月は満ちても
一
あの夜から、三か月が過ぎた。
国王は、朝議の席で、すべてを語った。五年間のこと、兵たちのこと、勅書のこと。そして、自ら王位を降りた。刑は、終身の幽閉。場所は、月見台のふもとの小さな庵。国師・李白蓮が、その傍らで、世話をすることを許された。
将軍・鄭烈風は、官位を剥奪され、牢に入った。宰相・陸文昌は、職を辞して、法の裁きを受けている。政務は、王弟・景陽が、摂政として預かっている。来春には、清軒が、王位を継ぐことになっていた。
兵たちの髪には、すっかり、黒が戻っていた。衰弱の波は、跡形もなく消えた。霊脈は、静かな光を湛えている。
「秦明、聞いたか!」
大部屋に、大牙が飛び込んできた。
「師匠が、俺を『見どころがある』と言った!」
「景陽殿下が」
「一言だぞ! 『見どころがある。あと十年』と!」
「十年は、見どころとは言わない」と、文遠が本から目を上げずに言った。
「言う! 今から十年かけて、俺は、あの一手を超える!」
拳を突き上げる大牙の横で、小燕が、床に転がって笑っている。厚山は、お茶を啜りながら、静かに目を細めていた。
あの夜のあとも、四人は、大部屋にいる。メイリンが「明凛です」と名乗り直しても、誰も、呼び方を変えなかった。
「明凛さんって、呼びにくいんだよ」と、小燕。
「俺は、慣れん」と、厚山。
「今まで通りでいい。お前は、秦明だ」と、大牙。
最後の一言だけは、少し、声が小さかった。
「……ありがとう、ございます」
小燕は、殿下の従弟と知られても、呼び名を変えさせなかった。「僕は、護衛隊の小燕です」と言い張って、今でも、大牙に肉を取られている。
その腕には、燕の刺繍の布が、変わらず巻かれていた。
「今日、母さんの墓参りに行ってきたんだ」
「どうでしたか」
「報告してきた。あの布、ちゃんと、役に立ったよって」
小燕は、にっと笑った。
「そしたら、墓の前に、燕が、とまってたんだ。偶然かもしれないけど」
「きっと、聞いていますよ」
窓の外で、文遠が、書庫の方へ歩いていくのが見えた。禁書庫の整理役として、王宮の司書の役目も、兼ねることになったのだという。
「相変わらず、本ばかりだな」
「それが、文遠さんだよ」
大牙と小燕が、顔を見合わせて、笑った。
二
その日の夕方、メイリンは、一人の客を迎えた。
「秦明凛殿」
陸景炎だった。穏やかな顔に、少し痩せた陰が、浮かんでいる。
「母上の髪が、すっかり、黒くなりました」
「それは、よかった」
「蘇方殿が、毎日、診てくださっています。あの方の、おかげです」
景炎は、静かに笑った。
「父は、法廷で、すべてを話しました。母を生かすために、人を傷つけたこと。許されないことです。けれど、出てきたら、母の枕元に、座らせてやりたい」
「景炎様」
「あなたが、あの人だったのですね」
メイリンは、息を呑んだ。
「月祭の夜の。木剣を、振っていた」
「……覚えて、いらしたのですか」
「忘れません。あの夜、あなたの一言で、私は救われました」
景炎は、少しだけ照れたように笑った。
「顔色が悪いと言ってくださった。笑うのが仕事なら、誰も見ていない時くらい、休んでもいい、と」
「余計なことを、申しました」
「いいえ」
穏やかな声だった。
「秦明の目が、あの夜の少女に似ていると、思ったんです。気のせいだと、自分に言い聞かせていたのですが」
「ごめんなさい。騙していて」
「騙されたのは、私の、未練ですから」
二人は、顔を見合わせて、小さく笑った。
「清軒には、酒を奢らせました。潰れるまで」
「はい。聞きました」
「あなたが、幸せなら、それでいい」
景炎は、深く頭を下げた。
「どうか、お元気で」
去っていく背中は、驚くほど、まっすぐだった。メイリンは、胸の奥が、じんと温かくなるのを感じた。
その日の午後、王宮の奥庭の池のほとりに、四人の姿があった。
国師が捕らえられ、月の巫女の務めは、その罪と共に解かれた。身寄りのない少女は、景炎の母の話し相手として、陸家に迎えられることになっている。
「名前は、決まったか」
清軒が尋ねると、少女は、もじもじと袖を握った。
「それが……決めかねておりまして」
「ゆっくりでいい」
「あの」
少女は、顔を上げて、清軒の隣に立つ官服の青年を、まっすぐに見た。
「墨雲様に、決めていただけないでしょうか」
「私が!?」
墨雲が、飛び上がった。
「いえ、いえいえ、そんな大役は。殿下が、先にお約束なさったのでは」
「ああ。俺も、考えてはいたのだが」
清軒は、少女の顔と、墨雲の顔を、不思議そうに見比べた。
「お前が、そうしたいなら、構わない。墨雲に決めてもらうといい」
「殿下!」
「俺は、あの白い鯉にでも、名前を付けておく」
そんなやり取りを、少女が、くすくすと笑って見ている。
墨雲は、しばらく、池の水面を見つめて、頭を抱えていた。やがて、観念したように、小さな声で言った。
「……月灯、というのは、いかがでしょう」
「月灯」
「あの夜、祭壇の上は、とても暗くて。けれど、あなたは、最後まで、顔を上げて立っておられました。その姿が、闇の中の、小さな灯りのように見えたのです」
墨雲は、真っ赤になって、そっぽを向いた。
「あの、忘れてください。差し出がましいことを」
「月灯」
少女は、胸に手を当てて、その名を、噛みしめるように繰り返した。それから、花が開くように、笑った。
「はい。私は、月灯です」
その頬が、淡く、色づいていた。眼差しは、もう、清軒ではなく、まっすぐに、墨雲に向いていた。
軒清軒が、ふっと目を細めた。
「いい名だ。俺が考えるより、ずっといい」
「恐れ入ります。……いえ、本当に、差し出がましく」
「ところで、月灯。顔が赤いな。陽に当たりすぎたか」
「えっ、あの、いえ」
「墨雲、日陰に連れて行ってやれ」
「は、はい!」
墨雲が、慌てて、少女を木陰へ促す。少女は、俯いたまま、小さくついていった。
メイリンは、口元を押さえて、肩を震わせていた。
「何を笑っている」
「いえ。何でも」
池の鯉が、ぱしゃりと跳ねた。
三
夜、メイリンは、あの石橋の下に立っていた。
川面に、灯籠の光が揺れている。半年あまり前、ここで、彼に告げた。そして、嘘をついた。
「遅い」
振り向くと、彼が、欄干にもたれて笑っていた。
着崩した質素な衣に、緩く結んだ黒髪。左耳には、翡翠の耳飾り。
「待ちくたびれて、欄干と話し始めるところだった」
「また、それですか」
「他に言うことが、思いつかなくてな」
軽口の下の声が、少し震えていた。
「約束の、続きを」
「……はい」
清軒は、居住まいを正した。
「俺は、柳清軒。来春、この国を継ぐ男だ。だが、それ以前に、お前に惚れた、ただの男だ」
メイリンは、息を呑んだ。
「お前が逃げても、消えても、俺は探した。見つけた時は、嬉しかった。同時に、腹が立った。そして今は」
彼は、少しだけ笑った。
「ただ、お前の隣に、いたい」
川風が、メイリンの髪を揺らした。半年あまりで、伸びた髪が、ようやく肩に触れ始めている。
「清軒様」
「ああ」
「返事を、していいですか」
「聞かせてくれ」
「終わってから、と言いましたね」
「ああ。……もう、終わっただろう」
「はい。終わりました」
メイリンは、くすりと笑って、手首の赤い紐を、そっと解いた。端に、翡翠の珠が、ひとつ、揺れている。
「この珠が、王家の伴侶に渡す品だと、知りました。内側の紋も、見ました」
「ああ」
「あの珠が、母君の祈りを、運んでくれました。受け取る、と決めたのは、あの夜の、前夜です」
清軒の目が、大きく見開かれた。
「ただし」
「条件が、あるのか」
「はい。ひとつだけ」
メイリンは、微笑んだ。
「もう、『家に古くから伝わる品』なんて、言わないでください。嘘は、ひとつで十分です」
「……はは」
清軒は、顔を覆って、笑い出した。
「わかった。もう、嘘は、つかない」
「それと」
「まだ、あるのか」
「髪は、ゆっくり伸びます。待っていてください」
「いくらでも」
差し出された手に、メイリンは、赤い紐を、乗せた。清軒は、それを、そっと、メイリンの髪に結んだ。まだ短い髪に、小さな結び目が、ちょこんと揺れる。
「似合う」
「……ありがとう」
「黒に、赤は、目を引く」
「もう、それは聞きました」
二人は、笑い合った。
彼の指が、メイリンの額に、そっと触れた。軽い口づけが、前髪の上に、落ちた。
「ずっと、そばに」
「はい」
灯籠の光が、水面に揺れていた。空には、細い三日月が、静かに浮かんでいる。
「月は、満ちても欠けても、月だ」
清軒が、呟いた。
「景炎から、聞いた」
「……ええ」
メイリンは、空を見上げた。
「だから、私は、髪が短くても、長くても、私です」
「ああ。どちらの、お前も、好きだ」
髪を揺らす風の中で、二人の影は、ゆっくりと、ひとつに重なっていった。
橋の上の、灯籠の陰で、ごほん、と咳払いが聞こえた。
「私は、見ておりません」
「いるのか、墨雲」
「おりません!」
二人は、顔を見合わせて、声を上げて笑った。
その夜、望月京の空には、細い月が、やさしく、光っていた。
(完)
これにて一旦完結。
後日談とかまた色々書けたらいいなと思います




