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黒い髪  作者: 八重


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31/32

月を返す夜

一

寝所の中は、驚くほど静かだった。


天蓋の下の寝台に、国王・柳景明が、背を起こして座っていた。総白髪。窪んだ頬。両手は、膝の上の黒髪の束を、そっと包んでいる。


「兄上」


景陽が、駆け寄ろうとして、足を止めた。三年ぶりに見る兄の顔は、記憶の中のそれより、ずっと小さかった。


「景陽か。……老けたな」

「兄上こそ」

「違いない」


国王は、かすかに笑った。それから、視線を、息子へ移した。


「清軒。聞きたいことが、あるのだろう。順に、答えよう」

「父上」


清軒の声は、思いのほか、静かだった。


「五年間の、すべてを」

「ああ」


国王は、膝の上の髪を、指で撫でた。


「十一年前だ。霊脈が、枯れかけた。この国の地は、代々、月を抱く王の魔力で、支えられている。それが、私の代で、尽きかけた」


誰も、口を挟まなかった。


「燕が、言ったのだ。昔の、返しの儀を、やりましょう、と」

「母上が」

「黒髪の血筋の者が、自らの意思で、魔力を、霊脈へ返す。本来の、祈りだ。あれは、笑って、私に言った。『あなたが、国を守ってください』と」


声が、かすれた。


「私は、止められなかった。あれは、一人で、月見台に登り、一人で、返した。そして、翌朝、冷たくなっていた」


清軒の拳が、膝の上で、握られた。


「国は、救われた。だが、燕の魔力は、永遠ではなかった。五年前、私の魔力が、先に尽き始めた。霊脈は、一人の王で支えるには、広すぎたのだ」

「だから」

「ああ。国師に、命じた」


国王は、まっすぐに、メイリンを見た。


「燕のように、笑って差し出してくれる者は、もういなかった。だから、奪うことにした。まず、軍の兵から。次に、黒髪の血筋から。あの石に、『月を、移せ』と彫らせたのは、私だ」


「勅書も」と、メイリンが言った。


「私だ。左手で書いた。宰相が都を離れた日を選び、国師に国璽を持たせた。秦侯の娘。黒髪の血筋の中で、最も強い。あの娘一人で、十年は持つと、国師が言った」


メイリンは、息を整えた。


「私は、十年分の、道具でしたか」

「そうだ」


国王は、否定しなかった。


「国のためだと、自分に言い聞かせた。だが、お前たちに、嘘は言わん」


その目が、ゆっくりと、伏せられた。


「死にたく、なかった」


静寂が、降りた。


窓のない寝所に、止まった時間の匂いが、満ちていた。


「医務官の喉に、封を刻んだのも、私だ。月の名の誓約は、王家の血でなければ、刻めない。……すまなかった」


景陽が、低く尋ねた。


「月見台の、あの乳白色の鍵は」

「燕が、宝物庫から持ち出した、対の片割れだ。あれは、お前の別邸の祭壇に嵌めて、毎朝、祈っていた」

「あの窪みに」

「そうだ。死んだあと、私が、取り戻した。そして、月見台の扉の鍵に、作り変えた」


景陽は、唇を噛んで、黙った。


「父上」


清軒が、顔を上げた。


「あの夜、あなたは、母上の髪を握っていた。俺は、扉の隙間から、見ていた」

「見ていたのか」

「ええ。何と、囁いていたのですか」


国王は、長いこと、黙っていた。


「『すまない。まだ、そちらへは、行けない』と」


清軒の目から、涙が、一筋、落ちた。


「……そうですか」


それだけを、彼は、言った。


二


その時、扉の外から、静かな足音が聞こえた。


「陛下」


白い法衣の老人が、景陽の部下に導かれて、寝所の入口に立っていた。純白だった白髪は、いまや、透き通るような、銀に近かった。


「白蓮」

「お目覚めと、聞きました。幽閉を解いてくださった、王弟殿下に、感謝を」


国師は、深く、深く、頭を下げた。それから、国王の寝台の前に、静かに膝をついた。


「流れを止められて、苦しんでおられるでしょう。陛下の体は、いま、行き場を失った魔力で、溢れかえっておられる」

「ああ」

「放っておけば、半月で、命が」


メイリンは、はっとした。


「陛下のお体が、器に」

「そうだ」


国王は、自分の胸に、手を当てた。


「五年分だ。私のものではない。兵たちの、お前たちの、魔力が、私の中で、ぐるぐると、渦を巻いている。吐き出したくても、吐き出せん」


国師が、静かに言った。


「殿下。私は、あなたに、謝らなければなりません」

「先生」

「私は、王妃様に、誓ったのです。陛下を、お守りすると。そして、あの方の、忘れ形見も。それが、いつの間にか、手段を、選ばなくなりました。王弟殿下の紋を、葉を一枚多く縫って、月見台に置かせたのも、私です。殿下を、この扉から、遠ざけるために。広場の器に嵌めた白濁の石も、宝物庫の祭祀具から、私が持ち出したものです」

「……やはり、偽物か」と、景陽が呟いた。

「お許しを」


白い手袋が、小さく震えた。


「せめて、殺さぬように。少しずつ、少しずつ、と、自分に言い聞かせて。それが、どれほど歪んだ優しさか、わかっていながら」


小燕が、一歩、前に出た。


「国師様。母さんは」


国師は、顔を上げた。小燕の腕の布を、静かに見つめた。


「あなたの、母君は」

「はい」

「五年前、私が気づいた時には、すでに、最初の波が、白家に届いていました。止められなかった。私は、あなたの名を、名簿から、消すことしか」

「……そうだったんですね」


小燕は、しばらく、布を握りしめていた。


「恨まないとは、言えません。でも」


顔を上げた。目は、赤かった。けれど、まっすぐだった。


「母さんは、きっと、あなたを、恨んでいなかったと思います。恨んでいたなら、この布を、僕に残したりしない。誰かが、使える日を、待っていたから」


国王の目から、涙が、静かに、こぼれた。


「白家の、子か。……燕に、よく似ている」

「叔父さん、と呼んでも、いいですか」

「……そう、呼んでくれるのか」

「今日だけ」


国王は、声を殺して、泣いた。


三


その夜、布の縁の指示を、五人は、夜通し、読み解いた。


文遠が、紙に写し取り、清軒とメイリンが、実際に手の形を、合わせてみる。


「月を抱く者の左手が、上。黒き髪の者の右手が、下。その間に、赤い紐を結ぶ」

「この紐が、通り道になる」

「珠は、何のために」

「紐の、中継です。ここに、受け皿を作る」


文遠が、顔を上げた。


「注意書きがあります。『与えるは、半ばまで。残りは、結びの者が、支えよ』」

「結びの、者」

「清軒殿下のことでしょう」


メイリンは、胸が、ざわついた。


「半ばまで。それ以上、与えてはいけない」

「はい。燕様は、おそらく、一人で、全部を」

「それで、命を」


清軒が、重く、息を吐いた。


「母上が、死んだのは、結びの者が、いなかったからか」

「あるいは、教えるのが、間に合わなかったか」


布の端の、最後の一行を、文遠は、読み上げた。


「『この子たちが、奪わず、奪われず、分け合えますように』」


沈黙が、降りた。


メイリンは、そっと、手首の紐を握った。あの夜、広場で、二人の指が触れた時、確かに、同じことが、起きていた。


「……ずっと、私たちに、宛てた言葉だったんですね」

「ああ」


清軒は、微かに笑った。


「母上は、きっと、見ていたんだ。誰かが、そうする日を」


四


満月の夜。


月見台に、人々が集まった。


景陽。周鉄。墨雲。護衛隊の四人。剛毅。景炎と、蘇方。担架の上の国王と、付き添う国師。そして、月見台の祭壇の前に、清軒と、メイリン。


「墨雲殿、顔色が」

「高い、ところは、あまり」

「ここは、丘だ」

「丘も、高いです」


墨雲は、石段にしがみついたまま、青い顔をしている。大牙が、背中を支えながら、「大丈夫か、墨雲様!」と叫んでいた。


「小声で! 小声で、お願いします!」


メイリンは、苦笑して、祭壇の上へ登った。


国王が、祭壇の中央に、横たえられた。白髪が、月明かりを受けて、銀色に光る。


「始めよう」


清軒が、左手を、掲げた。メイリンが、右手を、その下に重ねる。二人の手首を、赤い紐が、結んだ。


珠が、淡く、光った。


「……行きます」


月が、中天にかかった。


二人の手の間から、翡翠色の光が、立ちのぼる。それは、祭壇の石を伝い、国王の体を、静かに、包んだ。


国王の胸から、細い銀の糸が、無数に、ほどけていく。


五年分。数えきれない人々の、魔力。


「あ……」


メイリンの膝が、揺れた。流れの勢いが、想像より、ずっと強い。


(半ばまで。それ以上は)


額に、汗が、滲んだ。髪の短い自分では、通せる量が、少ない。


「メイリン」


清軒の手が、強く、握り返した。


「俺が、支える。お前は、通すだけでいい」

「はい」

「全部、一人で、背負うな」


その声が、耳元で、聞こえた。


ふっと、体が、軽くなった。清軒の魔力が、背中から、支えるように、流れ込んでくる。奪うのでも、奪われるのでもない。ただ、半分こ。


銀の糸が、祭壇から、四方へ、広がった。


軍営の方角へ。町の方角へ。王宮の方角へ。


「見ろ!」


大牙が、叫んだ。


遠く、軍営の灯りの中で、兵たちが、次々と、顔を上げていた。灰色になっていた髪の根元に、黒が、鮮やかに、戻っていく。


宰相邸の方角から、かすかな光が、一筋、空へ登った。景炎が、はっと息を呑んだ。


「母上」

「大丈夫です。届いています」と、蘇方が、小さく言った。


蘇方の喉に、浮かんでいた銀の線が、すっと、消えた。


「あ、あ。……声が」

「蘇方殿」

「声が、出ます!」


蘇方は、泣き崩れた。


国師が、静かに、目を閉じた。その後頭部の内側に、一筋だけ、黒が、戻っていく。


「……ありがとう、ございます」


誰に向けたものか、わからない、小さな礼だった。


やがて、光は、静かに、薄れていった。


祭壇の上に、国王が、横たわっていた。白髪は、白髪のままだった。けれど、その頬に、わずかに、赤みが戻っている。魔力は、もう、一滴も、残っていなかった。


「……終わったか」

「はい」


清軒は、手の紐を、そっと、ほどいた。


「父上。あなたは、もう、月を抱く者では、ありません」

「そうか」


国王は、静かに、目を閉じた。


「軽いな。体が」

「ええ」

「燕に、会いたいな」

「まだ、早いです」


清軒は、ぶっきらぼうに言った。


「あなたには、まだ、やることがある。民に、すべてを話してもらう。そして、裁きを受けてもらう。それから、母上の墓前に、座ってもらう」

「……そうか」


国王は、小さく、笑った。


「厳しい、王に、なるな」

「あなたの、息子ですから」


月は、中天で、静かに輝いていた。霊脈が、淡い光を放ちながら、国中の大地へ、ゆっくりと、静けさを広げていく。


メイリンは、膝から、力が抜けていくのを感じた。倒れかけた体を、清軒が、そっと、支えた。


「無理を、した」

「少しだけです」


彼は、笑って、メイリンの額に、自分の額を、こつんと当てた。


「ありがとう。……一緒に、返してくれて」


「大牙」と、文遠が、小声で言った。

「何だ」

「見るな」

「え、何を」

「殿下が、見るなと」

「言ってないぞ」

「顔が、言っている」


小燕が、くすくす笑って、大牙の目を、両手で塞いだ。


厚山だけが、少し離れた場所で、娘のような少女の背中を見つめ、静かに、頭を下げていた。


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