婚礼の儀
一
満月が、望月京の空に昇った。
月見台の下の広場には、篝火が焚かれ、白い幕が張り巡らされていた。貴族たちが居並び、鎧を着た兵が四方を固める。婚礼の儀というには、あまりに重々しい空気だった。
王太子の席に、清軒が座っている。軽薄な笑みは消え、その目は、広場全体を静かに見渡していた。
「殿下」と、隣の墨雲が囁いた。「王弟殿下が」
壇の端に、背の高い壮年の男が立っていた。清軒の叔父であり、剣の師でもある王弟・柳景陽。先日、別邸で共に戦った時と同じ鋭い目が、こちらを向いて、ほんの一瞬だけ、頷いた。
「清軒」
「叔父上」
「兄上は、今夜も病床か」
「はい」
「いつまで続くのだろうな、この病は」
低い声に、棘があった。景陽は、それ以上何も言わず、自分の席へ向かった。
祭壇の上に、国師が現れた。
純白の法衣に、腰まで届く白髪。穏やかな微笑みを浮かべた老人が、両手を広げると、広場が静まり返った。
「本日、陸景炎殿と、秦侯の息女との、婚礼の儀を執り行います」
祭壇の下に、花婿の衣を着た景炎が立っている。顔は、血の気を失っていた。
「されど、花嫁は、不在。よって、月の巫女が、その代わりを務めます」
国師の合図で、白い衣の少女が、祭壇へ導かれた。その傍らには、護衛隊長の秦明が、兜を目深にかぶって付き従っている。
広場の隅で、岩のような男が、ゆっくり立ち上がった。
「お待ちを」
低い声が、広場に響いた。
「秦侯」と、宰相が、驚きの声を上げた。
「娘が、戻りました」
静寂のあと、どよめきが起きた。
群衆の間から、一人の令嬢が、ゆっくりと歩み出た。外套を脱ぎ捨てた下には、白い婚礼の衣。腰まで届く黒髪。その髪には、赤い紐が結ばれ、端に、翡翠の珠が光っていた。
「秦家の娘、明凛にございます」
澄んだ声が、広場に響いた。
景炎が、息を呑んだ。その目から、涙が、静かにこぼれ落ちた。
「……無事で」
「ご心配を、おかけしました」
メイリンは、深く頭を下げた。景炎に向けた笑顔は、ほんの少しだけ、切なかった。
国師が、微笑んだ。
「よくぞ、お戻りになりました」
その声には、少しの驚きもなかった。
祭壇の脇へ下がるよう促された白い衣の少女が、石段の端で、身を縮めた。衣の裾を握りしめる指が、小刻みに震えている。
その傍らの護衛が、兜の下で、ふうっと、長い息を吐いた。
(出番、終わった……いや、まだ、これからだった)
小燕だった。
昨夜遅く、清軒の執務室に呼ばれたのだ。
「頼みがある」
「僕に?」
「明日、秦明の代わりに、巫女の護衛に立ってくれ。兜をかぶれば、遠目には誰も気づかん」
「どうして、僕が」
「お前が、一番、背丈が近い。それに、お前なら、土壇場でも落ち着いていられる」
「でも、国師様が指名したのは」
「だからだ。秦明の場所を、空けるわけにはいかない」
清軒の目が、ふと、小燕の腕の燕の刺繍の布に落ちた。何か言いかけて、唇が止まる。
「殿下?」
「……いや。何でもない。終わってから、話す」
真剣な目で言われて、断れなかった。
(秦明っぽく、秦明っぽく……低い声で、ゆっくり……)
国師の視線が、ちらりと、その兜に向いた。何も言わないまま、すぐに逸れた。
二
「では、儀式を」
国師の号令で、月が中天にかかった。祭壇の中央に、銀の器が、静かに置かれた。
メイリンは、祭壇の中央に立った。景炎が、花婿として、その向かいに並ぶ。
国師の祝詞が、低く、長く、夜気に溶けていく。
器が、淡く光り始めた。
(来る)
魔力の流れを、読む。器から細い糸が伸び、足元の石を通り、メイリンの足裏から、体の内へ、冷たく這い上がってくる。
吸われる。
膝が、揺れそうになる。けれど、顔には出さない。魔力を、必死に、心の底に沈めた。
清軒が、遠くの席から、目だけで合図を送ってきた。
広場の四隅で、古参の兵たちが、無言で位置を変えていた。厚山の巨体が、列の端に見える。祭壇の石段では、小柄な護衛が、直立不動で固まっていた。大牙は、鼻息荒く、拳を握りしめていた。
(あと少し)
器から立ちのぼる光が、強くなっていく。メイリンの髪が、鬘の下で、ちりちりと疼いた。
その時、読み取ってしまった。
吸い上げられた魔力は、国師の元へ流れる。けれど、それだけではなかった。糸の奥の奥に、もっと太い流れがあった。祭壇の下から、広場を越え、はるか遠く、王宮の奥深くへ、細く長く伸びていく。
(王宮に)
背筋が、凍った。
「止めてください」
メイリンは、声を張り上げた。
「この儀式は、婚礼ではありません」
広場が、ざわめいた。
「これは、月移しの儀です。黒髪の血筋の魔力を、他人へ移す禁術」
「何を」と、宰相が青ざめた。
「満月の月の力が強い今夜に儀式をし、今、私の魔力を器に吸い上げている。そして、その魔力は」
メイリンは、国師を、まっすぐに見据えた。
「王宮の奥へ、流れている」
静寂が、落ちた。
国師は、ゆっくりと、笑みを深めた。
「ここまで、辿り着かれたか」
三
国師が、静かに、白い法衣を脱いだ。
その下から現れたのは、漆黒の衣だった。懐から、白い手袋を取り出し、ゆっくりと指に嵌める。
「あの夜の」
清軒が、立ち上がった。
「黒衣は、あなただったのか」
「殿下」
国師は、穏やかに言った。
「大きくなられました。幼い頃、膝の上で眠っていた子が、今や王太子として、私の前に立つ」
「先生」
清軒の声が、掠れた。
「なぜ」
「国のためです」
国師は、静かに答えた。
「あの方を、失うわけには、いかないのです。あの方がいなくなれば、この国は、崩れる」
「あの方、とは」
「いずれ、おわかりになります」
白髪が、月明かりに揺れる。後頭部の内側に残っていた黒が、今は、ほとんど見えなかった。
「将軍」
国師が、声をかけた。
「は」
壇の脇から、鄭烈風が、豪快に現れた。鎧の肩に、赤い房が揺れている。
「かかれ」
号令と共に、将軍の私兵が、一斉に剣を抜いた。
「全員、捕らえよ! 秦侯の娘は、生きたまま」
広場が、騒乱に包まれた。
「突撃ーーー!!」
大牙の絶叫が、広場に響き渡った。古参の兵が、雪崩のように、私兵へ襲いかかる。厚山の巨体が、三人まとめて吹き飛ばした。祭壇の石段では、兜を跳ね上げた小燕が、駆け上がってきた私兵の剣を蹴り飛ばす。その拍子に、懐から、燕の刺繍の古い布が、ひらりと石畳に落ちた。
祭壇の上で、国師の視線が、一瞬だけ、その布を追った。
「……」
唇が、何かを言いかけて、止まった。誰も、気づかなかった。ただ一人、祭壇の上のメイリンだけが、その横顔の揺れを、目の端に捉えていた。
「殿下!」
墨雲が、王太子の前に飛び出した。
「お下がりを!」
「お前こそ下がれ! 官服のくせに!」
「これでも、剣は習いました!」
悲鳴のような叫びと共に、墨雲が、剣を抜いた。
口では「ひいい」「お許しを」などと喚いている。けれど、その剣は、悲鳴とは別物だった。迫る私兵の剣を、最小の動きで払い、手首を打ち、返す柄で顎を砕く。三人、四人と、音もなく地に伏していく。
「……お前」
清軒が、呆れた声を漏らした。
「やっぱり、強いだろう」
「必死なだけです!」
祭壇の石段の端で、少女が、悲鳴を上げた。
「いやっ」
小燕が二人の私兵に囲まれて動けない隙に、別の私兵が、少女の腕を掴んでいた。人質にするつもりなのだ。
墨雲の目つきが、変わった。
次の瞬間、彼の姿は、清軒の隣から消えていた。石段を一息に駆け上がり、剣が閃く。少女の腕を掴んでいた男の肘が鈍い音を立て、手が少女の腕から外れ、体ごと吹き飛んで、石畳に叩きつけられた。
「お怪我は」
墨雲は、少女の前に膝をつき、静かに尋ねた。
「だ、大丈夫、です」
「それは、よかった。私の後ろへ。決して、離れないでください」
少女を背に庇って、剣を構える。その背中は、さっきまでとは別人のように大きく見えた。
「剣は、嫌いなんですが」
小さくぼやいたその声に、少女は、涙の残る目を、ぱちぱちと瞬かせた。
広場の中央では、鄭烈風が、秦剛毅と、向き合っていた。
「秦侯」
「将軍」
二つの巨体が、同時に踏み込む。剣が打ち合う音が、広場の騒乱を貫いた。
メイリンは、祭壇の上で、国師と向き合っていた。
「やはり、お強い」
国師の指が、軽く振られた。
満月の光が、渦を巻いた。
無数の鎖が、四方から襲いかかる。メイリンは、鬘を払い落とした。短い髪が、月明かりに晒される。
「盾!」
薄い盾が、ひび割れながら、鎖を受け止めた。けれど、器が、足元から、彼女の魔力を吸い上げていく。
「素晴らしい。その魔力」
国師の声が、うっとりと響いた。
「あの方も、お喜びになる」
膝が、がくりと崩れた。
視界が、霞む。
「メイリン!」
清軒の叫びが、遠くに聞こえた。
(まだ、負けない)
唇を噛んで、赤い紐を、握りしめた。
満月の夜は、まだ、始まったばかりだった。




