前夜
一
その夜、メイリンは、大部屋の四人を、順に見回した。
「聞いてほしいことがあります」
消灯後の部屋に、蝋燭が一本だけ灯っていた。大牙が、寝台の上で正座している。文遠は本を閉じ、小燕は膝を抱え、厚山は壁にもたれていた。
「私の、本当の名は、秦明凛といいます」
声が、少し震えた。
「侯爵家の娘です。そして」
息を吸う。
「女です」
静寂が、落ちた。
「……は?」
大牙の声が、裏返った。
「え。女? 誰が」
「私が」
「秦明が」
「はい」
「女」
「はい」
大牙は、口を開けたまま、固まった。三呼吸ののち、ゆっくりと、文遠を見た。
「お前、知ってたのか」
「ずいぶん前からだ」
「小燕!」
「えへへ。割と早いうちから、そうかなって」
「厚山さん!」
「満月を二つ、数える前からだ」
大牙は、頭を抱えて、布団に突っ伏した。
「みんな、知ってたのか……! 俺だけ……!」
「だから、一生かかると言ったろう」と、文遠がぼそりと呟いた。
しばらく、布団の中で唸っていた大牙が、ふいに、むくりと起き上がった。
「待て。じゃあ、俺が、あの夜、告白したのは」
「男にじゃなくて、女の子に、だな」と、文遠。
「男でもいいって、腹をくくって言ったのに! 女の子だったのか!」
叫んでから、大牙は、顔を真っ赤にして、ぱたりと倒れた。
「俺、馬鹿だ……!『性別は関係ない』なんて、偉そうに……! 女の子に、あんな雑な告白を……!」
「大牙さん、落ち着いて」
「俺は、女の子を、弟分と呼んでいたのか……!」
苦しむ大牙の背を、小燕が、笑いをこらえて叩いている。メイリンは、胸の奥が、じんと熱くなった。
「大牙さん」
「……何だ」
「ごめんなさい。騙していて」
大牙は、しばらく黙っていた。それから、のそりと顔を上げた。目が、真っ赤だった。
「……殿下か」
「え」
「お前の、好きな人。殿下だろう」
メイリンは、答えられなかった。
「見てりゃ、わかる。殿下の隣にいる時の、お前の顔は、俺と話す時と違う」
大牙は、鼻をすすった。
「殿下になら、仕方ねえ。俺は、そんなに頭が良くない。でも、強い。お前を、守ることはできる」
ぐい、と袖で目をこすり、大牙は、拳を突き出した。
「俺は、お前の仲間だ。弟分でも、兄貴分でもいい。何でも言え。体力なら、任せろ」
涙が、こぼれた。
「……ありがとう」
「泣くな! 俺が泣きそうになる!」
「もう泣いてるよ」と、小燕が言って、みんなが笑った。
二
メイリンは、計画を、静かに話した。
明日、満月の夜の婚礼の儀。令嬢として戻り、黒幕を炙り出すこと。国師が、護衛に秦明を指名したこと。
「儀式の会場は、月見台の下の広場です」と、文遠が、紙に図を描いた。「通路は三本。見張りの配置は、俺が洗っておく」
「兵の動員は、俺がやる」と、厚山が低く言った。「古参に、衰弱で仲間を亡くした者が多い。あいつらは、黙っていない」
「僕は、伝令をやるよ。足は速いから」と、小燕。
「俺は、突撃だ!」と、大牙が胸を叩いた。
それぞれの役割が、紙の上で、ひとつの形になっていく。
メイリンは、その光景を、胸に刻んだ。この人たちを騙していた自分を、それでも、仲間と呼んでくれる。
(独りじゃ、ない)
蝋燭の炎が、静かに揺れていた。
三
同じ頃、王宮の庭の片隅で、清軒は、陸景炎を待っていた。
「呼び出しとは、珍しいな」
景炎は、疲れた顔で笑った。
「頼みがある、と言っていたが」
「ああ。……いや、頼みじゃない」
清軒は、まっすぐ友の目を見た。
「彼女は、生きている」
景炎の息が、止まった。
「明日の儀式で、会える。ただし、お前の前に立つ時、彼女は、お前の花嫁ではなく、一人の貴族の娘として立つ」
「……無事、なのか」
「ああ。無事だ。元気すぎるくらいだ」
景炎の目から、ぽろりと、涙が落ちた。
「よかった」
声が、掠れた。
「本当に、よかった」
肩を震わせる友を見て、清軒は、胸が潰れそうになった。
「景炎。俺は、お前に、謝らなければならない」
「何を」
「俺は、彼女を、好きだ」
沈黙があった。
景炎は、涙を拭って、ゆっくりと顔を上げた。それから、苦笑した。
「知っていたよ」
「何」
「あの日、お前の筆が止まって、紙に染みができた。あんな動揺するお前を、初めて見た」
清軒は、目を見開いた。
「彼女が、お前を選んだのなら、私は、何も言えない」
景炎は、静かに言った。
「ただ、彼女が笑っていてくれるなら、それでいい。あの夜、月の下で言ってくれた言葉が、私は、今も忘れられないんだ」
「景炎」
「だから、必ず、守れ。そして、泣かせるな」
清軒は、深く頭を下げた。
「約束する」
「それと」
景炎は、少しだけ悪戯っぽく笑った。
「全部終わったら、一度、酒を奢れ。お前の奢りで、潰れるまで飲む」
「……わかった」
二人は、並んで、夜空を見上げた。細い月が、満ちる日を待っていた。
四
決戦の前の夜。
メイリンは、父が用意した、黒髪の鬘を、鏡の前で手に取った。
「母上の、髪だ」
剛毅が、そっと告げた。
「亡くなる前に、お前のために残していた。魔力は宿らんが、せめて、お前の晴れ舞台に」
鏡の中には、腰まで届く黒髪をまとった、令嬢の姿があった。四か月前の自分と、同じ顔。けれど、目の奥の光だけが、違っていた。
「失礼する」
扉の向こうから、声がした。
「入っていいか」
「どうぞ」
扉が開いた瞬間、清軒の足が、止まった。
「……」
「どうしました」
「いや」
彼は、片手で口元を覆った。耳が、赤い。
「見惚れた」
「清軒様」
「正直に言っているだけだ」
ふい、と視線を逸らして、彼は、小さく笑った。
「長い髪も、綺麗だ。でも、お前の、短い髪も、好きだ」
メイリンは、くすりと笑った。
「どちらも、私です」
「ああ」
清軒は、メイリンの手首に巻かれた赤い紐を、じっと見つめた。
「それを、貸してくれ」
「……はい」
ほどいて渡すと、彼は、鬘の黒髪をひと房すくい上げた。あの夜と同じ慣れた手つきで、赤い紐を結んでいく。耳元に、息がかかるほどの距離だった。
「やっぱり似合う。黒に赤は、目を引く」
「……あの夜も、そう言いました」
「覚えていたか」
結び目を整えながら、彼の声が、少しだけ低くなった。
「この珠のことを、きちんと話していなかった」
「家に伝わる品、と」
「嘘ではない。ただ、王家が代々、伴侶に渡す品だ。内側に、紋が刻んである」
メイリンは、息を呑んだ。
「……知らなかった」
「知っていたら、受け取らなかっただろう」
珠を、灯りにかざす。細い線が、確かに見えた。月を抱く、翡翠。あの夜、揺れる灯りで確かめられなかった刻みが、今、はっきりと目に映る。
「返事は、全部終わってから、お前が決めてくれ。受け取るか、返すか」
メイリンは、しばらく、珠を見つめていた。それから、ゆっくりと、結ばれた紐に指先を添えた。
「……預かります」
「ああ」
「返事は、終わってから」
「待っている」
窓の外に、ほとんど丸い月が、浮かんでいた。
「怖いか」
「はい」
「俺もだ」
清軒は、メイリンの手を、そっと握った。その指先は、わずかに冷たかった。
「でも、一緒なら、行ける気がする」
「……はい」
手の温もりを、確かめるように、強く握り返す。
明日、満月が昇る。
それは、真実が、すべて暴かれる夜になる。




