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黒い髪  作者: 八重


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29/32

あの方

一

膝が、石畳についた。


器の光が、足元から魔力を吸い上げていく。視界の端で、銀の光が渦を巻いていた。


「メイリン!」


清軒が、人波を斬り払って、祭壇へ駆け上がった。その前に、白い手袋の指が、すっと立ちはだかる。


「殿下。ここから先は、通せません」

「先生。どいてください」

「できません」


国師の目は、穏やかだった。穏やかなまま、一歩も引かなかった。


「あの方のために。私は、すべてを捧げると誓いました」


月光の鎖が、四方から清軒に襲いかかる。清軒は、月光の刃で、一本ずつ斬り払った。けれど、その剣先には、わずかな迷いがあった。


「殿下の腕なら、私を斬れる。それでも、斬れませんか」

「……」

「それが、あなたの優しさです。ですが、今は」


鎖が、清軒の腕を絡め取った。


その時、メイリンの背後に、別の鎖が伸びた。足を取られ、体が傾く。


「秦明ッ!」


巨大な影が、飛び込んできた。大牙だった。鎖を素手で掴み、肩で受け止めて、そのまま引きちぎる。皮膚の焼ける匂いがした。


「大牙さん、腕が」

「かすり傷だ!」


歯を食いしばりながら、彼は、背中でメイリンを庇って立った。


「いいか、よく聞け。俺は頭は悪いが、盾にはなれる。お前が誰を好きでも、そこは変わらん! 立て、メイリン!」


初めて、本当の名で呼ばれた。声が、少し震えていた。


「……はい」


メイリンは、膝に力を込めた。


(守られているだけじゃ、いけない)


髪を切った時も、軍に潜った時も、そう思ってきた。膝をついたまま、自分の掌を見つめる。


(髪に宿ると、教わった。でも、本当は)


髪は、貯蔵庫にすぎない。魔力の源は、髪ではない。自分の中にある。守りたいと思う、意志の中に。


息を吸って、吐く。


器の光が、体を貫いていく。それでも、心の底に、小さな灯りが、確かに残っていた。


払い落とした鬘から、咄嗟に解いておいた赤い紐が、手首で熱を帯びていた。


珠が、光っている。


同時に、清軒の左耳の翡翠が、同じ色に、脈を打った。


二


「清軒様。耳飾りを」

「何」

「珠と耳飾りは、対です。二つを、重ねて」


清軒は、はっとして、鎖に絡め取られた腕を、力ずくで振り解いた。メイリンへ手を伸ばす。メイリンも、手首の紐を、彼へ差し出した。


指が、触れた。


珠と耳飾りが、響き合った。


翡翠の緑の光が、二人の体を包み込む。王家の魔力と、黒髪の血筋の魔力が、ひとつに溶けていく。奪うのでも、奪われるのでもない。ただ、互いに分け合う力だった。


月見台の刻文が、頭をよぎった。


――月を抱く者と、黒き髪の者、手を取りて、霊脈に魔力を返せ。


(これが、本当の)


「古い、祈りの」


国師が、目を見開いた。


「なぜ、お二人が。その形が、いま、現れるなど」


広場に、翡翠色の光が満ちた。


銀の器が、ひびを走らせる。吸い上げられていた魔力が、器から、ほどけていく。光の糸は、地を這い、広場を越え、夜の街を抜けて、軍営と医務棟の方角へ、ひとすじ、またひとすじと伸びていった。


しばらくして、息を切らした古参の伝令が、広場へ駆け込んできた。


「厚山殿! 医務棟の者たちが、目を開けました! 灰色だった髪の根元が、黒く、戻っています!」


「兵が」


厚山の声が、震えた。


寝たきりだった仲間たちが、遠い寝台の上で、呻きながら、目を開けている。それを思うだけで、胸が詰まった。


けれど、メイリンには、わかった。


(全部じゃない)


戻ったのは、器に溜まっていた分だけ。五年、二年、ずっと吸い上げられてきた分の大半は、とうに、王宮の奥へ流れ去っている。


そして、祭壇の下から王宮へ伸びていた、あの太い流れ。それが、ぷつり、と音もなく切れた。切れた先で、遠い何かが、悲鳴を上げた気がした。


「やめろ」


国師が、膝をついた。


「やめてくれ。流れを、止めないでくれ。あの方が」


白い手袋の手が、器の欠片を掻き集める。その指の間から、白髪が、一筋、また一筋と、色を失って落ちていく。


「国師様」


その時、小燕が、国師の前に、ふらりと歩み出た。懐から、燕の刺繍の布が、また、のぞいている。


「あの。あなたは、この布を、知っているんですか」


国師の目が、布に落ちた。


唇が、わずかに動いた。


「……燕」


声にならない声だった。


「そうか。あなたは」


そこで、言葉が途切れた。国師は、何かを飲み込むように、固く口を閉ざした。それ以上は、何を問われても、首を横に振るだけだった。


三


「国師がしくじろうと、軍は渡さん!」


咆哮が、静寂を破った。


鄭烈風が、剛毅の剣を弾き、後ろへ跳んだ。鎧の下から、月長石の指輪が、禍々しく光る。


「俺は、軍を手に入れる。この国の誰にも、渡さん」


「見苦しい」


秦剛毅が、剣を構え直した。


「将軍。貴殿は、野心に溺れた。兵は、貴殿の駒ではない」

「黙れ!」


指輪が、強烈な光を放った。


「させません」


メイリンの鎖が、指輪を貫いた。月長石が、ぴしりと音を立てて、砕け散る。


「何」


烈風の顔が、驚愕に歪んだ。


「その指輪で、兵の魔力を、集めていたのですね」

「……違う」


烈風は、割れた指輪を見つめて、呆然と呟いた。


「これは、ただの、受信の石だ。吸うのは、俺ではない。俺は、国師に言われた通り、兵を送り込んだだけだ」

「では、月見台の鍵は」と、メイリンが問うた。

「鍵? 俺の石は、そんな色ではない」


烈風は、苛立たしげに吐き捨てた。


「あの白い石は、俺には、触らせてもらえなかった。国師にも、だ。あれは、もっと上の」


そこで、烈風は、はっと口を噤んだ。剛毅の剣が、その首筋に、ぴたりと当てられていた。


「続きは、牢で聞こう」


烈風の巨体が、縄をかけられた。


国師の指から、白い手袋が、はらりと落ちた。


その下の手は、骨と皮ばかりに痩せていた。白髪は、いまや、粉雪のように、さらさらと色を失い続けている。


「先生」


清軒が、膝をついた。


「教えてください。あの方とは、誰ですか」


国師は、長いこと、清軒の顔を見つめていた。


「殿下。私は、昔から、あなたに嘘をついたことが、ほとんどない」

「では」

「ですから、お答えしません」


静かな微笑みだった。


「すべては、私ひとりの罪です。そう記して、裁きをお受けします。それが、私の、最後の忠義です」

「先生」

「殿下。月を、お大事に」


それが、国師の、最後の言葉になった。以降、彼は、牢の中で、ひとことも口を開かなくなる。


四


夜明け前、広場には、静けさが戻っていた。


乱闘で傷ついた兵たちは、担がれて、医務棟へ運ばれていく。景陽の私兵が、広場の四つの出口を固め、周鉄が、疲れた顔で名簿を読み上げていた。


「兄上は、結局、来なかったな」


清軒の隣に、景陽が立った。


「国の大事な儀式に、名代のひとりも、寄越さん。国師の言いなりだったのか、それとも」

「叔父上」

「疑うな、とは言わん。だが、確かめもせず、断ずるな。わしは、お前に、そう教えたはずだ」


景陽は、それだけ言って、背を向けた。ふと、立ち止まる。


「ところで、あの布のことだが」

「王弟家の紋の」

「文遠と言ったか、あの若者が、気づいたそうだ」


景陽は、振り返らずに言った。


「うちの紋の柳の葉は、三枚だ。あの布は、四枚あったらしい」


清軒の目が、鋭く光った。


「叔父上に罪を着せようとした者がいる、と」

「着せようとしたのか、わしが、わざと偽の布を作らせたと、思わせたいのか。どちらでも、面倒な話だ」


苦笑を残して、景陽は、人波の中へ消えた。


少し離れた石段の下に、毛布にくるまった白い衣の少女がいた。その傍らで、袖の破れた官服の墨雲が、膝をついて、水の入った椀を差し出している。


「飲めますか」

「はい。……ありがとう、ございます」


少女は、両手で椀を受け取り、ちらりと墨雲の袖に目をやった。


「袖が」

「お気になさらず。官服は、替えがきます」

「でも、先月、新調したばかりと」

「そんなことを、言いましたか、私」


少女が、小さく笑った。涙の跡の残る頬が、少しだけ、緩んでいた。


メイリンは、その様子を、遠くから見ていた。国師との約束を、思い出す。


(あの子だけは、無事に)


守ったのは、自分ではなかった。けれど、約束は、果たされた。


墨雲が、清軒に気づいて、少女を駆けつけた女官に託し、息を切らして駆けてきた。


「殿下。ご報告が、二つ」

「聞こう」

「ひとつ。侍医の記録を、洗いました」


墨雲は、書き付けを広げた。


「陛下の脈が安定するのは、決まって、満月の、翌朝です。ここ数年、毎月」


清軒の指が、止まった。


「もうひとつ。宝物庫の目録に、月長石の鍵が、一対、とありました。乳白色の、揃いの品です。片方は、宝物庫に。もう片方は、十一年前に、持ち出されています」

「誰が」

「署名は、先の王妃様の、お名前でした」


清軒の呼吸が、一瞬、止まった。


「母上が」

「はい。ただし、その署名の筆跡は」


墨雲は、ためらいがちに続けた。


「勅書の筆跡と、似ているような、似ていないような。私には、判断がつきません」


夜明けの空が、白み始めていた。


清軒は、しばらく、何も言わなかった。やがて、静かに、メイリンのほうを振り返った。


「……全部は、終わっていない」

「はい」

「国師は、何も語らない。将軍は、使い走りだ。宰相は、脅されていた。それでも、鍵は、ひとつ余っている」

「ええ」

「だが」


清軒は、メイリンの手を取った。


「お前が、生きている。兵たちが、戻ってきた。今は、それで、十分だ」


メイリンは、頷いた。


遠くの王宮の奥で、朝の鐘が、鳴り始めた。いつもより、少しだけ、ゆっくりと。


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