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黒い髪  作者: 八重


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30/32

開かずの扉

一

王宮の小さな会議室には、卓いっぱいに、書き付けと古い書簡が広げられていた。


「結論から申し上げます」


文遠は、いつもの調子で、淡々と口を開いた。向かいには、清軒、景陽、メイリン、墨雲。四人とも、卓の上の紙を、息を詰めて見つめている。


「まず、月見台の刻文です。最後の一行、『月を、移せ』。あれを彫ったのは、五年前。月見台の石工の記録に、『王の勅による追加彫り』とありました」

「五年前」と、景陽が呟いた。「兄上の魔力が、衰え始めたと言われる頃だ」

「はい。次に、勅書です」


文遠は、二枚の紙を並べた。


「縁談の勅書の筆跡と、先の王妃様の署名が入った、宝物庫の目録。似ているが、同じではない。そこで、陛下の若い頃の直筆と、比べてみました」

「陛下の」

「勅書の字は、陛下の字ではありません。ただ、筆の運びの根が、同じです。止めの癖、払いの角度」


文遠は、墨雲の方へ目をやった。


「墨雲殿が、侍医の記録から調べてくださいました。陛下の右手は、五年前から、震えが止まらなくなっていると」

「は、はい。ですから、書き付けは、すべて左手で」

「左手で書いた字は、別人のようになる。そこへ、もうひとつ」


文遠の指が、目録の署名の上を、そっとなぞった。


「この王妃様の署名にも、同じ根がある。つまり」


清軒が、低く言った。


「父上が、母上の字を、真似て書いた」

「恐らく。十一年、毎晩のように、王妃様の字を写していたのではないでしょうか。左手でも、その癖が、抜けなかった」


静かな沈黙が、会議室に降りた。


「それから」


文遠は、一束の書簡を差し出した。


「王妃様の、ご出自です。記録が少なかったのは、意図的に、消されていたからでした。王妃様は、白家の出。下級貴族の、小さな家ですが、黒髪の血筋が、ごく細く、続いている家系です」


メイリンは、はっとして、顔を上げた。


「白」

「はい」


文遠は、静かに頷いた。


「小燕の、家です」


二


小燕は、練兵場の隅で、大牙と一緒に、木剣を打ち合っていた。


「小燕」


メイリンが呼ぶと、彼は、ぱっと笑顔になって振り向いた。


「あ、秦明! 見て、大牙さんから、今日は三本、取れたよ!」

「取られたぞ! 悔しいけどな!」


大牙が、頭を掻いて笑う。その後ろに、清軒と文遠が、静かに立っていた。


「殿下」

「少し、話せるか。小燕」


小燕の笑顔が、すっと引き締まった。


小燕をつれ、練兵場の裏の、人気のない石段に移った。清軒は、懐から、一枚の布を取り出した。


「見覚えは」


燕の刺繍の布だった。小燕の腕に巻かれているものと、よく似ている。


「これは、母上の部屋で見つけた。母上が、亡くなる前に、刺していたものだ。お前の腕の布と、似ていると思って、ずっと気になっていた。燕は、母上の名だった」

「……え」


小燕の目が、見開かれた。


「先の王妃様の、お名前は、燕」

「ああ。白燕。小燕の母君は、その妹だ」


文遠が、静かに言った。


「母さんの」


小燕の唇が、震えていた。


「母さんは、いつも、言ってました。『この布は、大切な人の形見。いつか、必要になる日が来る』と。でも、誰のものか、教えてくれなくて」

「母君は」

「五年前に、亡くなりました。熱もないのに、日に日に、弱って。髪の根元が、灰色になって」


小燕の声は、小さかった。


「僕、それが、ずっと、わからなくて。なぜ、母さんが、あんな風に。それを調べたくて、軍に入りました。衰弱の人が、たくさんいるのは、軍だと聞いたから」


メイリンは、胸が締めつけられた。


「それで」

「はい。だから、国師様が、僕の布を見た時、何かを言いかけたのが、気になって」


清軒は、小燕の前に、膝をついた。


「小燕。お前の母君は、俺の母上の、妹だ。つまり、お前は」

「……殿下の」

「従弟だ」


しばらく、誰も、何も言わなかった。


「ええええええええ!?」


絶叫は、石段の下から聞こえた。大牙だった。


「聞こえてたのか」

「聞こえてた! すまん! いや、だって、小燕が、殿下の、従弟!?」

「大牙さん、声が大きいよ」

「俺は、殿下の従弟に、今まで、『ちび』と呼んだり、肉を取ったりしてたのか!?」

「取ってたね」

「す、すまん! 殿下、俺は、不敬を!」

「構わん」


清軒は、苦笑した。


「だが、これからも、呼び方は、変えるなよ」

「……え?」

「こいつは、お前に、そう呼ばれるのが、嬉しそうだった」


小燕が、ぱっと顔を赤くした。


「殿下、それは」

「違うのか」

「違わないです」


大牙が、うおおと唸って、小燕の頭を、わしゃわしゃと撫でた。


「よし! 従弟でも何でも、お前は、俺の弟分だ!」

「ちょ、痛い、痛いよ、大牙さん」


笑いが、石段に響いた。涙を拭いながら笑う小燕の隣で、メイリンは、そっと、あることに気づいた。


「小燕さん。その布の、縁を、見せてください」

「え? はい」


小燕が差し出した布の縁に、細い糸が、ごく細かく、折り込まれている。


「これ、刺繍じゃない。何か、図のような」


文遠が、顔を寄せた。


「……手の、形だ。それから、紐の結び方」

「ええ」

「刻文の、手順だ」


文遠の声が、わずかに上擦った。


「本来の、返しの儀。吸い上げるのではなく、霊脈に、魔力を、返すための。月を抱く者と、黒き髪の者が、どう手を取り、何を結ぶか。その指示が、この布の縁に、縫い込まれている」


清軒の手が、わずかに震えた。


「母上が」

「いつか、誰かが、使えるように…」


メイリンは、手首の赤い紐を、そっと握った。珠が、淡く脈を打った。


三


夜、王宮の最奥の回廊に、五人が立っていた。


清軒。メイリン。景陽。墨雲。そして、小燕。


目の前に、国王の寝所の扉が、静かに閉ざされていた。


「毎晩、ここまで来て、開けられなかった」


清軒は、扉を見つめたまま言った。


「怖かったんだ。だが、もう、逃げない」


景陽が、一歩、前に出た。


「清軒。俺は、先に入る」

「叔父上」

「兄上が、どんな顔をしていようと、弟として、最初に、顔を見る。それが、三年、会えなかった、俺の意地だ」


その肩に、清軒が、手を置いた。


「いいえ。叔父上。……二人で、開けましょう」


清軒は、メイリンを見た。


「頼む」

「はい」


メイリンは、扉に、右の掌を当てた。清軒が、左の掌を、その隣に当てる。


赤い紐の珠と、左耳の翡翠が、同時に光った。


扉に刻まれた、月の紋が、淡く、浮かび上がる。誓約の封が、二つの光に、ゆっくりと、ほどけていく。


「これは」と、墨雲が、息を呑んだ。「触れるだけで」

「王家の血と、黒髪の血。二つで、初めて、開く封です」


メイリンは、静かに言った。


「あの方は、誰にも、開けさせたくなかったのではなく、いつか、誰かが、開けるのを、待っていたのかもしれません」


重い扉が、音もなく、内側へ開いた。


冷気が、ゆっくりと、流れ出した。


広い寝所の奥、天蓋の下の寝台に、一人の男が、身を起こしていた。


総白髪。痩せこけた頬。それでも、その目だけは、まっすぐに、扉の方を向いていた。


膝の上に、長い黒髪の束が、そっと置かれている。


「……来たか」


かすれた声だった。


「遅かったな、清軒」


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