月見台 (改訂)
一
「秦明が、護衛隊長!?」
その知らせが大部屋に届いた時、一番に叫んだのは、やはり大牙だった。
「俺の弟分が出世した! 祝いだ、肉だ!」
「まだ俺は何もしていません」
「いいんだよ、めでたいんだ!」
自分のことのように目を潤ませる大牙の横で、厚山が黙って、皿に肉を山盛りにしてくれた。小燕は、嬉しそうに手を叩いている。
文遠だけが、本を開いたまま、じっとこちらを見ていた。
「殿下が、一兵卒をわざわざ隊長に指名する。異例だな」
「そう、でしょうか」
「ああ。異例だ」
それだけ言って、彼はまた頁をめくった。
「そういや、王宮の話だけどよ」
肉を頬張りながら、大牙が声を潜めた。
「陛下は、病で髪が抜けちまって、冠を深く被ってるって噂だぜ」
「どこで聞いた」と、文遠。
「厩の爺さん」
「根拠のない噂だ」
「でも、もう三年も、人前に出てないだろう」
その言葉に、文遠の目が、ほんのわずかに細くなった。メイリンは、それを見逃さなかった。
将軍の烈風は、おもしろくなさそうな顔をしたが、表立っては何も言わなかった。「殿下のお指図とあれば」と笑う口元が、笑っていなかった。
護衛隊長といっても、率いるのは数人だった。表向きは、王太子の身辺を守る役。実際には、二人きりで話せる時間と、調べに動ける理由を手に入れたということだった。
「護衛隊の人員は、隊長が選んでよいそうです」
翌朝、墨雲が、書状を持って大部屋へ現れた。メイリンが顔を上げるより早く、大牙が立ち上がった。
「俺だ! 俺を選べ!」
「お前は、声が大きすぎる」と、文遠。
「護衛に声は関係ないだろ!」
「僕も行きたい。身軽だし、足も速いよ」と、小燕が手を挙げた。
「俺は古参だ。大部屋を、空にはできん」と、厚山が穏やかに首を振った。
メイリンは、少し考えて、口を開いた。
「では、大牙さんと、小燕さんに、お願いします」
「やったぁぁ!」
大牙が、拳を突き上げて叫んだ。小燕は、嬉しそうに笑っている。
文遠は、本を開いたまま、何も言わなかった。ほんのわずかだけ、残念そうに見えた。
(文遠さんは、また、別の形で)
そう思いながら、メイリンは、墨雲から書状を受け取った。
二
十日が過ぎた夜、メイリンは、練兵場の裏手で、文遠に呼び止められた。
「少し、いいか」
月明かりの下で、彼は、いつもの無表情だった。
「聞いてほしい話がある。ただの推論だ。違えば、忘れろ」
「……はい」
「ひとつ。殿下が、素性もわからない新兵を、護衛隊長に指名するのは異例だ。ふたつ。お前が入隊したのは、ある侯爵家の娘が姿を消した、ちょうど数日後だ」
心臓が、跳ねた。
「みっつ。お前の手首は、細すぎる。喉に、膨らみがない。声を低くする時、必ず一拍、息を溜める癖がある」
背筋が冷えた。この人は、ずっと見ていたのだ。
「それは」
「否定しても構わない」
文遠は、少しだけ視線を和らげた。
「お前は、女だな」
逃げ道は、なかった。メイリンは、観念して、俯いた。
「……はい」
「そうか」
意外なことに、彼は、ほっとしたように息を吐いた。
「安心しろ。誰にも言わない。理由も聞かない。お前の目は、嘘をつく者のものではなく、嘘をつかざるを得ない者のものだった」
静かな言葉だった。胸の奥が、じんわりと熱くなる。
「大牙には、言わないほうがいい。あいつに説明すると、三日どころか、一生かかる」
思わず、笑ってしまった。久しぶりに、心から笑った気がした。
「……ありがとう、ございます」
「礼はいらん。それより」
文遠は、声を落とした。
「お前たちが、月見台を調べていることは、察している」
「え」
「殿下の護衛が、夜な夜な、軍営の外れへ向かう。気づかないほうが、どうかしている」
メイリンは、ぎくりとした。
「俺は、士族の学者の家の次男だった。写本の役目を担っていた」
「だった、と」
「五年前、禁書庫の古書を写した時に、見てはならない頁を見た」
文遠は、遠くを見るような目をした。
「月を移す、という一節だ。血と髪を媒介に、と書いてあった」
息が、止まった。
「師に、忘れろと言われた。忘れられなかったから、家を出た。書物は、人を守らない。剣のほうが、まだ、役に立つかと思ってな」
「その、続きは」
「大半は、覚えている。月見台の祭壇に、古い刻文があるはずだ。あれなら、読める」
メイリンは、息を整えた。文遠は、信頼できる。けれど、清軒に黙って連れていくわけにはいかない。
「殿下に、相談します」
「ああ。判断は任せる」
翌日、渋い顔で話を聞いた清軒は、しばらく考え込んでから、頷いた。
「お前が信じる男なら、構わない。護衛隊の臨時の兵として、連れてこい」
「ありがとうございます」
「ただし、俺の前で、お前を『お前』と呼ばせるな」 「文遠さんは、そんな呼び方は」
「呼びそうな顔をしている」
メイリンは、思わず吹き出した。
三
満月まで、あと七日の夜。
月見台は、練兵場の外れの、高い石垣に囲まれた小さな丘の上にあった。苔むした石の階段を登ると、古い祭壇が、月明かりの下に静かに佇んでいる。
「見張りは二人です」と、墨雲が声を潜めた。
「私が行きます」
メイリンは、闇に溶けるように、見張りの背後へ回った。足音を殺し、息を殺し、魔力を細く絞って、指先を、ほんの少しだけ払う。
月光の鎖が、音もなく走った。口を塞ぎ、手足を絡め取る。二人の見張りは、声ひとつ上げずに、その場に崩れ落ちた。
「……恐ろしい方だ」と、墨雲が小さく呟いた。
「怪我はさせていません」
「それが一番、恐ろしいのです」
清軒が、肩を揺らして笑いを堪えている。その後ろで、文遠が、淡々と周囲を見回していた。
「この者は、何者です」と、墨雲が小声で尋ねた。
「護衛隊の臨時の兵だ」
「臨時にしては、落ち着きすぎでは」
「お前が落ち着かなすぎるのだ」
四人は、祭壇へ登った。
石の上に、丸い輪の跡が、薄く残っている。銀の器を置いた跡だ。メイリンは、石に掌を当て、魔力の流れを読んだ。
冷たい。ぞっとするほど、冷たい。
「魔力が、この石を通っています。ここから、地下へ」
指でなぞると、祭壇の脇の石畳に、細い継ぎ目が現れた。
「隠し階段か」
清軒が、石を押し込もうとしたが、びくともしない。継ぎ目の中央に、小さな乳白色の石が埋め込まれている。
「月長石の鍵です。魔力で開く仕組みで、持ち主でなければ」 「月長石か」
清軒は、わずかに目を細めた。
「将軍の指輪と、同じ石だな」
「いえ」
メイリンは、じっと鍵を見つめた。
「将軍の指輪は、青みがかっていました。この鍵は、乳白色。色が、違います」
清軒の動きが、止まった。
「出所が、別ということか」
「そこまでは、わかりません。ただ、同じ石に見えて、同じではありません」
その時、文遠が、祭壇の縁に膝をついた。
「殿下。こちらを」
苔の下に、古い刻文が、うっすらと覗いていた。文遠は、懐から出した布で、そっと苔を拭う。
「古語です」
指でなぞりながら、低く読み上げた。
「月を抱く者と、黒き髪の者、手を取りて、霊脈に魔力を返せ」
三人が、息を呑んだ。
「返せ、と」
「ああ。これは、吸い上げる儀式ではない。本来は、返すための祈りだ」
「では、月移しの儀は」
「待て」
文遠は、刻文の最後の行に、指を止めた。
「この一行だけ、彫りが、新しい」
そこには、確かに、後から付け足されたと思われる一文があった。
「月を、移せ」
沈黙が、降りた。
「誰かが、後から」
「書き換えた、ということか」
清軒の声が、低く沈んだ。
「いつ、誰が」
「わかりません。彫りの深さからして、数十年は前ではありません。せいぜい、五年か、十年か」
メイリンは、胸の奥が、ざわつくのを感じた。祭壇の縁には、薄れかけた紋が刻まれている。
月を抱く、翡翠。
「殿下。これは」
「王家の紋だ」
清軒は、事もなげに答えた。
「この月見台は、王家が代々、月に祈ってきた祭壇だ。今は、軍営に取り込まれて、国師が管理しているが」
その言葉に、メイリンは、胸の奥が、かすかにざわつくのを感じた。けれど、その意味を、まだ掴めなかった。
「殿下、こちらを」
墨雲が、石段の隙間から、何かを拾い上げた。
赤い布の切れ端だった。縁に、半月と柳の刺繍。王弟家の紋だ。
「叔父上の紋」
「あまりにも、わかりやすすぎる」
清軒は、布を指先で弄んだ。
「誰かが、王弟派に罪を着せようとしているのか。それとも」
「本物の手がかりか」
その時、文遠が、そっと布を覗き込んだ。
「……数が」
「何だ」
「いえ」
文遠は、首を振った。
「確信が持てません。今は、忘れてください」
清軒は、じっと文遠を見つめたが、それ以上は、聞かなかった。
風が、石段を吹き抜けた。
四
月見台を降りる道で、メイリンは、足元が乱れたのに気づいた。
「危ない」
清軒の手が、背中を支えた。
「……ありがとうございます」
「無理をするな。見張りを、二人も無音で片づけた。魔力の消耗が、激しいだろう」
「髪が短い分、貯まりが浅いので」
言ってから、しまった、と思った。
彼は、足を止めた。月明かりの下で、彼女の短い髪を、そっと見つめている。
「……辛かっただろう。切るのは」
「自分で、決めたことです」
「そうか」
それ以上、何も言わなかった。ただ、自分の外套を脱いで、メイリンの肩に掛けた。
「夜風が冷たい」
「殿下」
「今は、共犯だろう。風邪を引かれては、困る」
軽口に聞こえる声が、ほんの少し、優しかった。
外套には、彼の温もりが、まだ残っていた。メイリンは、それを拒めなかった。
「満月まで、あと七日」
清軒が、夜空を見上げた。
「その夜に、必ず、ここに誰かが来る。護衛隊を使って、伏せる」
「私も、行きます」
「ああ。お前の目が、要る」
清軒は、少し離れて立つ文遠を、振り返った。
「文遠。お前の知識も、要る。今夜から、護衛隊の正式な隊員だ」
「……光栄です」
文遠は、淡々と頭を下げた。口元が、ほんの少しだけ、緩んだように見えた。
少し離れたところで、文遠が、墨雲に、小声で言っていた。
「あなたの主君は、お優しい」
「……ご存じでしたか」
「見ればわかります」
「そう、ですね」
墨雲が、小さく笑った。
月は、細い光を伸ばして、二人の影を、ゆっくりと重ねていた。




