あの方
一
膝が、石畳についた。
器の光が、足元から魔力を吸い上げていく。視界の端で、銀の光が渦を巻いていた。
「メイリン!」
清軒が、人波を斬り払って、祭壇へ駆け上がった。その前に、白い手袋の指が、すっと立ちはだかる。
「殿下。ここから先は、通せません」
「先生。どいてください」
「できません」
国師の目は、穏やかだった。穏やかなまま、一歩も引かなかった。
「あの方のために。私は、すべてを捧げると誓いました」
月光の鎖が、四方から清軒に襲いかかる。清軒は、月光の刃で、一本ずつ斬り払った。けれど、その剣先には、わずかな迷いがあった。
「殿下の腕なら、私を斬れる。それでも、斬れませんか」
「……」
「それが、あなたの優しさです。ですが、今は」
鎖が、清軒の腕を絡め取った。
その時、メイリンの背後に、別の鎖が伸びた。足を取られ、体が傾く。
「秦明ッ!」
巨大な影が、飛び込んできた。大牙だった。鎖を素手で掴み、肩で受け止めて、そのまま引きちぎる。皮膚の焼ける匂いがした。
「大牙さん、腕が」
「かすり傷だ!」
歯を食いしばりながら、彼は、背中でメイリンを庇って立った。
「いいか、よく聞け。俺は頭は悪いが、盾にはなれる。お前が誰を好きでも、そこは変わらん! 立て、メイリン!」
初めて、本当の名で呼ばれた。声が、少し震えていた。
「……はい」
メイリンは、膝に力を込めた。
(守られているだけじゃ、いけない)
髪を切った時も、軍に潜った時も、そう思ってきた。膝をついたまま、自分の掌を見つめる。
(髪に宿ると、教わった。でも、本当は)
髪は、貯蔵庫にすぎない。魔力の源は、髪ではない。自分の中にある。守りたいと思う、意志の中に。
息を吸って、吐く。
器の光が、体を貫いていく。それでも、心の底に、小さな灯りが、確かに残っていた。
払い落とした鬘から、咄嗟に解いておいた赤い紐が、手首で熱を帯びていた。
珠が、光っている。
同時に、清軒の左耳の翡翠が、同じ色に、脈を打った。
二
「清軒様。耳飾りを」
「何」
「珠と耳飾りは、対です。二つを、重ねて」
清軒は、はっとして、鎖に絡め取られた腕を、力ずくで振り解いた。メイリンへ手を伸ばす。メイリンも、手首の紐を、彼へ差し出した。
指が、触れた。
珠と耳飾りが、響き合った。
翡翠の緑の光が、二人の体を包み込む。王家の魔力と、黒髪の血筋の魔力が、ひとつに溶けていく。奪うのでも、奪われるのでもない。ただ、互いに分け合う力だった。
月見台の刻文が、頭をよぎった。
――月を抱く者と、黒き髪の者、手を取りて、霊脈に魔力を返せ。
(これが、本当の)
「古い、祈りの」
国師が、目を見開いた。
「なぜ、お二人が。その形が、いま、現れるなど」
広場に、翡翠色の光が満ちた。
銀の器が、ひびを走らせる。吸い上げられていた魔力が、器から、ほどけていく。光の糸は、地を這い、広場を越え、夜の街を抜けて、軍営と医務棟の方角へ、ひとすじ、またひとすじと伸びていった。
しばらくして、息を切らした古参の伝令が、広場へ駆け込んできた。
「厚山殿! 医務棟の者たちが、目を開けました! 灰色だった髪の根元が、黒く、戻っています!」
「兵が」
厚山の声が、震えた。
寝たきりだった仲間たちが、遠い寝台の上で、呻きながら、目を開けている。それを思うだけで、胸が詰まった。
けれど、メイリンには、わかった。
(全部じゃない)
戻ったのは、器に溜まっていた分だけ。五年、二年、ずっと吸い上げられてきた分の大半は、とうに、王宮の奥へ流れ去っている。
そして、祭壇の下から王宮へ伸びていた、あの太い流れ。それが、ぷつり、と音もなく切れた。切れた先で、遠い何かが、悲鳴を上げた気がした。
「やめろ」
国師が、膝をついた。
「やめてくれ。流れを、止めないでくれ。あの方が」
白い手袋の手が、器の欠片を掻き集める。その指の間から、白髪が、一筋、また一筋と、色を失って落ちていく。
「国師様」
その時、小燕が、国師の前に、ふらりと歩み出た。懐から、燕の刺繍の布が、また、のぞいている。
「あの。あなたは、この布を、知っているんですか」
国師の目が、布に落ちた。
唇が、わずかに動いた。
「……燕」
声にならない声だった。
「そうか。あなたは」
そこで、言葉が途切れた。国師は、何かを飲み込むように、固く口を閉ざした。それ以上は、何を問われても、首を横に振るだけだった。
三
「国師がしくじろうと、軍は渡さん!」
咆哮が、静寂を破った。
鄭烈風が、剛毅の剣を弾き、後ろへ跳んだ。鎧の下から、月長石の指輪が、禍々しく光る。
「俺は、軍を手に入れる。この国の誰にも、渡さん」
「見苦しい」
秦剛毅が、剣を構え直した。
「将軍。貴殿は、野心に溺れた。兵は、貴殿の駒ではない」
「黙れ!」
指輪が、強烈な光を放った。
「させません」
メイリンの鎖が、指輪を貫いた。月長石が、ぴしりと音を立てて、砕け散る。
「何」
烈風の顔が、驚愕に歪んだ。
「その指輪で、兵の魔力を、集めていたのですね」
「……違う」
烈風は、割れた指輪を見つめて、呆然と呟いた。
「これは、ただの、受信の石だ。吸うのは、俺ではない。俺は、国師に言われた通り、兵を送り込んだだけだ」
「では、月見台の鍵は」と、メイリンが問うた。
「鍵? 俺の石は、そんな色ではない」
烈風は、苛立たしげに吐き捨てた。
「あの白い石は、俺には、触らせてもらえなかった。国師にも、だ。あれは、もっと上の」
そこで、烈風は、はっと口を噤んだ。剛毅の剣が、その首筋に、ぴたりと当てられていた。
「続きは、牢で聞こう」
烈風の巨体が、縄をかけられた。
国師の指から、白い手袋が、はらりと落ちた。
その下の手は、骨と皮ばかりに痩せていた。白髪は、いまや、粉雪のように、さらさらと色を失い続けている。
「先生」
清軒が、膝をついた。
「教えてください。あの方とは、誰ですか」
国師は、長いこと、清軒の顔を見つめていた。
「殿下。私は、昔から、あなたに嘘をついたことが、ほとんどない」
「では」
「ですから、お答えしません」
静かな微笑みだった。
「すべては、私ひとりの罪です。そう記して、裁きをお受けします。それが、私の、最後の忠義です」
「先生」
「殿下。月を、お大事に」
それが、国師の、最後の言葉になった。以降、彼は、牢の中で、ひとことも口を開かなくなる。
四
夜明け前、広場には、静けさが戻っていた。
乱闘で傷ついた兵たちは、担がれて、医務棟へ運ばれていく。景陽の私兵が、広場の四つの出口を固め、周鉄が、疲れた顔で名簿を読み上げていた。
「兄上は、結局、来なかったな」
清軒の隣に、景陽が立った。
「国の大事な儀式に、名代のひとりも、寄越さん。国師の言いなりだったのか、それとも」
「叔父上」
「疑うな、とは言わん。だが、確かめもせず、断ずるな。わしは、お前に、そう教えたはずだ」
景陽は、それだけ言って、背を向けた。ふと、立ち止まる。
「ところで、あの布のことだが」
「王弟家の紋の」
「文遠と言ったか、あの若者が、気づいたそうだ」
景陽は、振り返らずに言った。
「うちの紋の柳の葉は、三枚だ。あの布は、四枚あったらしい」
清軒の目が、鋭く光った。
「叔父上に罪を着せようとした者がいる、と」
「着せようとしたのか、わしが、わざと偽の布を作らせたと、思わせたいのか。どちらでも、面倒な話だ」
苦笑を残して、景陽は、人波の中へ消えた。
少し離れた石段の下に、毛布にくるまった白い衣の少女がいた。その傍らで、袖の破れた官服の墨雲が、膝をついて、水の入った椀を差し出している。
「飲めますか」
「はい。……ありがとう、ございます」
少女は、両手で椀を受け取り、ちらりと墨雲の袖に目をやった。
「袖が」
「お気になさらず。官服は、替えがきます」
「でも、先月、新調したばかりと」
「そんなことを、言いましたか、私」
少女が、小さく笑った。涙の跡の残る頬が、少しだけ、緩んでいた。
メイリンは、その様子を、遠くから見ていた。国師との約束を、思い出す。
(あの子だけは、無事に)
守ったのは、自分ではなかった。けれど、約束は、果たされた。
墨雲が、清軒に気づいて、少女を駆けつけた女官に託し、息を切らして駆けてきた。
「殿下。ご報告が、二つ」
「聞こう」
「ひとつ。侍医の記録を、洗いました」
墨雲は、書き付けを広げた。
「陛下の脈が安定するのは、決まって、満月の、翌朝です。ここ数年、毎月」
清軒の指が、止まった。
「もうひとつ。宝物庫の目録に、月長石の鍵が、一対、とありました。乳白色の、揃いの品です。片方は、宝物庫に。もう片方は、十一年前に、持ち出されています」
「誰が」
「署名は、先の王妃様の、お名前でした」
清軒の呼吸が、一瞬、止まった。
「母上が」
「はい。ただし、その署名の筆跡は」
墨雲は、ためらいがちに続けた。
「勅書の筆跡と、似ているような、似ていないような。私には、判断がつきません」
夜明けの空が、白み始めていた。
清軒は、しばらく、何も言わなかった。やがて、静かに、メイリンのほうを振り返った。
「……全部は、終わっていない」
「はい」
「国師は、何も語らない。将軍は、使い走りだ。宰相は、脅されていた。それでも、鍵は、ひとつ余っている」
「ええ」
「だが」
清軒は、メイリンの手を取った。
「お前が、生きている。兵たちが、戻ってきた。今は、それで、十分だ」
メイリンは、頷いた。
遠くの王宮の奥で、朝の鐘が、鳴り始めた。いつもより、少しだけ、ゆっくりと。




