月を返す夜
一
寝所の中は、驚くほど静かだった。
天蓋の下の寝台に、国王・柳景明が、背を起こして座っていた。総白髪。窪んだ頬。両手は、膝の上の黒髪の束を、そっと包んでいる。
「兄上」
景陽が、駆け寄ろうとして、足を止めた。三年ぶりに見る兄の顔は、記憶の中のそれより、ずっと小さかった。
「景陽か。……老けたな」
「兄上こそ」
「違いない」
国王は、かすかに笑った。それから、視線を、息子へ移した。
「清軒。聞きたいことが、あるのだろう。順に、答えよう」
「父上」
清軒の声は、思いのほか、静かだった。
「五年間の、すべてを」
「ああ」
国王は、膝の上の髪を、指で撫でた。
「十一年前だ。霊脈が、枯れかけた。この国の地は、代々、月を抱く王の魔力で、支えられている。それが、私の代で、尽きかけた」
誰も、口を挟まなかった。
「燕が、言ったのだ。昔の、返しの儀を、やりましょう、と」
「母上が」
「黒髪の血筋の者が、自らの意思で、魔力を、霊脈へ返す。本来の、祈りだ。あれは、笑って、私に言った。『あなたが、国を守ってください』と」
声が、かすれた。
「私は、止められなかった。あれは、一人で、月見台に登り、一人で、返した。そして、翌朝、冷たくなっていた」
清軒の拳が、膝の上で、握られた。
「国は、救われた。だが、燕の魔力は、永遠ではなかった。五年前、私の魔力が、先に尽き始めた。霊脈は、一人の王で支えるには、広すぎたのだ」
「だから」
「ああ。国師に、命じた」
国王は、まっすぐに、メイリンを見た。
「燕のように、笑って差し出してくれる者は、もういなかった。だから、奪うことにした。まず、軍の兵から。次に、黒髪の血筋から。あの石に、『月を、移せ』と彫らせたのは、私だ」
「勅書も」と、メイリンが言った。
「私だ。左手で書いた。宰相が都を離れた日を選び、国師に国璽を持たせた。秦侯の娘。黒髪の血筋の中で、最も強い。あの娘一人で、十年は持つと、国師が言った」
メイリンは、息を整えた。
「私は、十年分の、道具でしたか」
「そうだ」
国王は、否定しなかった。
「国のためだと、自分に言い聞かせた。だが、お前たちに、嘘は言わん」
その目が、ゆっくりと、伏せられた。
「死にたく、なかった」
静寂が、降りた。
窓のない寝所に、止まった時間の匂いが、満ちていた。
「医務官の喉に、封を刻んだのも、私だ。月の名の誓約は、王家の血でなければ、刻めない。……すまなかった」
景陽が、低く尋ねた。
「月見台の、あの乳白色の鍵は」
「燕が、宝物庫から持ち出した、対の片割れだ。あれは、お前の別邸の祭壇に嵌めて、毎朝、祈っていた」
「あの窪みに」
「そうだ。死んだあと、私が、取り戻した。そして、月見台の扉の鍵に、作り変えた」
景陽は、唇を噛んで、黙った。
「父上」
清軒が、顔を上げた。
「あの夜、あなたは、母上の髪を握っていた。俺は、扉の隙間から、見ていた」
「見ていたのか」
「ええ。何と、囁いていたのですか」
国王は、長いこと、黙っていた。
「『すまない。まだ、そちらへは、行けない』と」
清軒の目から、涙が、一筋、落ちた。
「……そうですか」
それだけを、彼は、言った。
二
その時、扉の外から、静かな足音が聞こえた。
「陛下」
白い法衣の老人が、景陽の部下に導かれて、寝所の入口に立っていた。純白だった白髪は、いまや、透き通るような、銀に近かった。
「白蓮」
「お目覚めと、聞きました。幽閉を解いてくださった、王弟殿下に、感謝を」
国師は、深く、深く、頭を下げた。それから、国王の寝台の前に、静かに膝をついた。
「流れを止められて、苦しんでおられるでしょう。陛下の体は、いま、行き場を失った魔力で、溢れかえっておられる」
「ああ」
「放っておけば、半月で、命が」
メイリンは、はっとした。
「陛下のお体が、器に」
「そうだ」
国王は、自分の胸に、手を当てた。
「五年分だ。私のものではない。兵たちの、お前たちの、魔力が、私の中で、ぐるぐると、渦を巻いている。吐き出したくても、吐き出せん」
国師が、静かに言った。
「殿下。私は、あなたに、謝らなければなりません」
「先生」
「私は、王妃様に、誓ったのです。陛下を、お守りすると。そして、あの方の、忘れ形見も。それが、いつの間にか、手段を、選ばなくなりました。王弟殿下の紋を、葉を一枚多く縫って、月見台に置かせたのも、私です。殿下を、この扉から、遠ざけるために。広場の器に嵌めた白濁の石も、宝物庫の祭祀具から、私が持ち出したものです」
「……やはり、偽物か」と、景陽が呟いた。
「お許しを」
白い手袋が、小さく震えた。
「せめて、殺さぬように。少しずつ、少しずつ、と、自分に言い聞かせて。それが、どれほど歪んだ優しさか、わかっていながら」
小燕が、一歩、前に出た。
「国師様。母さんは」
国師は、顔を上げた。小燕の腕の布を、静かに見つめた。
「あなたの、母君は」
「はい」
「五年前、私が気づいた時には、すでに、最初の波が、白家に届いていました。止められなかった。私は、あなたの名を、名簿から、消すことしか」
「……そうだったんですね」
小燕は、しばらく、布を握りしめていた。
「恨まないとは、言えません。でも」
顔を上げた。目は、赤かった。けれど、まっすぐだった。
「母さんは、きっと、あなたを、恨んでいなかったと思います。恨んでいたなら、この布を、僕に残したりしない。誰かが、使える日を、待っていたから」
国王の目から、涙が、静かに、こぼれた。
「白家の、子か。……燕に、よく似ている」
「叔父さん、と呼んでも、いいですか」
「……そう、呼んでくれるのか」
「今日だけ」
国王は、声を殺して、泣いた。
三
その夜、布の縁の指示を、五人は、夜通し、読み解いた。
文遠が、紙に写し取り、清軒とメイリンが、実際に手の形を、合わせてみる。
「月を抱く者の左手が、上。黒き髪の者の右手が、下。その間に、赤い紐を結ぶ」
「この紐が、通り道になる」
「珠は、何のために」
「紐の、中継です。ここに、受け皿を作る」
文遠が、顔を上げた。
「注意書きがあります。『与えるは、半ばまで。残りは、結びの者が、支えよ』」
「結びの、者」
「清軒殿下のことでしょう」
メイリンは、胸が、ざわついた。
「半ばまで。それ以上、与えてはいけない」
「はい。燕様は、おそらく、一人で、全部を」
「それで、命を」
清軒が、重く、息を吐いた。
「母上が、死んだのは、結びの者が、いなかったからか」
「あるいは、教えるのが、間に合わなかったか」
布の端の、最後の一行を、文遠は、読み上げた。
「『この子たちが、奪わず、奪われず、分け合えますように』」
沈黙が、降りた。
メイリンは、そっと、手首の紐を握った。あの夜、広場で、二人の指が触れた時、確かに、同じことが、起きていた。
「……ずっと、私たちに、宛てた言葉だったんですね」
「ああ」
清軒は、微かに笑った。
「母上は、きっと、見ていたんだ。誰かが、そうする日を」
四
満月の夜。
月見台に、人々が集まった。
景陽。周鉄。墨雲。護衛隊の四人。剛毅。景炎と、蘇方。担架の上の国王と、付き添う国師。そして、月見台の祭壇の前に、清軒と、メイリン。
「墨雲殿、顔色が」
「高い、ところは、あまり」
「ここは、丘だ」
「丘も、高いです」
墨雲は、石段にしがみついたまま、青い顔をしている。大牙が、背中を支えながら、「大丈夫か、墨雲様!」と叫んでいた。
「小声で! 小声で、お願いします!」
メイリンは、苦笑して、祭壇の上へ登った。
国王が、祭壇の中央に、横たえられた。白髪が、月明かりを受けて、銀色に光る。
「始めよう」
清軒が、左手を、掲げた。メイリンが、右手を、その下に重ねる。二人の手首を、赤い紐が、結んだ。
珠が、淡く、光った。
「……行きます」
月が、中天にかかった。
二人の手の間から、翡翠色の光が、立ちのぼる。それは、祭壇の石を伝い、国王の体を、静かに、包んだ。
国王の胸から、細い銀の糸が、無数に、ほどけていく。
五年分。数えきれない人々の、魔力。
「あ……」
メイリンの膝が、揺れた。流れの勢いが、想像より、ずっと強い。
(半ばまで。それ以上は)
額に、汗が、滲んだ。髪の短い自分では、通せる量が、少ない。
「メイリン」
清軒の手が、強く、握り返した。
「俺が、支える。お前は、通すだけでいい」
「はい」
「全部、一人で、背負うな」
その声が、耳元で、聞こえた。
ふっと、体が、軽くなった。清軒の魔力が、背中から、支えるように、流れ込んでくる。奪うのでも、奪われるのでもない。ただ、半分こ。
銀の糸が、祭壇から、四方へ、広がった。
軍営の方角へ。町の方角へ。王宮の方角へ。
「見ろ!」
大牙が、叫んだ。
遠く、軍営の灯りの中で、兵たちが、次々と、顔を上げていた。灰色になっていた髪の根元に、黒が、鮮やかに、戻っていく。
宰相邸の方角から、かすかな光が、一筋、空へ登った。景炎が、はっと息を呑んだ。
「母上」
「大丈夫です。届いています」と、蘇方が、小さく言った。
蘇方の喉に、浮かんでいた銀の線が、すっと、消えた。
「あ、あ。……声が」
「蘇方殿」
「声が、出ます!」
蘇方は、泣き崩れた。
国師が、静かに、目を閉じた。その後頭部の内側に、一筋だけ、黒が、戻っていく。
「……ありがとう、ございます」
誰に向けたものか、わからない、小さな礼だった。
やがて、光は、静かに、薄れていった。
祭壇の上に、国王が、横たわっていた。白髪は、白髪のままだった。けれど、その頬に、わずかに、赤みが戻っている。魔力は、もう、一滴も、残っていなかった。
「……終わったか」
「はい」
清軒は、手の紐を、そっと、ほどいた。
「父上。あなたは、もう、月を抱く者では、ありません」
「そうか」
国王は、静かに、目を閉じた。
「軽いな。体が」
「ええ」
「燕に、会いたいな」
「まだ、早いです」
清軒は、ぶっきらぼうに言った。
「あなたには、まだ、やることがある。民に、すべてを話してもらう。そして、裁きを受けてもらう。それから、母上の墓前に、座ってもらう」
「……そうか」
国王は、小さく、笑った。
「厳しい、王に、なるな」
「あなたの、息子ですから」
月は、中天で、静かに輝いていた。霊脈が、淡い光を放ちながら、国中の大地へ、ゆっくりと、静けさを広げていく。
メイリンは、膝から、力が抜けていくのを感じた。倒れかけた体を、清軒が、そっと、支えた。
「無理を、した」
「少しだけです」
彼は、笑って、メイリンの額に、自分の額を、こつんと当てた。
「ありがとう。……一緒に、返してくれて」
「大牙」と、文遠が、小声で言った。
「何だ」
「見るな」
「え、何を」
「殿下が、見るなと」
「言ってないぞ」
「顔が、言っている」
小燕が、くすくす笑って、大牙の目を、両手で塞いだ。
厚山だけが、少し離れた場所で、娘のような少女の背中を見つめ、静かに、頭を下げていた。




