幕間一 その名で呼ぶな
一
王宮の執務室で、柳清軒は、筆を持ったまま固まっていた。
「墨雲様、こちらの書類を」
静かな声が、部屋の隅から聞こえた。護衛隊長として直立していた秦明が、書類の束を抱えた官服の青年に、丁寧に頭を下げている。
「恐れ入ります、秦殿。いつも、ありがとうございます」
墨雲が、目の下の隈をほころばせて、少し照れたように笑った。
筆先が、ぽとり、と紙に墨を落とした。
(……墨雲、様)
聞き慣れた名だった。三か月、毎日のように、あの声で呼ばれていた名だった。夜市の灯りの下で、石橋の上で、宿の暗がりで。柔らかく、少し照れたように、「墨雲」と。
それが、今、別の男に、向けられている。
(当たり前だ。本物なのだから)
頭では、わかっている。王宮では、護衛隊長が、王太子の筆頭側近を「玄殿」と呼ぶのは不自然だ。名で呼ぶのが、自然なのだ。
けれど。
「墨雲様、お茶が冷めておりますので、入れ替えを」
「あっ、ありがとうございます、秦殿」
びきり、と手の中で、筆が軋んだ。
二
「殿下? お顔が、強張っておられますが」
昼過ぎ、墨雲が、恐る恐る声をかけてきた。
「何でもない」
「お加減が」
「何でもないと言った」
自分でも、声が尖っているのがわかった。墨雲が、びくりと肩を震わせて、そそくさと書類へ戻っていく。
(俺は、何をやっているんだ)
清軒は、拳を握りしめた。
墨雲に罪はない。メイリンにも、罪はない。悪いのは、あの日、町へ下りる時に、咄嗟に側近の名を借りた、三か月前の自分だ。
(他に、いくらでも名はあったろう。虎でも、鷹でも、せめて、側近とは全く関係のない名が)
思い返すたびに、腹が立つ。
その時、メイリンが、墨雲に、また何かを手渡した。
「墨雲様、こちらも」
「はい、秦殿」
ゴンッと音がした。
墨雲が、びくりと顔を上げた。
「殿下、今、何を」
「気にするな。反省だ」
「額を、お殴りに」
「反省だ」
清軒は、拳で自分の額を叩いたまま、天井を睨んでいた。
あの名にした自分を、殴ってやりたい。
三
会議が終わり、人気のない回廊で、清軒は、メイリンを呼び止めた。
「秦明」
「はい」
「少し、来い」
回廊の陰に連れ込むと、メイリンが、きょとんと首を傾げた。
「殿下? どうなさいました」
「頼みがある」
「はい」
「あいつのことを、墨雲と呼ぶな」
メイリンの目が、丸くなった。
「しかし、玄殿は」
「玄殿でいい。玄殿と呼べ」
「ですが、周りが不自然に」
「不自然でもいい」
「なぜでしょう」
「……理由は、聞くな」
メイリンは、じっと清軒を見つめた。それから、ゆっくりと、口元を緩めた。
「嫉妬ですか」
「違う」
「嫉妬ですね」
「違う」
「殿下」
「……少しだけ、している」
観念した声が、思ったより小さかった。
メイリンが、堪えきれずに、くすくすと笑い出した。
「笑うな」
「すみません。でも、あまりにも」
「お前な」
清軒は、じとりと睨んだ。それから、片手で顔を覆って、深く息を吐いた。
「あの名は、お前が呼ぶから、意味があったんだ。他の男に向けて、同じ声で呼ぶな。聞くたびに、胸の奥が、ざわつく」
「それは、頼みというより」 「命令だ。……いや、頼みだ」
メイリンは、とうとう声を上げて笑った。それから、少しだけ、悪戯っぽく言った。
「では、殿下のことは、何とお呼びすれば」
「清軒でいい」
「それは、できません」
「頑固者め」
「では」
少し考えて、メイリンは、声を落とした。
「二人きりの時だけ、あの名で、呼びましょうか」
清軒が、固まった。
「……何」
「あの名で、あなたを呼ぶのが、私の癖ですから。皆の前では、玄殿を玄殿と呼びますので」
自分で言っておきながら、メイリンの頬は、熱を帯びていた。
しばらく、何も言えなかった。やがて、清軒は、片手で口元を覆って、ぽつりと呟いた。
「……悪くない」
「え」
「あの名は、お前が呼ぶと、悪くない」
耳まで、赤かった。
「殿下」
「その呼び方は、不可だ」
「では、墨雲」
「……ああ」
返事は、驚くほど、優しかった。
四
翌朝の執務室で、メイリンが、書類を抱えた墨雲に、丁寧に頭を下げた。
「玄殿、おはようございます」
「あ、おはようございます、秦殿」
墨雲は、書類を受け取ってから、はたと、首を傾げた。
「あの、秦殿」
「はい」
「昨日までは、『墨雲様』と」
「いえ。玄殿と、お呼びしようかと」
「なぜ、急に、よそよそしく。私は、何か粗相を」
不安げな顔の墨雲に、メイリンが、慌てて首を振った。
「いえ、決して」
その様子を、卓の向こうから、清軒が、澄ました顔で眺めていた。口元が、わずかに緩んでいる。
墨雲が、じとりと、主を振り返った。
「……殿下の仕業ですね」
「何のことだ」
「私の名前を、勝手にお使いになった上に、今度は、呼ばれるのも、お許しにならないとは」
「悪かったと、言っている」
「言っておられません」
「今、言った」
「謝罪の態度では、ありません」
墨雲は、大きな溜め息をついた。
「器が、小さいですよ、殿下」
「うるさい」 「私の名前なのに」
「うるさい」
メイリンは、必死に笑いをこらえて、書類で顔を隠した。
その夜、執務室に二人きりになった時、メイリンは、そっと、口を開いた。
「……墨雲」
「ああ」
清軒は、筆を置いて、嬉しそうに笑った。
「やはり、お前が呼ぶと、悪くない」
扉の外で、書類を抱えた本物の墨雲が、そっと耳を離して、深い溜め息をついた。
(私の名前が、恋の隠語になっている)
そう呟いて、彼は、足音を殺して、廊下を戻っていった。




