをして、阿栗に向き直った。
「元気で、何よりだ」
「あ、墨雲さんだ」
阿栗は、清軒を見上げた。
「あのね、墨雲さん。僕、あの時、すごく怖かったけど。ちゃんと、橋に描けたんだよ。三日月」
「ああ。見つけた」
「ほんと?」
「ほんとだ。お前のおかげで、見つけられた」
阿栗の顔が、ぱっと輝いた。
清軒は、膝をついて、少年の目線に合わせた。
「ありがとうな」
その声は、驚くほど、優しかった。
阿栗は、鼻をすすった。
「僕、役に立てた?」
「ああ。とても」
「よかった……」
少年は、袖で、ぐしぐしと顔を拭った。
それから、ふと、メイリンの方を向いて、首を傾げた。
「ねえ、秦明さん」
「何?」
「秦明さんは、すごく、強い人だよね。地下で、鎖に繋がれてても、全然、泣かなかった。あの時、僕、思ったんだ。強い、お……」
そこで、阿栗は、言葉を止めた。
「お?」
「あ、えっと」
少年は、きょとんとして、自分の口を押さえた。
「ごめんなさい。何でもない。強い人だなって」
「ありがとう」
メイリンは、笑って、少年の頭を撫でた。
けれど、胸の奥が、小さく鳴った。
(今、何を、言いかけた)
阿栗は、不思議そうに、メイリンの顔を見つめていた。まるで、何かを、確かめるように。
そこへ、老婆の声が、飛んできた。
「こら、阿栗! 野暮なことを聞くんじゃないよ。お客さんに、お茶をお出し」
「はーい!」
少年は、慌てて、奥へ駆けていった。
老婆が、メイリンの方を向いて、ちらりと片目をつぶった。
メイリンは、思わず、吹き出した。
四
湯呑みから、湯気が立ちのぼっている。
窓際の席で、三人は、茶を飲んでいた。墨雲は、籠を足元に置いて、ようやく、肩の荷が下りたような顔をしている。
老婆が、盆を持って、近づいてきた。
「ところでね、墨雲さん」
「ん」
「あんたに、言っておきたいことがあるんだよ」
老婆は、盆を卓に置いた。それから、ずい、と顔を寄せた。
「あたしゃ、とうに、知ってたよ」
「何を」
「あんたの名前が、墨雲じゃないことさ」
清軒の手が、止まった。
墨雲が、茶を吹き出しかけて、慌てて口を押さえた。
「……知っていた、のか」
「当たり前だろう。あたしゃ、七十年、人の顔を見てきたんだ。名前を偽るやつの、目つきくらい、見ればわかる」
老婆は、くつくつと笑った。
「でもね、いいんだよ。名前なんて、どうでもいい。あんたは、あんただ。お茶を飲む時の、あの穏やかな顔も、あの別嬪さんを見る時の、あの目も、全部、本物だった」
「婆さん」
「こっちの兄さんが、本物の墨雲さんなんだろ?」
老婆は、墨雲の方を向いた。
墨雲は、茶碗を持ったまま、固まっていた。
「……は、はい。私が、本物の、墨雲でございます」
「そうかい。ずいぶん、苦労してるね」
「恐れ入ります……」
「名前を貸した男が、こんな顔しててさ。可哀想に」
墨雲は、目に涙を浮かべた。
「ご理解いただけて、嬉しゅうございます……!」
メイリンは、必死に、笑いをこらえた。
清軒が、じとりと墨雲を睨んだ。
「お前、泣くな」
「泣いておりません」
「泣いてる」
「感動しているだけです」
老婆は、ひとしきり笑ったあと、ふいに、優しい目になった。
「ねえ、お嬢さん」
小さく、囁くように、言った。
メイリンの肩が、びくりと跳ねた。
「あたしは、何にも見てないし、何にも言わないよ。ただね」
老婆は、メイリンの手を、皺だらけの両手で包んだ。
「髪が、短くても、長くても。男の格好をしてても、お姫様の着物を着てても。あんたは、あんただよ」
「…………」
「あの人が、あんたを見る目は、変わらない。あたしが、保証する」
胸が、熱くなった。
「ありがとう、ございます」
「いいんだよ。頑張りな」
老婆は、手を離して、くるりと背を向けた。
「さあ、仕事仕事。阿栗、お代わりをお出し」
「はーい!」
奥から、元気な返事が、返ってきた。
清軒が、そっと、卓の下で、メイリンの手を握った。
何も言わなかった。ただ、握った指が、ひどく温かかった。
五
茶屋を出ると、日が傾き始めていた。
川沿いの道を、三人は、ゆっくりと歩いた。夕陽が、水面に、橙色の光を、散らしている。
「そこの角を曲がると、石橋だ」
清軒が、足を止めた。
遠く、川の向こうに、あの石橋の影が見えた。欄干に、夕陽が差している。
「行きますか」
「いや」
清軒は、静かに首を振った。
「あそこは、全部終わってからだ」
「…………」
「約束の続きは、あの橋でしよう」
メイリンは、少し驚いて、彼を見た。
清軒は、橋の方を見たまま、続けた。
「あの夜の、続きを聞かせろと、お前は言った。だから、あの橋で、すべて終わったら。それまで、取っておく」
「……はい」
「石の欄干に、あの三日月が、まだ残っているかもしれない。消さずに、おいてある」
メイリンは、思わず、息を呑んだ。
清軒は、ちらりと、横目で彼女を見た。
「お前が、消すのを、待っている」
胸が、締めつけられた。
あの印は、先に来た方が描き、後から来た方が、それを消す。約束の合図。まだ、誰も、消していない。
「じゃあ、私が、消します」
「ああ」
「全部、終わったら」
「ああ」
夕陽が、二人の影を、長く伸ばした。
その後ろで、墨雲が、そっと咳払いをした。
「あの、お取り込み中、申し訳ございません。私は、見ておりません」
「また、それか」
「見ておりません!」
清軒とメイリンは、顔を見合わせて、笑った。
川風が、頬を撫でる。遠くで、鐘が鳴った。
「メイリン」
「はい」
清軒が、懐から、小さな包みを取り出した。
「これを」
「何ですか」
「開けてみろ」
メイリンは、包みを開いた。中から、小さな木の櫛が、現れた。丁寧に磨かれた、薄い色の櫛。端に、細く、月の形が彫られている。
「これは」
「髪が伸びたら、使え」
「…………」
「今は、短くて、梳く必要もないだろうが」
清軒は、少し照れたように、そっぽを向いた。
「伸びたお前の髪を、俺は、梳いてやりたい。その時のために、先に渡しておく」
メイリンは、櫛を、両手で包んだ。
「……ずるい」
「また、それか」
「何度でも、言います」
「好きにしろ」
涙が、滲んだ。けれど、笑った。
「大切に、します」
「ああ」
櫛を、懐に、そっとしまう。胸の奥に、小さな、しかし確かな温もりが、広がった。
六
軍営の門の前で、三人は、足を止めた。
空は、すでに、群青に近い色に染まっていた。東の空に、丸い月が、薄く浮かび始めている。
「明日は、満月だな」
「はい」
「怖いか」
「少しだけ」
メイリンは、正直に答えた。
「でも、今日は、とても、嬉しかったです」
「そうか」
「ありがとうございました」
清軒は、微笑んだ。それから、ふいに、メイリンの手首の紅を、そっと撫でた。
「それ、外すなよ」
「外しませんよ」
「何があっても」
「何があっても」
約束を交わして、指を離した。
「では、また、明日。月の下で」
「はい。……お待ちしています」
頷いて、メイリンは、門をくぐった。
振り向くと、夕闇の中で、二つの影が、まだ、こちらを見ていた。一人は、手を振っている。もう一人は、籠を抱えたまま、律儀に頭を下げていた。
門の内側で、メイリンは、大きく息を吸った。
大部屋の窓に、灯りが、ともっている。
(今夜、話そう)
大牙に。文遠に。小燕に。厚山に。
騙していたことを、きちんと、詫びて。全部を、話して。それでも、仲間と呼んでくれるなら。
その答えを、聞くために。
メイリンは、歩き出した。
懐の櫛が、小さく、コトリと鳴った。




