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黒い髪  作者: 八重


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7/32

幕間一 その名で呼ぶな


一

王宮の執務室で、柳清軒は、筆を持ったまま固まっていた。

「墨雲様、こちらの書類を」

静かな声が、部屋の隅から聞こえた。護衛隊長として直立していた秦明が、書類の束を抱えた官服の青年に、丁寧に頭を下げている。

「恐れ入ります、秦殿。いつも、ありがとうございます」

墨雲が、目の下の隈をほころばせて、少し照れたように笑った。

筆先が、ぽとり、と紙に墨を落とした。

(……墨雲、様)

聞き慣れた名だった。三か月、毎日のように、あの声で呼ばれていた名だった。夜市の灯りの下で、石橋の上で、宿の暗がりで。柔らかく、少し照れたように、「墨雲」と。

それが、今、別の男に、向けられている。

(当たり前だ。本物なのだから)

頭では、わかっている。王宮では、護衛隊長が、王太子の筆頭側近を「玄殿」と呼ぶのは不自然だ。名で呼ぶのが、自然なのだ。

けれど。

「墨雲様、お茶が冷めておりますので、入れ替えを」

「あっ、ありがとうございます、秦殿」

びきり、と手の中で、筆が軋んだ。

二

「殿下? お顔が、強張っておられますが」

昼過ぎ、墨雲が、恐る恐る声をかけてきた。

「何でもない」

「お加減が」

「何でもないと言った」

自分でも、声が尖っているのがわかった。墨雲が、びくりと肩を震わせて、そそくさと書類へ戻っていく。

(俺は、何をやっているんだ)

清軒は、拳を握りしめた。

墨雲に罪はない。メイリンにも、罪はない。悪いのは、あの日、町へ下りる時に、咄嗟に側近の名を借りた、三か月前の自分だ。

(他に、いくらでも名はあったろう。虎でも、鷹でも、せめて、側近とは全く関係のない名が)

思い返すたびに、腹が立つ。

その時、メイリンが、墨雲に、また何かを手渡した。

「墨雲様、こちらも」

「はい、秦殿」

ゴンッと音がした。

墨雲が、びくりと顔を上げた。

「殿下、今、何を」

「気にするな。反省だ」

「額を、お殴りに」

「反省だ」

清軒は、拳で自分の額を叩いたまま、天井を睨んでいた。

あの名にした自分を、殴ってやりたい。

三

会議が終わり、人気のない回廊で、清軒は、メイリンを呼び止めた。

「秦明」

「はい」

「少し、来い」

回廊の陰に連れ込むと、メイリンが、きょとんと首を傾げた。

「殿下? どうなさいました」

「頼みがある」

「はい」

「あいつのことを、墨雲と呼ぶな」

メイリンの目が、丸くなった。

「しかし、玄殿は」

「玄殿でいい。玄殿と呼べ」

「ですが、周りが不自然に」

「不自然でもいい」

「なぜでしょう」

「……理由は、聞くな」

メイリンは、じっと清軒を見つめた。それから、ゆっくりと、口元を緩めた。

「嫉妬ですか」

「違う」

「嫉妬ですね」

「違う」

「殿下」

「……少しだけ、している」

観念した声が、思ったより小さかった。

メイリンが、堪えきれずに、くすくすと笑い出した。

「笑うな」

「すみません。でも、あまりにも」

「お前な」

清軒は、じとりと睨んだ。それから、片手で顔を覆って、深く息を吐いた。

「あの名は、お前が呼ぶから、意味があったんだ。他の男に向けて、同じ声で呼ぶな。聞くたびに、胸の奥が、ざわつく」

「それは、頼みというより」 「命令だ。……いや、頼みだ」

メイリンは、とうとう声を上げて笑った。それから、少しだけ、悪戯っぽく言った。

「では、殿下のことは、何とお呼びすれば」

「清軒でいい」

「それは、できません」

「頑固者め」

「では」

少し考えて、メイリンは、声を落とした。

「二人きりの時だけ、あの名で、呼びましょうか」

清軒が、固まった。

「……何」

「あの名で、あなたを呼ぶのが、私の癖ですから。皆の前では、玄殿を玄殿と呼びますので」

自分で言っておきながら、メイリンの頬は、熱を帯びていた。

しばらく、何も言えなかった。やがて、清軒は、片手で口元を覆って、ぽつりと呟いた。

「……悪くない」

「え」

「あの名は、お前が呼ぶと、悪くない」

耳まで、赤かった。

「殿下」

「その呼び方は、不可だ」

「では、墨雲」

「……ああ」

返事は、驚くほど、優しかった。

四

翌朝の執務室で、メイリンが、書類を抱えた墨雲に、丁寧に頭を下げた。

「玄殿、おはようございます」

「あ、おはようございます、秦殿」

墨雲は、書類を受け取ってから、はたと、首を傾げた。

「あの、秦殿」

「はい」

「昨日までは、『墨雲様』と」

「いえ。玄殿と、お呼びしようかと」

「なぜ、急に、よそよそしく。私は、何か粗相を」

不安げな顔の墨雲に、メイリンが、慌てて首を振った。

「いえ、決して」

その様子を、卓の向こうから、清軒が、澄ました顔で眺めていた。口元が、わずかに緩んでいる。

墨雲が、じとりと、主を振り返った。

「……殿下の仕業ですね」

「何のことだ」

「私の名前を、勝手にお使いになった上に、今度は、呼ばれるのも、お許しにならないとは」

「悪かったと、言っている」

「言っておられません」

「今、言った」

「謝罪の態度では、ありません」

墨雲は、大きな溜め息をついた。

「器が、小さいですよ、殿下」

「うるさい」 「私の名前なのに」

「うるさい」

メイリンは、必死に笑いをこらえて、書類で顔を隠した。

その夜、執務室に二人きりになった時、メイリンは、そっと、口を開いた。

「……墨雲」

「ああ」

清軒は、筆を置いて、嬉しそうに笑った。

「やはり、お前が呼ぶと、悪くない」

扉の外で、書類を抱えた本物の墨雲が、そっと耳を離して、深い溜め息をついた。

(私の名前が、恋の隠語になっている)

そう呟いて、彼は、足音を殺して、廊下を戻っていった。

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