開かずの扉
一
王宮の小さな会議室には、卓いっぱいに、書き付けと古い書簡が広げられていた。
「結論から申し上げます」
文遠は、いつもの調子で、淡々と口を開いた。向かいには、清軒、景陽、メイリン、墨雲。四人とも、卓の上の紙を、息を詰めて見つめている。
「まず、月見台の刻文です。最後の一行、『月を、移せ』。あれを彫ったのは、五年前。月見台の石工の記録に、『王の勅による追加彫り』とありました」
「五年前」と、景陽が呟いた。「兄上の魔力が、衰え始めたと言われる頃だ」
「はい。次に、勅書です」
文遠は、二枚の紙を並べた。
「縁談の勅書の筆跡と、先の王妃様の署名が入った、宝物庫の目録。似ているが、同じではない。そこで、陛下の若い頃の直筆と、比べてみました」
「陛下の」
「勅書の字は、陛下の字ではありません。ただ、筆の運びの根が、同じです。止めの癖、払いの角度」
文遠は、墨雲の方へ目をやった。
「墨雲殿が、侍医の記録から調べてくださいました。陛下の右手は、五年前から、震えが止まらなくなっていると」
「は、はい。ですから、書き付けは、すべて左手で」
「左手で書いた字は、別人のようになる。そこへ、もうひとつ」
文遠の指が、目録の署名の上を、そっとなぞった。
「この王妃様の署名にも、同じ根がある。つまり」
清軒が、低く言った。
「父上が、母上の字を、真似て書いた」
「恐らく。十一年、毎晩のように、王妃様の字を写していたのではないでしょうか。左手でも、その癖が、抜けなかった」
静かな沈黙が、会議室に降りた。
「それから」
文遠は、一束の書簡を差し出した。
「王妃様の、ご出自です。記録が少なかったのは、意図的に、消されていたからでした。王妃様は、白家の出。下級貴族の、小さな家ですが、黒髪の血筋が、ごく細く、続いている家系です」
メイリンは、はっとして、顔を上げた。
「白」
「はい」
文遠は、静かに頷いた。
「小燕の、家です」
二
小燕は、練兵場の隅で、大牙と一緒に、木剣を打ち合っていた。
「小燕」
メイリンが呼ぶと、彼は、ぱっと笑顔になって振り向いた。
「あ、秦明! 見て、大牙さんから、今日は三本、取れたよ!」
「取られたぞ! 悔しいけどな!」
大牙が、頭を掻いて笑う。その後ろに、清軒と文遠が、静かに立っていた。
「殿下」
「少し、話せるか。小燕」
小燕の笑顔が、すっと引き締まった。
小燕をつれ、練兵場の裏の、人気のない石段に移った。清軒は、懐から、一枚の布を取り出した。
「見覚えは」
燕の刺繍の布だった。小燕の腕に巻かれているものと、よく似ている。
「これは、母上の部屋で見つけた。母上が、亡くなる前に、刺していたものだ。お前の腕の布と、似ていると思って、ずっと気になっていた。燕は、母上の名だった」
「……え」
小燕の目が、見開かれた。
「先の王妃様の、お名前は、燕」
「ああ。白燕。小燕の母君は、その妹だ」
文遠が、静かに言った。
「母さんの」
小燕の唇が、震えていた。
「母さんは、いつも、言ってました。『この布は、大切な人の形見。いつか、必要になる日が来る』と。でも、誰のものか、教えてくれなくて」
「母君は」
「五年前に、亡くなりました。熱もないのに、日に日に、弱って。髪の根元が、灰色になって」
小燕の声は、小さかった。
「僕、それが、ずっと、わからなくて。なぜ、母さんが、あんな風に。それを調べたくて、軍に入りました。衰弱の人が、たくさんいるのは、軍だと聞いたから」
メイリンは、胸が締めつけられた。
「それで」
「はい。だから、国師様が、僕の布を見た時、何かを言いかけたのが、気になって」
清軒は、小燕の前に、膝をついた。
「小燕。お前の母君は、俺の母上の、妹だ。つまり、お前は」
「……殿下の」
「従弟だ」
しばらく、誰も、何も言わなかった。
「ええええええええ!?」
絶叫は、石段の下から聞こえた。大牙だった。
「聞こえてたのか」
「聞こえてた! すまん! いや、だって、小燕が、殿下の、従弟!?」
「大牙さん、声が大きいよ」
「俺は、殿下の従弟に、今まで、『ちび』と呼んだり、肉を取ったりしてたのか!?」
「取ってたね」
「す、すまん! 殿下、俺は、不敬を!」
「構わん」
清軒は、苦笑した。
「だが、これからも、呼び方は、変えるなよ」
「……え?」
「こいつは、お前に、そう呼ばれるのが、嬉しそうだった」
小燕が、ぱっと顔を赤くした。
「殿下、それは」
「違うのか」
「違わないです」
大牙が、うおおと唸って、小燕の頭を、わしゃわしゃと撫でた。
「よし! 従弟でも何でも、お前は、俺の弟分だ!」
「ちょ、痛い、痛いよ、大牙さん」
笑いが、石段に響いた。涙を拭いながら笑う小燕の隣で、メイリンは、そっと、あることに気づいた。
「小燕さん。その布の、縁を、見せてください」
「え? はい」
小燕が差し出した布の縁に、細い糸が、ごく細かく、折り込まれている。
「これ、刺繍じゃない。何か、図のような」
文遠が、顔を寄せた。
「……手の、形だ。それから、紐の結び方」
「ええ」
「刻文の、手順だ」
文遠の声が、わずかに上擦った。
「本来の、返しの儀。吸い上げるのではなく、霊脈に、魔力を、返すための。月を抱く者と、黒き髪の者が、どう手を取り、何を結ぶか。その指示が、この布の縁に、縫い込まれている」
清軒の手が、わずかに震えた。
「母上が」
「いつか、誰かが、使えるように…」
メイリンは、手首の赤い紐を、そっと握った。珠が、淡く脈を打った。
三
夜、王宮の最奥の回廊に、五人が立っていた。
清軒。メイリン。景陽。墨雲。そして、小燕。
目の前に、国王の寝所の扉が、静かに閉ざされていた。
「毎晩、ここまで来て、開けられなかった」
清軒は、扉を見つめたまま言った。
「怖かったんだ。だが、もう、逃げない」
景陽が、一歩、前に出た。
「清軒。俺は、先に入る」
「叔父上」
「兄上が、どんな顔をしていようと、弟として、最初に、顔を見る。それが、三年、会えなかった、俺の意地だ」
その肩に、清軒が、手を置いた。
「いいえ。叔父上。……二人で、開けましょう」
清軒は、メイリンを見た。
「頼む」
「はい」
メイリンは、扉に、右の掌を当てた。清軒が、左の掌を、その隣に当てる。
赤い紐の珠と、左耳の翡翠が、同時に光った。
扉に刻まれた、月の紋が、淡く、浮かび上がる。誓約の封が、二つの光に、ゆっくりと、ほどけていく。
「これは」と、墨雲が、息を呑んだ。「触れるだけで」
「王家の血と、黒髪の血。二つで、初めて、開く封です」
メイリンは、静かに言った。
「あの方は、誰にも、開けさせたくなかったのではなく、いつか、誰かが、開けるのを、待っていたのかもしれません」
重い扉が、音もなく、内側へ開いた。
冷気が、ゆっくりと、流れ出した。
広い寝所の奥、天蓋の下の寝台に、一人の男が、身を起こしていた。
総白髪。痩せこけた頬。それでも、その目だけは、まっすぐに、扉の方を向いていた。
膝の上に、長い黒髪の束が、そっと置かれている。
「……来たか」
かすれた声だった。
「遅かったな、清軒」




